All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

雅臣が眉をひそめた。まだ何も言わないうちに、勇が怒鳴る。「こんなことで終わらせていいのか!?清子、お前が甘いから、あいつがつけ上がるんだ!」その言葉に星は思わず吹き出してしまった。勇が睨みつける。「何がおかしい!」「......ほんと、白々しいにもほどがあるわね」星が皮肉を口にした瞬間、勇がまた声を荒げた。「誰のことだ、それは!」今回は遠回しではなく、星ははっきりと言い切った。「もちろん、小林さんのことよ」勇はまたも感情を抑えきれなくなりかけたが、雅臣と翔太がいる手前、手を出すわけにもいかず、今度は訴えるように雅臣に向き直った。「雅臣、今回は清子が階段から突き落とされて手術までしたんだ。まさかまた何もなかったことにするつもりじゃないだろうな?」星は笑みを浮かべた。「勇さん、頭が悪いのは仕方ないとして、耳まで悪いの?さっき小林さん、なんて言ってた?私が突き落としたって、一言でも言ってた?」勇は口を開いたが、言葉が続かない。「言ってなくてもわかる!あれはお前がやったに決まってる!」「そう?人の心が読めるとでも?」「お前......!」「もういい」雅臣が低い声で割って入る。「星、本当にお前がやったのか?」「私がやったかどうか、小林さんに聞けばいいでしょ」雅臣は清子に目を向ける。「清子、お前を突き落としたのは彼女か?」清子の目が赤く潤み、嗚咽まじりに首を横に振る。「......いいえ、違うわ。星野さんのせいじゃない。私がうっかり足を滑らせただけ......」そう言いながらも、その言い方と表情は、まるで「実はそうなんだけど我慢してる」かのようだった。星は冷笑する。――うまく立ち回って全部人のせいにするつもり?よくもまあ、そんなに都合よく演じられるわね。星は冷たく言い放つ。「小林さんが違うって言ってるんだから、私はもう帰るわ」すかさず勇が噛みついた。「待て、帰らせるかよ!警察を呼ぶぞ!」星はふり返る。「ええ、今すぐ呼んで。警察が信じるのは、証拠も証人もないあなた?それとも、当事者である小林さんの証言かしら?」勇は怒りで顔を真っ赤にしていた。「それは......清子が、雅臣や子どもに気を遣って......!」「で、小林さん?私
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第62話

星は冷たく言い放った。「だから、足を滑らせたんだって!詳しいことは本人に聞いてちょうだい」雅臣は何も答えず、ただ黙って星を見つめる。その表情からは感情が読み取れなかったが、周囲の空気は明らかにぴりついていた。誰だって何の理由もなく階段から落ちたりはしないだろう。沈黙が続く中、翔太は不安げな表情を浮かべた。しかし星は一歩も引かず、真っ直ぐにその視線を受け止める。その瞳には、曇りも怯えも一切なかった。清子が慌てて口を開いた。「雅臣......もうこの話は、やめましょう?」「だめだ!」勇がすぐに遮った。「この女にはきっちり思い知らせてやるべきだ!でなきゃ、また何するかわからない!」星は腕を組んで立ち、冷ややかに言った。「小林さん、自分がどうやって落ちたか、そろそろ話してもらえる?」清子は目を泳がせ、口を開きかけては閉じる。星は彼女の様子を一瞥し、吐き捨てるように言った。「もう私には関係ないわね。失礼するわ」「待て!清子に説明もせずに帰れると思うな!」勇がドアの前に立ちはだかる。星は皮肉を込めて笑った。「私はやってないって言ってるし、小林さんだって私がやったなんて一言も言ってない。なのに、あなただけが騒いでる」勇は星がまるで別人のように冷たくなったことに気づいた。やり込められるたびに苛立ちは増すばかりだ。「清子!はっきり言ってくれ!本当は星がやったんだろ?」清子は内心勇の無神経さを恨んでいた。ここで曖昧にしておかないと、かえって怪しまれる。意を決したように息を吸い、口を開こうとしたその時――病室の扉がノックされ、一組の親子が入ってきた。「星野おばさん、大丈夫?」怜が駆け寄り星にぎゅっと抱きつく。星は彼を抱きしめ、申し訳なさそうに囁く。「ごめんね、またちゃんと面倒見てあげられなかった......」彼女は影斗と約束していた。怜の面倒を見ると。けれど、トラブル続きでまともに一緒にいてやれていない。それでも怜はけなげに首を振った。「星野おばさんは、ちゃんと僕を守ってくれてるよ......」だがその言葉を遮るように、冷たい声が飛んできた。「なんで君が僕のママと一緒にいるんだよ?!」怜が顔を上げると、怒りの視線を向ける翔太が立ってい
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第63話

「ママって、星野おばさんのこと?」怜はぽかんとした様子で言うと続けて振り返った。「でも、君のママって、あのベッドにいる人じゃないの?今朝も一緒に親子ゲームに出てたでしょ?」翔太は不機嫌そうに言った。「ゲームに出たからって、ママってことにはならない」「でも、みんなに聞かれたとき、否定しなかったよね?それに、前に言ってたよ。星野おばさんは、家政婦だって......」――家政婦。その言葉は、場の空気を一瞬で凍らせた。誰もが内心ではわかっていたが、それを口に出すべきではなかった。神谷夫人が家政婦扱いされていると広まれば、問題視されるのは星ではなく、雅臣と神谷家全体だ。そのとき、影斗が静かに口を開いた。「星ちゃん、今日は渡したいものがあって来た」彼はそう言うとスマホを取り出して星に手渡した。星が開いてみると、そこには動画ファイルが一つ保存されていた。再生すると、映っていたのは彼女と清子が階段口にいる場面だった。星は目を見開いた。「これは......?」「小林さんがどうして階段から落ちたのか、この動画にはっきり映ってる」影斗はさらりと言った。清子は驚きのあまり表情を強張らせた。「で、でもあそこには監視カメラがないはず......!」星は彼女の方を向いた。「なぜないって言い切れるの?」清子は一瞬言葉に詰まり、無理に笑みを作って答えた。「翔太くんを探しに行ったとき、なんとなく見ただけよ......カメラがないように見えたから」影斗は淡々と言った。「確かに監視カメラはなかった。でも怜がたまたま星ちゃんが階段を降りるところを撮っていてね。偶然にも、面白い瞬間が映っていたんだ」彼のスマホは最高スペックで、動画は非常に鮮明だった。そこには、清子が星を追いかけてきて、階段を踏み外し自分で転落する様子が、はっきり映っていた。動画が再生し終わると、場は静まり返った。「監視カメラがなくて困ってたけど、怜が撮ってくれててよかった。これがなければ、星ちゃんは冤罪を晴らせなかったかもしれないな」影斗がやや皮肉を込めて言った。清子はすぐさま言い訳をした。「私は、星野さんに突き落とされたなんて一言も言ってないわ」星は静かに返した。「でも私が責められてたとき、違うとも言わなか
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第64話

なぜだかわからないが翔太は怜を見るたびにどうしようもない反感を覚えた。彼は怜を鋭い目つきで睨みつける。「だって、ママはいつも清子おばさんをいじめてるじゃないか!」怜は負けじと大声で反論した。「そんなのうそだ!星野おばさんは優しくて思いやりのある人だよ。絶対に誰かをいじめたりなんかしない!いじめてるのは君たちの方でしょ!」彼の言葉は止まらない。「さっきだってそうだった!自分で転んだくせに、星野おばさんのせいにして!」「星野おばさんは、世界一のママなんだから!」いつもなら自分のそばにいてくれる星が、今回は自分には目もくれず、ほかの子にばかり優しくしていることに翔太は我慢できなかった。まるで大切にしていたおもちゃを誰かに奪われた子どものように目に涙を浮かべて声を荒げる。「僕のママだ!君のじゃない!」怜も一歩も引かない。「でも君は、一度だって星野おばさんを本当のママとして見てなかったよね?ずっと家政婦としてしか扱ってなかったじゃないか!」そう言いながら、怜は星の前に立ちふさがれた。「今日から僕は、絶対に星野おばさんをいじめさせない!」――たとえ小さな子どもでも、はっきり見抜けるほどだった。自分の実の息子が、自分よりも他人に対して親しげに接しているなんて、これほど皮肉なことがあるだろうか。翔太は口を開いたものの、何も言い返せなかった。雅臣も子どもたちの言い争いに薄く眉をひそめ、不機嫌そうに言った。「この子は誰だ?」影斗が笑顔で答えた。「俺の息子だ。仕事が忙しくて、誰かに子供の世話を頼もうと思っていた時に、ちょうど、星野さんからお金に困ってるって聞いてね。それで、息子の世話をお願いし始めたんだ」雅臣の表情が強ばる。「星、お前は他人の子を世話するためなら時間を割けるのに、自分の子どもは放ったらかしか?もうどれくらい家に帰ってきていないと思ってるんだ」その言葉に翔太の顔に寂しさが浮かんだ。そう――母親はなぜか最近、まるで自分に無関心のようだった。影斗は穏やかに微笑みながら皮肉を含ませて言った。「まあ、他人の子を預かれば、金銭面的にもありがたいし、しかも子どもからも慕ってもらえるが、自分の子を育てても感謝もされず、ただの家政婦扱いだ。そんなのやってられないだろう?」その視線
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第65話

翔太は頑なな表情で、「僕は絶対に謝らない!」と吐き捨てた。しかし星は無理に言わせようとはせず、ただ静かに言った。「謝るつもりがないなら、どいてくれる?」かつての星はいつも彼のそばにいてあれやこれやと世話を焼いてくれていた。それが今ではこんなにも冷たくあしらわれ、自分ではなく他の子のことばかり気にかけている。その変化を翔太はどうしても受け入れられなかった。「他の子の世話なんてしないで!」と怒鳴るように言った。星は落ち着いた口調で問い返す。「なんで私が、あなたの言うことを聞かなくちゃいけないの?」「だって......僕のママだろ!」星は皮肉めいた笑みを浮かべた。「私が?私はただの家政婦なんじゃなかった?」翔太は言葉を失い呆然とした。その様子に耐えかねたのか清子が口を挟んだ。「星野さん、お子さんの言ったことに深い意味はないのよ。子どもの一言に、そんなに本気にならなくても......」星は清子をまっすぐに見つめた。「これは私たち家族の問題よ。部外者が口出しすべきことじゃないわ」彼女はさきほど雅臣が言った言葉そのままを、そっくり清子に返した。清子の目が潤み、困ったように眉を寄せた。「......ごめんなさい。出過ぎた真似をしたわ。ただ、翔太くんはまだ小さいから、母親として、もう少し優しく接してあげた方がいいんじゃないかって......」しかし星は容赦なく言い返す。「母親としてどう接するかは、私が決めること。あなたに指図される筋合いはないわ。うちの家のことに、外野がとやかく言わないで」その言葉はあまりにも厳しかった。清子はまるでいじめられたかのように涙をこぼし、か弱いような姿を見せた。それを見た勇は怒りを爆発させた。「星、お前、清子に何て言い方するんだ!?後ろ盾ができたからって、偉そうにするな!」星は軽く肩をすくめ、淡々と言い返した。「そうよ。今までみたいに1対4じゃないから、ちょっとは強気になれるってもんよ」そう言うと勇を無視して再び翔太の前に立った。「もう行くわ。そこをどいてくれる?」翔太は歯を食いしばって叫んだ。「今日出て行ったら、もうママなんて認めないからな!あいつと僕、どっちか選べ!」そんな脅し文句はもう何度も聞いた。最初は少し胸が痛んだ
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第66話

勇はどこか得意げな表情を浮かべながら言った。「大した稼ぎのない星なんか、いくらでも手の打ちようがあるさ」「雅臣、お前はしばらく星を放っておけ。数日経ったら俺が手を打ってやる。あいつなんか、すぐにすり寄ってくるから」しかし雅臣は勇の言葉には答えず、代わりに清子へ目を向けた。「清子、お前が自分で階段から落ちたって......なぜ最初からそう言わなかったんだ?」清子の目に一瞬だけ怯えの色が走った。相手が雅臣となると勇や翔太のように簡単にはいかない。自分の言葉が意図的に誤解を生むよう仕向けていたことも、彼なら見抜くかもしれない。彼女は潤んだ目で雅臣を見上げた。「私は......星野さんが翔太くんとあなたに謝りに来たと思ったの。それで、急いで案内しようと......」「焦って手を引こうとしたら、星野さんが私の手を振り払ったのか、それとも私が勝手にバランスを崩したのか......正直、自分でもはっきりとは......」勇も口を挟んだ。「雅臣、清子は善意でだったんだ。動画にもあっただろ?彼女は星を連れてこようとしてただけだし、それに、最初から星に突き落とされたなんて一言も言ってない」そして声を潜め、ぼそっと付け加えた。「それに翔太くんだって、星がやったって言ってたじゃないか。息子がそう言えば、誰だって信じるさ。それに星は、いつも清子に意地悪してたし、誤解されても仕方ないだろ?」その言葉に、翔太はうつむきながら言った。「パパ、ごめんなさい。僕、見間違えてたかもしれない......」清子もすぐにフォローする。「雅臣、翔太くんはまだ子どもよ。見間違えたって仕方ないわ。悪いのは私。私が軽率に星野さんに声をかけたのが原因だもの......」彼女は懇願するような目で雅臣を見つめた。「私にはもう罰が下ったと思って、せめて翔太くんのことは責めないであげて」その言葉を聞いた翔太は、清子が自分の代わりに責任を負ってくれたことに胸を打たれ、同時に母に対する怒りと悲しみを再び感じていた。彼にとってはやはり清子のほうがいい人だった。しかし彼が気づかぬ間に、清子は巧みに責任の矛先を子どもへと逸らして自分を守っていたのだった。雅臣の険しい表情はわずかに和らいだ。「清子、今回はお前のせいじゃない。しかしお前が星を
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第67話

そう言って、雨音はさらに不満げな口調で言った。「星はきっと私たちがあの薬なしではやっていけないと思って、わざとこんな駆け引きしてるのよ!」雅臣は少し黙った後、ようやく口を開いた。「分かった。できるだけ早く母さんに薬を届けさせる」「本当に急いでよ、お母さんの体は待っててくれないんだから!」雅臣からの約束を得た雨音はようやく電話を切った。清子の病室を後にして、星はまず怜を連れて傷口の消毒と薬の塗布に向かった。怜の傷にはすでにかさぶたができ、治りかけていたがまだ皮膚が薄く痛々しく見えた。星はとても丁寧に、そっと薬を塗りながら時おり痛くないかと声をかけた。怜はかすかに首を振った。「星野おばさん、大丈夫。これくらいの傷、平気だよ」少し間を置いてから彼は言った。「翔太お兄ちゃんも、わざとじゃなかったんだと思う」自分のほうが翔太より半年ほど年下だと知ったときから、怜は彼を「翔太お兄ちゃん」と呼ぶようになった。翔太のひどい態度にもまったく気にした様子はなかった。星は手を止め、怜を見た。「怒ってないの?」怜はまた首を振った。「翔太お兄ちゃんは星野おばさんの息子だから、ぼくにとってもお兄ちゃんだよ。だから怒ってない。それに、彼も本当は悪気があったわけじゃなくて、星野おばさんを取られるのが怖かったんだと思う」星の胸に、薄ら笑いとも嘲笑ともつかない感情が浮かんだ。そう。彼が怖かったのは、自分の専属家政婦が奪われること。いつも手元にあるおもちゃが、突然誰かのものになるような......独占欲からだった。そのとき、怜がまた言った。「星野おばさん、翔太お兄ちゃんのこと、あんまり怒らないであげてね。あの悪い女の人にそそのかされてるだけだから」星は一瞬きょとんとして問い返した。「悪い女の人?」怜は真剣にうなずいた。「うん。病院のベッドに寝てる、あの悪いおばさん」星は少し意外に思った。「清子のこと......嫌いなの?」清子のような猫かぶりな女は、子どもに好かれやすいはずなのに。怜はきっぱりと言った。「星野おばさんを陥れる人なんて、僕は嫌いだよ」星はあの動画のことを思い出し、少し目元を緩めた。「あなたと榊さんには本当に感謝してるわ。あのとき助けてくれなかったら、あの人
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第68話

星は電話の内容を聞くと、冷たくたった3文字で返した。「いやよ」そう言って、一方的に電話を切った。その後、雅臣から再び電話がかかってきたが星は受け取らなかった。用があるときだけ思い出したかのように連絡してくる――まったく、神谷家の人間は本当に身勝手だ。人に頼みごとをしているくせに、どうしてあんなにも偉そうでいられるのだろう。これまでの自分はあまりにも従順で、「都合のいい存在」だった。レストランに到着すると、影斗はすでに席に着いていた。星は彼の元に歩み寄り、申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい、少し遅れて」「いや、俺が早く来すぎただけだ」影斗はやわらかく微笑んだ。星はすでに離婚を決意していたが、この件はそう簡単に済む話ではない。昨日は病院だったため細かく話すことができず、あらためて今日会う約束をしていた。席につくと影斗が問いかけた。「星ちゃん、離婚のことだけど、どう進めたいと思ってる?」星は真剣な眼差しで答えた。「もし私が財産放棄なしで離婚するなら、どの程度の取り分になるのか知りたい」影斗は眉を軽く上げ、微笑んだ。「それは、あなたと雅臣が婚姻中に得た財産の総額にもよる。基本的には、婚姻期間中の共有財産は折半できるけど......」「神谷グループはS市でも屈指の権勢を誇る一族だ。そう簡単には思い通りにならないだろう。ただ、心配はいらない。俺の知ってる弁護士は凄腕だ。きっと最善の結果を引き出してくれるはずだ」星は考え込むように視線を落とした。「もし彼が婚姻関係における過失側だと証明できたら、私の勝率はもっと上がる?」影斗の目がわずかに動いた。「どんな証拠があるんだ?」「昨日、親子イベントに雅臣と清子が翔太の両親として参加していたし。あと、以前の擬似的な結婚式や他の曖昧な関係の証拠もある。これって......不倫の証明になるんじゃない?」影斗は真剣な星の顔を見つめ、ふっと笑った。「星ちゃん、もう一度言っておくけど――雅臣って男は思っている以上に手ごわい。彼が本当に不利になるような証拠を、そう簡単に残すわけがない」「それに、彼ほどの人脈を持つ男なら、たとえ証拠があったとしても、なかったことにされる可能性は十分ある」星の胸に、不安と諦念がじわじわと広がった。
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第69話

ちょうどその時、そっと響いた柔らかな声が隣から聞こえた。「星野さん、どうしてここに?」星と影斗がそろって顔を上げると、細身の女性が一人、彼らのテーブルへと歩み寄ってきた。その後ろには、整った顔立ちの冷ややかな男がついてきている。「奇遇ね」清子が先に口を開いた「星野さんもこのお店に?」星は彼女を一瞥しただけで、そっけなく目をそらした。「何か用?」清子は影斗の顔を見て、にこやかに言った。「星野さん、この方とは......どういうご関係?」星の声は冷ややかだった。「あなたには関係ないわよね?」それでも清子は穏やかな笑みを崩さなかった。「せっかくここで会ったんだし、ご一緒してもかまわないかしら?」星が眉をひそめて断ろうとしたそのとき、影斗が彼女に先んじて口を開いた。影斗と星が向かい合わせに座る四人席。その隣の椅子を、迷いなく引いて座ったのは雅臣だった。影斗の隣には、清子が腰を下ろす。「榊さんは、妻とお知り合いで?」影斗は微笑を浮かべながら答えた。「ええ、もちろん。むしろ、神谷さんのおかげで......星ちゃんのような素晴らしい方と知り合えたので」その言葉に、星はふと彼を見上げる。雅臣の瞳がわずかに陰りを帯びる。「つまり......まだ知り合って間もないと?」「そうだね。でも、神谷さんが奥さんの事を、あんまり気にかけていないようなので俺のような『部外者』にも手を差し伸べる機会があったわけだ」影斗の声は柔らかく穏やかだったが、言葉には鋭い刃が含まれていた。――目の前の妻がネットで叩かれ、孤立していたというのに、夫であるはずの男が何一つ手を差し伸べなかったことを、皮肉を交えて責めていた。気まずい空気を察したのか、清子が場を繕うように話題を変える。「まずは注文しましょうか。ここのお料理、少し時間がかかるみたいだし」影斗はあっさりと応じ、ウェイターを呼び寄せた。雅臣もさっとメニューに目を通し、何品か注文した。それを聞いた影斗が、意外そうに笑った。「一人でそんなに召し上りに?」清子が慌てて口を挟む。「雅臣は、私の分も注文してくれたんです」影斗は意味深な笑みを浮かべると、星に向き直る。「星ちゃん、マンゴージュースは今でも好き?」「ええ」と
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第70話

影斗が静かに笑みを浮かべた。「小林さんの好みはよくご存じみたいで。では、もちろん星ちゃんの好みもわかるよね?」雅臣はしばらく沈黙しやがて低く落ち着いた声で、星のためにいくつか料理を注文した。しかし、それを聞いた影斗の眉がわずかに動いた。「神谷さん......その料理、本当に星ちゃんの好み?自分自身の好みではなく?」雅臣はちらりと星の方を見た。しかし彼女は無表情のまま、彼に一瞥すら向けなかった。影斗の視線が雅臣に注がれる。その目にはどこか皮肉を含んだ光が宿っている。「星ちゃんは海鮮や生もの、魚類は苦手で、辛いものが好きだ」影斗は薄く笑いながら続けた。「神谷さんが今選んだ3品、どれも星ちゃんが嫌いなものばかりだね」雅臣が頼んだのは、淡白な刺身、海鮮入りの炒め物、そして魚料理――彼女の地雷を的確に踏み抜いた格好だった。場の空気が一気に凍りついた。注文を取っていた店員も思わず雅臣に視線を送っていた。――夫なのに、妻の好みを知らないばかりか、わざわざ嫌いなものばかりを選ぶなんて。気まずさに耐えかねたのか、店員がそっと咳払いをして沈黙を破った。「お客様、こちらの料理......どうなさいますか?」「いりません」影斗が代わって答える。そして彼が選んだのは、すべて唐辛子を使った辛い料理だった。店員は急いで注文を記録すると、その場の重たい空気に耐えきれず足早に立ち去った。沈黙の中で俯いたままの雅臣。隣の清子が気まずさを和らげるように口を開く。「雅臣は普段、家で食事することがあまりないんです。だから、星野さんの好みを知らなくても、仕方ないですよ」星はその言葉に、胸の奥で冷笑を浮かべた。――つまり、それだけ一緒に食事をしていたのは、清子だということ。雅臣が本当に彼女のことを大事に思っていれば、一緒に食べる機会が少なくても、好みのひとつやふたつくらい知っているはずだ。要は、最初から興味なんてなかったのだ。影斗がうなずいた。「そうだな。星ちゃんはずっと、旦那と子どもの健康を気遣って、自分の好みは二の次にしてきた。だから、周囲が彼女のことを気にかけなくなったのも無理はない」彼は星に目を向け、その瞳には優しい光が宿っていた。「でも、俺の前では我慢なんてしなくていい。星ち
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