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All Chapters of もう一度あなたと: Chapter 51 - Chapter 60

61 Chapters

51.

「那須川悠一に部屋を売った!?」翌日。3階の空き部屋に清掃会社を呼んで綺麗にしているのを白川麻衣に見つかり、何をしているのか問われた。「なんで?ここって、あいつがあなたに結納品としてくれたんでしょう??」「うん」雪乃は事務所のデスクにうつ伏せて頷いた。「だったら、なんでまた買うわけ?」「会社の近くに部屋があると便利だからって…」「そんなの、信じたの?」「……」疑わしげに見下ろしながら訊かれるのに、雪乃は未だ伏せたまま「ん゙〜〜〜」と唸るだけで誤魔化していた。彼女に理由なんか言えない。悠一に〝口説かれてる〟なんて、とうに結婚してると思い込んでる彼女に言えるわけがない。大体、自分にだって訳がわからないのだ。会社の近くに〜云々も、実は社内に彼専用の宿泊部屋がある事を雪乃は知っている。それなのに、なんで??一番訊きたいのは自分なのだ。前世、邸に帰らない日はそこに泊まり込んでいた事を憶えていた。何がきっかけなのか、彼女に腹を立てると何日も邸を空けていて、彼女を徹底的に無視した。最初の頃は彼が何処に行っているのかわからなくて、オロオロしてあちこち探し回った。そうして、彼が彼だけの部屋でゆっくり寛いでいる事を知ったのだ。その時の安心感と寂寥感は、雪乃の内の深い所に沈み込んで重くのしかかっていた。自分と同じ邸の中にいることすら嫌だなんて、どうしてそんなに嫌われちゃったの…?あの頃の雪乃には悠一しかいなかったから、彼に見放されたらどうすれば良いのかわからなくて、不安で眠れなくて、夜になると涙を零していた。「雪乃ってば!」耳元で叫ばれて、思わず首を竦めた。「そんな大きな声出さなくてもー」「何言ってんのっ。あいつがここに来たらきっとあなたに張り付いてるわよ!?邪魔じゃないっ」そんな事ないと思うけど…。そう思いながら、雪乃は昨夜の悠一とのキスを思い出して、顔が赤くなった。「なに?なんで赤くなってるの?」完全に問い詰めモードに入っている麻衣に、雪乃は必死にうつ伏せて顔を隠した。「大丈夫よ。そんないつもいるわけじゃないと思うわ」「なんでそんな事がわかるのよ」「……本人が言ってたから?」「……」「ほんとだってば!」彼女が何かを誤魔化そうとしているのはわかっている。でもそれが何なのか、わからない。麻衣は大きくため息をつい
last updateLast Updated : 2025-07-07
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52.

長谷直也は、珍しく酔っている親友の那須川悠一の姿を見つけて、すぐさま近寄って行った。「悪いね」そう言うと、今まさに彼の胸に身を寄せようとしていた女性が不満気に眉を顰め、直也に言った。「私で大丈夫です。助けはいりませんよ」そのきっぱりとした声は、暗に〝邪魔するな〟と伝えている。でも直也は知っていた。今、もしこの女性がこのまま悠一とどうこうなったとしても、それはその時だけの事で、悠一が正気を取り戻した時、彼女の人生は終わりを告げる。「やめておけ」「いいえ。私もチャンスが欲しいの」化粧でしっかりと強調した瞳を強く直也に据えて、彼女は悠一の腕に自らの胸を押し付けた。その時、今の今まで確かに酔っていたはずの悠一が突然身体を起こし、自分の腕に纏わりついている女を払い除けた。「誰だ?」目を眇めて隣に立つ女性を眺める。彼女はパールホワイトのロングドレスを身に纏い、その曲線美を余す所なくさらけ出したスタイルの良い女性で、その色白な肌を強調した真っ赤な口紅と、しっかりとメイクした目元が印象的な、勝気そうな美人だった。黒髪は緩くお団子にして、わざと垂らした後れ毛が長い首筋に沿って色っぽかった。彼女も自分の魅力をわかっているのだろう。悠一がじっと彼女を見つめて誰何するのを平気で見つめ返し、美しく微笑んだ。「悠一さん。私のことは麗美(れみ)と呼んでください」と言った。それに対して悠一は何も返さず、ただジロジロと彼女を上から下まで眺めて、やがて興味を失ったように視線を外した。「悠一さん?」もう一度彼女が呼ぶと、彼は不快感も露わに口を開いた。「馴れ馴れしいな」「……」その冷たい瞳の色に、彼女の身体が一瞬、硬直した。そして信じられない言葉が自分に告げられるのを、聞いた。「俺を簡単に考えた罪は重い。今日中にこの街を出ろ。二度と俺の前にその顔を見せるな」「わ、私……」震える声で悠一に縋ろうとしたが、避けられた。「聞こえなかったのか?」ぶるぶる震え出した彼女に周りにいた誰もが気の毒に思いながらも、気軽にあの〝那須川悠一〟に手を出そうとするからだ、と彼女自信の自業自得だとも思っていた。この街の絶対的な不可侵。それが那須川悠一だった。「後2時間もないぞ」足下に座り込んでしまった女に、自信の腕時計を指しながら悠一は言った。「……」「頭が悪
last updateLast Updated : 2025-07-07
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53.

悠一に部屋を売って3日後、週明けに早速お金が振り込まれた。『管理会社を通さなくていいの?』そうメッセージを送ると、すぐさま『別にいい』と返ってきた。そんなはずないでしょ。売買契約書だって交わしてないし!そう思っていると、またメッセージを受けた。『会社なんか通さなくてもいい。名義変更もいらない。お前が、俺に、部屋を渡したとわかっていれば、それでいい』「……」なんか、意味深なんですけど…。雪乃は朝からぎゅっと眉を顰めて、そしてため息をつくと携帯を放り出し、顔を洗いに行った。洗面台の上にかかる鏡には、不貞腐れたような表情の自分が映っていた。名義変更しなくていいって……なによ、それ。私お金貰っただけじゃない。胸の内でそう呟いた。「だって、悠一たまにしか来ないような事言ってたし、名義も変えないなら、なんか私が男囲ってるみたいじゃない!?」1階に降りて、出勤してきた麻衣にそう愚痴ると、「バカね。相手からお金を貰いつつ囲うなんて、そんな美味しい話ないわよ!笑いが止まらないわ!」と羨ましがられた。確かにそうだ。でもー「囲ってるつもりなんかないわ」ぶつぶつ言うと、麻衣は呆れたように腰に手を当てて鼻から息を吐き出した。「当たり前でしょ。旦那なんだからっ」「……」雪乃はなんだか騙されたような気分だった。そうこうしている内に、何やら外が騒がしくなり、見ると、3階の悠一の部屋に荷物が運び込まれ出していた。「早っ」麻衣はドアから顔を出してエレベーターの方に向かってそう言ったが、雪乃はその顔を不満そうに歪めていた。「早すぎじゃない?どんだけお酒飲むつもりよ」「……」雪乃は、今の自分の言葉に対する麻衣の顔を見て、唇を尖らせた。わかってる。呆れてるのよね?でも、いいじゃない!文句くらい言ったって!雪乃は憤懣やる方ない様子で、ふんっとそっぽを向いた。その夜ーもうすぐ寝ようかとテレビのスイッチを切ったところでドアチャイムが鳴り、雪乃は角度の関係か、何も映っていないカメラに向かって訝しげに問いかけた。「どなた?」「奥さま、真木です」そう答えた相手に雪乃は一気に不機嫌になった。「なんの用ー」ガチャリとドアを開けながら尋ね、そこにある景色に思い切り顔を顰めた。真木はそれを見て苦笑したが、口調は至って真面目に告げた。「奥さま、社長をお
last updateLast Updated : 2025-07-12
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54.

「失敗しました」「……」その頃ー廊下を隔てた向かいの悠一の部屋の前で、真木は可笑しそうに笑って言った。「奥さま、面白い方ですね」秘書の言葉に悠一は片眉を上げ、ニヤリと笑った。「さすが俺の奥さんだな。防犯意識に優れてる」「……」防犯意識って。ご自分が彼女にとって危険人物だと??真木の頭に先ほどの雪乃の、迷惑そうな態度が浮かんだ。「どうされますか?邸に戻られますか?」そう言うと、悠一は「いや…」と否定し、さっさと鍵を開けて中へと入って行った。その姿はまったく酔った様子もなく、背筋もしゃんと伸びたいつもの彼の姿だった。「社長、今度からお芝居はドアの前に来てからにしてください。大変なので」そう言いながら悠一の後に続いて部屋に入り、彼の脱いだ上着や外した腕時計や眼鏡を受け取り、所定の位置に置く。初めてこの部屋に来た真木がなぜそんな事がわかるのか…。それは驚くほどこの部屋の家具の配置が、那須川家本邸の悠一の部屋と同じだったからだ。不思議そうに部屋を見回す真木に、悠一が言った。「本邸と似てるだろ?あれと同じになるように造ったからな」「?」意味がわからず眉を寄せる彼に、説明してやる。「ここは初めから雪乃に贈る為に造ったんだ。だから、その内一部屋は俺用に造った。それがここだ」「偶然ですか?」真木が言うのは、「偶然、この部屋が空いていたのか?」ということだろう。端的に言えば、偶然だ。偶然、雪乃は悠一が、彼女に最適にと造った部屋を使い、彼が勝手に自分用にと造った部屋が空いていたのだ。「運命だな?」どこか嬉しそうに、冗談っぽく言う彼に、真木は苦笑して頷いた。一方雪乃は。すっかり眠気が飛んでしまった為深夜までバラエティ番組を観てしまい、やっと欠伸をした頃には既にお腹がすき始めていた。いけないいけない。ダイエットは今のところ必要ないが、睡眠不足の顔のむくみは気になる。雪乃はン〜と背中を伸ばし、寝室に入って行った。そして玄関もリビングも、部屋全部の照明が消せるスイッチを押して、ベッドに潜り込んだ。ピロン意識を手放そうとしていたところにメッセージの通知音が鳴り、つい習慣で見てしまった。『おやすみ』「……」何も考えたくない雪乃は、黙って携帯を置いた。翌日。彼女にしては朝寝坊をしてしまい、麻衣と友香に昼から出勤する旨をメッ
last updateLast Updated : 2025-07-12
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55.

「例の件、噂の方はどうなってる?」車で会社に向かいながら、助手席に座る真木に問うた。「ネット上には出回っていません。ですがー」後部座席の悠一は、振り返って答える真木の言葉を片手を上げて遮り、少し考えた。「春奈と廉は?」「空港でカードが使えない事に気付いて、とりあえず近場のC国に行ったようです」「ふん…金もないのに出国して、どうするんだか…」呆れたようにため息をつくと、真木も苦笑して推測した。「おそらく、並木家をあてにしているのでは?」「はぁ…バカだな」悠一は、春奈の単純な思考と、何でも無理矢理押し通そうとする無茶苦茶な性格を理解できなかった。並木家がどれほどのものだというのか。那須川家に逆らってまで、息子とその女を助けると本気で思っているのか?悠一は、春奈が廉と一緒に逃亡したと知った瞬間に、並木家当主に連絡を入れていた。そうして2人の後を絶って、着の身着のまま逃亡し、金もなく、早々に途方に暮れるよう仕向けた。贅沢に慣れきっている春奈が、時を待つまでもなく癇癪を起こす事は目に見えて明らかだし、その姿は普段、弱々しく優しい彼女しか目にした事のない廉には、充分ショックを与えることだろう。「今頃彼らは、掴み合いの喧嘩でもしてるんじゃないですか?」「ふっ…どうだかな」真木はわかり易く嘲りの表情をした悠一に、苦笑した。「助けますか?」そう訊くと、悠一は椅子の背凭れに身体を預け、ニヤッと嗤った。「いいや。やつらのくだらん自尊心が折れてからだ」その顔はとても冷たく冴え渡り、見る者の胸を震わせずにはいられなかった。今、彼らは安宿でも最低ランクの小さな部屋に泊まり、2人で1食を分け合い、日がな一日ただ部屋の中で過ごしていた。宿の壁は薄く、ベッドも硬い。小さな部屋だから、2人でいると狭苦しい。お腹はいつも空いていて、シャワーも満足に浴びれない。おまけに着替えもないからいつも同じ服を着て、だんだん薄汚れてきている。シャンプーの匂いも、香水の香りも何もしない。ただドブ川の臭いと、ガヤガヤと煩い雑音だけが、今の彼らの全てだった。「もう嫌!!」春奈は今日何度目かの癇癪を起こして、廉が手に入れてきた食事を床に叩きつけた。その途端、隣の部屋から「うるさい!」と言う怒鳴り声と、ドンッと壁を叩く音が響いた。それにも春奈は反応して、目の前のコップ
last updateLast Updated : 2025-07-12
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56.

「一度、帰らないか?」疲れたようにそう言う廉の顔を、春奈は疑わしげに見つめた。「チケット取るお金があるの?」そんなもの、あるはずがない。自分たちは腕時計や指輪など、売れる物はもう既に全部売ってしまったのだ。今思えば、あの時のお金をもっと大事に使えばよかった。普段使いのものだったとはいえ、売ればそれなりのお金になった。それなのに自分たちは何も考えず、良いホテルに泊まって、美味しい食事を楽しみ、買い物をしては要らなくなった物をまた売って……。そんな風に過ごしていた。そして今、こんなにも落ちぶれている。春奈は、悠一が自分たちを助けてくれるはずがない、と思っていた。だって、自分たちがこんなにも困っているのは、全て悠一のせいなのだから!彼が自分のカードを止めて、廉にもお金を渡さないよう皆に通達したに違いない。実際お金に困りだした頃、廉は実家にお金を振り込むよう言って断わられた。自分も、昔から周りをウロチョロしてきていた男の子や友人に、恥を捨てて「お金を貸してほしい」と頼んでみた。けれど、誰一人として応じてくれなかった。これはもう、悠一が手を回したとしか考えられない!春奈はぐっと唇を噛み締め、俯いた。廉はそれを見て彼女が泣いているのだと思い、慌てて言った。「大丈夫だよっ。俺が何とかうまいこと言って、親父から金を貰うからっ」「廉くん…」春奈の弱々し気な声に、廉はこの数日間の彼女を忘れた。そして、今回はなぜか上手くいった。ただお金ではなく、迎えを寄越すと言われたのだった。廉はそれを訝しく思ったが、喜んで礼を言った。なぜなら、彼は本当にもう帰りたかった。帰って、まずゆっくりと風呂に浸かって身体を解し、美味しい食事で腹を満たし、清潔な服を着て、柔らかいベッドで寝たかった。それができるなら、どんな条件だろうとのむ気でいた。「明日、迎えが来る!」廉にそう言われ、春奈もどことなくホッとしていた。翌日、早朝ー。ドンドンドンッ!安宿の薄いドアを強く叩く音に、春奈と廉は飛び起きた。そうして廉が少し怯えながらドアを開けると、そこには彼の次兄が立っていた。次兄は部屋の様子と臭いに思い切り顔を顰め、目の前で恥ずかしそうに目を逸らす弟に、軽蔑の視線を送った。「兄さんー」「早く荷物を片付けろ」冷たく言われて廉はシュンと肩を落とし、未だベッドに
last updateLast Updated : 2025-07-12
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57.

「失敗した?」BAR『Shangri-La』の2階、一番奥にある超VIPルームで、長谷直也はグラスに口をつけようとしていたその手を止めた。「なんで?芝居を見抜かれたか?」首を傾げて訊くも、その相手の那須川悠一は「いや…」と苦笑した。「彼女の部屋に上げるのは嫌だと言われた」「……」ずいぶん警戒されてるな…。好意はありそうだったけど?直也は頭の中に?マークを飛ばしながら、顔では平静を装って尋ねた。「それでどうした?」「自分の部屋に戻って、そこから出勤した」「……」悠一は普通に答えていたが、直也はその目に呆れの色を漂わせた。「駄目か?」「駄目だな」そもそも、直也はこの計画に反対していた。なぜなら、「計画が雑すぎる!」という以外にないほどザルだったからだ。悠一側の計画では、「まともに意識がないほどの酔っ払いを装う」→「部屋の鍵が開けられない」→「雪乃の部屋で少し休ませてもらう」→「そのまま泊めてもらう」→「普通の夫婦のように過ごしてもらう」→「なんだかんだで毎日のように入り浸る」→「邸に戻ってきてもらう」こんな感じだった。最初にこれを聞いた時、すぐに「なんだそれ?」と思った。「部屋の鍵云々」からの「雪乃の部屋で」てのが、まず無理だ。鍵が開かないなら邸に帰れ、と言われるのが目に見えている。〝秘書が付き添っているのになぜわざわざここに?〟てなるのが当たり前だ。なんでそれで上手くいくと思ったんだ?「アドバイスをくれた奴が、これで上手くいったらしい」悠一はそう言ったが、自分に言わせれば、「それは上手くいったんじゃなくて、相手の女性に上手いこといかせてもらっただけだ」こんなわざとらしい言い訳、世の中のどんな女性が見抜けないっていうんだ?こいつも、そのアドバイスをくれたって男も、女性をなめている!そう言うと、悠一はふむ…と少し考えて、「そういえば、その女性は奴の妻に収まっているな…」と納得した。そうだろう…と直也はしきりに頷いた。彼には姉と妹がいて、おまけに頻繁に家に来る従姉妹や姪までいる。完全な女系家族で、祖父、父、自分と3人で団結しなければ、とても太刀打ちできない日々を送ってきたのだ。だから直也は断言できる。その男の妻は間違いなく男の好意を知っていて、わざと気付かぬふりをして男の計画に乗ったのだ。そうして上手いこと男
last updateLast Updated : 2025-07-14
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58.

ピンポーン雪乃が食後のお茶でも淹れようかと立ち上がったところで、玄関チャイムが鳴った。カメラを見ると、悠一が映っていた。「はい」彼女は警戒に少し眉を寄せながら、ドアを開けた。悠一は実は、居留守を使われる覚悟を決めていた。だが予想外にもドアは開いた。ほんの少しだったけれど。見れば、しっかりとドアチェーンがかけられていた。悠一は苦笑し、不審げな顔をしている雪乃の前に最近オープンした、令嬢たちの間で人気の(真木調べ)ケーキ店の箱を持ち上げて見せた。「一緒に食べないか?」「……」食べたい。食べてみたかったお店のケーキ。食べたいに決まってる。でもー。「ごめんなさい。ダイエット中なの」「……」断わられて、悠一は少し考えた。「お前の好きそうなベリーの乗ったものもあるけど、本当にいらないのか?」「……」ベリー…。食べたい。そう思うと、彼女の口の中はもうベリーのあの甘酸っぱい味を堪能したくて堪らなかった。「駄目か…?」悠一は僅かに眉を下げ、小首を傾げて問うた。く…っ。このあざとさ、前以上だわ!男の上目遣いなんて、本来なら気持ち悪いだけでなんてことない。でも、この男のはー!普段、冷たい視線を向けて相手を威圧しまくっている悠一の、そのまるで〝ドーベルマンが主人にだけ甘えるような仕草と潤んだ瞳〟は、雪乃の頑なな心を柔らかくしてしまうのだ。もう!!バタンッ!雪乃は勢いよくドアを閉めた。一瞬、悠一の胸が痛みを覚えたが、すぐにガチャリとドアが開き、彼女がチェーンを外す為にドアを閉めたのだと理解した。「ありがとう」悠一の見たことのない笑顔に雪乃は驚いて、その目をパチパチと瞬いた。びっくりした…。そんな嬉しいの…?雪乃は首を傾げて、まぁ、一人でケーキを食べるのは確かにちょっと寂しいかも…?と考えて一人頷いた。一方。悠一は最近、雪乃が大体何を考えているのか、察することができるようになった。といっても、彼女がその不信ゆえに自分からの好意を素直に受け入れることができず、天然なのかわざとなのか、全く違う方向に誤解している事がわかるようになっただけなのだが…。今だって、きっと彼女は、俺が一人寂しくお茶を飲むのが嫌なんだと誤解している。そんな訳ない。なんなら、一人の方が気楽で良いくらいだ。でも今は、どんな事も雪乃と分かち合いたい。彼
last updateLast Updated : 2025-07-14
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59.

「お久しぶりね、悠一さん」雪乃との結婚式以来、顔を合わせる藤堂家当主の藤堂真(とうどうまこと)とその夫人、藤堂小夜子は、隠しているが、その内面では突然やって来た客人に怯えていた。「雪乃は元気かしら?」「ええ」「ご家族の方々も?」「ええ」何を訊いても淡々と短く返してくるだけ。小夜子は夫の後ろに立ち、無表情でコーヒーを飲む悠一を見ていた。やがて彼はカップを置き、口直しの様に水を飲んで真に言った。「春奈は?」「……」やっぱり、春奈の事で来たのだ。小夜子は俯いてじっと黙っていたが夫も何も言わず、悠一まで黙って返事を待っているこの状況に耐えられなくて、ついに決心して顔を上げ、口を開いた。「あの娘はここにはいません」「……」真から小夜子に視線を移すと、彼女は若干青褪めた顔を強張らせて、それでも必死に悠一を睨んでいた。「嘘じゃないな?」「ええ!」強く肯定する小夜子に、悠一はふむ…と少し考え、そしてチラリと見返して言った。「嘘を付くとどうなるか。理解しているか?」「!」その言葉に小夜子はビクリと震え、真は観念したようにため息をついた。そうして自分より年若い男に向かって深く頭を下げると、静かに口を開いたのだった。「申し訳ありません。只今、呼んでまいります」そう言って、一人の使用人に彼女を呼びに行かせた。「あなた!」小夜子は責めるように口を開いたが、彼からギロリと睨まれてシュン…と項垂れた。彼は悟ったのだ。悠一は〝娘婿〟として来たのではなく、〝那須川悠一〟として来たのだと。それならば、自分たちが逆らって良い相手ではない。真は覚悟を決めた。「悠一兄さん…」春奈は戻ってきて以来実家に閉じ籠もっていたが、今日になって悠一が訪ねてきたと知って、少しだけ期待していた。彼には確かに酷い目に遭わされた。でも、帰ってきてからは何もされないし、言われない。これはどういう意味なんだろう…?もしかして、あれは彼なりのお仕置きだったのかも。それが済んだから、迎えに来てくれたのかも…?春奈は使用人の後を歩きながら、段々と気分が浮き立ってきた。足取りも軽く、前を行く使用人を追い越してしまいそうだった。そうよ。そうに違いないわっ。悠一兄さんはお姉ちゃんより、私が好きなのよ!きっと、あれは嫉妬だったのねっ。春奈は自分がどんな目にあったのか、
last updateLast Updated : 2025-07-14
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60.

春奈のこの問いかけで、悠一と彼の秘書である真木の顔が一層冷たくなった。「春奈っ、とにかく、悠一くんに謝りなさい!」「え、なんで?」「……」真木は、真の悠一に対する馴れ馴れしい〝くん〟呼びにも青筋が浮き立ちそうだったが、それ以上に、春奈の己の状況を全く理解していない頭の悪さに辟易した。この女はなんなんだ?自分が何をやったのか、全く理解してないじゃないかっ。真木はずっと付けていた彼女の監視者からの報告書を思い出して、最早彼女への軽蔑を隠そうともしなかった。「藤堂家当主様におかれましては、御息女の躾にはずいぶん寛容でいらしたようですね…?」「なにを……」悠一ならともかく、一介の秘書如きにこんな無礼な事を言われて、さすがに真も額に血管が浮いた。がー。「真木、報告書を見せてやれ」悠一のその言葉に、嫌な予感がした。サッと差し出された紙束に急いで目を通した真は、その内容に愕然とした。まだ全文を読んだわけでもないのにその手はブルブルと震え、悠一の前に無垢な様子で座る娘を凝視した。信じられなかった。この娘がこんな事を…?確かに結婚もしていないのに子を身籠って帰って来た時には、卒倒しそうなほど頭に血が昇った。だが、結果的にその血筋は那須川家のものだったし、なにより後継者たる悠一が、自分の子として引き受けると言ったことで、藤堂家にとっては寧ろ良い事になっていたのだ。雪乃には少々可哀想な事をしたと思うが、あの娘にしても可愛がっていた妹の子で、なにより姪・甥なのだ。きっと受け入れてくれるだろう。そう楽観していた。だが、結果どうなった?雪乃は結婚などしないと言って邸を出たらしいし、始めに交わした契約婚の条件などを全部無視して、好き勝手に振舞っているもう一人の娘は問題ばかり起こしている。真は何をどこで間違えたのかわからず、頭を抱えた。「理解したか?」「……はい」「あなた…!」小夜子は夫の返事に驚いた。〝理解したか〟ですって?一体、何を理解しろというの!?なぜ春奈があんな酷い目に遭ったというのに、全部あの娘が悪いように言われるの!?彼女は悔しそうに唇を噛み締めたが、すぐに夫が持つ〝報告書〟とかいう紙束を奪い取った。「………!」そうして読み進めるにつれ、彼女も夫と同じように驚愕し、娘を信じられないというように凝視したのだった。え、なに?
last updateLast Updated : 2025-07-14
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