All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1351 - Chapter 1360

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第1351話

彼女の絵が相手に認められ、心から気に入られた――それは、二人の感性が確かに通じ合っている証だった。星はすぐにメールを返信した。【気に入ってくださって嬉しいです。ただ、もうお金には困っていません。本当に好きでいてくださるなら、これからは時間のあるときに、描いた作品をお贈りしますね】相手はパソコンの前にいたらしく、返信はすぐに届いた。だが、その内容は簡単だった――【感謝します】星は小さく笑い、それ以上返さなかった。彼女はスマホを取り上げ、怜央に電話をかけた。しばらく呼び出し音が続いたあと、ようやく通話がつながる。受話口の向こうから聞こえてきたのは、冷笑を含んだ男の声だった。「これはこれは。星野さん、もう曦光の件なんて忘れたかと思ってたよ」星は無駄話をする気はなかった。単刀直入に切り出す。「いつお時間ある?」その頃、怜央はsummerが描いた夕焼けの絵を見つめていた。淡々とした声で答える。「いつでも」星はスケジュールを確認しながら言った。「二日後の午前十時。自動車部品の問屋街の入口で――いい?」怜央がふと問い返した。「仁志も来るか?」その名を聞いた瞬間、星の全身に緊張が走る。「……どういう意味?」彼女の張りつめた声に、怜央はなぜか愉快そうに笑った。「そんなに身構えて。俺が彼に危害を加えるとでも?」星の声は、氷のように冷たくなった。「怜央。あなたが今どんな立場にいるか、自分で分かってるはずよ。これ以上、仁志に手を出すなら――もっと悲惨な末路を迎えることになるわ」怜央は、これまで数えきれないほどの悪意や呪詛を浴びてきた男だ。星の警告など、痛くもかゆくもない。彼は鼻で笑う。「人を殺したこともないお前が?どうやって俺を、今以上に惨めにできる?」星は、それ以上彼の声を一秒たりとも聞いていられなかった。通話を一方的に切る。怜央は切断された画面を眺め、鼻で笑うと、今度は明日香に電話をかけた。「明日香。明後日、時間ある?」……二日後。星と仁志は、約束通り自動車部品の問屋街の入口に到着した。車を降りたその直後――遠くから一台の車が、二人めがけて猛スピードで突っ込んできた。ナンバーを見た星は、眉をひそめる。こんな狂気じみた真似をするのは、ただ一人。――怜
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第1352話

明日香は、生死をさまようような瞬間をくぐり抜け、あそこまで無様な姿をさらされた。どんな上品な人間でも、あれでは怒りを抑えられない。彼女は冷たく言い放つ。「冗談?あなた、明らかに故意でしょ!殺人よ」仁志は眉をわずかに上げた。「僕らは自衛のために撃っただけです。それを殺人と呼ぶなら、さっき怜央さんが減速もせず僕らに突っ込んできたのは、何と呼ぶんです?」明日香は言葉を詰まらせた。確かに、怜央は「脅かすだけ」と言っていた。実際、直前で減速していたのも見ている。それでも――もし減速が一瞬でも遅れていれば、彼らはもうこの世にいなかっただろう。彼女の腕にも、擦り傷が残っていた。だが、挑発を始めたのは怜央だった。その事実は覆らない。明日香は怒りを押し殺し、怜央に言った。「司馬さん……私、少しお手洗いに行ってくるわ」みっともない姿を整えるためだった。彼女は女神としての姿を絶対に崩したくない。怜央は何も答えず、ただ仁志を睨みつけていた。仁志からは、以前漂っていた陰りが薄れ、どこか晴れやかな気配すらある。機嫌が良さそうに見えた。怜央の視線がふと動く。仁志の手元には、新しいキーホルダーが光っていた。――あれは、星が贈ったものだ。以前、怜央は嘲っていた。「星が贈るのは安っぽい小物ばかりだ」と。だが今、金に不自由しない仁志がそれを身につけている。視線に気づいた仁志が、穏やかに微笑む。「どうしました?怜央さん、僕のキーホルダーに興味でも?」怜央が口を開く前に、仁志は続けた。口調は丁寧だが、切れ味は鋭い。「これは星野さんが僕にくれた贈り物です。お見せするだけならまだしも、貸すのは無理ですね。欲しいなら――明日香さんに頼めばいいんです。明日香さんは秀才ですから、器用でしょう?あなたのために一つ作ってもらえばいいんですよ」怜央の目が暗く沈む。明日香がそんなことを自分で作るはずがない。作れないし、やる気もない。怜央は冷ややかに言い返した。「誰もが星みたいに、暇を持て余してるわけじゃない」仁志は笑った。声は軽いが、言葉は逃げ場を塞ぐ。「でも雲井グループでは、星野さんの実績は明日香さんよりずっと上ですよ。もし星野さんが暇なら、明日香さんはもっと暇なはずです」怜央をじっと見据え、言葉を重ねる。「司馬家として
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第1353話

仁志は、確かに星を助けてきた。だが、何から何まで段取りしてやるような真似はしない。彼がやるのは、星が本当に必要としたとき――自力では崩せない局面で、背中をひと押しすることだけ。溝口家の力を本気で使えば、星が外へ出て交渉する手間などいくらでも省ける。仁志が人を動かせば、提携ごときは秒でまとまるだろう。それでも彼は、そうしない。一方の明日香はどうか。朝陽や怜央の助けがあったとしても、いまの彼女は星の一歩後ろにいる。明日香の視線が、ふと仁志をかすめた。――この人は、星のために、どこまでやれるの?その思いが、胸の底に静かに沈む。そのとき、戻ってきた明日香に気づいた星が、仁志へ声をかけた。「明日香さんも戻られたみたいですし、先に曦光を見に行きましょう」怜央が明日香を呼び出した際に告げたのは「曦光の件がある」だけ。ここに来るまで、明日香は星と仁志が同席するとは思っていない。現場で二人を見つけ、しかもあの無茶な突進騒ぎ――明日香は、怜央が星と仁志を詰問するつもりで来たのだと受け取っていた。――曦光を壊したのは仁志で――しかも曦光は怜央が自分の手で組み上げた車。そう聞かされていたからだ。気持ちを整えた明日香は、軽くうなずく。「……分かったわ」星は曦光のために、専用の場所を借りていた。扉をくぐった瞬間、すでに原型を成した曦光が目に飛び込んでくる。明日香の足が、ふっと止まった。星が「弁償する」と言ったのは、体裁のための言葉――そう思っていた。同じ車を、本当に用意できるとは考えていなかったのだ。もっとも、彼女は忠ではない。仮に弁償できなくても、星に難癖をつけるつもりはなかった。ただ――この世には「やりたい」と思っても叶わないことがある。それを分からせられれば、それで十分だと。だが今、目の前の曦光を見て、明日香は数秒、驚きを隠せなかった。すぐに納得した。。曦光のような高性能車は、組立の精度が命だ。わずかなズレが、致命傷になる。外形は真似られても、完全再現は容易ではない――その直後、怜央が手を上げる。曦光に使われる全パーツと素材が、次々と運び込まれた。「今回の曦光の材料とパーツだ。確認してくれ」その光景に、明日香は完全に言葉を失う。――どういうつもり?星と仁志を困らせに来たのだと思
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第1354話

星は仁志のそばへ歩み寄り、ボンネット内の一点を指さす。「この辺り……ここが、少し……」二人は車体に身を預けるように覗き込み、そのまま検討に入った。怜央と明日香の存在など、視界から消えたかのようだ。曦光の内部は、やはり複雑だ。真剣に組立を学んだ星でも、曦光クラスとなると頭に全部は入りきらない。星はノートを開き、仁志の言葉を要点だけ素早くメモし、同時に配線・機構のラフ図を引いていく。明日香は、星がバイオリンを弾くことは知っていた。だが――レーシングカーまで分かるとは思っていなかった。しかも「知っている」だけじゃない。組立についても、ちゃんと勉強してきた様子だ。仁志がいくつか注意点を示せば、星はすぐ意図を汲む。仁志がある箇所を指して何か言い、星が数秒考えてから、さらさらと大枠の図を描き起こす。会話の密度からして、星は素人ではない。そして、明日香はもう一つ気づく。今の仁志は――自分の前で見せる、気まぐれで傲岸な雰囲気ではない。星といるときの、陽気で近所のお兄さんみたいな顔でもない。噂されるような、精神の波の危うさや凶暴さも見当たらない。あるのは、静かな集中と、徹底した真剣さ。明日香が知っている「仁志」とは、ほとんど別人だった。その瞬間、彼女は理解してしまう。司馬優芽利が、なぜ仁志に夢中になるのか――怜央と明日香は、黙ったまま二人を見守った。一時間ほどで、星と仁志は手を止める。星のノートには、一枚の内部構造図が描き上がっていた。怜央がちらと一瞥し、目を細める。わずかに驚きが混じった。かつて、彼の要望通りに曦光を設計するため、八人のデザイナーで丸一週間以上かかった。それが今、二人はたった一時間の検討で、ここまでの内部図を引いてみせる。しかも走り書きのはずなのに粗がない。構造もパーツも驚くほど精密で、紙面から機械が立ち上がるような生々しさがある。怜央も絵を描く。だから分かる――星の線は素人のそれではない。付け焼き刃では、この密度は出ない。星もまた、仁志がここまで車に通じているとは思っていなかった。彼女は水のボトルを一本差し出す。「仁志、ありがとう。お疲れさま。お水でも飲んで」星は才能で組立を飲み込んではいるが、専門職ではない。曦光級の複雑さは、やはり骨が折れる。仁志はボトルを受け取り、キャ
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第1355話

仁志は――間違いなく、生粋の天才なのだろう。本気で学ぶと決めた瞬間から、どんな分野でも最短で形にしてしまう。星は、そう感じていた。自分がそこまで高く評価されていると知ると、仁志は心から嬉しそうに笑った。ただ、口にする言葉は控えめだ。「男って、車には生まれつき弱いんですよ。昔、少し触ってた時期があって……でも忙しくなって手を離しました。今回はそれを拾い直しただけです。だから、覚えるのが少し早かっただけです」二人は周囲を気にかける様子もなく、自然に会話を続ける。怜央や明日香を意図的に無視しているわけではない。ただ――距離感が、あまりに自然で、馴染みすぎているのだ。多くを言葉にしなくても通じる。削いだ台詞でも、意味が正確に届く。やがて、怜央が冷ややかに口を挟んだ。「設計図を描けたところで、曦光を完全再現できるとは限らない」会話を遮られ、星と仁志が同時に怜央を見る。角度も表情も、ほとんど同じ――邪魔されたとでも言いたげな視線に、怜央はわけのわからない苛立ちを覚えた。彼はずっと星を見下してきた。結婚に失敗した元・専業主婦が、明日香と張り合う?笑わせる、と。ところが星は本当に雲井家へ戻り、しかも実力で明日香を凌ぎはじめている。それでもなお、怜央はどこかで軽んじていた。どうせ男に頼っているだけだ――と。かつては雅臣。離婚後は影斗。今は仁志。……だが最近、怜央は気づき始めている。侮ってきた星は、思っていたほど空っぽではない。認めたくはないが――確かな力がある。料理ができるだけじゃない。仁志が最も弱っていた時期、彼女は彼を守り切り、誰にも付け入る隙を与えなかった。同時に忠の問題を表へ引きずり出し、雲井家の視線をそらした。さらに――仁志が曦光を壊した件も、彼女は迷わず自分が引き受けた。そこまで思い至って、怜央は隣の明日香を見る。整え直した身なりは相変わらず気品に満ち、美しい。けれど――昼の作業中でさえ、たとえば水を差し出すような細やかな気遣いを、彼女が自分に向けたことは一度もなかった。そのとき、明日香が口を開く。「星、そろそろお昼よ。良かったら一緒にどう?」すぐ重なる、仁志の冷えた声。「遠慮します。ご馳走すると言いながら、後で食事代を請求されても困ります。結果、明日香さんと食事すると、数百万の損ですから」明
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第1356話

仁志は、怜央が何を狙っているのか見極めたかった。だから誘いを断らなかった。怜央の車は壊れている。そこで怜央と明日香は、星と仁志の車に同乗してレストランへ向かうことになった。星は助手席。バックミラー越しに、後部座席の二人をちらりと見る。因縁の相手と同じ車で昼食へ――滑稽で、居心地が悪い。明日香も怜央も口数が多いタイプではない。道中は、二言三言交わす程度で、ほとんど沈黙だった。二人がいるだけで、星はどうにも落ち着かない。自然と口も重くなる。店は明日香が提案した崖の上のレストラン。静かで上品、窓から街が一望できる。――この二人と食事する時点で、味の評価をする気はないけど。星も仁志も異を唱えず、そのまま向かう――が、途中で突然の豪雨に見舞われた。崖のレストランへ続く山道は、もともと走りやすくはない。荒れた道に雨が重なり、車は何度も大きく揺れた。どれほど走った頃か。不意に急ブレーキ――エンジンが落ちた。星が仁志を見る。「どうしたの?」「タイヤがパンクしたようです」雨は容赦ない。山中のせいか空気も冷え、肌に刺さる寒さだ。仁志は上着を脱いで星の肩にかける。「車で待ってて。僕が見てきます」星はすぐ言う。「雨が強すぎる。迎えを呼んだほうがいいわ」仁志は落ち着いた声で返す。「ここは人が少ないし、この雨です。来るまで時間がかかりますよ。タイヤ交換なら十分で終わります」それから、星の薄い服装に目を落とす。「車に戻って。冷える」四人の中で、実質ボディガードは仁志ひとり。こういう汚れ仕事は、当然彼の役目だ。収納から折り畳み傘を出して開くと、仁志は車を降りた。後部座席の明日香が、その様子にわずかに目を細める。仁志が溝口家の当主だということは、彼女の周囲ではすでに知られている。どうやら知らないのは、星だけ。もちろん星が鈍いわけじゃない。仁志の偽装が完璧すぎるのだ。最初から正体を知っていなければ、明日香だって見抜けなかっただろう。仁志は当主の威厳や体裁を、いとも簡単に脱ぎ捨てる。人を圧する傲慢さを見せない。ボディガードとして文句なく合格だ。この豪雨でも役目を全うする――男の責任感がある。やがて彼の背中は、雨のカーテンに飲まれていった。まず車の状態を確かめ、やはりタイヤだと分かる。スペアを取りに
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第1357話

ほどなくして、星と仁志は方針をまとめた。星が傘を差し、仁志に付き添ってトランクからスペアタイヤを引き出す。仁志の手つきは無駄がない。この豪雨の中でも、五分とかからず交換を終えてしまった。傘は差していたが、仁志は結局、全身びしょ濡れだ。車に戻ると、星は清潔な白いタオルを二枚取り出し、一枚を渡す。二人は息を合わせるように、水滴を拭った。仁志はエアコンの風量を上げ、短く言う。「先にレストランへ行きましょう」四人はほとんど口もきかず、店へ向かった。星と仁志には着替えがある。二人は熱いシャワーを浴び、それぞれ服を替えた。――星と仁志が戻るまでのあいだ。怜央は、窓の外を流れ落ちる雨の帳をぼんやり眺めていた。明日香は、彼の口数がいつもより少ないことに気づく。ふだんから多弁ではない。それでも、ここまで黙り込むのは珍しい。「司馬さん……」そっと声をかける。「今日、気分がよくないんですか?」怜央は我に返り、明日香を見る。「別に」最近の怜央は、どこか様子がおかしい。明日香にも、何を考えているのか読み切れない。星と仁志が戻らないうちに、明日香は小声で尋ねた。「どうして急に、曦光の部品と材料を全部、星に渡したのですか?」前に会ったとき、怜央ははっきり言っていた。「星には簡単に部品は渡さない」と。怜央は淡々と答える。「曦光はお前にとって意味が違う。一時の怒りで、この世から完全に消す必要があるか?それに――来月レースがある。曦光で出たいんじゃないのか」明日香は息を呑む。部品がそろうなら、怜央が自分で組み直してもいいはずだ。なぜ、わざわざ星の手を借りるのか。――星に組ませておいて、過程で難癖をつける気?そう思った矢先、怜央が問いを重ねる。「明日香。星が車に詳しいの、知ってたか?」脳裏に、さっきの光景がよぎる。「……知りませんでした」「星が絵を描けることは?」明日香の表情がかすかに動いた。「星が……絵も……?」彼女が知っているのは、星がバイオリンを弾くことだけ。車にも絵にも通じているとは思わなかった。「どうして分かったんですか?」明日香が怜央の顔色をうかがう。怜央は、病院で星に会ったときのことを簡潔に話した。聞き終えた明日香は微笑む。「急に習いたくなっただけ、かもし
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第1358話

「誕生日を埋め合わせるなら、プレゼントも当然、埋め合わせるべきだろう」怜央は、まっすぐ明日香を見た。「どうした。難しいのか?」怜央は二十九歳。つまり――二十九個、用意しろという話だ。ここ数年は一緒に祝ってきた。だが「埋め合わせる」と言った以上、そこだけ端折って今の年だけ整えるのは体裁が悪い。一つ二つなら、明日香にとって造作もない。けれど、過去分すべて――となると話は別だ。こめかみが、じくじくと痛みだす。あの嫌な頭痛が戻る。毎年、怜央にふさわしい贈り物を選ぶだけでも、神経は擦り減る。司馬家当主への贈り物。格に見合い、安っぽく見えず、しかも実用的であること。これまで選んだのは、腕時計、ライター、ネクタイ、香水、財布……怜央は受け取れば、ほとんど身につけてくれていた。――それを今度はゼロから、全部やり直せと?想像しただけで、優柔不断な彼女は発作を起こしそうだった。明日香は困ったように笑う。「司馬さん……もっと意味のある贈り物を、一つ、という形では……」言い終える前に、怜央の声が落ちた。「結羽の居場所は、もう掴んだ」明日香の声が止まる。忠は、ひとまず婚約を打ち出した。だが、あれは場当たりの延命策にすぎない。騒ぎが静まれば、結羽に必ず落とし前をつけるつもりだ。とはいえ、何をするにもまず見つけねば始まらない。できることなら、血なまぐさい選択は避けたい。結羽が表に出て協力する――それがいちばんいい。だが、耳を貸さないのなら。必要なときは、手段を選べない。雲井家が表立って動くわけにはいかない。ならば、悪名を引き受けられる怜央ほど適任はいない。本音を言えば、明日香は忠の尻拭いなどもうしたくない。衝動的で、何度言っても改めない。それでも同じ雲井家だ。一人が傷つけば皆が傷つき、栄えれば皆が栄える。放置すれば、自分の評判にも跳ね返る。数秒の沈黙。明日香は静かに言う。「……司馬さんが今までの分のプレゼントを欲しいというなら、ちゃんと準備しますわ」ちょうどそのころ、星と仁志が、シャワーと着替えを済ませて戻ってきた。怜央と明日香は、息を合わせるように誕生日の話題を引っ込める。ほどなくして、店員がメニューを運んできた。星はページをめくり、何気なく四品を告げる。明日香が注文を終えてふと気づく。仁志
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第1359話

怜央は、メニューを持つ手をほんのわずか止めた。明日香が何を好むか――それは当然、把握している。では逆に、彼が好きなものを、明日香は知っているのか。怜央は思い出す。以前、二人で食事に来たとき。途中で急用の電話が入り、席を外したことがあった。明日香はいつも、通話が終わるまで待ってから注文した。「俺の分も頼んでおいて」と言っても、彼女は待っているだけで、代わりに決めようとはしない。当時の怜央は、その態度を「尊重」だと受け取っていた。だが今になって考えると――尊重だったのか。それとも……彼の好みを、そもそも覚えていなかっただけか。怜央の思考がふわりと漂う間に、星は店員へ苦手な食材をさりげなく伝えていた。二十分後、料理が運ばれる。その苦手な食材を避けた一皿は、仁志の前に置かれた。仁志も星も、それをわざわざ話題にしない。当たり前のこととして、気に留める素振りすらない。――つまり、普段からこうして過ごしているということだ。仁志が一口食べ、星に言う。「悪くないんですが、星野さんが作ったやつのほうが美味しいです」怜央が鼻で笑う。「五つ星のシェフより家庭料理が上だと?仁志、年々白々しい嘘がうまくなるな」仁志は怜央を見る。瞳の底に、暗い色が落ちる。星が言っていた――最近の怜央はどこかおかしい、と。見た目はそう変わらない。だが、確かに何かが違う。ただ、接する時間が短すぎて、どこがどう変なのかまでは掴めない。仁志は低く笑い、静かな声に刃だけを立てる。「残念ですね。司馬家の当主だった怜央さんは職を外され、今は暇を持て余しています。その怜央さんが見下していた主婦は、雲井グループでどんどん地位を上げています……腹は立ちませんか?」怜央の目が冷える。言い返そうとした、その瞬間――明日香が絶妙なタイミングで割って入った。「冷めると美味しくないわ。先にいただきましょう?」そして顔を上げ、星へ微笑む。「星の料理って、そんなに美味しいの?いつか、私も食べさせてもらえるかしら」場を和ませるつもりの一言だった。星も、ふだん一番辛辣な仁志でさえ、気にしていない。――だが、怜央だけは違った。仁志はことあるごとに星の料理を褒める。本当に、そこまで美味いのか?その後、四人はほとんど会話もなく、静かに食事を終えた。食べ
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第1360話

仁志は眉を上げた。「輝?」星は、忘れていると思ったのか補足する。「凛の元彼よ。会ったことあるでしょう」――会っただけではない。刃物で、輝の手を貫くように刺したこともある。もちろん覚えている。ただ、またのこのこ現れるとは思っていなかっただけだ。仁志は短く言う。「行きましょう。何をする気か、見届けます」星と仁志は立ち上がり、そのまま店を出る。数歩進んだところで、星がふと立ち止まった。振り返り、後ろの二人に告げる。「急ぎの用ができたので。今日はこれで」この二人の立場なら、帰りに困ることはない。電話一本で済む。明日香は相変わらず、気遣いと優雅さを崩さない。「ええ。用があるなら先にどうぞ」怜央は何も言わない。星にとっては礼儀の一言でしかない。返事があろうとなかろうと、気にしない。豪雨は来るのも去るのも早い。二人が店を出るころには雨は上がり、空はもう晴れていた。星はすぐに連絡を入れ、輝の居場所を洗わせる。同時に、救出と合流の段取りをてきぱき組み立てていく。手際よく動く星を見て、仁志の口元がわずかに緩む。本人も気づかないほどの、小さな笑み。ほどなくして、凛の居場所の情報が入った。「仁志、行こう」「はい」見つけたとき、輝は凛の腕を乱暴に引き、別荘へ連れ込もうとしていた。凛は必死に抵抗し、顔には露骨な嫌悪。「輝、放して!」その表情が、輝の目に刺さる。彼は凛の顎を掴み、冷たく笑った。「何だ、俺のことも嫌いか?昔は俺に張り付いて、追い払っても離れなかったくせに」凛は氷のように言い返す。「失明してたのはあなた。でも本当に目が見えていなかったのは、私よ。恩を仇で返すなんて――あなた、気持ち悪い」輝の眼差しは陰鬱だ。それなのに声だけが、不気味なほど優しい。「それだけで気持ち悪い?もっと気持ち悪いがまだあるよ」囁くように続ける。「凛。俺が今こうなのは、全部……星のせいだ。星がいなきゃ、俺たちは別れてない。なあ、あいつが死んだら全て丸く収まると思わないか?」凛の顔色が変わる。「彼女は何も関係ないわ!」だが、輝は聞き入れない。彼は手を伸ばし、凛の頬をゆっくり撫でた。「聞いたよ。星は彩香のために、自分の手を壊したって。今日は見てみたいな。お前のためにも、同じように
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