那須川家 本家邸宅。山手にある昔ながらの閑静な住宅地はまだ午前中ということもあってか、静かな様相を呈していた。そこへ悠一が運転する車が滑るように本邸前に停まった。運転席に座ったままリモコンで門を開け、そのまま駐車スペースにキッチリと停めた。「おかえりなさいませ」新しく本邸の執事になった小高の息子が頭を下げると、悠一は頷き、黙って邸の中に入って行った。「来たのね。あら、雪乃さんは?」母親の那須川京(なすかわみやこ)がいそいそと迎えに出たと思ったら、嫁の姿がないことにがっかりして彼女は息子を睨めつけた。「まさか、いじめてるんじゃないでしょうね?」その言葉に悠一は肩を竦め、「俺がいじめられてるよ」と言った。彼女は「それなら問題ないわ」と言い、嬉しそうにふふっと微笑った。「うまくやってるようで、良かったわ」悠一はそれには答えず、「父さんは?」と訊いた。「書斎よ。どうしたの?」「話しがある」京は難しい表情をした息子の様子に訝しげに眉を寄せ、会社で何か重大な問題が持ち上がったのかと心配した。悠一は父親の書斎へと向かいながら京を振り返り、言った。「あとで母さんにも話しがある。呼んだら来て」「……わかった」悠一の背中を見送りながら、京は静かに瞬きをした。書斎の前に来た悠一は一瞬ドアをノックするのを躊躇い、だがすぐにコンコンッと音を響かせ、ドアを開けた。「悠一か。どうした?」父親の那須川弓弦(なすかわゆずる)は特に驚いた様子もなく悠一を迎え入れると、手にしていた書類を横に置いた。「新婚生活はどうだ?雪乃さんに優しくしてやってるか?」そう言われて、悠一は呆れてしまった。俺が息子だろうに。彼は苦虫を噛み潰したような表情をして、「してるさ」と言った。そして改めて父親の顔を見て、真剣に口を開いた。「林可南子(はやしかなこ)、憶えてる?」その名前を出した時、父親の指がピクリと反応したのを見逃さなかった。悠一が黙って見つめていると、彼はふぅ…と息を吐き、彼の息子にひたと視線を据えてきた。「彼女がどうした?」「憶えてるんだね?」「とっくに終わった人だ。」迷いなく言い切る父親に、悠一は「うん」と頷き、用意してきた資料を渡した。「なんだ?」「見たらわかる」そう言われて、弓弦は息子に座るよう促した。
Last Updated : 2025-06-19 Read more