All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1371 - Chapter 1380

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第1371話

星は、身近な人には確かに優しい。ただ――仁志に対しては、少し優しすぎる。もう「友だち」の枠を越えているように見えた。星が澄玲と二言三言交わすと、澄玲は呼ばれて席を外した。今日は志村家の宴、しかも澄玲と靖の婚約発表がある。忙しいのは当然だ。しばらくして、葛西先生と朝陽が入ってくる。明日香は朝陽の腕に付き、しなやかな所作で会場へ。星は葛西先生を見つけると、すぐ迎えた。「先生、いらっしゃってたんですね」葛西先生は仁志を一瞥する。「見たところ、ずいぶん回復したようじゃな」仁志が笑って応じる。「先生のおかげです。こんなに早く復帰できたのは、先生のご配慮あってこそ」先生の隣で、朝陽の瞳に幽かな冷光が走る。だが顔には出さない。挨拶すら省く。代わりに明日香が微笑む。「星、仁志」星は礼として軽く会釈した。ところが仁志が、わざとらしく眉を上げる。「へえ。明日香さん、今日は朝陽さんと一緒なんですね。怜央さんは?この前までよく一緒にいましたけど、今日は同行じゃないんです?」露骨な揺さぶりだ。胸の奥が詰まるような苛立ちが、明日香の耳に刺さる。大勢の前で、よくもここまで。朝陽が冷ややかに笑う。「明日香が誰といるかは彼女の自由だろう。それよりお前は、自分の足元は見ずに、やけに彼女を気にするな――まさか、明日香に惚れてるのか?」仁志は肩をすくめた。「恋人の目には誰でも女神って言いますよね。朝陽さんの目には、明日香さんを一度多く見ただけで誰もが惚れて見えるんです?そんなに特別ですか。どのへんが?」首を傾げ、淡々と続ける。「腕の立つヴァイオリニスト、とは聞いてます。でも実績なら星野さんのほうが上。絵は……まあ普通ですね。レースもアマチュアの域、自分の曦光すら組めない――結局、大したことないんじゃないですか?」ここまで言われると、どれほど品のいい人でも笑っていられない。明日香の瞳が静かに冷える。葛西先生が軽く咳払いした。「若い者の話に、わしは口を挟まん。志村当主に挨拶してくる。お前らはゆっくり話しなさい」先生は振り返りもせず去った。星:「……」朝陽の視線がさらに冷たくなる。何か言い返しかけたところで、明日香がそっと腕を引いた。深く息を吸い、明日香が言う。「朝陽……もう、いい」ここで揉めれば笑い者になるのは自分たちだ。朝陽も分
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第1372話

「仁志」隣から星の声。仁志が振り向く。「どうしました、星野さん」星はまっすぐ問う。「わざと、彼を怒らせた?」仁志は淡々と答える。「いいえ。ただ、朝陽が嫌いなだけです」雲のように軽い口ぶり――だが星には分かる。理由もなく明日香にあそこまで辛辣にはならない。考えられるのは一つ。朝陽の憎しみを、星ではなく自分へ向けさせるため――星が言いかけたとき、仁志が先に口を開く。「ここで待っててください。食べ物を取ってきます」背を見送り、星は困ったようにため息をついた。ほどなく、入口の方でざわめき。大物が来たのかと目を向け――微かに息を呑む。――怜央。星と怜央の間には血の因縁がある。だが志村家と怜央の間にはない。いくつもの家の利害が絡むこの世界では、どれほど非情でも過去の取引を感情では切らない。怜央がホールに足を踏み入れた瞬間、視線が集まる。司馬家の騒動は社交界の常識だ。彼が最も弱った時期、敵は司馬家を攻撃しただけでなく、殺し屋まで放った――片耳と片腕を失った、という噂。だから皆、確かめたがった。「怜央が、どれほど無残になったか」を。意外にも、外見だけ見れば大差はない。それでもさざめきは広がる。星も少し驚いた。怜央は明日香以外、エスコートを連れないのが常。今日は明日香が朝陽と来ている――だから、彼は来ないと思っていた。色のついた視線が刺さる。評判の悪い男に人望はない。権勢が極まっていた頃は誰も逆らえなかったが、落ち目と見れば遠慮は消える。「まさか怜央が出てくるとは。司馬グループの役職も外されたんだろ?そのうち家主の座も剥がれるさ」「因果応報ってやつだ。悪事の報いだな」「前は明日香といつも一緒だったのに、今日は朝陽か……もう答え出てるじゃん」「前から気に入らなかった。ざまあみろ」「明日香、あんな人間と一緒じゃなくて正解。殺人鬼みたいな悪魔より朝陽のほうがよっぽどマシ」「早く逃げなよ、明日香。関わっちゃダメ」怜央は嘲りも囁きも無視し、ただ一人、無表情で入ってくる。修羅場をいくつ潜った男だ。これくらいで心は揺れない。ホールを見回し、何かを探す。星を見つけると、視線が一瞬止まり――すぐ逸らす。最後に、明日香へ視線が落ちた。彼女は商界の精鋭たちと談笑中で、怜央の到着に気づかない。怜央は歩き出す。明日
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第1373話

だが半ばで、数人の御曹司が行く手を塞いだ。「怜央、忠告だ。明日香に近づくな」「身の程知らずな真似をするな」「手を一本失ったんだって?明日香の相手、すごい優秀じゃなくてもいいが、最低限、四肢は揃ってるべきだろ。義手つけたって、結局は障害者じゃね?」「ははは!司馬家の家主が障害者?生活も自分でできねえだろ」「前は偉そうだったのによ。今はどうした?威勢はどこいった」「言っとくけど、卑怯な真似で明日香に迫るな。お前はただの私生児だ。釣り合うわけがない」星は怜央の仇だ。だが、他人の不幸見物に興味はない。時計を見る。仁志が戻るのが遅い。ビュッフェへ向かおうと歩を進め――耳障りな嘲笑が飛び込んできた。「お前が星の連れのイケメンか。顔はいいな。令嬢たちが見とれるわけだ」「女だけじゃない。男でもドキッとする。さっき高宮家のやつが聞いてきたぜ、あの食べ頃の美形、どこの坊ちゃんだってよ」「やるね。女のヒモだけじゃなく、男のヒモもいける口か」「そんなにヒモ稼業が好きなら、いい仕事、紹介してやる」一人が前に出て、仁志の手のデザートを床に叩き落とす。歪んだ笑いで、床の甘味を指す。「ほら。これ舐めて綺麗にしたら二千万円。どうだ?」周囲がどっと笑う。わざと料理を床に投げ、囃し立てる。「落ちたこの肉、食えたら俺も二千万円!」「俺の革靴を舐めてピカピカにしたら六千万円!」「おっと、悪い。手が滑って酒こぼしちまった――まさか気にしないよな?」星は見た。何人もの坊ちゃんが仁志をぐるりと囲み、執拗に侮辱している。星の表情が、一気に冷えた。足早に近づく。「……あなたたち、何をしてるんですか」星の顔を見て、御曹司たちが一瞬固まる。星の名は知っている。今や雲井家の令嬢の中でも別格。離婚歴があろうが価値は桁違い。星に手を出すな――家の大人たちに釘を刺されている。本気になれば身内にも容赦しない女だ。一人が愛想笑いを張り付けた。「星野さん、あなたのボディガードが、料理を取るとき手を滑らせて落としまして。僕らは気をつけろって言っただけですよ」他の連中も慌てて合わせる。「そうそう、物を落として、ついでに自分に酒まで……手伝いが要るか、親切で聞いただけで」星の視線が、仁志のスーツに濡れた酒をとらえる。瞳がひやりと光った。床に散
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第1374話

顔に酒を浴びた御曹司は、思わず硬直した。騒ぎに気づいた人だかりができ、ざわめきが広がる。「え、あれ雲井家が後から認知した令嬢、星じゃない?何があったの?」「さっき見た。星が宮本家の坊ちゃんの顔に酒ぶっかけてた。で、周りの連中に床の食べ物を舐めて片づけろって……」「うわ、強気。いくら雲井家の令嬢でも、それはやり過ぎじゃ?」「事情があるかもしれないだろ。早合点はよくない」「たぶん、あのボンボンたちが、彼女のボディガードの皿をわざと倒したんだろ。怒って舐めろになった、とか」「だとしても、人を馬鹿にしすぎだ。令嬢になったばかりで威張るなんて。明日香の方がよほど優秀だし、横柄じゃない」事情を知らない野次馬は断片だけを拾い、好き勝手に断じて囁く。酒を浴びた御曹司は面子を潰されても、星に正面から噛みつくつもりはない。星は、ただの令嬢ではない。実権を握る女だ。自分たちが何人束になろうと、彼女の資金力には及ばない。しかも今の空気は彼らに甘い。このまま低姿勢でいれば、世間は味方してくれる。星が突き放せば「正しいくせに容赦ない」と叩かれる。御曹司は愛想笑いを貼り付けた。「大丈夫です、大丈夫。星野さんもわざとじゃないでしょうし、酒が少しかかっただけです……ただ、その、床の物は……」困った風に眉を下げる。「片づけは僕らがします。それで、よろしいですか?」星も、志村家の宴席で本当に舐めさせるつもりはない。冷たく言い切る。「今回だけです。今すぐ仁志に謝ってください。次があれば、今日みたいに簡単には済みません」御曹司たちは慌てて仁志に頭を下げた。「仁志さん、申し訳ありません。お許しを」「二度としません。約束します」「お召し物は、新しいもの一式で弁償します」周りは事情は分からずとも、彼らが仁志に謝るのを見て察する。「つまり、星は自分のエスコートのために筋を通したわけ?」「エスコート?ボディガードじゃないのか……いや、この人、契約の場でもよく見る」「前から噂あったよな。星とこのボディガード、関係が曖昧だって。まさか宴で堂々と御曹司を潰すとは。相手の家格だって低くないのに」「美女のために怒り狂うって言うけど、彼女は美男のためにキレたわけだ」「恋愛バカはどこまで行っても恋愛バカ。どうでもいい男のために敵作るとか
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第1375話

怜央は人だかりの中で、少し離れた場所で頭を下げる御曹司たちを見ていた。耳に入る囁き。さっき自分が嘲られた場面が否応なく蘇る。会場に入ったとき、周囲は好き放題に言った――明日香が気づかなかったのは、まだ仕方がない。だが、その後。明日香のもとへ向かった彼の前に、数人の遊び人が立ちはだかった。あれは、明日香も見ていた。連中はしつこく絡み、彼が明日香の目の前に辿り着くまで退かなかった。そのとき明日香は、小声でたしなめただけだ。「彼を困らせないで」と。ついでに誤解だと説明してくれた――彼は彼女に無理強いしていない、と。それで終わり。羽のように軽く、彼らを帰した。そこを見るまでは、怜央は自分のために正してほしいなど思いもしなかった。この状況で一言くれた――それだけで気にかけられていると思えたからだ。けれど今。胸に灯りかけた温度は、一瞬で笑い話になった。一方、星は周囲の噂など気にも留めていない。謝罪が済むと、仁志へ目を向けた。「仁志、ほかに要求は?」仁志の瞳が、星の光を映した湖のように揺れ、細かな波紋が広がる。「ありません」星はうなずき、彼らを退かせた。御曹司たちは散り散りに逃げていく。去ったあと、仁志は星を見る。声が、なぜか少し掠れていた。「星野さん、ありがとうございます」星は淡く笑う。「私たちの間で、そんな他人行儀いらないでしょ」仁志は続ける。「ただの揶揄です。僕は気にしません。それに……」視線を、囁き合う人々へ滑らせる。「僕のために、ここまで大事にしなくていいです。星野さんが不利になります」仁志の耳は鋭い。この場の悪意混じりの噂など、すべて届いているだろう。だが星は気にしない。「私があなたを招いたの。なら、いじめられないよう守る義務がある。今日ここで穏便に済ませたら、次はもっと増長するだけ」声色が少し柔らぐ。「仁志。これまでは、あなたが私を守ってくれた。今度は、私があなたを守る番。あなたが悔しい思いをして、私が黙って見てるだけなら――次に笑われるのは私よ。それに、名声なんてもうどうでもいい。そんなもの、気にしない」星は知っている。離婚のこと、子どものこと――噂はとうに広がっている。雲井家の誰よりも、体裁に縛られていない。重しがないから、身軽だ。したいようにできる。大切な人を守れるなら、悪名くらい
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第1376話

仁志が数人へ視線を送ると、口角がわずかに上がった。だが御曹司たちは、幽霊でも見たかのように一斉に目を逸らす――一秒でも長く見れば、自分の家が終わる。そんな予感に怯えたように。怜央は無表情のまま、その光景を眺めた。瞳は暗く沈む。自分が失勢した途端、明日香はもうエスコートを買って出ようともしない。一方、星はボディガードを伴い、堂々と宴に現れる。エスコートにボディガード――格が落ちると周りに思われても、彼女は少しも気にしていない。星は、仁志がこれ以上いびられないよう、皆の前で公然と筋を通した。視線も噂も意に介さず、悪名すら背負う覚悟で。対して明日香は、怜央が会いに行けば露骨に避けはしない。けれど言葉はこうだ――「司馬さん、先に裏庭で待ってて。あとで行きます」そのときは何も思わなかった。強者を好む彼女が態度を変えないだけで、十分特別扱いだと思えたから。――なのに今、胸が妙に詰まる。息苦しいほどに。……裏庭は静かで、澄んでいた。中央の噴水が細かな滴を跳ね上げ、夜気の冷たさを際立たせる。背後から、軽い足音。女のやわらかな声。「司馬さん」明日香はベージュのドレスに身を包み、いっそう優雅さを増していた。首を傾げると、耳元のダイヤが揺れて光の粒が零れる。回廊の影に立つ彼女は、塵一つまとわぬ美しさ。碧い水面に映る月のようで――同時に、水月の幻のように、触れれば消えそうでもある。明日香は怜央の変化に気づかず、静かに尋ねた。「司馬さん、私に何かご用ですか?」怜央が問う。「どうして今日は、俺に付き添いを頼まなかった」明日香の瞳がわずかに揺れる。想定外の問いなのだろう――言わなくても分かるべきこと。そう思っていても、愚かに口にはしない。彼女は微笑で包む。「今日、来ないと思っていました。だから聞かなかったんです」怜央は続ける。「数日後、俺も宴がある。お前、エスコートになれ」明日香は数秒考え、静かに頭を振る。「近いうちにプロジェクトがあって……たぶん時間が取れません」言い終える前に、怜央の低い声が被さる。「じゃあ、いつなら空いてる?」困ったように笑みを作る。「それが……いつ時間を作れるか、私にも分からなくて」怜央は冷たく詰めた。「つまり、プロジェクトが終わるまで宴には出ない、ってことか?」空気がきゅっと冷える。
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第1377話

明日香は、怜央が腹を括ったと悟る。微笑んで背を向けかけ、ふと足を止めた。振り返り、そっと言葉を置く。「司馬さん。これまで、あれほど苦しいときも、あなたは歩いてきました。今回もきっと――また立ち上がれると信じています」怜央は黙したまま。彼女は気にせず、しなやかに去っていった。明日香が角を曲がるころ、影から気だるく澄んだ声。「怜央さん。明日香さんがどういう人か、あなたは知ってるでしょう。なのに、どうして自分から苦しみに行くんです」振り向くと、東屋の柱にもたれて佇む仁志。怜央は口元に冷笑を浮かべる。「星に張り付いて守らないのか。宴に一人置きざりにして、誰かが手を出したらどうする」仁志は薄く笑った。「どんな関係でも、一人の時間が必要です。星野さんはガラス細工ではありません。自分の身は守れます。それに――」視線が鋭さを帯びる。「怜央さん。星野さんに危害を加える可能性が一番高いあなたを、僕が見ていればいい。そうすれば、正気をなくして皆の前で星野さんに手を出す人間はいません」怜央は嘲る。「正気?ノールソンを皆の前で殺したときは正気だったのか。仁志、清廉ぶるな。お前の手口は、俺以上だ」仁志は怒らず、小さく頷く。「それは一理あります。ただ、あなたと僕の決定的な違いは――」淡々と、刃だけを立てる。「彼女が僕の底線を踏まない限り、女性に手は出しません。だから安心してください。明日香がどれだけ気に入らなくても、彼女が僕を刺激しない限り、相手にもしません。それより――怜央さんは」薄い唇に、意味深な笑み。「明日香さんのためなら、汚れ仕事も重い仕事も全部引き受けてきましたよね。でも彼女は、あなたの尽くしに何一つ返しません。挙げ句、あなたがいちばん落ちた瞬間、厄介者を捨てるみたいに真っ先に切りました。関わりが多いと、自分の評判に響くのが怖かったんでしょうね」怜央の声は氷の温度。「俺は見返りが欲しくてやったわけじゃない。それよりお前だ。情が深い義が厚いと言いながら、結局は相手の見返りを求めている。星が十分返さなければ、お前はここまでできるのか?」仁志は否定しない。「どんな感情でも、一方的な支えだけじゃ続きません。家族でも、友人でも、恋人でも。まして取引相手なら、見返りがなければ誰もあなたと組まないんです。怜央さん、自分をそんなに高尚で無私だと言
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第1378話

宴の最中、志村お爺様が自ら壇上に立ち、澄玲と靖の婚約日程を発表した。星がざっと計算した――半年後だ。壇上の二人に、照れも喜びもない。表情は淡々として、まるで当事者じゃないかのように静かだった。壇下では、忠と翔が並んで立っている。忠が低く言う。「翔、あの結羽って女、まだ片づいてねぇのか?まさかこの俺が、あの狂った女と本当に婚約すんのかよ」忠はそのうち世間も飽きると踏んでいた。だが現実は甘くない。いまだ発表を待ち構える連中が大勢いて、時折、世論を煽る声まで上がる。翔が短く返す。「居場所は掴んだ。ただ護りが固い。手を入れる隙がない」忠の顔が曇る。「怜央も最近どうなってんだ。タダで得するだけ得して、肝心な仕事はしねぇ!あいつなら結羽の始末なんて一瞬だろ……もう明日香を出しても効かねぇ」怜央の名が出た瞬間、翔は眉根を寄せた――明日香でも動かない。ならおかしいの域は超えた。忠の目が少し離れたところで止まる。明日香の傍らに立つ朝陽。鼻で笑う。「言われてる通りだな。怜央はもう使い物にならねぇ。頼むくらいなら朝陽にやらせた方がマシだ」翔は首を振った。「朝陽も明日香を大事にしてる。でも怜央みたいに、明日香に全面降伏はしない。彼にとって明日香は重要でも、家主の座や主たる利害の上じゃない」朝陽は血を被るような手は好まない。星をどれほど嫌っても、拉致して手を潰す――そんな真似はしない。明日香が屈辱を受けたと知れば即、問題そのものを消しにかかる――そんな極端さは、怜央特有の偏愛だ。もちろん、朝陽にできないわけじゃない。ただ、動く前に必ず損得を量る。怜央は狂犬。鎖を握って繋ぎ止められるのは、明日香だけ。うまく使えば鋭い刃、使い損ねれば持ち主ごと裂く。……星と仁志は、少し離れた隅に立っていた。仁志が雲井兄弟を横目に、ふっと口を開く。「星野さん、見物します?」星が眉を上げる。「何を?」「忠さんが二度と立てなくなる見物、です」今の忠は実害は薄い。だが噛みつかれれば十分鬱陶しい。なら、跳ねないよう徹底的に押さえつけるのが早い――仁志は静かにそう告げた。そう言い終えるか終えないか。入口の方から、澄んだ女の声が会場を貫いた。「忠!今日、お兄さんと澄玲さんが婚約発表したというのに、あなたはいつ私と婚約して責任を取るつもり?」
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第1379話

もし明日香が高嶺の女神だとすれば、この女は艶やかな妖精だ。その相貌は、見ただけで「家庭に収まる気はない」と言っている。男は征服したくなり、女は条件反射で嫌悪する。視線が一斉に吸い寄せられる。忠は女を見た瞬間、顔色を変えた。「なんでこの狂った女がここに――!?」結羽は周囲の目を気にも留めず、顎を上げて堂々と入ってくる。会場をひと巡り見渡すと、真っすぐ正道の前まで進んだ。「雲井さん。私、渡辺結羽と申します。忠の婚約者です」その言い方に、忠は爆ぜかける。「この恥知らずが――」言い終える前に、隣の翔が腕を掴んで押さえ込んだ。「忠、黙れ」結羽は雲井家が自ら認めた婚約者だ。ここで忠が公然と否定すれば――明朝には「雲井家、約束反故」と街中に回る。社交界だけではない。内も外も火の手が上がる。忠と結羽の件は、まだ燻っている。結羽の実家が意図的に煽っているのも大きい。忠が女にここまで痛い目を見たことはなかった。それでも彼女は、こんな大舞台で堂々とぶつけにきた。忠は憎悪に歯を軋ませる。正道は老獪だ。一瞬だけ目を瞬かせると、すぐ笑みを整えた。「あなたが結羽ですね。安心してください。私がいる限り、忠には必ず責任を取らせます」責任を取らせる――しかし結婚させるとは言っていない。普通の相手なら、ここで呑み込まれる。だが、報復のために動ける女が、その程度で引くはずがない。結羽は静かに詰めた。「責任、ですか。具体的には?忠に私と結婚させるおつもりがあるのか、それとも金や利益で黙らせるおつもりなのか、お伺いしてもいいですか?」正道は声色を崩さない。「雲井家は、あなたと忠の縁談を承諾しました。反故にはしません」結羽はさらに踏み込む。「靖さんと澄玲さんは、もう婚約日を発表しました。では、私と忠の婚約日は、いつ発表なさるんです?ネットの噂が多すぎます。私にも雲井家にも悪影響です。翔さんや、明日香さんも、まだ婚約していません。私と忠の件のせいで、彼らの縁談にまで影響が出るなんて、割に合わないでしょう?」正道の目が、わずかに深く沈む。この場に踏み込んできた時点で、結羽は雲井家の裁量を潰すつもりだ。曖昧な返答では下がらない。今日ここで濁せば、雲井家は赤っ恥をかき、世論はさらに燃える。正道の決断は速い。「そこまでおっしゃるなら――男性側
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第1380話

忠にも分かっていた。父・正道が結論を出した以上、ここで何を言っても無駄だ。余計な一言は、ただの燃料にしかならない。忠は奥歯が砕けそうなほど噛みしめる。だが結羽は、それでも満足していないらしい。淡く笑って言った。「忠とは、まだ親しくありません。しばらく雲井家に住まわせていただいて、忠との関係を深めてもよろしいですか?」普通の令嬢が人前で言えばはしたなく映るかもしれない。けれど、結羽と忠の間ではもう起きるべきことは起きている。子どもすら一度下ろした。今さら遠慮も取り繕いも意味をなさない。M国はもともと開放的だ。とはいえ名家は根っこに伝統がある。それでも、婚約者同士が同じ屋根の下で暮らし、相性や価値観を確かめる家はある。結婚してから憎み合うより、よほど現実的だ。正道は数秒だけ考え、穏やかに答えた。「渡辺家が反対なさらないのなら、こちらも異論はありません」突然の騒ぎで、靖も忠も、そして明日香も顔色が冴えない。結羽が公然と乗り込んできて説明を求めた以上、たとえ丸く収めても、客たちの格好の酒肴になる。朝陽は、どこか冷えた表情を帯びた明日香を見つめ、低く問う。「どうして急に?怜央が結羽の居場所を掴んだんだろう?」裏の情報網で怜央に勝てる者はいない。朝陽ですら及ばない。だからこそ雲井家は、ずっと怜央に依存してきた。明日香は苛立ちを隠せず、眉を寄せる。「場所は分かったの。でも結羽は厳重に守られていて、近づけない」朝陽は意外そうに目を細めた。「お前たちは、か……怜央は手を出して直接片づけなかった?」数秒の沈黙。明日香はぽつりと落とす。「司馬さんは……住所を教えただけ」朝陽は眉を上げる。「らしくないな。近づけないにせよ、今日結羽が来るなら、怜央が知らないはずがない。事前に知らせるか、入口で止めるか、準備を整えるか――受け身に回らずに済んだ」そして思い出したように続ける。「そういえばさっき、怜央がお前を呼びに来ていた。あの時は何も?」明日香の長い睫毛がかすかに震えた。――さっき怜央が口にしたのは、どうして同行を頼まなかったのか、ただそれだけ。だが考えてみれば、彼が無理由であんな話だけをするだろうか。本当は結羽の件を伝えるつもりで……その後、あの若者たちに絡まれて、心境が変わってしまったのかもしれない。明日香は思わず振り返り
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