All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

「星野さん、いつまでこんな騒ぎを続けるつもりなの?」星がまだ何も言わないうちに、清子がふいに立ち上がった。「星野さん、これまでずっと、あなたに誤解されているのは分かってるわ。もし、その誤解からあなたが私を恨んでいるのだとしたら――」清子は唇をきゅっと噛みしめた。「私、あなたに謝るわ!」そう言って、彼女は星に深く頭を下げた。「ごめんなさい。許してもらえたら、嬉しい」上品で静かなレストランに響く彼女の言葉とその唐突な動作にまわりの客たちもざわつきはじめた。星は無言のまま、清子をじっと見つめていた。清子は深く頭を下げたまま、まるで許しを得るまで決して顔を上げないとでも言うかのような気迫を纏っている。時間が経つにつれ雅臣の顔はどんどん険しくなっていった。彼が何かを言おうとしたそのとき――星がようやく口を開いた。「じゃあ聞くけど、あなたは自分が何を間違えたのか、分かってるの?」清子の目が怯えた小鹿のように揺れる。彼女はちらりと雅臣を見てから、か細い声で言った。「......病気のことを隠して、勝手に戻ってきたこと、よ」そして、歯を食いしばるように続けた。「星野さん......もし、あなたが伯母様にお薬を渡してくれるなら、私......私もう二度とあなたと雅臣の前には現れないわ。あなたの邪魔もしない。これから私が生きようが死のうが、二人には一切関係ないから......」言い終える前に雅臣が低い声で遮った。「清子、何を言ってるんだ!」彼女は涙に滲んだ目で微笑むと、静かに言った。「どうせ私は長くは生きられない。だったら......残された時間で、伯母様の命を助けたいの」「縁起でもないことを言うな」雅臣の声は硬く冷たい。清子はそれでもかすかに笑った。けれどその目には大粒の涙が溢れ、まるで雨に濡れた花のような姿は、見ている者の同情を誘った。「星野さんさえよければ......私はそれでいいの」彼女の言葉に、まわりの客たちがざわざわと囁きはじめる。「ちょっと......あの人、どうしてあんな病人に冷たくできるの?」「薬を渡すだけでしょ?命がかかってるのに、それを拒むなんて、酷すぎる......」ついには我慢できなくなった一人が、星に向かって声を上げた。「そこのお姉さん
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第72話

騒いでいた周囲の声が、ふいにピタリと止んだ。誰もが沈黙し、声の主――影斗へと視線を向けた。影斗は唇の端をわずかに持ち上げ、どこか気だるげに笑った。「あなたたちは、誰かが何かを言えばすぐ信じるのかい?たとえば、今ここで俺がこの女性は人の仲を壊すのが得意な不倫女で、病気なんか大嘘。全部、同情を引くための芝居だって言ったら――それも信じる?」ざわめいていた客たちは、顔を見合わせ言葉を失う。影斗はゆったりとした口調で続けた。「何も知らないくせに、よくまあ口を出せるよな。誰が弱いかなんて、見た目じゃ分からない。弱そうに見える人間が、必ずしも正しいとは限らないんだよ」彼は目を細め、皮肉めいた微笑を浮かべた。「ほんとうの弱者が、たった数言で人の心を操るなんて――俺はあまり見たことがないな」その言葉に、客たちの表情がみるみる変わっていく。清子は慌てたように言葉を継いだ。「榊さん、違うんです。私、みんなを煽るつもりなんて――」その言葉は、影斗の柔らかな笑みに遮られた。「小林さん、そんなに慌てなくても。例え話だよ、ちょっとした冗談さ」影斗は視線をそらさず、にやりと笑った。「それより料理も来たことだし、座って話でもどうかな?俺の記憶が正しければ、星ちゃんは持ってないとは言ったけど、あげないなんて一言も言ってない」「それに、薬が必要なのは星ちゃんの義母だろ?もし彼女の手元に薬があるなら、出さない理由がない」「もしかしたら薬が手に入らなくなってるだけかもしれないし、他に事情があるのかもしれない。それを確かめもせずに泣き落としって......知ってる人が見れば薬をお願いしてるって分かるけど、知らない人が見たら......身内でも亡くなったのかと思うよ?」その一言に、周囲の客たちはようやく我に返った。「なんだ、薬がないってだけで、渡したくないわけじゃなかったんだ......てっきり拒否してるのかと......」「そうそう、何も聞かずに泣かれたら心配するより先に疑っちゃうよね。ちょっと大袈裟だわ」「しかも薬が必要なの、自分じゃなくて相手の義母でしょ?なんでそんなに必死なの?二人ってどんな関係なの?」その言葉に雅臣の眉がぴくりと動き、沈んだ視線がふいに清子へと向けられた。清子の肩がわずかに震え、表情が崩れかけ
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第73話

あっという間に、清子と雅臣の服はびしょ濡れになっていた。星はその光景をどこか他人事のように――まるで昼ドラのワンシーンでも眺めるような目で見つめていたが、やがてすっと立ち上がった。影斗は顔を上げ、彼女を見やる。てっきりあの二人のやり取りを見かねて、雅臣の元へ行くつもりかと思った彼は、紳士的に声をかけた。「助けが必要?」「いいえ、大丈夫よ」星はそのまま窓際まで歩くとスマホを取り出し、外の二人に向けてカメラを構えた。影斗は思わず目を瞬かせた。「......何してるの?」「動画撮るのよ、こんなの撮るに決まってるでしょ」星は振り返りざまに淡く微笑んだ。「不倫の証拠としても十分使えるし、ネットに流したら......相当バズると思わない?」その軽さに影斗は思わず吹き出した。窓の外では、清子の様子がますますヒートアップしていた。彼女は雅臣に何かを叫びながら、首を何度も横に振っている。そのうち、雅臣の表情が限界に達したように険しくなり、突然清子を抱き上げた。清子は彼の腕の中で激しくもがき抵抗する。雅臣は冷たい声で何かを言い、清子は一瞬呆然としたような顔になる。そして彼はレストランの前に停めていた車のドアを開けると彼女を押し込むようにして乗せた。そのまま車は走り去っていった。撮影を終えた星は、何事もなかったかのように席へ戻り食事を再開した。表情はいたって穏やか。箸を持つ手にも一切の震えはなく、まるで出来たての料理をゆっくり味わうかのように食べ進めていた。それを見ていた影斗はつい尋ねた。「......辛くないの?」星は水をひと口飲んで、淡々と答えた。「もっと酷いこと、散々されてきた。とっくに慣れたわ」影斗はその答えに、何かを思案するように黙り込んだ。それから数日――星の生活はようやく落ち着きを取り戻していた。この日、彼女は彩香と一緒にショッピングモールで毛糸を選んでいた。手編みのマフラーを作るためだ。そこへ聞き覚えのあるねちっこい声が飛び込んできた。「おや、誰かと思ったら......星じゃないか?」振り向くと、勇があからさまな嘲笑を浮かべて立っていた。彼の視線は、星が手に持っていた子供服の袋へと向けられ、途端に口元が歪む。「やっぱりな、そういうこと
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第74話

「ふん。お前が神谷夫人の座に座ってるからって、何になるんだ?」勇は鼻で笑いながら言った。「信じるかどうかはお前次第だけどな――清子が助けてってひと言さえ言えば、雅臣は何もかも放り出して、夜中でも駆けつけるよ」「雅臣がいつ家に帰るかなんて、全部清子の都合次第だ」「ここ最近、雅臣はあんまり帰ってないんじゃないか?どこにいると思う?清子の風邪の看病で付きっきりなんだよ。たかが風邪で、あれだけ心配するんだからさ」「それだけじゃない。お前の実の息子まで、清子にべったりなんだ。体調気づかって、お前の悪口まで言ってたってさ。清子が体調崩したのは、お前のせいだってな」「そのうち、清子が翔太くんの新しいママになる日も近いんじゃないか?」言いたい放題に言い散らして、勇は満足そうに星を一瞥すると、肩をそびやかしてその場を去っていった。「なによ、あれ......!」彩香は怒りを抑えきれず今にも追いかけて行きそうな勢いだったが、星がそっと手を伸ばして止めた。星の表情は不思議なほど静かだった。怒りの色ひとつ見えない。「もういいって、彩香。ああいう能無しのごますり男と口きいたって、こっちが疲れるだけよ」「今は弁護士と離婚の話を進めてるところ。もうすぐ自由になれるわ」彩香はまだ納得がいかない様子で、悔しそうに唇を噛んだ。「でも、あなたは雅臣にも翔太くんにも、あれだけの時間と気持ちを注いできたのに......何も報われないなんて、不公平すぎる」星は淡々と首を振る。「大丈夫。今からやり直したって、遅くはない」そして笑った。「おかげで分かったわ。誰かに頼るより、自分に頼るのが一番ってね」数日後の早朝、星のスマホに奏からの電話が入った。「星、今日、彩香と連絡とったか?」「いいえ。何かあったの?」星は眉をひそめる。奏は数秒沈黙したあと、低い声で続けた。「彩香が、昨日いくつかスタジオの候補地を見つけて、俺に一緒に見に行こうって誘ってくれたんだ。でも今朝になって、急に連絡がつかなくなって......ちょっと心配になってさ、君にも聞いてみたんだ」星の目に不穏な気配が宿る。「何かあったの?事故とか......?」奏は慎重に言葉を選ぶように話し始めた。「前に彩香と会ったときさ、勇って男が突然現れて、君の
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第75話

――彩香どころか、自分と清子ですら同じ土俵には立てない。雅臣が彼女の友人だからといって、彩香に情けをかけるとは到底思えなかった。それどころか彼女が背後で糸を引いていたと誤解される可能性だってある。通話を切った星はしばらく迷った末に、久しく掛けていなかった番号にかけた。「プルル......プルル......」数コールの後、電話はすぐにつながった。しかし彼女が言葉を発するより早く、冷ややかな女の声が電話の向こうから響いた。「神谷さんは、ちょうどお休みになったところです」その声にはいっさいの感情がなかった。「ご用件があるなら、私が代わりに伺い、お伝えします」その声の主は、雅臣の秘書・倉田岬(くらた みさき)だった。勇のように露骨な侮辱こそしないが、彼女もまた常に冷たく星に敬意を払ったことなど一度もない。星は淡々と告げる。「雅臣を出して。本人に話があるの」「申し訳ありません。それはできません」岬の口調は終始一貫して落ち着いており、微塵の感情も見えない。「神谷さんは、小林さんに一晩付き添って、ようやく眠られたばかりです。起こすようなことはしたくありません。大事な用なら私にお話しください。責任を持ってお伝えします」――夫に電話するのに、秘書の許可が要る。こんな滑稽な話世の中にあるだろうか。星は何も言わず、そのまま電話を切った。病院――一命をとりとめた清子が、ようやく意識を取り戻した。病室に立つ雅臣の姿を目にした瞬間、彼女の瞳には大粒の涙が浮かんだ。「雅臣......あなたは、私を助けるべきじゃなかったのに......」清子はかすれた声で絞り出すように言う。「星野さんのご友人の言うとおり......もう未来のない私が、あなたの足を引っ張るべきじゃないの」雅臣は眉をひそめた。「彩香の身柄はもう押さえてある。お前の容体が落ち着いたら、彼女から正式に謝罪させる」清子の顔にどこか寂しげな色が浮かぶ。「星野さんも、きっとあなたのそばにいたいと思ってるわ。私がこんなに時間を奪ってしまってはいけない......」「それに......あの中村さんは星野さんの友達かもしれないけど、今回のことは星野さんとは関係ないと思うの」「最近の星野さんの言動、少しおかしかったし......
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第76話

星は少し考えたあと、彩香のことと清子の件、そして彼女がこれまでに知った情報を包み隠さず航平に話した。航平は話を聞き終えると、しばらく黙って考え込みやがて顔を上げて星を見た。「......君の言うことにも一理ある。けど、彩香さんが何か別のトラブルに巻き込まれて、君に心配かけたくなくて姿を消した......って可能性もゼロじゃない」「君は考えたことあるかい?もし彩香さんを連れて行ったのが雅臣じゃなかったとしたら――ただの思い込みで彼を責めたことになる。そのとき、君は雅臣とどう向き合うつもりなんだ?」その言葉に星は一瞬、動きを止めた。たしかに、彼女には確たる証拠があったわけではない。ただの直感で雅臣を疑っていたのだ。航平はその沈黙を見て、図星だったことを悟る。「とりあえず、今日は家に戻りな」航平の声は落ち着いていて、どこか安心感を与える。「この件、まずは私が調べてみるよ。もし本当に雅臣じゃないなら、それはそれでいいし、もし彼だったとしても......君の友達が無事戻るよう、私なりに動く」星は一瞬だけためらったあと、そっと口を開いた。「......どうして、あなたがそこまでしてくれるの?」航平の瞳に、一瞬だけ何かが閃いた。けれどその感情はすぐに掻き消え、彼は柔らかな笑みを浮かべた。「雅臣とは、子どもの頃からの付き合いだからね。君を助けることは、結果的に彼を助けることになる」そして少しだけ声を落として言った。「それに......ずっと清子のこと、好きじゃなかったんだ。あの病気も、どこか嘘くさいと思ってる」「......あなたも、そう思うの?」星の目が驚きに見開かれた。航平は小さく頷いた。「もちろん、証拠があるわけじゃない。ただの直感さ。でも......証拠もないのに誰かを責めるのは、君も分かってるだろうけど、危ういことだよ」彼は少しだけ間を空けて続けた。「雅臣を責めたいなら、それなりの根拠が必要だ。今の君には、それがない。だからこそ――この件は任せてくれないか?」星はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。「......ありがとう、鈴木さん」彼はにこやかに笑った。「そんな他人行儀な呼び方、やめてくれないかな。航平でいいよ」星も少し表情を緩めた。「じゃあ......
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第77話

「星が清子に残された時間が少ないってわかってて、それでもあれこれ駆け引きしてくるんだ」雅臣の声には冷たい苛立ちが滲んでいた。「お前、忘れたのか?あいつが病気だだの誘拐されただのって芝居打って、俺や翔太の気を引こうとしてたのを」「神谷家の嫁としての贅沢な暮らしに慣れきった女が、子どもまでいるのに、簡単に離婚なんてするわけがない。今回も結局は、身を引くフリして主導権握ろうとしてるだけだ」航平は黙って雅臣を見つめ、眉をひそめる。何か言いかけたその時――病室のドアが突然開いた。慌てた様子の女性スタッフが、雅臣の姿を見て安堵の息をついた。「神谷さん、ちょうどよかった。小林さんが悪い夢を見ているようで、何度呼んでも目を覚ましません。早く来ていただけませんか」雅臣は無言でうなずくと、病室に戻っていった。航平はその背中をしばらく見つめたあと、ふっと視線を逸らし何も言わずにその場に立ち尽くした。2日が経った頃――ようやく、航平から星に連絡が入った。「彩香さんの件だけど......調べがついた。連れ去ったのは雅臣じゃない」電話口の声は冷静だったが、星は安堵で小さく息を吐いた。「よかった......でも、彩香は一体どこに?」一瞬、静寂が落ちた。「どうも、誰かの恨みを買ったらしい。報復を恐れて、しばらく身を隠してるだけみたいだ。大丈夫、見つかったら私がなんとかするよ」彩香の性格を思えば、それも納得はできた。星は「ありがとう」と言って電話を切った。......が、その直後。スマホに一通のメッセージが届いた。【星野星。友達が何日も行方不明なのに、ずいぶん平気なのね】画面を見た瞬間、星はそれが清子からの挑発だと直感で分かった。ため息をついて削除しようとした――そのとき、次の瞬間。写真が届いた。そこには、彩香が椅子に縛られ、口にテープを貼られている姿が写っていた。星の目が鋭く細まる。すぐに電話をかけた。しかし、コールが鳴る間もなく切られた。続けて、再びメッセージが届く。【友達の居場所が知りたいなら、このカフェに来なさい。安心して、あなたに危害は加えないわ】記されていたのは、市内中心部にある有名なカフェの住所だった。――わざわざこんな人目の多い場所に呼び出す?星は眉をひ
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第78話

「雅臣が出張に出ているからこそ、こうしてお会いできるの。もし彼が今ここにいたら......」清子はふんわりと笑い、どこか困ったような表情を見せた。「きっと、私を退院させてはくれなかったでしょうね」「......で、それを私にわざわざ言うために呼び出したの?」星が警戒を崩さずに尋ねると、清子はどこ吹く風といった様子でカップに目を落とした。「最近、あなたと雅臣は離婚話で揉めているそうね。あなたは本気なのか、それとも駆け引きなのか......どちらにしても関係ないわ。だって――あなたが何をしようと、結果は変わらない」清子は勇のような下品な高圧さこそないが、その笑みの奥に滲む自信は、まったく引けを取らない。「彼が選ぶのは、いつだって私よ」星は淡々とした声で言い返した。「なら聞くけど――彼が選んだのが本当にあなただったなら、なぜ今、籍を入れているのは私なの?」清子は一瞬だけ目を細め、それからやわらかく笑った。「それは......私が譲ってあげたからよ。手に入らないものほど、魅力的に見えるものでしょう?そうじゃなきゃ、どうして今さらになって、あんなに優しくしてくれるのか」そのタイミングで、スタッフがテーブルに淹れたてのコーヒーを運んできた。香ばしい苦味がふわりと空間を包む。星はもう無意味なやり取りに付き合う気はなかった。「......彩香はあなたのところにいるの?」すると、清子はあっさり否定した。「いいえ。彼女は私のところじゃなくて――雅臣のところにいるわ」穏やかな笑みを浮かべながら言い切る。「彼女は、私を自殺未遂に追い込んだ主犯よ。雅臣が、そんな相手を簡単に許すと思う?」星は、まっすぐ彼女の目を見つめた。「......今、なんて言ったの?彩香は雅臣の手に――?」清子は少し意外そうな顔を見せた。「彼女、あなたの親友なんでしょう?あなたのために私を怒鳴りつけて、雅臣の怒りを買った。その彼女の居場所、知らなかったの?」「じゃあ......あなたは知ってるのね?」「さぁ、どうかしら」清子は眉間にほんの少しだけ皺を寄せ、曖昧に笑う。「雅臣の話では、同じやり方で返すと言ってたわ。彼女にも、死の縁を一度見せてやるって」「彼女の言葉に私も少し傷ついたけど......それが死にたいほ
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第79話

清子が入院している階はすべて丸ごと貸し切られていた。廊下には誰ひとりおらず、静寂が張り詰めている。そのとき、足音がひとつ。低く、落ち着いた足取りが廊下の向こうからゆっくりと近づいてきた。星の身体が、ピクリと反応する。自然と息を止め神経を研ぎ澄ませる。足音は彼女が身を隠している非常階段の前を通り過ぎていく。見つかるのが怖くて、身じろぎひとつできない。視線すら動かせなかった。やがて、扉の閉まる微かな音がしてようやく星は非常扉からそっと出た。足音を殺しながら歩き、清子の病室の前までたどり着く。病室の窓ガラスに、そっと覗き込む自分の姿が映った。――私は、名実ともに妻なのに。思わず立ち止まる。なのに今の私は、まるで盗み聞きでもしている泥棒みたいに、息を潜めて、誰にも気づかれないようにと怯えてる。一方で、清子は堂々と目の前に現れては、自信たっぷりにこう言い放った――「私こそが、雅臣にとって本当に大切な存在」だと。......確かに、彼女は大切な存在なのだろう。本当に何とも思っていない相手なら、たった一本の電話で駆けつけたりはしない。妻であるはずの自分が、あの女に何ひとつ言えずにいる。それが、すべてを物語っていた。――結局、心のどこかで分かっていたのかもしれない。自分じゃ、あの人に敵わないということを。そんな思考に囚われていたとき、病室の中から声が聞こえた。「雅臣、帰ってきたばかりなのに、わざわざ無理して来なくてもよかったのよ。明日でもよかったのに」間があって、聞き慣れた低く冷静な声が扉越しに届いた。「今日、外に出ていたって聞いたんだ」......心臓が沈んだ。――雅臣は、本当に飛行機を降りた直後に彼女のもとに来たのだ。さっきまでの清子の挑発かもという疑いが、ただの現実逃避だったと痛感させられる。消毒液の独特な匂いが鼻をついてくる。その匂いの奥から、なおも会話は続いていた。「ずっと病室にいたら、息が詰まりそうで......ちょっと外の空気が吸いたくて。それだけよ。心配しないで」清子は、ふと声を潜めるようにして続けた。「それより......彩香さんの件、もう許してあげて。あの人も自分の言動を反省してるみたいだし。なにより、星野さんの大切な友達でしょ
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第80話

「ごめんなさい、私ったら不注意で......漢方をあなたの服にかけちゃった......」「その上着、私が綺麗に洗うから」病室の外にいた星には、ふたりの表情は見えなかった。ただ、会話のひとつひとつが扉越しにはっきりと聞こえてくる。雅臣はしばらく黙っていたが、ようやく絞り出した声は、たったの三文字だった。「......大丈夫」その声には怒りも苛立ちも感じられず、淡々としていて、まるで汚れたのがただの布切れでもあるかのようだった。「最近、あなたがよく着ていたから、きっとお気に入りなんだと思ってたの。私が汚しちゃったんだから、責任を取らせて。ちゃんと綺麗にして返すから......」そこで清子の声がふいに震えはじめた。「もしかして、私のこと......嫌いになったの?」「違う」「ほんとに?本当に違うの?」「......ああ」「じゃあ、この上着......私に任せてくれる?」今度の沈黙は、先ほどよりもずっと長かった。ようやく雅臣は、一言だけ呟いた。「......わかった」「ふふ、よかった......洗って綺麗にして、また渡すね」会話が終わってまもなく、星の耳にドアの開く音が届いた。雅臣が出てきたのだ。鉢合わせを避けるため、星はその場に留まりさらに30分以上も時間を潰した。彼が戻ってこないことを確認してからようやく階段を降りる。ちょうど1階に着いたとき、見覚えのある上着を持ったふたりの看護師が談笑しながら歩いてくるのが目に入った。「やっぱりお金持ちは違うね。服が汚れたら洗いもしないで捨てるんだもん」「神谷雅臣よ?あの人の財力なら、一日一着捨てても何百年分もあるでしょ」「でもこの上着、すごくいい生地だったよね。普通じゃ買えないよ、こんなの。もし小林さんに絶対捨ててって言われてなかったら、私、持って帰ってたわ」「やめときなよ。いくら良いものでも、お金持ちのいらないものを使うなんてみっともないわ」ふたりは笑いながら、ごみ箱にその上着を放り込んで立ち去っていった。看護師たちが去った後、星はごみ箱の前に立ちそっと蓋を開ける。そこにあったのは、彼女が雅臣の誕生日に贈った――世界にひとつだけの、手作りのジャケットだった。それを見つめながら、星の指先は白くなるほどに強く握り
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