All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 531 - Chapter 534

534 Chapters

第531話

彼らのえこひいきなど、彼女にはとうの昔に気づいていた。もはや心の中に、大きな波は立たない。正道にとっては、彼女も明日香も、どちらも同じ「実の娘」だ。長年ともに暮らし、心血を注いで育ててきたのは明日香。その明日香を自然とかばってしまうのは、無理もないことだった。二十年以上を共に過ごした明日香と、ほんの数年しか顔を合わせなかった自分。比べるまでもない。夜の帳の中、星の車は静かに進んでいた。スピードは決して速くない。一度、交通事故に遭ってからというもの、彼女はもう滅多に車を飛ばすことがなくなっていた。信号が赤から青に変わり、車が交差点を抜けようとしたその瞬間――星の瞳孔がぎゅっと縮む。一人の歩行者が、赤信号のまま横断歩道を渡ってきたのだ。反射的にブレーキを踏み込む。だが遅かった。車体が男の体にぶつかってしまった。幸いスピードが出ていなかったため、衝撃はさほど大きくはなかったが、それでも男は倒れ、気を失ってしまった。星は慌てて車を降り、男の容体を確かめ、すぐに救急車を呼んだ。病院。救急室の前で待っていた星に、医師が出てきて言った。「患者は軽い脳震とうだけで、命に別状はありません。少し休めば目を覚ますでしょう」その言葉を聞いて、星はほっと息をついた。赤信号を無視したのは相手のほうとはいえ、彼に何かあったらと思うと、胸の奥が冷たくなっていた。医師といくつか言葉を交わしたあと、彼女は病室のドアを開けた。男はベッドに横たわり、まだ意識は戻っていない。事故のときは動揺していて、顔を見る余裕もなかった。だが、こうして間近で見ると、星は一瞬、息をのんだ。彼の顔を見覚えていたのだ。少し血の滲んだ頬も、その端正な顔立ちを損なうことはなかった。それは、つい先日、葛西先生の誕生日会で見かけたあの男だった。星は椅子に腰を下ろし、静かに男の目覚めを待った。およそ三十分ほど経ったころ、長い睫毛がわずかに震え、男がゆっくりと瞼を開けた。星は立ち上がり、声をかけた。「目が覚めましたね。具合はどうですか?」黒曜石のような瞳がかすかに動き、焦点の定まらぬまま、彼女の顔を見つめた。「......あなたは?」掠れた声。まだ状況を把握できていないようだ。星は
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第532話

男はその言葉を聞くと、わずかに眉間を寄せた。「......思い出せないんです」星はあきれたように息をついた。「思い出せませんか?まさか、記憶喪失ってことですか?」医師はすでに検査を終えており、結果は軽い脳震とうといくつかの擦り傷だけ。とても記憶障害を起こすほどの重傷には見えなかった。「記憶喪失......?」男は戸惑ったように呟いた。「でも、本当に何も覚えていないんです」星は息を呑み、男の顔を凝視した。男の表情には、確かに混乱と不安の色が浮かんでいた。「あなた......俺の名前、知っていますか?」――名前すら覚えていないのか。その事実の重さに、星の胸がひやりとする。彼女は慌ててナースコールを押し、医師を呼び戻した。医師は再度の検査を終えると、慎重に言葉を選んで告げた。「脳震とうが起きた場合、記憶の一部が抜け落ちることがあります。しかも、意識を取り戻した直後の段階では、検査で判別がつかないこともあるんです。人間の脳は不思議で、同時にとても脆いです。失われた記憶を確実に取り戻す方法は、今のところありません」星は頭が痛くなった。彼と話した限りでは、本当に自分に関する記憶がすっぽり抜け落ちているようだった。身につけていたものは着ている服だけ。財布も、携帯電話も、身分証も何もない。まるで急いで外に出てきて、そのまま事故に遭ったようだった。一人ではとても対応しきれず、彼女は彩香と影斗に電話をかけ、病院まで来てもらうことにした。やがて駆けつけた彩香は、病室に入るなり目を丸くした。「わっ......イケメン!しかもかなりの!」男は軽く笑って、「褒めてくれてありがとう」と言った。彩香は内心で「見た目だけじゃなく、礼儀までちゃんとしてるなんて」と思った。星は影斗のほうを向いた。「榊さん、この人......たぶんZ国の人じゃないと思うの。警察にも伝えたけど、身元の照合が取れなくて。調べてもらえるかしら?」影斗の深い瞳が、ベッドの上の男に注がれる。男はその視線を受け止め、無邪気な笑みを浮かべて軽く会釈した。「こんにちは」「自分の名前、覚えているか?」と影斗。男は首を横に振った。「いいえ、思い出せません」「じゃあ、何か覚えて
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第533話

電話を切ったあと、影斗が静かに口を開いた。「調査には少し時間がかかる。その間、星ちゃんはどうするつもりだ?」星はベッドの男に一瞥をくれ、淡々と答えた。「とりあえず、看護師さんを雇って――」言い終える前に、男がきっぱり遮った。「それは困ります」星は眉を寄せた。「......何か不都合でもあるんですか?」男は真剣な面持ちで言った。「俺を置いていかないでください。今の俺は記憶を失って、知っている人が誰もいません。もしあなたがそのままいなくなったら、俺はどうすればいいんです?責任は取ってもらいます」「......は?」星は思わず目を瞬いた。「でも、信号を無視して飛び出したのはあなたのほうで、警察の記録にも残ってますよ」男は動じない。「それでも、俺をはねたのはあなたです」星は短く息を吐き、諦め半分に尋ねた。「じゃあ、どうしろって言うんです?」男はまっすぐに言い放った。「記憶が戻るか、家族が見つかるまで、あなたが面倒を見てください」「......」星はしばし考え、現実的な提案をした。「じゃあ、お金を少し貸します。しばらく暮らせるくらいの額を渡せば――」だが男はまたも彼女の言葉を遮る。「もしその金を使い果たしても記憶が戻らず、家族も現れなかったらどうするんです?身分証もない、仕事もできない、Z国の人間じゃないって警察も言ってたんですよね。こんな状態で放り出されたら、凍死するか野宿するしかないじゃないですか。だから、あなたが責任を取るのが筋です。養うのが大変なら、記憶が戻ったときにちゃんと返します。どうです?」星は額に手を当てた。彼の言い分にも、一理あるのがまた腹立たしい。身元不明、身寄りもなし。たしかに放っておけば、生活手段はない。彩香が隣でぽかんと口を開けたまま二人を見ていた。――会話の内容は筋が通っているのに、何かおかしい。どこかズレているのだ。視線を横にずらすと、影斗もまた眉をわずかにひそめていた。重たい沈黙が落ちたのを、破ったのは影斗だった。「......とりあえず、俺のところに来い。記憶が戻るまで、面倒は見よう」男は彼をじっと見て、一言。「嫌です」「理由を聞こう」「あなた、見た目が
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第534話

「今夜は、とりあえずうちに泊まるといい。部屋はいくつも空いている」影斗がそう提案すると、星と彩香は視線を交わした。見知らぬ男をホテルに一人で泊めても、素直に受け入れるかはわからない。かといって、星の自宅に連れて帰るのも抵抗がある。影斗の提案は、そのどちらの問題も一度に解決してくれる最善の策だった。星は静かにうなずいた。「......では、お言葉に甘えます。ご迷惑をおかけします」その夜、彩香も付き添い、三人は榊家の旧宅へと向かった。男を客間に寝かせたあと、星はリビングへ戻る。ちょうど電話を切った影斗が、ソファに腰を下ろしていた。「榊さん、調査の結果は?」影斗の眉間に、わずかな陰が落ちる。「うちの助手の話では――溝口仁志という男は、葛西家の誕生日会には正式な招待客として登録されていなかった。出席者の誰もが、彼を知らないと言っている」「......葛西先生にも確認した?」「ああ。だが葛西先生も首を振っていた。招いた覚えもないそうだ。つまり――彼の正体はいまのところ、まったくの謎だ」星は思わず眉をひそめる。影斗は続けた。「国外にも調査の手を回しているが、手がかりがなさすぎて、結果が出るまでには少し時間がかかりそうだ」「私がもう少し早く気づいていれば......」星は苦笑しながら小さくつぶやいた。影斗はコップに水を注ぎ、彼女の前に置いた。「医者の話では、記憶は治療で戻せるのか?」星は首を振る。「医師によれば、本人をなじみのある場所に連れていくのが一番効果的だそう。でも......彼がどこの土地をなじみと感じるのか、私たちには分からないわ」影斗は少し考え、提案した。「葛西先生に相談してみるのはどうだ?あの人ほどの名医なら、何か方法があるかもしれない」その言葉に、星の瞳がぱっと明るくなった。「そうね......明日、彼を連れて葛西先生のところへ行ってみるわ」そう言いながら、ふと何かを思い出したように表情を曇らせた。「......榊さん、もしかして、最初から葛西先生の本当の身分をご存じだったの?」影斗は目を細め、口元にかすかな笑みを浮かべた。「星ちゃん、怒ってないのか?俺が黙っていたことを」星は首を振り、穏やかに笑った。
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