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第171話:遠い音に耳をすます

last update 最終更新日: 2025-10-25 22:08:11

季節はゆっくりと、しかし確実に進んでいく。

冬の朝は、いつだって静かだった。

リリウスはひとり、屋敷の廊下を歩いていた。暖炉の火が絶えて久しい部屋は、冷えているのに、妙に柔らかい匂いが残っていた。扉を開けた瞬間、ふわりと胸の奥が揺れたのは、そのせいだったかもしれない。

そこは、かつて“子どもの部屋”になるはずだった空間だった。

あの子のために、カイルと二人で用意した場所。

広くはない。ほんの四、五歩で壁に届くような小さな部屋で、窓辺には白木の椅子が置かれている。陽の光が差し込む時間には、椅子の背に光の輪ができることを、リリウスは昔、何度か見た。

「……久しぶり」

誰にともなくそう呟いてから、窓辺に近づく。

隅に置かれた寝台には、まだ一度も身体が横たわったことはなかった。淡い色のシーツは薄い埃をかぶっていて、けれど手をかざすと、その上に残された気配のようなものが、指先を伝って伝わってくる。

何もなかったはずの部屋。

けれど、“何もなかった”というのは、ほんとうは違うのかもしれないと、リリウスは今、思っていた。

壁際に寄せてある小さな木馬が、ふと、軋む音を立てた。

風もないのに、と不思議に思って見やると、ほんのかすかに、風の筋がカーテンを揺らしていた。

そのとき、どこかから、声がしたような気がした。

──たくさん、あそぼうね。

それは耳で聞くというよりも、空気が震えるような感覚だった。

気のせいかもしれない。けれど、それでもいい――そう思えるほどに、その声は優しかった。

リリウスは思わず、自分の腹に手を当てていた。

まだ何の実感もない。けれど、ここに“在る”ということが、確かに感じられる。

「……待ってるから」

今度は、口に出してそう言った。

それが祈りか願いかすらわからないまま、けれど言葉は胸の奥から自然とこぼれて、空間に溶けていった。

その日の午後。政庁の正面には、久しぶりに多くの使節と報道官が集っていた。

気づかぬうちに街の様相が変わっている。

大通りの舗装は整い、市壁の改修は最終段階に入った。議会の正式発足から半年足らずで、各派閥の均衡はある程度とれ、いくつかの基幹法案も成立した。

“共和国アルヴァレス”の枠組みは、ようやく骨組みから肌理を得ようとしている。

そしてその中央に、象徴として――

リリウス・クラウディアという名が、定められようとしていた。

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