All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 511 - Chapter 520

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第511話

星は、葛西先生の顔に泥を塗るような真似はしなかった。堂々とした態度で、礼を失することもなく、その立ち居振る舞いは見事だった。会場の人々は口々に彼女を称え、「葛西先生は人を見る目がある」と感心していた。葛西先生は、まるで子どものように嬉しそうにそれを受け取り、照れもせずに笑顔で相づちを打った。――褒め言葉はすべて、素直に受け入れる。その様子を見て、「この人は褒められるのが好きなタイプだ」と、周囲の誰もが察した。とりわけ「弟子をよく選んだ」「星野星は非凡だ」といった言葉が飛ぶたびに、葛西先生の表情はますます柔らいでいく。気がつけば、会場は星を持ち上げる空気に包まれていた。――それは、星にとっては初めての体験だった。雲井家にいた頃も、神谷家に嫁いでからも、彼女はほとんどこうした場に呼ばれたことがない。神谷家では「品位に欠ける」「恥をかかせる」として、常に留守番を命じられた。雲井家では「若く、まだ礼儀を覚えていない」という理由で、外に出されることはなかった。ましてや、その頃はまだ彼女の身分が公になっておらず、連れて歩くのも気まずかったのだ。そんな彼女が今――堂々と注目を浴び、称賛を受けている。胸の奥で、何か温かいものが膨らんでいった。そのとき、一人の男が言った。「葛西先生、あなたの弟子は本当に才色兼備ですな。あの社交界の華、雲井明日香にも引けを取りませんよ」その言葉に、葛西先生は腹の底から笑った。「はっはっは!当然だ。うちの弟子が一番に決まっておる!」謙遜という言葉を知らぬかのように、誇らしげに胸を張る。周囲も笑顔で頷きながら、同時に心の中では、「雲井明日香と張り合うなど無理だろう」と、冷静に判断していた。雲井明日香は、名門・雲井家が徹底的に仕込んだ令嬢。星がいかに幸運を掴もうと、その世界で肩を並べるのは、まだ遠い。だが、誰も口に出しては言わなかった。せっかく葛西先生が上機嫌なのに、水を差す者はいない。星を連れて次々と名士たちに挨拶を済ませたあと、葛西先生はふと視線を前方へ向けた。そこには――神谷家と山田家の一行がいた。葛西先生の口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。「星。あちらの方々にも、挨拶しておこうか」星は葛西先生を見上げて頷いた。「は
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第512話

勇の父の額には、じっとりと冷や汗が滲んでいた。息子の勇が、いつも外で問題ばかり起こしていることは分かっていた。もし、雅臣と航平という二人のできすぎた兄弟分がいなければ、勇など、とっくに破滅していたに違いない。彼には経営の才もなければ、判断力もない。本来なら父も、山田グループを息子に継がせるつもりなど毛頭なかった。だが――雅臣と航平、この二人が常に山田家を支えてくれていたのだ。二人が山田グループにいくつかの取引を回してくれさえすれば、会社は潰れないどころか、順調に成長していった。さらに有能な部門責任者たちが揃っており、勇はただ座っていれば利益が入るという楽な立場にいた。何か問題が起きても、雅臣が必ず後始末をしてくれた。――つまり、山田家は彼らに頼って生きてきたのだ。そんな息子が、よりにもよって葛西先生に手を出していたとは。父は、まるで血の気が引くような思いだった。「なんてことを......!よりによって、この場で!」もし今が公の場でなければ、その場で頬を張り飛ばしていたに違いない。「か、葛西先生......本当に申し訳ありません。息子は......その、あなたのことを知らずについ――」言い訳にもならない言葉を並べる父に、葛西先生は眉をピクリと上げた。「なるほど、つまり――あなた方山田家は、弱い者には強く、強い者には媚びるという家風か」低く響いたその言葉に、父は蒼白になり、口を閉ざした。膝が震え、立っているのがやっとだった。――葛西先生を敵に回すということは、葛西家を敵に回すということ。その一言で、山田グループなど瞬く間に崩壊する。その時まで黙っていた雅臣が、静かに口を開いた。「勇。......葛西先生に謝れ」彼の冷めた声が、まるで氷水を浴びせるように勇の頭を冷やした。勇は、生意気ではあるが愚かではない。自分が勝てる相手と、勝てない相手の区別くらいはつく。――だが、今回は判断を誤った。老人だと侮っていた男が、この街で最も影響力のある人物の一人だったのだ。勇の視線は宙をさまよい、葛西先生の顔をまともに見ることができない。「か、葛西先生......申し訳ありません。あの時のことは、すべて俺の過ちです。どうか、お許しください.....
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第513話

――これで、山田グループはもう立ち直れない。その現実を悟った勇は、唇を噛みしめたまま、ただ立ち尽くしていた。葛西先生の視線がゆっくりと横へ動く。やがて、綾子のほうを向いた。「あなたが......星の元義母か」綾子は、その声を聞いた瞬間に悟った。――この老人は、和解しに来たのではない。今日は清算に来たのだ。顔がこわばり、笑みを作るのもやっとだった。「ええ、そうですわ」無理に笑みを浮かべながら、そっと翔太の肩を押し出した。「こちらが......星野星の息子、翔太です」翔太は小さく会釈した。「葛西おじいさん、こんにちは」葛西先生は淡く頷いたが、その視線はすぐに彼を離れ、綾子へ戻った。「思えば、わしと星が出会ったのも――あなたのおかげだな」「......え?」「あなたが長年、偏頭痛に苦しんでいたろう。あれを治してやりたいと、星は半年ものあいだ、わしの薬を求めて奔走していた。ようやく特効の薬が見つかって、あなたに届けていたんだ」「......!」綾子の目が大きく見開かれる。まさか――あの薬が、この葛西先生の手によるものだったとは。二年間、飲み続けたその薬のおかげで、数十年来の頭痛が嘘のように軽くなった。医師からも「もう再発はしないだろう」と言われていた。震える声で、綾子は言葉を返した。「......ええ。とても、よく効きました」葛西先生は次に、翔太を見た。「君が、神谷翔太くんだね。君のお母さんは、君のために特別な薬草を探している時に、指を切ってね。いまも、その傷跡が残っている」会場の視線が一斉に星の手に集まる。白い手の甲――そこに、確かに一本の細い傷跡があった。誰も気にも留めなかった小さな跡が、いま、痛々しく見えた。雅臣の胸が、かすかにざわめいた。ふと、思い出す。かつてレストランで翔太がアレルギーを起こしたとき、星が取り出したあのスプレー。――あれが、彼女の努力の結晶だったのか。雅臣は、静かに星を見つめた。しかし彼女の表情は、驚くほど淡々としていた。まるでそこに立っているのは、誰とも関わりのない他人であるかのように。その無表情が、雅臣の胸をひどく締めつけた。離婚を受け入れたのは、間違いだったのかもしれな
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第514話

雅臣は、何も言えなかった。――正直、覚えていない。星がいつ、自分にそんな話をしたのか。いや、彼女が何を言おうと、まともに耳を傾けたことなど、あっただろうか。その瞬間、まるで時間が止まったようだった。空気が張り詰め、場の誰もが息を潜める。勇の父は、怒りを押し殺したような顔で勇を睨みつけていた。「家に戻ったら......必ず叩きのめしてやる」心の中で、そう毒づきながら。綾子も、青ざめた顔の裏で激しく後悔していた。――もし、あの薬が葛西先生の手によるものだと知っていたなら。――もし、そのとき一度でも訪ねていれば。今ごろ、星の隣に立っているのは自分だったかもしれない。そんな思いが胸の奥を焼きつく。視線の先で、星は凛として立っていた。綾子の中で、嫉妬が静かに煮えたぎる。「あの女......!きっと最初から葛西先生の正体を知っていたに違いない。わざと私を遠ざけて、自分だけ近づいたのね」葛西先生が星をどれほど大切にしているか、会場の誰の目にも明らかだった。――今日を境に、星の名は上流社会に広く知られるだろう。もしまだ雅臣と離婚していなければ、神谷家もどれほどの恩恵を受けたことか。「まさか......あの出来の悪い女に、こんな底力があったなんて」綾子の心に、苦い後悔が滲んだ。だが、プライドの高い彼女はそれを認めることができない。黙って翔太の肩を小突いた。「翔太。あなた、ずっと『お母さんに会いたい』って言ってたでしょう?今がそのチャンスよ。行って、お母さんに声をかけてらっしゃい。母と子の間の、わだかまりなんて長く続かないものよ」――自分では頭を下げられない。けれど、孫を通せば格好はつく。彼女にとって翔太は、面子を保つための橋渡しだった。だが翔太が動き出す前に、別の声が会場に響いた。「星野おばさん!葛西おじいちゃん!」幼い声――次の瞬間、小さな影が駆けてきた。怜だった。その姿を見るなり、葛西先生の顔がほころぶ。「おお、怜か!よく来たな」怜は顔を上げ、キラキラした瞳で問う。「今日のぼくのヴァイオリン、どうだった?上手だった?」「もちろんさ」葛西先生は優しく頭を撫でた。「前よりずっと上手になった。幼稚園の
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第515話

「――まったく。病気でもないのに病人のふりをする者なんて、今どき滅多にいない」葛西先生の言葉が落ちると同時に、清子の顔色は見る間に真っ白になった。何か言い訳を探そうと口を開きかけたが、葛西先生はすでに星の腕に支えられ、微笑みながら会場を後にしていた。残された人々の間に、重い沈黙が広がる。勇は、訳が分からぬまま清子を見やる。綾子の顔には動揺の色ひとつなく、むしろ「やはり」といった冷静な表情をしていた。そして――雅臣。彼の瞳は、さらに深い闇を湛えていた。その後、葛西先生は星を伴い、会場を一巡しただけで休憩室に戻った。もともと社交の場を好まない性格で、高齢の身を押してここまで出てきたこと自体が、星への最大の支援だった。部屋に戻ると、星は丁寧にお茶を淹れ、深々と頭を下げた。「葛西先生、本当にありがとうございました」葛西先生は湯呑を受け取り、いつもの穏やかな調子で言った。「礼などいらん。ただ――弱い者を叩いて悦に入るような連中を、見ていると腹が立つからしたまでだ」ひと口、お茶をすすった。温かな湯気の向こうで、葛西先生の目がやわらかく細められる。「星、わしはもう年だ。できることも限られている。だから、助けになれるのはここまでだ」星の胸に、じんわりと熱いものがこみ上げる。「......葛西先生、感謝してもしきれません」もし葛西先生が身分を隠したままでいたなら、いくらでも水面下で動けたはずだ。それでもあえて身を明かし、彼女のために世間の前へ立った。その意味を、星は痛いほど理解していた。葛西先生は一見、気難しく見える。だがその心は、誰よりも温かい。――そうでなければ、綾子に薬を作り、翔太のために特製スプレーを作り続けたりはしない。「子や孫には、それぞれの運命がある。本来なら、年寄りが口を出すことではない。だがな、君はあまりにも味方が少なすぎる。後ろ盾もなく、あちこちで苦労してきた。今の時代は、努力と才能だけで、這い上がれるような甘い世の中じゃない」葛西先生の声は静かだったが、その一言一言が胸に沁みた。「今の時代、家という土台なしで、何かを成し遂げられる者は――ほんのひと握りだ。君は十分に優秀だ。だが少しだけ、運と支えが足りない。だから
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第516話

その話の途中で、晴子はふと何かを思い出したように口を尖らせた。「そういえばね、さっき雲井明日香も来てたのよ。あの人、権力者たちに取り入って、得意げに話してたわ。――所詮、私生児のくせにね。あんなに派手に振る舞って、いざ素性が知れたらどうするつもりかしら?」瑛はすぐに眉をひそめた。「晴子、あまりそういうことは言わないほうがいいわ」晴子は肩をすくめ、鼻で笑った。「事実を言っただけよ」三人は互いに視線を交わす。澄玲と瑛は苦笑を浮かべたが、心の底では――晴子の言葉に少しだけ同意していた。星がどれほど苦労してきたかを知っているからこそ、彼女たちは雲井家に対して、無意識のうちに敵意を抱いていた。ひとりで外に追い出され、嫁ぎ先では冷遇され、最終的には離婚――それでも雲井家は、星を支えるどころか、別の私生児を家の顔として持ち上げている。それはまるで、星の存在を踏みにじるような仕打ちに見えた。そんな中、遠くから二つの人影が近づいてくる。恵美と明日香。恵美は目を丸くした。「えっ、星って志村澄玲と知り合いなの?」彼女は瑛や晴子の顔を知らなかったが、澄玲は社交界でも名の知れたお嬢様。その名を聞けば、誰だって驚く。明日香の瞳が一瞬、わずかに揺れた。彼女の脳裏には、靖の言葉がよみがえる。――「明日香、おまえは知っているか?星はA大で学んでいたそうだ。この前、志村家のお嬢さんと食事をしたが、彼女が星とは旧友だと言っていたよ」雲井家と志村家の縁談――それは、もはや正式な話として動いている。それに加えて星は葛西先生の弟子であり、川澄家の後継・奏とは幼いころからの仲。澄玲のような名家の親友がいて、影斗とも関係が深い。そして元夫は、雅臣。明日香は悟った。――この女は、もはや取るに足らない存在ではない。彼女の心の奥で、ひやりとした焦りが広がっていく。その時、ポケットの中でスマホが震えた。画面に浮かぶ名前を見て、明日香の目が驚きに見開かれる。――葛西誠一。そういえば、彼は今日は姿を見せていない。以前なら、彼女がどこかに現れれば、必ず真っ先に駆けつけてくれたのに――胸騒ぎを覚えながら通話ボタンを押す。「誠一......?」返ってきたのは、荒く掠
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第517話

星の声は淡々としていた。まるで、目の前の男が、もはや自分と何の関係もない他人であるかのように――感情の起伏ひとつ見せなかった。その無機質な態度に、雅臣の喉がひとりでに鳴った。言葉が詰まる。「翔太は......ずっとおまえに会いたがってる。少しでもいい、顔を見に行かないか?」星は短く息を吐き、「私は今、手が離せないの」とだけ答えた。――それはつまり、「行くつもりはない」という意思表示だった。雅臣の低い声が、さらに沈む。「どんなに忙しくても......ほんの数分、自分の子どもの顔を見る時間くらいはあるだろう?」星はわずかに唇の端を引き上げた。「でも、彼が本当に会いたいのは私じゃないでしょう?小林さん――あの人も一緒に来てるはず。翔太のそばには、彼女がいれば十分よ」その言葉に、雅臣の眉間がぴくりと動いた。「おまえは翔太の実の母親だ。どんなに清子と仲が良くても、彼女が母親になることは、永遠にない」星は何も言わなかった。その沈黙が、逆に拒絶よりも冷たかった。雅臣がさらに言葉を探そうとしたとき――別の男の声が静かに割り込んだ。「星ちゃん、誠一が目を覚ました」影斗だった。その一言に、星の眉がかすかに動く。そう――あの演奏の前。誠一に拉致されたあの時のことを、彼女は思い出していた。星は抵抗しなかった。むしろ、演奏前に片をつける好機だと思ったのだ。ポケットには常に、防犯用のスプレーが入っている。恐れる理由など、どこにもなかった。彼女はわざと力なくもがくふりをして、男に倉庫へと連れ込まれた。誠一が鍵をかけようとした瞬間――星は手近なレンガをつかみ、ためらいなくその頭を打ち据えた。誠一は崩れ落ち、その場で気を失った。どう処理すべきか思案していたところへ、影斗が駆けつけた。演奏の時間が迫っていたため、彼に後のことを任せるしかなかったのだ。「......今、彼はどうなってるの?」星の声は低く落ち着いていた。「殺すわけにもいかない。葛西家の孫だからな。俺が倉庫に鍵をかけておいた」影斗は一拍置いて、「万一、あとで追及されたら、俺のせいにすればいい。俺と誠一に因縁があった――それで通る。葛西先生なら、俺を庇うはずだ」
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第518話

「――あなた、誰?」星がふいにそう言った瞬間、輝の表情が一瞬だけ固まった。まさか、自分のことを知らないのか――そう思いかけたその刹那、星は静かな声で続けた。「どうして、あなたの言うことを聞かなくちゃいけないの?」その一言で、彼女が知らないふりをしているのだと気づく。挑発だ。輝の口元がわずかに吊り上がる。冷えた笑みが、その端正な顔に陰を落とした。「星野。祖父や凛に気に入られたからって、俺が手を出せないと思うなよ」――なるほど、誠一が嫌うのも無理はない。この女は、本当に人を苛立たせる。星は薄く笑みを浮かべた。「本当に手を出せるなら、わざわざそんなこと言わないでしょう?どうして葛西先生や凛の前で私の正体を暴かないの?――できないんじゃなくて、やらないだけでしょ?」言葉は柔らかい。だがその裏に、鋭い棘が隠れていた。彼女は昔から、こういう男が一番嫌いだった。とくに、輝のように恩を仇で返すタイプの男。雅臣のような男は、たしかにろくでなしだ。だが彼は、少なくとも自分がろくでなしであることを隠さなかった。輝は違う。――まるで、岸に上がった瞬間、最初に刃を向けるのが、かつて愛した人であるかのような男。星の中で、そんな冷ややかな評価が浮かんだ。輝の眉がぴくりと動く。もともと口数が多いほうではない彼は、反論を探す間もなく言葉を失った。その眼差しだけが鋭く、氷のように冷たい光を放つ。二人は無言のまま、長い廊下を抜け、休憩室の前まで歩いた。輝がノックをして扉を開けると、部屋の中にはすでに数人が集まっていた。誠一は、頭に白い包帯を巻き、ソファに座っている。顔色はまだ悪いが、目の奥には怒りの火が消えていなかった。そのそばで明日香が心配そうに身をかがめている。「誠一、本当に病院に行かなくていいの?」誠一は淡々とした声で答えた。「大げさだ。たいしたことはない」近くの椅子には靖と正道も座っていた。ふたりとも表情を引き締め、沈黙している。そして――星の目が止まった。葛西先生の隣に座る、一人の中年の男。その顔立ちに、見覚えがあるような既視感が走った。「奏先輩に、似てる?」目の前の男は、どこか奏と雰囲気が重なる。穏やかで、しかし内に確
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第519話

星は、隠すことも、嘘をつくことも選ばなかった。どうせ、監視カメラがあるから、真実は一目で明らかになる。葛西先生が誠一に視線を向ける。「誠一、どういうことだ?なぜ星を連れ去ろうとした?」誠一はこめかみを押さえ、鈍い痛みに顔をしかめた。「......彼女とは、以前から確執があって。俺は、彼女がわざとじいちゃんに近づいて、俺や葛西家への復讐を企んでいるのではないかと――そう思っただけなんだ」「......以前からの確執?」葛西先生の眉が動いた。彼の記憶には、ふたりの接点など一つもない。誠一は黙り込み、視線をそっと正道のほうへ向けた。――この娘の素性がまだ正式に認められていないのなら、余計なことは言わないほうが得策だ。沈黙の意味を悟った星は、心の奥で冷ややかに笑った。そして、彼が言い訳を口にするより早く、静かに言葉を重ねる。「彼は以前、私を部屋に呼び出し、意図的に私の評判を汚そうとしました」その一言に、室内の空気が凍りつく。正道は思わず星のほうを見た。その瞳には――驚きと困惑、そして一瞬のためらい。まさか、こんな場所で言うとは。確かに、星の言葉には誇張がある。だが彼女が受けてきた数々の仕打ちを思えば、正道は否定する気になれなかった。彼は重い沈黙のまま、口を閉ざす。娘が女として生きづらい世の中だ。せめて男が背負うくらい、当然のことだろう。靖も明日香も、顔色ひとつ変えず、黙って様子を見守っている。葛西先生の目が鋭く光った。「――なんだと?」机を叩く乾いた音が響く。「誠一、おまえ、そんな恥知らずな真似をしたというのか!」怒声に室内の空気が震えた。輝がすかさず口を挟む。「じいちゃん、どうか落ち着いて。今はまだ、一方の話しか――」「一方の話だけ?――ほう」葛西先生の声が低く笑う。「もし誠一が潔白なら、とっくに反論しているはずだ」その言葉に、輝がわずかに眉を寄せ、誠一を横目で見る。だが、当の誠一は沈黙したまま、表情を変えなかった。「......こいつ、少しは弁明ぐらいしろよ」視線でそう叱りつけるように見やると、誠一は肩をすくめ、皮肉な笑みを浮かべた。「――じいちゃん。俺と彼女の間には、何もなかった。信じられない
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第520話

正道が妻を深く愛している――それは、社交界では誰もが知る事実だった。もしそうでなければ、この十数年、彼の傍らにひとりの女性の影すらなかったはずがない。だが、どんなに美談として語られていようと、上流社会とは所詮、嘘と体面で成り立つ世界。葛西先生は、そうした美しい物語を信じるほど愚直な人間ではなかった。愛妻家の仮面を被っていても、その裏で子をもうけていたとしても、驚くには値しない。「......」正道は口を開きかけ、何かを言おうとしたが、結局、黙り込んだ。その沈黙は、まるで暗黙の肯定のようでもあった。そのとき、星が口を開く。「葛西先生、私は雲井家の娘ではありません。私の姓は星野であって、雲井ではありません」「影子、勝手なことを言うな」靖の声が低く響いた。星は静かに彼を見返した。「勝手なことなんて言ってない。――事実を言っているだけよ。......それとも。あなたは自分が私生児だと思っているの?」靖の表情が一瞬で凍りついた。そうだ――もし星が私生児なのだとしたら、自分はどうなる?彼は確かに、母親を恨んでいた。幼い自分を置いて家を去り、二度と振り返らなかった母を。だが、母はすでにこの世にいない。そして、母は正式な妻として雲井家の墓に名を連ねている。――この事実を、誰も変えることはできない。靖の胸に、得体の知れない冷たい感情が広がった。その変化を見逃さなかった正道は、わずかに眉を動かし、やがて深くため息をついた。「......葛西先生」正道の声は低く、苦渋を含んでいた。「彼女は......私の実の娘です」葛西先生は数人の顔を順に見やり、静かに眉を上げる。「雲井夫人は、末娘の明日香を産んだあと、すぐに亡くなったと聞いていたが?」正道の視線が、そっと明日香へ向かう。彼女は、何事も起きていないかのように、静かに立っていた。驚きも、狼狽もない。その整った表情の奥に、微かに冷たい理性の光が宿っている。――そう、それが彼女だ。明日香は、雲井家が誇る完璧な娘。正道はその姿を見て、改めて心に決めた。この娘だけは、どんなことがあっても守らねばならない。彼は深く息を吐き、苦笑を浮かべる。「......実は、妻は死んだわけではありま
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