All Chapters of 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

悠良は葉と共に席へ戻ると、軽く咳払いして姿勢を正し、まるで本当に仕事の打ち合わせをしているかのような真剣な表情で伶に向き直った。「仕事の話をしに来られたとおっしゃいましたけど、具体的にはどのプロジェクトについてですか?」伶はその言葉に、からかうように眉をわずかに上げ、骨ばった指先で机をトントンと軽く叩いた。「本気で俺が君と協力の話をしに来たと思ってるのか?」悠良は首をかしげる。「もしそうじゃないなら、今ここで寝たいからって、私にホラー話でも語れと?」伶は椅子の背にもたれ、すっかり余裕をかました態度で言う。「自分の会社の現状、悠良ちゃんなら一番わかってるはずだろ。うちと組めるような資格、まだないんじゃないのか?」悠良は後ろを振り返り、葉に目で合図を送った。葉は慌てて一冊の資料を取り出し、彼女はそれを伶の前に差し出した。「こちらをご覧になってから、判断していただけますか?」伶は身を起こす気すら見せず、ただ指先で資料の端をつまんでめくり、ちらりと目を落とした。葉は思わず冷や汗をかく。あまりにも強気すぎる。このプロジェクトは悠良が以前立ち上げたものだが、分野がニッチすぎる。まだ国内では前例がなく、市場が開拓できなければ投資は水の泡になる。プロジェクト投資とは、それほど甘いものではない。こんなタイミングで伶の目の前に突き出すなんて......葉は心臓が跳ねる思いだった。会議室の外では、社員たちがこっそり様子を伺っている。「小林、ちょっと調子に乗りすぎじゃないか?うちの規模で、雲城一の企業と肩を並べようなんて」「ほんとだよ。中身は何もないのに、お金持ちのように見せかける人っているだろ?あれだな」「見栄を張るのは勝手だが、後で引っ込みがつかなくなるのが一番やばい」「相手が太っちょ社長とか、ハゲたおじさんならまだしも......相手は寒河江社長だぞ?あの寒河江社長!」「寒河江社長って感情に流されないので有名だよな。よっぽどの実力がなきゃ、美人を差し出してもビクともしない」「おいおい、これは派手に恥かくパターンだぞ......見てられないわ」まだろくに目を通していないうちから、伶の眉間には深い皺が寄り、指先が机をリズムよく叩く。その音に、葉の心臓はさらに高鳴った。一方の悠良
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第502話

伶は彼女の自信に満ちた様子を見て、意味深げに軽く頷いた。「いいだろう。それで?このプロジェクトにいくら投資するつもりなんだ?」「100億円です」それは小林グループの、そして彼女自身の持ち金すべてだった。その答えを聞いた瞬間、伶の喉から低くかすれた笑いがもれ、広い会議室に響き渡った。外にいる人間にまで聞こえるほどだ。彼はゆっくりと煙草を口にくわえ、半眼になった漆黒の瞳で悠良を見やる。「小林社長......俺を金づるにでもするつもりか?」誰だって知っている。新規プロジェクトの立ち上げには、100億円なんて端金では到底足りない。最低でも400億円は必要だ。つまり悠良は、この計画に二社の未来を丸ごと賭けようとしている。途中で一つでも歯車が狂えば、YKも小林グループも破産は免れない。だが、悠良の声は揺るぎなかった。「このプロジェクトは、私は何年も研究してきました。国内の現状を見れば、人の力に頼るか、一部は機械に頼るか、今はその二択です。では、なぜ人工知能を発展させてはいけないのでしょうか。将来、AIが人々の生活を便利にする時代は必ず来ます。海外ではすでにロボットが生まれています。もちろん、今のこのプロジェクトは直接的に両社の業務と関わりがないかもしれません。ですが海外のパートナーと長年取引をされている寒河江さんならきっと、この現状を、誰よりも理解しているはずです」伶の眉間がわずかに動き、煙草の灰を落としながら声を低めた。「ほう?つまり俺を踏み台に?」悠良は重ねて強調した。「このプロジェクトは何年も研究してきました。アルゴリズムさえ正しければ、実行可能です」だが伶は立ち上がり、冷静に告げる。「この計画はあまりに重大だ。今ここで結論を出すわけにはいかない」彼の頭の片隅では、小娘にしては野心が大きすぎる、と感心すらしていた。伶が会議室を後にしようとする姿に、悠良は思わず呼び止めたくなったが、外で多くの社員が見ている。今ここで食い下がれば、自分の立場を失うのは目に見えていた。仮に彼に無理やり承諾させたとしても、後々問題になるのは明らかだ。外で聞いていた人々は、最初は呆然とし、次には信じられないという表情に変わり、やがて狂気でも見るかのような視線を悠良へ向けた。そして口々にざわめき始
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第503話

悠良は小雪に向かって言った。「寒河江さんをお送りして」「はい」小雪は慌ててコーヒーを置き、急いで後を追った。会議室に残ったのは悠良と葉。葉はそっと近づき、小声で言う。「悠良......ちょっと急ぎすぎじゃない?もっと段階を踏んだほうが......」悠良は首を振る。「そんな悠長に構えている暇はないのよ。業界の人が気づいて動き出したら手遅れになる」葉は驚いた。彼女の知っている悠良は、ここまで功を焦る人間ではないはずだ。そっと袖を引き、囁く。「悠良、何を考えてるの?なんだか最近、ますますわからなくなってきた......」悠良は横顔を見せ、その瞳は強い光を宿していた。さっき伶に拒まれたというのに、一片の陰りもない。むしろ、さらに冴えわたっている。その眼差しは、まるで金色の光が彼女の全身を包み込んでいるように見えた。悠良はまっすぐに葉を見据え、問いかける。「私たちの会社を、白川社よりも上にしたくない?」今、雲城ではYKが最大手、その次が白川社。だが悠良の狙いはただ一つ――白川史弥を叩き落とすこと。葉の瞳孔が大きく震え、息を呑んだ。「白川社を越えようとしてるの!?」「そうよ。葉は思ったことがないの?この数年、家庭に縛られて思うように力を発揮できなかった。このままにして本当にいいの?」その言葉に葉の心が揺らぐ。やがて決意をにじませ、頷いた。「わかった。これからは全部、悠良に従うわ」悠良は彼女の肩を軽く叩き、笑みを浮かべる。「そうこなくちゃ」葉がふと不安そうに眉を寄せる。「でも......寒河江社長のほうは?」「急ぐ必要はないわ。彼だけじゃない。この企画書を持って誰のところへ行っても、最初は必ず断られる」悠良の声には覚悟がこもっていた。葉は静かに頷く。ちょうどそのとき、人事部からの通知を手に麻生が駆け込んできた。「寒河江社長!寒河江社長は......!」会議室を見回すと、中には悠良と葉だけ。「寒河江社長はどこに?」「帰ったわ」「じゃ、プロジェクトは!?」悠良はさらりと答える。「考えてみるって」麻生はパッと顔を輝かせ、手を叩いた。「やった!それならもう、ほぼ決まったようなものじゃないか!」悠良と葉は顔を見合わせ
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第504話

小雪は言い終えてからも、恐る恐る伶の表情をうかがった。この男は気まぐれで癇癪持ちだと業界では有名だ。さっきまで穏やかに話していたかと思えば、次の瞬間には激怒する――誰にも彼の本心は読めない。伶は冷ややかな目で小雪を見据えた。その瞳は底の見えない暗い淵のようだった。「話は終わりか?」小雪は一瞬ぽかんとし、それからぎこちなく頷いた。「はい......」「なら、上に戻って辞表を書け。後で麻生さんに伝えておく」表情一つ変えずに言い放つと、彼は踵を返した。小雪の顔は一気に固まり、目には恐怖と信じられない色が浮かぶ。鳴り響く革靴の音でようやく我に返る。「さ、寒河江社長......?どうしてですか。私はただ、寒河江社長のためを思って......あんな策略家に騙されてほしくなかっただけなんです!」伶はこめかみを揉み、不快そうに眉をひそめる。顎のラインが硬く浮かび上がり、冷徹な声が吐き出された。「理由は単純だ。俺の目の前で彼女を貶すことは、絶対に許さない。あいにくだが、君はちょうど、その地雷を踏んだんだ」そう言い残し、大股で小林グループを後にした。残された小雪は、その場で茫然と立ち尽くす。ど、どうして......あんなに考えてから口にした言葉なのに。なぜこうなる。感謝されなくても仕方ない。でも、まさかクビだなんて――そこへスマホが震え、ディスプレイに「麻生さん」の名が浮かぶ。心臓が跳ね上がり、背筋に冷たい汗がつたう。震える手で通話ボタンを押した。「も、もしもし、あ、麻生さん......」受話器越しに怒鳴り声が飛んできた。「お前頭おかしいんじゃないのか!長年会社にいるくせに、なぜよりにもよってそんな低レベルなミスを!あの寒河江社長に喧嘩を売って、正気なのか?今日彼が何しに来たかも分からないのか。小悠良のために顔を出してるって、見りゃ分かるだろう!」小雪は必死に弁明する。「麻生さん、私は......そんなつもりじゃ......」「黙れ!自分だけが賢いとでも思ってるのか?悠良の腹の中を寒河江社長が見抜けないとでも?全部お前が一番よく分かってると?」「わ、私は......」反論の言葉は喉で詰まり、声にならなかった。麻生さんは鼻で笑い、冷たく言い放
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第505話

悠良は葉と共にオフィスへやってきた。その声色は冷ややかで、全身から上に立つ者ならではの圧が漂っていた。「みんな、さっきの社内通達は見たわね。菅野さんが突然辞めたのは決して無関係な理由じゃない。裏で我が社と取引先の関係をかき乱したのが原因。うちがYKとの協力を望んでいるのを知っていながら、わざわざ寒河江さんの前で私への不信を煽った。もし本当に挑発が成功して、寒河江さんが私の人柄を誤解し、協力を白紙に戻したら、その損失を誰が負うかしら?」その一言に、場にいた社員たちは言葉を失った。人混みの中にいた莉子は、つい先日仕上げたばかりのネイルに目を落としながら小さく呟いた。「お姉ちゃん、もしかして小雪が私の部下だって知って、わざと彼女を狙ったんじゃないの?いくらなんでも、長年勤めてきた社員をこんな形で切るなんて、社内の人心に影響が......」静まり返っていた空気は、この一言で再びざわめき出した。「副社長の言うことも一理あるよな。今回が菅野なら、次は俺たちの番かもしれない」「ちょっとやめてよ、怖くなってきたじゃない」「ほんとだ。たかがひと言でクビになるなら、いつ自分が失業者になるか分からない」「小林社長、見せしめに動いてるってわけだ」葉は思わず口を尖らせ、莉子を睨みつけた。この女、本当に火に油を注ぐのがうまい。しかし悠良は、煽る莉子を冷ややかに一瞥し、唇の端を持ち上げ、確信に満ちた声で言い放った。「安心していいわ。私が保証する。任された仕事を期限内にきちんと仕上げ、裏で根拠のない噂を流したり上司を陰口で貶めたりしない限り、小林グループで定年まで働ける。それと、もう一つ朗報がある。たった今、青山社の社長から直接電話をいただいたわ。彼らの新エネルギープロジェクトはすでに我が社が受注した。来月からは、給料もボーナスも倍になる」社員たちの間に歓声が上がった。「すごい!我が社、本格的に絶頂期じゃないか!一か月で大型案件を二つも取るなんて、生まれて初めて見たよ!」「急に未来が眩しく見えるな。あの菅野も、馬鹿なことをしたもんだ。寒河江社長の前で関係を壊そうとするなんて。もし本当に寒河江社長が小林社長を誤解したら、会社はどうなってたか」「ほんとだ。恵比寿様を逃したな、あいつ!」莉子は、自分が期待していた形勢が悠
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第506話

孝之が健在の頃、彼は会社の採用面接を非常に重視していた。実際、小林グループには有能な人材が多かった。だが、どれだけ仕事ができても、どれだけ成果を出しても、結局は莉子の耳元でお世辞を言い、ちょっとした用事を引き受けてやる者が昇進し、給料を上げてもらえるのが現実だった。昇進や昇給なんて、要は口先一つのこと。悠良の言葉に、有能な社員たちは一気に血が騒ぎ、ついには自ら声を上げて誓った。「小林社長、ご安心ください。私たちがここで働くのは、きちんと仕事をやり遂げて昇進昇給を目指すためです。くだらないゴマすりを真似するためじゃありません!」「そうです!仕事を振っていただければ全力でやります。お世辞を強要されない限り、何でもやります!」その声を聞き、悠良の決意はいっそう固まった。必ず、この実直に働く人間たちと共に、もっと遠くまで歩んでいく。「それから、もう一つ。小林副社長に関する件。調査したところ、以前に会社が赤字を出したプロジェクトがあった。本来なら株主投票で否決されたはずなのに、副社長は相手から200万円を受け取り、こっそり署名して通していた。その結果、会社は2000万円の損失を出した。人事部にはすでに降格通知を作らせた。今日から小林副社長を停職から正式に降格し、部長職にする。以後、彼女が関わる案件は必ず私が直接チェックしてからでないと動かせない」それを聞いた莉子は、冷笑しながら歩み寄り、悠良を睨みつけた。「何の権限で私を降格するの?副社長の座は父が直々に決めたものよ。あなたにそんな資格はないわ。株主たちですらないのよ!」心の中では余裕綽々だった。孝之は今や病院で管と点滴につながれ、命を繋ぐのが精一杯。自分は事前に調べていた。ほとんど意識を取り戻す時間もない。悠良が自分を降格させようとするなら、父が直接命じるしかない。だが父にはそんな余裕はない。生き延びるだけで手一杯なのだ。その時、麻生が悠良に歩み寄り、小声で耳打ちした。「実際のところ......当初、会長はこう考えていたんです。副社長は後から迎え入れた立場だから、名分が弱く、社内で非難されやすい。だから彼が明言したんです。『自分以外の誰も彼女をクビにしたり、降格させたりしてはならない』と......」でなければ、彼女がこれだけ仕事
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第507話

つまり莉子は、完全に「名だけの副社長」になった。肩書きだけあっても、実権がなければ何の意味もない。莉子自身もよく分かっていた。悠良が自分を降格させなくても、会社から追い出さなくても、結果は同じ。今の自分は、プロジェクトに手を出せないだけでなく、会社の財務にも一切口を挟めない。どうしようもなくなった莉子は、頼みの綱として麻生にすがりつき、手を取って必死に懇願した。「麻生さん、まさか父の言いつけを忘れたのですか?前に麻生さんに頼んで、私のことをしっかり守ってくれって。こんな風に他人に好き勝手いじめられるのを、見過ごすつもりですか?」麻生さんは首を振った。「たしかに会長から頼まれていた。だが、それには前提がある。莉子が真面目に、会社をよくしていこうと努力することが条件だったんだ。今みたいに......」そう言いかけて、大きくため息をつき、忌々しげに袖を振り払った。「もういい。この件はここまでだ。いつか君が姉のように会社に貢献できるようになった時、その時にまた実権を戻す話をすればいい」そう告げると、麻生は踵を返して去っていった。周りで面白がっていた社員たちも、もう十分だとばかりに散っていった。悠良はその場で指示を出し終えると、皆をそれぞれの仕事に戻らせた。その背後で、葉が小走りでついてきながら声をかける。「悠良......じゃなくて、小林社長のオフィスってどこなんです?」悠良は、そういえば自分のオフィスをまだ決めていなかったことを思い出した。ちょうど二人が莉子のオフィス前に差しかかった時、悠良は立ち止まる。そして横を歩く葉に、さらりと言った。「秘書に伝えて。小林副社長はもう業務をしないんだから、この部屋は必要な人に使わせましょう。彼女には隣の部屋に移ってもらって」声は大きくなかった。だが、不思議と周囲の全員にはっきりと聞こえた。葉は唇を噛み、笑い出しそうになるのを必死にこらえながら答えた。「はい、社長」すぐに部下たちが動き始め、オフィスの移動作業に取りかかった。ちょうどその時、莉子が洗面所から戻ってくる。目に飛び込んできたのは、自分のオフィスを勝手に片づける社員たち。「ちょっと、何してるのよ!誰が勝手に私のオフィスを触っていいって言ったの!?やめなさい!ここは私のオフ
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第508話

突然ハードルを上げてきた。葉はここ数日で小林グループの過去の規模をある程度調べていた。莉子が仕切っていた頃は、社員全員がまるで「出勤カードにハンコだけ押せば終わり」とでもいうようにダラけていて、まともな仕事量などほとんどなかった。ひたすら過去の蓄えを食いつぶすだけ。もちろん、それにはそれなりの「利点」もあった。仕事は楽、定時出社・定時退社、残業なし。業績を上げろというプレッシャーもゼロ。なにせ副社長である莉子自身が何の実績もない。そんな彼女に、部下に「大型案件を取って来い」と言える資格などあるはずもなかった。しかし悠良は、この点をまったく気にしていなかった。ただ、淡々と葉に問いかける。「ねえ、世の中に『お金なんていらない』って人間、いると思う?」葉はあっさりと首を振った。「いないね」「でしょ?なら話は簡単。これを配ってちょうだい。信じて。ボーナスの額を見たら、みんな必ず本気を出す。今まで他社の社員が不満を漏らしてたのも、結局は上司が成果の取り分を独り占めしようとしていたからよ。私たちは違う。公平に分けて、少しずつ積み上げていく。お金さえ行き渡れば、社員は必ずやる気を出すし、仕事に全力を注ぐようになる。それから――これも一緒に出しておいて」そう言って渡されたのは求人票だった。葉が目を通すと、瞳孔がぎゅっと縮む。「ちょ、ちょっと待って!これ、数字間違ってない?この給与水準、企業の九割を超えてるよ!?これを公表したら、絶対狙われるって!」「優秀な人材を呼ぶのに、タダで来てもらえると思う?まさか『誠意』だけで口説けると?私たちも昔は雇われの身よ。仕事は山ほど、給料は雀の涙、経営者は搾り取るばかり。今は私たちが経営者。だったら労働者のために声を上げて、業界の空気を変えるべきよ」その言葉に、葉は思わず親指を立てた。「悠良......白川社で何年もディレクターやってたの、本当に惜しかったよ。私、思うんだけど......史弥なんかより、悠良の方がずっと社長に相応しいよ!そうしたら白川社も、今みたいに落ちぶれてなかったかも」悠良は口を尖らせ、露骨に嫌そうな顔をする。「今はもう違うわ。ここ、小林グループは、『私たちの会社』」「確かに」葉は大きくうなずいた。ちょうど
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第509話

悠良は朝から動きっぱなしで、さすがに少し疲れていた。椅子の背にもたれかかりながら言う。「場所は寒河江さんに任せるよ」「酔仙だ」「......」またあの、べらぼうに高い店......悠良がしばらく黙っていると、伶はわざとらしく問いかけた。「どうした?小林社長、金が惜しいとでも?」「惜しい」なんて言えるはずがない。普段ならいくら惜しくても、この場では惜しんでいられない。でなければ、プロジェクト自体が潰れてしまう。「じゃあ時間は?今日にする?」「善は急げ、だろう」「分かった。じゃあ仕事が終わったら――」言いかけたところで、スマホがまた震えた。画面を見ると、莉子からのメッセージ。【今夜、おじいちゃんが皆を屋敷に集めて、お父さんの病状について話し合うつもりみたい】悠良は、皮肉めいた笑みを浮かべる。ようやく、誰かが孝之の病状を気にかける気になったらしい。彼女は伶に向かって言った。「ごめんなさい。さっき莉子から連絡があって、今夜は小小林家に戻らなきゃいけないの。父の病状について話し合うって」伶の声には、冷ややかな皮肉が混じる。「まさか、俺が高い店を選んだから、わざと理由をつけたじゃないだろうな」「バカなの?」思わず口をついて出る。「もう経営者なのに、怒る方は子供みたいだな、小林社長」彼女の怒りを含んだ声を聞いても、伶はまるで怒るどころか、逆に面白がっているようだった。昔の彼女は口では「寒河江さん」と取り繕っていたが、そこに敬意など一切なく、ただの上辺だけ。彼が求めているのは、仮面をかぶった悠良ちゃんではなく、本当の悠良だった。悠良は深く息を吸い、何とか感情を押さえ込む。伶相手だと、どうしても我慢が利かない。他の場面では冷静でいられるのに、彼の前ではまるで火薬みたいに、ちょっと火がつけば燃え上がってしまう。「本当に用事があるの。明日でも構わないでしょう?それに今夜一食抜いたところで、飢え死にするわけじゃないでしょ」「もし俺が飢え死にしたら――君は、殉葬してくれるか?」彼はさらにからかってくる。この人、本当にバカじゃないの?そう思いながらも、口には出せない。「ええ、もちろんよ」仕方なく合わせる。「演技が下手すぎて白々しい。おかげで
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第510話

だが、以前と違うのは――かつては「養女」としてここに足を踏み入れていたのに、今回は「孝之の実の娘」として戻ってきたこと。違いといえば、今の彼女は「私生児」だということだった。入り口から出てきた使用人が悠良を見つけ、にこやかに声をかけてきた。「悠良様がお戻りに!」その声に釣られるように、屋敷の中からも大勢の使用人が駆け出してくる。悠良は無理やり口元を引きつらせた。他の人間はともかく、この者たちのことくらいはよく分かっている。風向き次第で態度を変え、利を見ればすぐに靡く者たちだ。彼女が「死んだはず」から「奇跡的に生き返り」、しかも身分が変わったからこそ群がっているに過ぎない。当然、そんな者たちに愛想を見せる気など毛頭なく、ただ真っ直ぐに中へ歩を進め、冷ややかに尋ねた。「おじいさまは?」「もう大広間でお待ちです」悠良は大広間へと入った。上座には白髪の老人が座っている。五年ぶりに見るその姿は、確かに年老いたように見えた。顔には深い皺が刻まれ、背もやや曲がっており、もはや往年のように背筋をピンと伸ばすことはなかった。眼差しも、かつての鋭さが薄れ、幾分か柔らかさを帯びている。悠良はその前に歩み寄り、持ってきた包みを横の卓に置くと、恭しく、しかし距離を置いた声音で言った。「体に良さそうな補品をいくつか買ってきました。お体の状態が分からないので、服用する前にお医者様に確認してからにしてください」宏昌はただ小さく頷いた。「帰ってきたならそれでいい。この数年、なぜ家とまったく連絡を絶っていた。お前の父は四方八方に手を尽くして探し回り、気が狂うほど心配していたんだぞ」その言葉に、悠良は椅子に腰掛け、冷笑を漏らす。「私の生死なんて、とっくにこの家の人間には関係ないと思っていました。まさか、まだ気にかけてくれる人がいたとは」その鋭い言葉に、宏昌の表情が一瞬固まる。「これほどの年月が過ぎても、お前の身に纏う怨気は、少しも薄れておらんのか」悠良は顔を傾け、冷ややかに老人を見据えた。「私は昔から『恩には恩を、恨みには恨みを』で生きてきました。おじいさまとも長く付き合ってきたでしょう?私がそういう性分の人間だと、ご存じのはずです」まさか聖人みたいに『報怨以徳』を望んでいるわけじゃないで
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