All Chapters of たとえ、この恋が罪だとしても: Chapter 61 - Chapter 70

102 Chapters

10・あなたが好き……

 涙があふれて話が続けられなくなった。  自分で思っていた以上にダメージを受けていたらしい。  感情が高ぶって抑えが利かなくなった。 ひっく、ひっくとしゃくりあげるわたしの背をゆっくりと撫でながら、今度は待子さんが穏やかな声で話しはじめた。「婚約者にあなたの本当の気持ちをお話ししたほうがいいか、それはあなたが決めなければいけないことね。でもね、ひとつだけ言えるのは、他の人はごまかせても自分の心はごまかせないってことかしら」 自分の心はごまかせない……「もちろん、すべてあなたの胸に秘めたまま、周囲の事情を優先して波風を立てずに結婚することもできるでしょうね。でも……」 待子さんはわたしの手を優しくさすった。「心をごまかし続けていくうちに、綻びが出てしまうんじゃないかしら。そうしたら、あなただけでなく、旦那さんもその周りの人たちも不幸になってしまうわ。こういうときは、自分が楽になろうとしたらだめ。お相手にとってどうすれば一番いいのか考えないといけないわ。ふたりともよ。その婚約者の彼も、あのカメラマンさんのことも」 自分のことでなく相手のことを一番に……。 待子さんの言葉はわたしの心にじわじわと浸みこんでいった。
last updateLast Updated : 2025-07-12
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10・あなたが好き……

「わたしもね、若いころ、とてもとても好きな人がいたの。でも戦争があったでしょう? 結局その人と添うことはできなかった。あなたとお話ししていたら、ひさしぶりに思いだしちゃったわ、彼のこと」 待子さんは少しはにかんだ笑みを浮かべながら、そう言った。「あっ、そうそう、でもね。あなたはあのハンサムさんを好きになったことを悪いと思っているようだけど、ちっとも悪いことじゃありませんよ。人と人が出会うことは、それだけで素敵なことだし、まして心から好きと思える相手に出会えることは本当に奇跡的な出来事なのだから」 あなたは悪くない―― その言葉が今のわたしにとって、どれほど慰めになったことか。言葉では表しようがないほどだった。「お母さん、お待たせしました。帰りましょうか?」  待子さんのお嫁さんが迎えにいらした。  話が終わるまで待っていてくださったようだ。「ええ、文乃さん。ごめんなさいね。お付き合いさせちゃって」「いいえ、こちらこそ、話を聞いていただいてありがとうございました。心が少し軽くなりました」「そう言っていただけたら、わたしもとっても嬉しいわ」「さあ、行きましょう」 お嫁さんに促されて、待子さんはよいしょっと声を上げながら立ちあがった。 わたしは深々と頭を下げて、おふたりを見送った。
last updateLast Updated : 2025-07-13
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11・撮影本番

 本番の撮影は、紗加さんのご主人所有の鎌倉の洋館で行われた。 高台に建つ瀟洒(しょうしゃ)な建物で、庭園から湘南の海が一望できる絶好のロケーションだった。 1月半ばにしては温かく感じるほど、穏やかに晴れていた。  海面も艶やかな絹布で覆われているように静かだった。  この風景と同じで、わたしの心中も意外なほど穏やかだった。 10日ほど前のあの雨の日は……  紗加さんへの妬みと安西さんへの恋心と俊一さんへの罪悪感が綯交(ないま)ぜになって気持ちはかき乱れ、とても人前でポーズなんてとれないと思っていた。 次の日、何度も断りの電話を入れようとした。 でも待子さんに話を聞いていただいて、冷静さを取り戻すと、あの日の紗加さんの言葉が記憶の底からよみがえってきた。 撮影をすっぽかしたら大変な迷惑をかけることになってしまう、ということを。 もしかしたら、安西さんの一生を左右してしまいかねない、とまで紗加さんは言っていた。 そんなことになったら、それこそ悔やんでも悔やみきれない。 そのうちにわたしの心は決まっていった。 もう、逃げやごまかしはやめよう。 引き受けたモデルの仕事はきちんとすませて、そのあとで俊一さんに今の本当の気持ちを伝えよう。
last updateLast Updated : 2025-07-13
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11・撮影本番

 覚悟が決まってしまうと、憑きものが落ちたように平静な気持ちを取り戻すことができた。 とは言いつつ、今日、ここに来るまではやっぱり気が重かった。 どんな顔をして安西さんと紗加さんに会えばいいのだろうかと。 でもさすが紗加さんだ。  まったく普段どおりの対応で、何ひとつ変わるところはなかった。 安西さんのほうはわたしの姿を認めたとき、すこし決まり悪そうな顔をしていたが、でもすぐに「今日はよろしく、文乃ちゃん」といつもの口調で迎えてくれた。わたしも何でもない顔を装った。    建物の内部や庭園では、すでに大勢のスタッフさんがもくもくと準備を進めていた。 撮影のアシスタントも5,6人いる。  安西さんが講師をしている写真学校の生徒さんだと紹介された。 そのほかにもスタイリスト、雑誌のエディター、ヘアアーティストなど、手渡される名刺には横文字の職業がこれでもかと並んでいた。 紗加さんや安西さんの話だと、錚々(そうそう)たるメンバーらしい。 この人たちにモデルがこんな素人で大丈夫? と内心で思われているんじゃないかと気弱な心がまた頭をもたげてくる。 だめだめ、しっかりしなきゃ。「ああ、こんなところにいたのね」  紗加さんが30代後半ぐらいの男性を連れてわたしのところにやってきた。
last updateLast Updated : 2025-07-14
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11・撮影本番

「アートディレクションを担当していただく酒井さん」  その人はよろしくと言いながら、大手広告代理店の社名の入った名刺を渡してくれた。「大事な仕事のときにはいつも、酒井さんにお願いしているの」「よろしくお願いします」  挨拶をすると、酒井さんはにやにや笑いながら、わたしの顔を見た。「ふーん、きみが安西氏ご執心のモデル? 彼のこれ?」  そう言って小指を立てる。  ずいぶんと不躾な人だ。「ち、違います」  わたしは横にいる紗加さんの手前、必死に否定した。 この人は紗加さんが安西さんの恋人だって知らないんだろうか。「そう。でも気をつけてね。あいつ、きみみたいな綺麗な子が好みだから。いや選り好みもしないか。業界で有名なんだよ、あいつの『モデル喰い』。いい男は得だよなあ。可愛い女の子に片っ端から手つけられるんだから」 わたしは思わず紗加さんのほうを見た。  でも相変わらず眉ひとつ動かさずに余裕の表情を浮かべている。 恋人のことをこんな風に言われて何も思わないのだろうか。「あんなやつより、おれはどう? おれのほうがこの業界長いし、コネも多いよ」 そう言って、さも下心のありそうな視線で見つめてくる。 きっと場慣れしたモデルさんなら、冗談のひとつでも言って、うまくかわすのだろう。 でも、そんな器用な真似ができないわたしは、なんと返答していいかわからず、困ってしまった。
last updateLast Updated : 2025-07-14
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11・撮影本番

 「そっちこそ、撮影まえにモデルくどくなよ」 安西さんだった。  ぶっきらぼうにそう言い放った。「忠告してあげたんじゃない、この甘いマスクに騙されるなよって。しかし、よくこんな上玉、いままで隠してたな。もっと早く紹介してくれればよかったのに」 酒井さんは無視して、安西さんはわたしに言った。「打ち合わせたいことがあるから、控室に来てくれる?」「はい」  ほっとして、安西さんの後に続いた。「あいつに変なこと言われなかった? アート・ディレクターとしては超一流なんだけど人間的には下衆だから。おれはあんまり一緒に仕事したくないんだけど、紗加が気に入っているんだ。あいつの仕事」 やっぱりわたしが困っていたから、あの場から連れだしてくれたんだ。 今日、ここに来てからずっと感じていた。  撮影の準備で忙しいはずなのに、どこにいてもわたしのことを気遣ってくれる安西さんの視線を。 こういう現場に慣れていないわたしには、それがどれだけ心強いことだったか。「そんなことより、だいぶ緊張してるだろ。顔に出てるよ」「はい。スタッフの方がこんなに大勢いるとも思ってなかったですし……やっぱり怖くなってきてしまって……ごめんなさい」「よし」と安西さんは急に大きな声を出した。 
last updateLast Updated : 2025-07-15
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11・撮影本番

 「ほら、立って。深呼吸してごらん。おれも一緒にするから。思いっきり吸ってぇ……はいてぇ」 真剣な表情で深呼吸する彼がほほえましくて……あまりに愛おしくて、わたしは笑顔になった。「うん。その顔。それでいい」「はい。わたしもやってみます」  思いっきり深く息をはいたら、肩の力が抜けて、気持ちがすとんと落ち着いた。「外野のことは気にしないで、文乃ちゃんはおれだけを見て、おれだけを頼りにしてくれればいいんだよ」 彼の、いつもの軽薄さはすっかり影をひそめていた。 普段とは違う、仕事モードの安西さんは、どうしようもなく魅力的で、わたしはどぎまぎしながら「はい」と答えた。   午前9時。撮影はスタートした。 かなりの長丁場になるから覚悟して、と最初に釘を刺された。「でも、疲れたら遠慮なく言っていいからね」  安西さんはそう言って、それからカメラを構えた。 「よろしくお願いします」わたしも位置についた。「はい、こっちに目線をくれる? そういいよ。次は斜め右を見て」 先日の衣装合わせで一日中テスト撮影をして、ようやく写真を撮られることに慣れてきた。 安西さんの言葉に反応して、間違えずにポーズをとることができるようになった。 われながら格段の進歩だ。
last updateLast Updated : 2025-07-15
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11・撮影本番

 はじめて撮影してもらった日、緊張でがちがちのわたしの気持ちをほぐそうと、安西さんはとても軽い調子で話しかけてくれた。 けれども今日は違った。  すべてのカットが真剣勝負だという気迫が漲っている。「OK。じゃあ、衣装チェンジして」 安西さんの言葉を聞くやいなや、衣装さんとメイクさんがさっと動き出し、控室につくとあっという間に次の衣装の準備が整う。 これぞプロの仕事なのだろう。  その手際の良さには本当に舌を巻く。 12時を回ったころ、お昼休憩になった。 仕出し弁当が配られたが、食欲がなくほとんど手をつけられなかった。 ひとりでお茶を飲みながら、ぼんやり外をながめていると、安西さんと酒井さんが庭のほうから歩いてきて、隣の部屋に入っていった。 わたしから見える位置の椅子に安西さんが腰を下ろした。  パソコンにアップロードされた写真の確認をしているようだ。 くわえ煙草で、厳しい表情で撮影した写真をチェックする安西さん。 こんなに真剣な表情をしている彼を見るのははじめてだ。  目が離せない。 今だけではない。これまで知らなかった彼の姿を、今日はたくさん見ることができた。とくにカメラを構えた彼は、テスト撮影とは醸しだすオーラがまるで違った。 この場を仕切る主役は自分だ、という自信と誇りに満ちあふれていて、目が眩んでしまうほど素敵だった。 こうして、いつまでも彼のことを見ていたい。  その気持ちは果てしなく膨らむ。 でも、それもあと数時間。  この撮影が終われば、この人と共有する時間も終わる。  そう、終わってしまうのだ。
last updateLast Updated : 2025-07-16
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11・撮影本番

************ 海に沈んでいく夕陽を背景にするために、最後は庭園での撮影となった。 風はかなり冷たかったが、我慢できないほどではない。 いや、カメラの向こうから注がれる安西さんの視線だけに意識を集中していたから、寒さを感じなかったのかもしれない。 目だけでなく、うなじで、背中で、肩で、腕で、胸で、脚で、安西さんの眼差しを感じとっていた。 「後ろを向いて、そのまま振り返って。そう」 心のなかには安西さんとの数少ない思い出が浮かんでは消えていた。 わずか1カ月半の間のこととは思えない。 もっと長い時間のようにも、一瞬だったようにも感じる。 初めて会った日のこと、スタジオを訪ねた日のこと、星空の下で抱きしめられたこと。 そして……あの雨の日。  薄暗がりにぼんやりと浮かんだ紗加さんの白い首筋、紗加さんを弄る安西さんの大きな手、吐息、おもわず漏れでたふたりの声……。 記憶とともにあのときの痛みも鮮明によみがえる。 どうして、あそこにいるのはわたしじゃないの……その想いに身体中が占領されていた。 心身を焼き尽くす嫉妬心もよみがえる……  いや、今もまだ……その場で見ているように、紗加さんの美しい肢体を組み敷いている安西さんの姿が脳裏に浮かび、きりきりと心を締めつける……     
last updateLast Updated : 2025-07-16
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11・撮影本番

 つらくて、切なくて……どうにかなってしまいそうで。 気づかないうちに心の内が表情に現れていたのだろう。 安西さんはファインダーから目を外し、じっとわたしを見て、言った。「うん、その表情、いいよ。そう頬杖をついて、遠くを見て。そのまま目線を上げて、そう」 そろそろ日が落ちる。  夕陽が水平線を黄金色に染めていく。「次は海に向かって歩いてみて……。佐藤、ちょっと裾直してきてくれる? うん、OK」  安西さんのよく通る声を聞くのも今日で終わり…… けれど撮影が終盤に近づくにつれ、そうした雑念が、一切消えていった。 俊一さんへのやましさも、紗加さんへの嫉妬も不思議なほど薄れていった。 今、この時だけがすべて。 安西さんの言葉を聞いて、ポーズをとること。 そのことだけがすべてになった。  「夕陽のほうを向いて胸の前で手を組んでみて。もう少し上で。そう、それでいい」 カシャ、カシャというシャッター音さえ名残惜しい。  もっと聞いていたい。  わたしと安西さんをつなぐ唯一の紐帯(ちゅうたい)。 もうすぐで……あと、数カットで…… 「OK! 終了!」 その声とともに、スタッフの拍手に包まれていた。 とても素敵でした、とアシスタントの学生さんに感極まった調子で声をかけられ、ようやく我にかえった。   終わった……
last updateLast Updated : 2025-07-17
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