All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 171 - Chapter 180

181 Chapters

第170話:受胎の兆し

あれから、少しばかり季節が進んでいた。冬の朝の陽ざしは優しく、窓辺に差し込んだ光が床の上に薄く広がっていた。その中央で、リリウスは医師の言葉を静かに聞いていた。「体調に異常は見られません。むしろ非常に良好です。心拍も、魔力の流れも安定しています。ただ……」そこで医師は言葉を切り、ほんの少しだけ躊躇したように目を伏せた。「この脈の動き、そして腹部の魔力集束の仕方……前回と似ている、いえ、それ以上の……」その先の言葉を、リリウスは首を振って言葉を止めた。言わずとも、すでに理解していたからだ。“芽吹き”は、ただの感覚ではなかった。それは、確かに今、この身体の中で、“ひとつの命”がはじまろうとしている証だった。「……ありがとう。これからも、よろしくお願いします」それだけ告げて、リリウスは静かに立ち上がった。医師は深く頭を下げ、部屋を後にした。一人残った部屋の空気は、驚くほど静かだった。それは不安ではなく、むしろ、静かな肯定のようなもの。ゆっくりと胸に手を置く。まだ形にもならない気配。それでも、この世界に確かに存在を知らせてくれる、かすかな鼓動。(……おかえり)そんな言葉が、心の奥に浮かんでいた。その日の昼、リリウスが政庁の執務室に戻ると、マリアンが待っていた。手には細やかな刺繍糸の束をいくつか抱えていて、どれもやわらかな色ばかりだった。「おかえりなさいませ。……今日は、穏やかなお顔ですね」「うん。ちょっと、大事な話を聞いてきたところ。マリアンに報告しようと思ったけど……もう、その先を考えているね」そう答えると、マリアンはくすくすと微笑んだ。「お洋服を縫わないといけませんね。今度こそ、きっと間に合うように。赤ちゃん用には、白もいいけれど……今回は、淡い水の色が気になるんです。何故か、そんな気がして」「……水色、か。うん。……悪くないな」リリウスの瞳が、ふわりと緩んだ。「ありがとう、マリアン。……今度こそ、だね」※その夜、リリウスは久々に議会報告の草稿を読み込んでいた。カイルが遅れて戻ってきたとき、彼はまだ机に向かっていた。「働きすぎじゃないか?」そう声をかけたカイルに、リリウスは一枚の紙を手渡した。「“象徴としての立ち位置”、僕なりに整理してみた。まだ荒いけど、これをベースにして、子どもたちが育つ社会の整備を本格
last updateLast Updated : 2025-10-24
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第171話:遠い音に耳をすます

季節はゆっくりと、しかし確実に進んでいく。冬の朝は、いつだって静かだった。リリウスはひとり、屋敷の廊下を歩いていた。暖炉の火が絶えて久しい部屋は、冷えているのに、妙に柔らかい匂いが残っていた。扉を開けた瞬間、ふわりと胸の奥が揺れたのは、そのせいだったかもしれない。そこは、かつて“子どもの部屋”になるはずだった空間だった。あの子のために、カイルと二人で用意した場所。広くはない。ほんの四、五歩で壁に届くような小さな部屋で、窓辺には白木の椅子が置かれている。陽の光が差し込む時間には、椅子の背に光の輪ができることを、リリウスは昔、何度か見た。「……久しぶり」誰にともなくそう呟いてから、窓辺に近づく。隅に置かれた寝台には、まだ一度も身体が横たわったことはなかった。淡い色のシーツは薄い埃をかぶっていて、けれど手をかざすと、その上に残された気配のようなものが、指先を伝って伝わってくる。何もなかったはずの部屋。けれど、“何もなかった”というのは、ほんとうは違うのかもしれないと、リリウスは今、思っていた。壁際に寄せてある小さな木馬が、ふと、軋む音を立てた。風もないのに、と不思議に思って見やると、ほんのかすかに、風の筋がカーテンを揺らしていた。そのとき、どこかから、声がしたような気がした。──たくさん、あそぼうね。それは耳で聞くというよりも、空気が震えるような感覚だった。気のせいかもしれない。けれど、それでもいい――そう思えるほどに、その声は優しかった。リリウスは思わず、自分の腹に手を当てていた。まだ何の実感もない。けれど、ここに“在る”ということが、確かに感じられる。「……待ってるから」今度は、口に出してそう言った。それが祈りか願いかすらわからないまま、けれど言葉は胸の奥から自然とこぼれて、空間に溶けていった。※その日の午後。政庁の正面には、久しぶりに多くの使節と報道官が集っていた。気づかぬうちに街の様相が変わっている。大通りの舗装は整い、市壁の改修は最終段階に入った。議会の正式発足から半年足らずで、各派閥の均衡はある程度とれ、いくつかの基幹法案も成立した。“共和国アルヴァレス”の枠組みは、ようやく骨組みから肌理を得ようとしている。そしてその中央に、象徴として――リリウス・クラウディアという名が、定められようとしていた。名目
last updateLast Updated : 2025-10-25
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第172話:命の名を問う日

冬が折り返しの気配を見せる頃、空気の端に微かな“やわらかさ”が混じり始めた。乾いた冷気に溶け込むようにして、まだ目に見えぬ春がどこかで息をしている――そんな気配が、朝のひかりの濃淡に、あるいは寝台の縁をすべる陽射しの輪郭に、かすかに滲んでいる。──気がつけば三か月が過ぎていた。リリウスはその日の昼、政庁の一角、私室兼休憩室として設けられた小部屋でカイルと向かい合っていた。窓の外では兵士たちが交代の挨拶を交わしている声がかすかに響き、それがまるで風の音に紛れていくようだった。「ねえ、名前って……生きていいって、許されることみたいじゃない?」静かに、リリウスがそう言った。カイルは書類を横に避け、首を傾げたままそれに応える。「生きていい、か」「うん。名前って、呼ばれることで存在になるじゃない? この子も、いまは“命”であって、まだ“誰か”ではない。……でも、僕たちが呼びかけたら、ちゃんと“この世界にいる”ことになるんだと思う」淡く微笑みながら、けれどどこか慎重な声音で語るリリウスに、カイルはふと手を伸ばして、その指先に自分の手を重ねた。「要するに……名前をつけたいんだな?その子に」「ばれた?」そう言うリリウスにカイルは肩を竦めて見せる。「ばれるも何も……何か候補はあるのか?」「ううん、まだ全然」今度はリリウスが肩を竦める。カイルはその姿に一度笑って、指先から頬へと指を伸ばして撫でた。「君が呼びたいように呼んでくれ。それがこの子にとっての、最初の祝福になる」「……うん」一瞬だけ、リリウスの瞳が揺れて、けれどすぐに笑みが戻った。「どんな名前がいいかな……男の子でも女の子でもいいように……中性的な名前がいいかなあ。もしくは、季節の名前とか……」「花の名前もいいかもしれない」「えっ、それ、カイルが言うとすごく意外……!」「どうして」「花は嫌いじゃなさそうだけど……柘榴以外知ってるの?」「……名前を知らないのと、好きかどうかは別だろう?」そんな会話を交わしながら、ふたりの視線が自然とリリウスの腹部に落ちる。いまはまだ、命は目に見える形にはなっていない。それでも、言葉にすれば、どこか輪郭を持つような気がする。「ねえ、この子さ、きっと、ちゃんと知ってるんだよね。僕たちが何を話してるのか。……僕が話しかけると、時々、返してくるよ
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第173話:静かなる胎動

夜の寝室には、ほんのかすかな灯りがともっていた。寝台の脇、白い布越しにゆれる火は、まるで吐息のように小さく、けれど確かに、そこに在るぬくもりを映していた。リリウスが寝台の上に座り、少しだけ背を預けたその隣で、カイルは無言のまま彼の頬に口づけた。柔らかなそれは、問いでも命令でもない。ただ「愛している」と伝えるための、ごく静かな接触だった。「……今日も、お疲れさま」リリウスがそう呟くと、カイルは返事のかわりに、もう一度唇を重ねてきた。今度はすこし長くて、深くて、まるで相手の奥を探るような、熱を含んだキスで。ゆっくりと身体を倒され、リリウスがシーツの上に背をつけた時だった。ぽこん。「……っ、あれ」カイルの唇を押し返して、リリウスは唐突に目を見開いた。その仕草にカイルが僅かに眉を寄せる。「どうした?」不満というよりは、もう少し続けたいという顔で問いかけるカイルに、リリウスは腹部にそっと手を置いた。「今、動いた……」「……ん?」「この子、今、蹴ったよ」一瞬で空気が変わる。カイルは目を瞬かせ、驚きの気配を隠さないまま、身を起こしてリリウスの腹に触れた。それから、そっと耳をあてる。けれど――「……静かだな」しばしの沈黙ののち、カイルがぼそりとこぼす。「どうして俺には聞かせないんだ」その声音が、本気で拗ねているように聞こえて、リリウスは吹き出した。「タイミングだよ……お父さんなんだから、拗ねないで」「なら、君が俺を慰めてくれ」そう言って再び身をかがめ、リリウスの唇をそっと塞ぐ。今度は、少し笑ったまま、受け入れるキス。「どういう理屈なんだか……」苦笑しながらも、リリウスはカイルの背に手をまわし、身体を預けた。夜の気配の中に、何かが静かに動きはじめている。それはたぶん、命の音だ――この世界に向かって「いるよ」と告げるような、鼓動のような合図。※翌日の午後、リリウスは政庁視察を兼ねた外出の道すがら、街へと足をのばしていた。今日はあえて警護も控えめに、目立たぬ服で通りを歩く。“象徴”としてではなく、ただのひとりの人間として――それが彼の望みだった。石畳の隙間に溜まった水が、冬の光を反射してきらきらと揺れている。街角から聞こえてきた子どもたちの笑い声に、リリウスはふと、昨日の夜の“あの感覚”を思い出す。と、同時にま
last updateLast Updated : 2025-10-27
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第174話:一つの終わり

扉が閉まる音がしたとき、静寂が場を満たした。政庁の地下、元は軍務執行のために用意された密会用の議場。いまはその用途を変え、断罪を下すためだけの空間として整えられていた。中は石造りで、余計な装飾も窓もない。わずかな灯火のもと、壁の隅々にまで影が張りついている。無機質なその場に、集っているのはわずか数名だった。椅子に深く腰を下ろし、視線を伏せたままのレオン・アルヴァレス。がそこに、いた。かつてこの国の“王太子”と呼ばれていた男は、いまは鎖を巻かれた両手を膝の上に置き、ただ黙している。正装でも囚人服でもなく、むしろ簡素な上下。髪も伸びていて、かつてのように念入りに整えられている気配はない。それでもどこか、姿勢だけは妙に端正で、視線を落としたままなのに空気を支配しようとする意志の名残が漂っている。「……今日で、終わる」そう呟いたのは、会場に同席したクラウディアの“神官兼術者”である。神王の都――その深殿にのみ伝わるという、王族の魔力と深層記憶を封じる古式の術。それを執り行うため、特使のひとりとして、長旅を経て招かれてきた人物だった。「封術に先立ち、形式上の裁定を行う」厳粛な声が、冷たい空間を貫いた。執行責任者の一人として立つカイル・ヴァルドは、儀礼に忠実な口調でそう宣言し、目の前の男――レオンを見据えた。「元王太子、レオン・アルヴァレス。あなたは国家簒奪の意図を持ち、王権を私的欲望のために歪め、正統な同族を幽閉。さらに“リリウス・クラウディア”の名を偽り、偽装婚姻および番の強要を行い、その身に刻まれた魔術的契約を利用して、他者の自由意志を奪った。これに加え、政庁転覆の策謀、証拠文書の改竄、複数の側近および臣下の粛清、並びにリリウス・クラウディア本人に対する殺害未遂。そのすべてが確認されている。ゆえに、あなたを“法廷上の被告”とし、クラウディア及びヴァルド連邦双方の法に基づき、その記録と記憶の封印をもって裁定とする」まっすぐな言葉が、次々に読み上げられる。事実と記録の羅列。それらは揺るがず、拒む隙間もなく、ただ並べられた。けれどレオンは、なおも反応を見せなかった。俯いたまま、沈黙のままで。「何か言い分はあるか?」それは形式的な問いだった。そして当然のように、応えはない――そう思われた、その時。「……リリウスは」唐突
last updateLast Updated : 2025-10-28
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第175話:光の胎衣

雨の音が、夜を染めていた。乾いた季節を過ぎ、ようやく葉の緑がしっとりと深さを帯びはじめた頃、その小さな屋敷の庭には、夜露をたっぷりと含んだ土の匂いが満ちていた。リリウスは書を閉じると、静かに息をつく。かすかにきしむ音を立てて揺れた椅子の背が、まるで誰かの肩越しのため息のようで、思わず片手で腹をなだめるように撫でる。そこにある命は、今や確かに“在る”と言えるものとなっていた。初夏の空気に濡れた窓の外では、雨が絶え間なく降っていた。粒の細かいそれは、時折風に押されて軒先を打ち、ひっそりと揺れる鉢植えの影を揺らしている。春はすでに過ぎていた。それが過ぎ去ったことに気づいたのは、庭の柘榴の花が、咲きかけてはすぐに雨に打たれて落ちていくのを目にした日だった。膨らんだ蕾が破れ、赤い花びらがあまりにもあっけなく地面に散ったとき、リリウスはようやく“季節”というものの、曖昧で、けれど不可逆な流れに、身体ごと包まれていることを知った。──それでも、毎日はゆるやかに進んでいる。朝が来て、誰かが扉を叩き、誰かが紅茶を置いてゆく。リーネが花を替え、マリアンが本の感想を語る。カイルは変わらず夜に帰り、変わらず傍らにいて、変わらず共に眠る。そういう、当たり前になりかけている日々の中にあっても、ふと、深く息をしたくなる瞬間がある。それは決まって、雨の夜だ。理由はわからなかった。けれど雨の匂いは、いつもリリウスの心をどこか遠くへ引き戻す。誰かの声が、名を呼ぶ。だれの声ともつかない声で。……リリウス。その名が、夢の中で呼ばれたとき、眠りの底にいたはずの彼ははっとして目を開けた。けれど開いたはずの瞳の中にも、まだ現実は訪れていなかった。*燃える天幕、血に濡れた枕、魔法陣の上に横たえられた自分。薄く開いた口元から零れた息を、誰かが奪おうとしている。身体の奥にあったはずの何かが、ひきはがされる感覚。この身が誰かの“願い”のためだけに消費されようとしていた、あの時の記憶。「リリウス」耳元で、名を呼ぶ声がした。「君はもう、誰の呪いの中にもいない」その声は、遠くからやってきたようで、けれど確かに傍にあった。「君が選んだ未来を、誰も裁かない」目を開いたとき、雨の匂いはもう、ただの雨の匂いに戻っていた。隣には、カイルがいた。深く腰を下ろし、手を
last updateLast Updated : 2025-10-29
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第176話:夏の始まり、産声

屋敷の空気が、あきらかに変わったのは、まだ陽も昇りきらぬ静かな朝のことだった。リリウスの呼吸が不規則になったのは、明け方をすこし過ぎた頃。その報せを受けて、助産の神官たちが部屋へと急ぎ、医師団がすぐさま術式の準備に入った。階下では、魔力遮断と保護結界の陣が淡く光を灯し、癒合処置を担当する補助術者たちが低く神聖語を唱えている。空気は、張り詰めていた。けれどそれは恐れや不安ではなく、限界まで集中した静謐――。命がひとつ、この世界に現れる、その瞬間を迎えるための、準備だった。「魔力補助、安定しています」「神経遮断、完了。意識状態、やや低下」神官の声に、医師が頷き、正確に指示を重ねていく。リリウスの身体は薄い術布に包まれており、意識はやや遠のきながらも、覚醒の端にとどまっていた。痛みはない。だが感覚はあった。押し上げるような圧と熱、そして腹部の奥で光のようなものが蠢くような――そんな、未知の感覚。(ああ……もうすぐだね)誰にも伝えることなく、けれど確かに、リリウスはそれを“感じていた”。この子が、もうそこにいるのだと。「切開始めます。どうぞお気を楽に」青白い魔術陣が、腹部上空に展開された。肉体を侵さず、けれど正確に内部組織を分離し、胎膜を守りながら“門”を開くための、古代由来の補助術。産声はまだない。だが、部屋の空気が一瞬、確かに――震えた。「取り上げます」術者が静かに告げる。その手の中に、包まれるようにして現れたのは、赤子だった。血の気の薄い、けれどしっかりとこの世界に繋がっている小さな命。閉じた瞼。丸く縮こまった手足。小さく、微かに、呼吸を始めた胸。そして、その口から――「……ぁ」音にならないほどの、けれど確かに“初めての声”がこぼれた。産声というにはあまりにも静かな、ささやかな風のような音。けれどそれは、間違いなくこの世界の空気に触れた命が、自ら放った“存在の証”だった。「……おかえり」リリウスは、微笑んでいた。術後の痛みも、呼吸の浅さも、すべてが遠のいていく中で――彼はその子を、胸に抱いていた。「おかえり。……よく、来てくれたね」神官が浄化の布を差し出し、医師が術痕の癒合を確認する。周囲では誰も声を発さない。ただその一言だけが、部屋の真ん中で、空気よりもやさしく響いていた。やがて、扉が静かに
last updateLast Updated : 2025-10-30
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第177話:君を名づける日

神殿の石階を踏みしめるたび、どこか音が吸い込まれていくような静けさがあった。幾重にも積み上げられた歳月が、空気に微かな重みを与えている――そんな場所だった。正殿へと向かう回廊を、リリウスはゆっくりと歩いた。胸元には白銀に刺繍された襟があり、その腕には、まだほんのわずかしか重さのない子を抱いている。眠っているのか、それとも目を閉じて空気の振動を感じているのか。生まれてまもないその存在は、小さな寝息すらこの場の清浄さと溶け合うように、まるで“初めからここにいた”かのような静けさで、リリウスの腕の中に収まっていた。そのすぐ隣には、カイルがいた。彼の装いもまた、軍の色を離れた正装で、浅青に銀の糸が織り込まれた布が肩を優しく包んでいた。ふたりがこの子に名を与えるために、はじめて神殿の中心に立つ――それは、クラウディアとヴァルド、二つの国の象徴が、個人として“親”になるという儀式でもあった。だが、重さを感じたのは肩ではなく、胸だった。リリウスはゆるく息を吐く。何もかも、まだ夢の続きのようで、けれど夢ではなくて――言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまいそうな、そんな緊張が、ずっと身体の奥にあった。神殿の扉が開いたとき、そこには思いがけない姿があった。「……兄上?!」反射的に、声が出ていた。白の法衣に身を包み、正殿の中心で佇んでいたのは、まぎれもなく、リリウスの兄――神王アウレリウスだった。その静かな眼差しは、昔と変わらず、何かを超えて見つめるようで、それでいて少しだけ、弟に向ける目の奥に、柔らかさがあった。「今は、ただの神官として来ただけだよ」軽く片手を挙げて、少しだけ目尻を下げてみせる。その仕草に続くように、隣のカイルがすぐに頭を下げた。「神王陛下……私たちの名付けに立ち会ってくださること、光栄です」「ああ。……けれど今は、ただ一人の兄として。お前たちの選んだ始まりを、見届けたいと思ったのだよ」そう言ってから、アウレリウスはそっと近づき、リリウスの腕に目を落とす。まだ名前を持たぬその存在に対して、祝詞のように低く、短く、古語が唱えられた。それは祝福というより、承認のような響きであり、命という偶然を、神殿という空間が、正式に迎え入れるための古式に則った鍵でもあった。正殿の中心に敷かれた青の布の上に、リリウスとカイルは膝をつく。あ
last updateLast Updated : 2025-11-02
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第178話:記憶のない町

季節は駆け足のように過ぎ去っていく。秋の気配が、まだ夏の名残を遠慮がちに押しのけながら街路の石畳を冷やしていた。風の中には少しだけ乾いた匂いが混ざり、緩やかに色づき始めた街の木々が、ひと足先に季節の歩みを知っているようでもあった。リリウスはその風に外套の裾をなびかせながら、視察の名目で訪れた小さな町を歩いていた。エリオンが生まれてから、初めて国の外縁部まで足を延ばしたことになる。クラウディアとヴァルド、二国の統治機構の再編成もようやく落ち着き、政治の基盤は以前よりも確かに“安定”と呼べるものになってきていた。……けれど本当のところを言えば、今日この場所に足を向けたのは、政務のためというより、もう少し曖昧で個人的な理由によるものだった。一日のなかで幾度となくエリオンを抱き、名を呼び、微睡んだり泣いたりするその顔を見ていると、ふと、“ここではないどこか”の空気を吸いたくなる瞬間がある。過去に心を引かれているのではなく、今という時間を深く、もっと深く掘り下げていくために。昼過ぎの市場は人の声で満ちていた。野菜や果実が色鮮やかに山と積まれ、手籠を提げた買い物客があちこちを行き交っている。リリウスは同行の者たちに遠巻きに付き従われながらも、自然と足が市場の角の花売りの少女に向いていた。「お安くしてます、今朝咲いたばかりです――」愛らしくもしゃんとした声が、通りに響いていた。籠のなかには、色とりどりの小さな草花が無造作に、けれどどこか丁寧に詰められていて、咲き誇るというよりも、どれもが自分の居場所にすっと馴染んでいる。その素朴さに、リリウスはふと足を止めた。「これを、もらえるかな」「はいっ。ありがとうございます!」少女が明るく答え、籠からそっと小さな花束を取り出す。そのとき、わずかによろけた彼女の手から数輪の花が零れ、地面に散った。リリウスが反射的に身をかがめた、その瞬間だった。「……あっ」誰かと肩が、ほんの少しぶつかった。目線を上げた瞬間、リリウスは言葉を失った。そこにいたのは、あの男だった。けれど、その顔にはかつての影がなかった。整った輪郭は変わらず、髪も瞳もそのままの色なのに、彼の眼差しからは、あの冷たい緊張や、底知れぬ焦りのようなものがすっかり消えていた。「ごめんなさい、大丈夫ですか?」その男――レオン・アルヴァ
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第179話:はじまりの肖(かたち)

政庁の広間は、いつもより少しだけ明るかった。それは朝の光の加減ではなく、窓辺に立てかけられた白いキャンバスのせいかもしれない。壁を覆っていた地図や書類棚が一時的に移され、空間にぽっかりと生まれた“何もない場所”は、どこか特別な舞台装置のようでもあった。肖像画の制作が始まる――クラウディアとヴァルド、ふたつの国の“今”を象徴するものとして、政庁の中心に飾られる予定だという。だが、それは同時に、リリウスとカイルと、そしてエリオンという家族の始まりを記録する、静かな宣言でもあった。「……やっぱり、緊張するね」リリウスは椅子に腰かけたまま、窓の向こうをぼんやりと見やりながらそう呟いた。そばにいたカイルが小さく笑う。「そうか?俺はこうして三人で時間を残せることは嬉しいと思う。筆で描いてもらえるなら、少し曖昧で、ちょうどいい」「曖昧のまま残るものって、あるのかな……」そう言いながら、リリウスは抱いていたエリオンの頬をそっと撫でる。眠っているのか、それとも退屈して目を閉じているのか。その柔らかな呼吸が、腕の中でかすかに上下していた。間もなく、画家が現れた。白い衣に淡く絵の具の飛沫をまとわせたままの年配の男は、軽く礼をしてから、ふたりの前に腰を下ろす。背筋は年齢を感じさせぬほどまっすぐで、その眼差しは絵筆を持っていなくとも、人の輪郭を捉えることに長けた者のものだった。「本日から、構図の下絵に入ります。その前に、少しだけお話を。……おふたりにとって、この肖像は何を映すべきものなのでしょう」曖昧ではないが、鋭すぎることもない声だった。けれどその問いは、リリウスの中に深く静かに届いた。何を、映すべきか――それは、事前に何度も政庁内で議論されたことだったはずなのに。カイルが先に応えた。「……未来の誰かが見たときに、“始まり”だと思えるものであってほしい。戦や政争や血の歴史の続きを、ただ記録するのではなくて――そこから一度、深く息を吐いたような……そんな一枚に」リリウスはカイルの言葉に目を向けた。ふだんは寡黙な彼が、こうしてはっきり言葉を持つとき、それはいつも、どこか優しさと誠実さのあいだに揺れていた。「……リリウス様は?」画家に問われて、ふとリリウスは息を飲んだ。目の前には、まだ真っ白なキャンバスがある。そこにどんな色を乗せるのか、
last updateLast Updated : 2025-11-04
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