All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 721 - Chapter 730

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第721話

影斗は、星が気まずさを感じるような話題にはもう触れなかった。代わりに、星のコンクールや音楽会の話など、穏やかなことばかりを話した。やがて昼になり、四人は近くのビュッフェレストランへ入った。影斗は終始、気が利くように動き回っていた。グラスや箸を取ってやり、水やジュースを注ぎ、まるでウェイターのように世話を焼く。その姿に、翔太は目を丸くした。星と怜が料理を取りに行っている間、影斗は笑いながら言った。「翔太くん、どうしてそんな目で見てるの?」翔太は慌てて視線をそらす。「べ、べつに......なんでもないよ」影斗はその小さな心の内を、すぐに見抜いた。「もしかして――君のパパとママとごはんを食べるとき、いつも動き回ってるのはママのほうかな?」翔太は少し考えてから、正直に頷いた。「うん、そう」「じゃあ、君のママは、一人でやるか、誰かに手伝ってもらう、どっちが嬉しいと思う?」翔太は真剣に考え、小さな声で答えた。「たぶん......手伝ってもらうほう」そんな単純なことを、五歳の子どもでもわかっている。影斗は静かに笑った。「翔太くん、気づいたかな。君のママは、パパと離婚してから、どんどん輝いてきたんだ」翔太はこくりと頷いた。「じゃあ、もし昔のママと今のママ、どちらかを選ぶとしたら――君はどっちを選ぶ?」翔太の小さな顔が、たちまち曇った。昔のママは、なんでもしてくれる優しい人だった。でも、今のママは違う。少し遠く感じるけれど、その分、どこか眩しくて、いつも新しい発見がある。彼は長いこと悩み込んでから、「......どっちも選んじゃダメ?」と小さく言った。影斗は首を振る。「ダメだよ。ひとつだけ。欲張りはなし」翔太は真剣に考え直し、ようやく答えを出した。「......今のママ」影斗は、やはりというように微笑む。人は皆、強いものに惹かれる。子どもはなおさら、純粋でまっすぐだ。翔太は少し恥ずかしそうに言った。「今のママって、なんでもできるんだ。外国の言葉も話せるし、ヴァイオリンも弾けるし、絵も描ける。前みたいにずっと僕のことばかり見てくれなくても、なんか今のママのほうが、楽しそう。だから、今のママがいい。僕、もう大きくなったから
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第722話

雅臣の瞳に、怒りの色が鋭く走った。彼は大股で星の方へと向かっていった。その瞬間、星の足が滑りかけた。危うく倒れそうになったところを、影斗が素早く腕を伸ばして支える。「ありがとう」星がそう言って体を起こそうとしたその時――突然、強い力が二人を引き離した。星は不意を突かれ、二歩ほど後ずさり、足元の滑らかな石を踏んで再びよろける。「星ちゃん!」影斗が反射的に手を伸ばした。だが、その手より早く、別の大きな手が星の手首を乱暴に掴み、ぐいと自分のほうへ引き寄せた。「星、影斗――お前たち、何をしている!」影斗は咄嗟に、星のもう一方の手をつかんで制した。「雅臣、星ちゃんを離せ」雅臣の声は、氷の刃のように冷たかった。唇を固く結び、一語一語を押し出すように言う。「離すべきなのは――お前のほうだ」星が顔を上げ、来た人物を見て一瞬言葉を失う。「神谷さん、何してるの?放して!」必死に振りほどこうとするが、彼の手はまるで鉄の枷のように硬く、びくともしない。逆に力が強まり、手首に痛みが走った。影斗の穏やかな表情にも、冷えた色が差す。「雅臣、星ちゃんはもうお前の妻じゃない。彼女が誰といようと、お前が口を出す権利はない」雅臣は低く笑った。「権利?俺にないなら――お前にはあるのか?」そう言い捨てると、影斗を無視して、星の手を引き、歩き出そうとする。だが影斗がもう一方の手をつかみ、行く手を遮った。「放せ。星ちゃんはお前と行きたくない」雅臣の手にさらに力がこもる。「行きたくない?――じゃあ、俺じゃなくて、こいつと行くのか?」二人の力が拮抗し、星の手首に鋭い痛みが走る。額に冷や汗がにじんだ。「やめて......痛い......放して!」その声に、影斗がはっと我に返る。蒼白な星の顔を見て、すぐに手を離した。しかし、雅臣はまだ離さなかった。むしろ、その手をさらに強く握りしめる。「雅臣!」影斗の声が低く響く。「彼女が痛がってる。――そのままじゃ、手首折れるぞ」雅臣はようやく星の顔を見た。その顔は、血の気を失って白くなっていた。一瞬だけ、彼の指先が緩む。だが、それでも完全には放さない。まるで、この手を離した瞬間に彼女が
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第723話

雅臣はかすれた声で言った。「そんなつもりじゃない。誤解だ、俺はただ......」何か言い訳を探そうとしたが、途中で言葉を飲み込んだ。そして小さく息を吐き、「悪かった。俺のせいだ」とだけ告げた。星は、あからさまな嫌悪の色を宿した瞳で彼を見据える。「雅臣。いつになったら、私の前に現れて邪魔するのをやめてくれるの?離婚してもなお付きまとうなんて、もしかして――この世からいなくならなきゃ、あなたから逃れられないの?」その言葉に、雅臣の目に信じられないような痛みが走る。「......星。俺は、そこまでお前に嫌われているのか?」星は唇の端をわずかに上げ、乾いた笑みを浮かべた。「ようやく気づいたの?ここ一年、あなたと清子を見てるだけで、吐き気がするの。不快で、見ているだけで息が詰まる。――そういう存在よ」その冷たい視線が、まるで刃のように雅臣の胸を突き刺した。彼の瞳に怒りの炎がちらつく。「じゃあ、誰がいい?影斗か?あいつのために、お前は俺と翔太を捨てて離婚したのか?」星はもう、その話を蒸し返す気にもなれなかった。この男は、自分が何を間違えたのか、いまだに分かっていない。「誰のせいでもないわ。――少なくとも、あなたのせいじゃない」雅臣の瞳に、血のような赤が滲む。「......じゃあ、やっぱり認めるんだな?」星はその顔を見つめ、ふっと笑った。「雅臣、あなた......まるで浮気された旦那みたいな顔ね。そんなに悔しいの?でも、私はあなたと離婚したあと榊さんに出会ったの。あなたはどうだった?また婚約中の時から、清子と抱き合っていたじゃない」雅臣は反射的に言い返す。「誤解だ。俺は彼女とそんな関係じゃない。前にも言ったはずだ。彼女のことはただ......」「ただ?」星は冷ややかに言葉を遮った。「病人だからって抱きしめて、守るような真似をして、それをただって言うの?あなたの理屈なら、私が榊さんに抱きとめられても、何の問題もないわね」雅臣は何かを言いかけ、口を閉じた。そして――ふと、思い出した。あの遊園地で、清子を腕に抱き上げた自分を。そのとき、彼は当然のように感じていた。それどころか、星が不満を漏らしたとき、
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第724話

星が去っても、雅臣はしばらく呆然と立ち尽くしていた。――以前の彼なら、こう自分に言い聞かせただろう。「星は一時の怒りで言っているだけだ。清子の音楽会が終われば、少し機嫌を取ってやれば戻ってくる」二人の間には子どもがいる。星がどれほど翔太を大切に思っているか、雅臣は誰よりも知っていた。母親である彼女が、本当に翔太を捨てられるはずがない――そう信じていた。確かに、彼は清子の件で星に多くの負い目があった。だが、星は妻であり、自分とひとつの人生を共有する存在だ。多少の犠牲や我慢は、当然のこと。清子はあくまで外の人間であり、恩を返すべき相手。だから星には、少しくらい不公平でも耐えてもらうしかない。清子への借りを返したあとで、改めて星に償えばいい――雅臣は、そう自信を持って思っていた。たった半年。それくらい我慢すれば、また元に戻るはずだと。だが、我慢はやがて慣れに変わり、星の譲歩も、彼の中ではいつの間にか当然のことになっていた。ようやく現実に気づき、星を探しに行ったとき――彼が見たのは、影斗が星の手首を気遣っている光景だった。二人は彼の存在に気づかないまま、静かに話していた。影斗の声が、申し訳なさを帯びていた。「星ちゃん、ごめん。さっきは痛かったね......病院で診てもらったほうがいい。コンクールに影響が出たら大変だ。今の手は、少しの傷でも命取りになる」星の声は穏やかで、雅臣に向けるときの冷たさは微塵もなかった。「大丈夫。骨は折れてないわ」影斗は眉をひそめる。「でも、手首に痣が残ってる。これは軽くないよ」星は小さく笑った。「ただの打撲よ。それに......あなたのせいじゃないわ」影斗は静かに首を振る。「直接の原因じゃなくても、俺のせいで起きたことには変わらない。責任の一端はある」星はふっと笑みを浮かべる。「さっき、私、転びかけたでしょう?もしあなたが支えてくれなかったら、本当に地面に倒れてたかも。そうなったら、今よりずっとひどい怪我になってたわ」――その言葉を耳にした瞬間、雅臣の胸の奥で、何かが砕けるような音がした。......自分が、誤解していた?彼の視線が星の手首に落ちる。白い肌に、くっきりと指
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第725話

翔太がこの家を訪れるのは、これが初めてだった。彼は目を輝かせながら、部屋の隅々まで興味深そうに見回していた。星は翔太のために、一部屋を整えてやる。彼女のマンションはそれほど狭くはない。彩香と怜にあてた部屋、自分の寝室を除いても、まだ二つの空き部屋があった。部屋の準備を終えてリビングに戻ると、翔太はソファに腰掛けたまま、ぼんやりと何かを考え込んでいた。星はその様子を見て、そっと声をかける。「夕飯は何が食べたい?ママが作ってあげる」翔太ははっとして顔を上げた。「ママ、手が痛いんだから、無理しないで。出前にしようよ」そう言ってから、何か思い出したように続けた。「ママ、あの時僕があげた薬、覚えてる?あれね、傷跡が残らないだけじゃなくて、腫れや青あざにも効くんだよ」翔太は少しでも役に立とうと、張り切ったように言った。「僕が塗ってあげる」星は微笑んでうなずき、バッグから翔太がくれた薬を取り出した。翔太は、航平に教わった通りのやり方を思い出しながら、星の手首にそっと薬を塗った。やわらかなバニラの匂いが、部屋いっぱいに広がる。星は塗られた感触と香りで、すぐに分かった。――これは上質な生薬から作られた、本物の軟膏だ。「これ......パパにもらったの?」と、星が尋ねる。翔太は首を横に振った。「違うよ。自分で買ったんだ」星は一瞬だけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。そのころ、神谷グループの本社ビル。最上階の社長室では、航平が雅臣に報告をしていた。「輝が――全裸で街に放り出されたそうだ」雅臣の眉が深く寄る。「......何だと?あいつを殴っただけのはずだ。誰かが後をつけていたというのか?」航平は静かにうなずいた。「ああ。こっちの手は、あくまで軽いお仕置きだった。だが、別の勢力が同時に動いていたようだ」雅臣の表情は険しく沈む。「朝陽の性格なら、確実にこの件を俺たちの仕業だと考えるだろう」相手を叩き潰すことはあっても、侮辱は決して許されない。その一線を越えたとき、報復は理屈を超えてくる。航平は平然と茶を啜り、落ち着いた声で言った。「雅臣、今回の件は完璧だ。こちらが動いた痕跡は一切ない。それに、輝の敵は多い。
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第726話

翌日。雅臣は再び、星のマンション前に立っていた。昨夜、翔太から聞き出した情報によれば、今日は星が翔太を連れてスポーツクラブで射撃の練習をする予定――同行者は怜ではなく、星と翔太の二人だけ。再婚の糸口を探していた雅臣にとって、これほどの好機はなかった。彼は夜通しで仕事を片づけ、朝早くから玄関前で待機していた。翔太には一言も知らせていない。まだ幼い翔太がうっかり口を滑らせ、星の予定が変わってしまうのを恐れたのだ。やがて、マンションのドアが開き、二人の姿が現れた。雅臣はほっと息をつき、声をかけようと一歩踏み出した。だが、その瞬間――もう一つの長身の影が、二人の後ろから現れた。雅臣の足が止まる。星も翔太も、彼の存在にはまるで気づいていない。翔太が振り返って言った。「仁志おじさん、本当に射撃できるの?」仁志は微笑みながら応じる。「射撃もダーツも、似たようなものさ。この数日、少し触ってみたけど、問題ないと思うよ」翔太は嬉しそうに目を輝かせた。「じゃあ、僕と勝負しよう!」翔太にとって仁志の印象は、とても良いものだった。以前スポーツクラブで迷子になったときも、星のお守りを見つけてくれたのが仁志だったし、雨に濡れかけた自分に、ためらいなく自分の上着を掛けてくれた。彼は怜を苦手とし、その父である影斗にもあまり好感を持っていない。だが仁志に対しては、出会って日が浅いにもかかわらず、素直に懐いていた。仁志は笑って言う。「いいね、勝負しよう。ただし――手加減はしないよ」「僕も、手加減されるのは嫌だ!」翔太は胸を張って答えた。星はそんな二人のやり取りに目を細め、「仁志、今日はお世話になるわ」と言った。仁志は軽く袋を掲げて微笑む。「星野さんの朝ごはんをいただいたんです。食べた上におみやげまで持たせてもらったら、何かお手伝いしないと申し訳ないでしょう?」今朝、星は翔太のために久しぶりに台所に立った。せっかく泊まりに来ているのだから、出前ばかりでは味気ない。そのとき、彩香に頼まれて仁志が荷物を届けに来た。星はそのまま彼を朝食に誘い、余った材料で簡単なものを作ったのだ。「そんな、大したことじゃ......」星が言いかけたとき――エントランスの脇
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第727話

「まさか......彼女があなたの愛人ってわけじゃないでしょうね?」そう言いながら、仁志はぽかんとしている翔太を自分のそばへ引き寄せた。「翔太くん、今日はお父さんの機嫌が悪いみたいだ。でもね、怒っても仕方ないよ。お父さんを責めないであげて」翔太はよく分からないまま、素直にうなずいた。なぜ父の機嫌が悪いのか、彼には理解できなかった。仁志は感情の扱いがうまかった。人を責めず、火種を煽らない。清子のように、言葉の端々で相手を挑発したりもしない。どんなに穏やかに見えても、雅臣には彼が気に入らなかった。表面では礼を欠かさないその態度が、かえって作り物めいて見えたのだ。――この男、腹の底が見えない。雅臣は仁志の言葉の裏にあるものを探ろうとしながら、冷ややかに吐き捨てた。「くだらない芝居はやめろ。俺の前で、偽善者ぶるな」仁志はため息をひとつつき、穏やかに言った。「神谷さん、僕は本当に翔太くんが好きなんです。心から、この子のことを思ってますよ」そう言ってから、星へ視線を向ける。「神谷さんに誤解されるようなことをしたのなら、僕にも落ち度があったのかもしれません。――星野さん、やっぱり僕は今日は引き上げたほうがよさそうですね。神谷さんは、きっとあなたと翔太くんを迎えに来たんでしょう。そんなところに僕がいたら、邪魔になってしまいます」彼は柔らかく笑みを浮かべ、雅臣に向き直った。「家族水入らずの時間を、邪魔したくはありませんから」その瞬間、星が静かに口を開いた。「あなたは帰らなくていいわ、仁志。もともと私たちは約束なんてしていない。ここで立ち去るべきなのは――あなたじゃなくて、彼のほうよ」そう言い切ると、星は翔太と仁志に目を向けた。「行きましょう、仁志。運転、お願い」仁志は穏やかに頷く。「了解です」雅臣の横を通り過ぎるとき、仁志はわざと立ち止まり、にっこりと笑みを浮かべた。「なるほど。神谷さんと星野さんは、約束してなかったんですね。――招かれざる客、というわけですね。せっかくですけど、機嫌が悪いときに遊びに行っても楽しめませんよ。今日は代わりに、僕が翔太くんをお預かりします。ご機嫌が直ったら、そのときまた迎えに来てください。
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第728話

スポーツクラブの練習場。翔太と仁志は、射撃対決をしていた。仁志は、約束通り一切の手加減をしなかった。彼の撃つ弾はすべて、見事に十点の中心を貫いていく。翔太は最初、自信満々で銃を構えていたが、仁志の的中率を見た途端、思わず目を丸くした。一発、また一発――どの弾も十点。完璧すぎて、もはや勝負にならない。数発を撃ち終えた仁志が、ちらりと翔太を見やる。少年はぽかんと口を開けたまま、まるで魔法でも見たように見つめていた。仁志は笑みを浮かべる。「これはまだウォーミングアップだよ。本番はこれから」「えっ......これで、ウォーミングアップなの?」翔太はごくりと唾を飲み込む。仁志は軽くうなずいた。「僕は大人だからね。公平を期して、五メートル後ろから撃とう。どうだい?」翔太も自分の腕前をわかっていた。同じ距離なら勝てるはずがない。「......うん。いいよ」しかし、五メートル下がったところで、結果は同じだった。仁志はどこから撃っても十点。やがて、彼は練習場で許可される最も遠い距離まで下がり、再び銃を構えた。その距離で全弾十点に命中させられる者など、この会場でも数えるほどしかいない。翔太は息を呑み、仁志の動きを凝視する。その瞳には、もはや純粋な憧れが宿っていた。「パン、パン、パン!」乾いた音が三度響き、標的が震える。スタッフが掲げた的には、またも十点の弾痕。翔太は思わず歓声を上げた。「すごい!また十点!仁志おじさん、本当にすごい!明日香おばさんよりも上手だよ!」明日香も、遠距離射撃で十点を出せる腕前を持っていた。だが、毎回が十点というわけではない。八点、九点のときもある。翔太は、そんな彼女ですら「完璧」だと思っていた。それなのに――仁志は、それを上回っていた。その後も、翔太が提案するどんな競技でも、仁志は驚くほどの精度を見せた。不得意そうなものでも、要領を掴むのに時間がかからない。星も、彩香から「仁志はスポーツ万能」と聞かされていたが、実際に目の当たりにすると、やはり感嘆を隠せなかった。翔太はすっかり仁志の虜になっていた。その日、クラブでは「アーチェリー・チャレンジ」が行われており、的に当たった景品をそのままも
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第729話

景品の付いた動物たちの体には、それぞれ「賞品」と書かれた小さなマークが貼られていた。そこに矢を命中させなければ、賞品は獲得できない仕組みだ。だが、生きた動物たちはじっとしていない。絶えず動き回るうえ、配置されたのは会場のいちばん奥――難易度は言うまでもない。その中でも、最難関は最も遠くにいる一匹の猫だった。マークは尻尾の先。そこに正確に命中させるのは、まさに至難の業。だが、そのぶん賞品も桁違いだった。著名デザイナー・ローズによる特注イヤリング。推定六千万円の逸品。これまで、誰一人としてその賞を手にした者はいない。翔太も、その難しさをよく分かっていた。仁志を困らせたくないと思い、控えめに言った。「仁志おじさんがくれるなら、なんでもうれしいよ」仁志は遠くの賞品コーナーを見やり、しばらく考えた。そして、ゆっくりと弓を引く。――「シュッ!」矢が、風を裂く閃光のように放たれた。小さな猫が危険を察して身を翻す――しかし、一歩遅かった。矢は正確無比に、「賞品」のマークを射抜いた。周囲にどよめきが起こる。歓声と拍手が重なり、会場は一瞬にして沸き立った。子どもたちの視線は一斉に翔太へと集まり、うらやましそうな声が飛び交う。「すごい!お父さん、あのおじさんあんな動く猫に当てたよ!」「ほんとだ!あんなの当てられるなんて、かっこいいお父さんだな!」翔太は思わず固まった。「えっ......ち、違う、彼は――」言いかけたところで、再び歓声が上がる。「うそでしょ!一等賞を当てた!」「何者?プロか?」「いや、プロでも一発で当てるのは難しいよ!」――二階のカフェテラス。優芽利はコーヒーカップを手に、窓辺からその光景を見下ろしていた。「すごい。明日香、あなたより上手いんじゃない?」明日香も、先ほどの一幕を見ていた。彼女は静かに頷く。「ええ、私なんかよりずっとね」ちょうどその頃、スタッフが確認を終え、デザイナーローズのイヤリングを仁志の手に渡していた。仁志はそのまま、何のためらいもなく、それを星に差し出す。「これはあなたに」――「外にいるの、あなたの甥っ子よね。下に行って挨拶しようか」優芽利が穏やかに言う。
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第730話

大勢の視線が注がれる中、星は断ることなく、柔らかく微笑んでイヤリングの箱を受け取った。「ありがとう」その一言に、翔太の胸の中で仁志への憧れがさらに深まる。――仁志おじさんは、パパと同じくらいすごい。そんな思いが、無邪気な瞳に宿っていた。そのとき、ざわめいていた人波が自然と割れた。明日香と優芽利が、並んでこちらへ歩いてくる。仁志の姿を見つけた瞬間から、優芽利の視線はずっと彼に注がれていた。彼女と明日香が長年親しくしてこられたのは、価値観が似ているからだ。――ふたりとも、「強さ」に惹かれるタイプ。明日香が求める強さは、権力と地位。優芽利が求める強さは、自らの才能と誇り。そして、彼女は確信した。やはり自分の見る目に間違いはなかった。「仁志さん」優芽利はほほ笑みを浮かべて声をかける。「またお会いしましたね」仁志は変わらぬ穏やかな笑みで応じた。「司馬さん、こんにちは」優芽利はその端正な顔立ちをまっすぐに見つめた。「さっきの射撃、とても見事でしたわ」「ありがとうございます」仁志の声は落ち着いている。その横で、明日香が星と翔太に向き直った。「星、翔太くん」星は軽く会釈する。翔太はぱっと顔を明るくして駆け寄った。「明日香おばさんも来てたんだ!」明日香は彼の手にあるミニカーに目を留め、微笑む。「射撃の練習、どうだった?」翔太は少し恥ずかしそうに頭をかいた。「ぜんぜんだめ......仁志おじさん、僕よりずっと上手なんだ。何回かしか練習してないのに、すごく正確で。僕、ほんとに鈍くてさ」明日香の視線が、さりげなく仁志のほうへ滑る。一瞬、何かを測るように見つめ、すぐに視線を外した。そして何か言いかけたそのとき――人垣の向こうに、見覚えのある姿を見つけて、息をのむ。「......神谷さん?」思わず名前が口をついた。星と仁志だけが翔太を連れて来ていると思っていたのに、まさか彼まで来ているとは。雅臣の表情は険しかった。黙ったまま、スタッフの手から弓と矢を受け取る。翔太が目を丸くする。「パパも賞を狙うの?」雅臣は短く「うん」と答え、仁志に一瞥をくれてから、静かに弓を引いた。――「シュッ」矢が風を裂き、鋭い音
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