元夫の初恋の人が帰国した日、私は彼の兄嫁になった のすべてのチャプター: チャプター 751 - チャプター 760

760 チャプター

第751話

隼人には、すべてが分かっていた。生まれてこの方、誰かにこんなにも大切にされたことはなかった。今、彼はそれを実感している。これまで心に湧き上がっていた嫉妬も、静真のことに対する不安な気持ちも、この深い愛情にかき消されてたのだ。そう思うと隼人は、もう本当にどうでもよくなっていた。でも、今自分がここに残れば、月子は耐えられないだろう。彼女を苦しみの中で生かすことになる。そんな残酷なことができるはずがない。「月子、お前のその言葉だけで十分だ。お前の言う通りにする」でも、離れたくない。その言葉を隼人は、喉の奥に押しとどめた。結局、隼人にできたのは月子の耳元で、「愛してる」と繰り返し囁くことだけだった。昨夜ベッドで夢中になった時、月子が何度も彼に愛を囁いてくれたのと同じように。今の状況はどうしようもない袋小路だった。隼人が気にしないと言ったからといって、本当に何もなかったことにはできない。だから、このまま月子のそばにいるわけにはいかないのだ。現実とは、残酷なもので、どれほど願っても、その思いが届かないことがある。そして、時には誰かの一存で変えられないものもあるのだ。「子供は、あと何ヶ月で生まれるんだ?」隼人は尋ねた。「今は七ヶ月くらい。あと二、三ヶ月かな」隼人の目に、すっと影が落ちた。「そうか。分かった」隼人が月子を離すと、彼女が泣き崩れているのが目に入った。真っ赤になった目尻を見て、胸をえぐられるような痛みが彼を襲った。月子と付き合い始めてから、彼女を泣かせたいなんて思ったことは一度もなかった。隼人の手は明らかに震えていた。彼はそっと月子の頬の涙を拭うが、涙は後から後からあふれてきて、拭いきれない。「まずは何か食べろ。一晩中疲れただろうに、またこんなに泣いてしまって……」そうは言うものの、整えたはずの声が、また抑えきれずに掠れてしまう。隼人の声色には、ついに焦りが滲み出た。「月子、頼むから……もう泣かないでくれないか?お前がそんな状態だと、俺は心配でどうしようもなくなるだろ」心配どころの話ではない。できることなら月子のそばにいて、彼女が心から笑えるようになるまで見守っていたい。そうでなければ、安心して離れることなんてできやしない。「隼人さん、行って」月子は、口と頭が完全に切り離されたように感じていた。口から出る言葉は
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第752話

隼人は不動産をたくさん持っているから、引っ越しは珍しいことじゃない。賢もそう思っていた。でも、こんな真夜中に連絡してくるなんて、どう考えてもおかしい。だから隼人から、月子の家から引っ越すと聞かされた時、賢はようやく事の重大さに気づいたんだ。賢は人を四人ほど呼んで家に入ると、その場で呆然と立ち尽くした。部屋の電気は消えていて、窓の外のネオンが少し差し込むだけだった。隼人は一人ソファに座り、まるで石のように固まって闇に溶け込んでいた。賢が電気をつけると、その明かりが眩しかったのか、隼人は目を閉じて手で覆った。黒いシャツのボタンは二つほど外れ、あちこちシワになっている。隼人が手を下ろすと、その口元には青々とした無精髭が生えていた。表情だけ見れば、隼人は普段と変わらないように見える。だけど、その全身から発せられる空気は息が詰まるようで、珍しくやさぐれていた。「隼人、どうしたんだ?」賢は薄々何かを察していたけど、信じられなかった。きっと、何かの間違いだろうと。「俺の荷物を全部運び出してくれ」隼人は静かに命じた。賢は顔色を変え、何かを問い詰めようとした。でも、すぐに冷静さを取り戻し、連れてきた人たちに荷造りを始めるよう指示した。すぐに、広い部屋には作業の音だけが響き渡った。賢は隼人のそばにいてやりたかったけど、そうもいかない。ここは月子の家だから、どれが隼人の荷物か分からないものは、その都度確認しなければならなかったからだ。「まだ開けてないプレゼントがあるんだけど、これは置いていくのか?」隼人が視線を向けると、それは出張の土産に月子へ買ってきたアート作品だった。彼女はまだ、それを開ける時間がなかったらしい。「それはここに置いていけ」賢はまた作業の監督に戻った。服や日用品、隼人の写真、そして二人のツーショット写真まで。隼人に一つ一つ確認しながら、すべてを箱に詰めていった。二時間後、部屋からは隼人が暮らしていた痕跡がほとんど消えていた。月子へのプレゼントを除いては。隼人は出張に行くたび、何か思いつけば月子にプレゼントを買ってくるのが常だった。まだ一年も住んでいなかったのに、荷物は段ボール箱で二十個以上になった。「隼人、この箱は全部、隣の部屋に運ぶのか?」隣の部屋なんかに住んで、月子に会いたくなる気持ちを我慢でき
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第753話

ついに、賢は見ていられなくなり、隼人の腕を掴んだ。「おい、よせよ」だが、隼人は何かにとりつかれたようにその手を振り払うと、異常なほど冷たい目つきで言った。「俺にかまうな」隼人はいつも友達には優しくて穏やかだったのに、今はまるで別人のように冷たくて鋭い。賢はその場に凍りつき、彼がまた何かをしようとするのを見て、こわばった声で言った。「隼人、二人に何があったか知らないけど、絶対に解決策はあるはずだ。あんなに長く付き合って、仲も良かったんだから、簡単に別れるなんてことないだろ」賢の言葉は効果があったようだ。隼人は自分の手を見つめ、それが全く見知らぬもののように感じられた。自分はさっき、何をしていたんだ?自分が何をしているのかさえ分からない。ああ、そうか。隼人は力が抜けたように笑った。自分は焦って、パニックになっていたんだ。月子と約束したのに、どうしてまだこんなことを。しっかりしろよ隼人。本当に諦めたわけじゃないだろ、そう彼は心の中で呟いた。本当は泣くつもりじゃなかったのに、隼人は今、泣きたい衝動に駆られていた。大声をあげたいわけじゃない。ただ、あまりにも心が痛いのだ。胸に重い石を詰め込まれたようで、息をするのさえ苦しい。一度手にした温もりを、こんなにも無情に奪われるなんて、これほど残酷なことがあるだろうか。それでも隼人は泣かなかった。「行こう」隼人は全ての感情を押し殺した。取り乱したかと思えば、今度は急に冷静になったのだ。しかし、それは落ち着いたわけではなく、まるで全身から力が抜けてしまったかのように、暗い影が彼の全身に覆いかぶさっていた。車に乗ると、隼人は賢に事の経緯を話した。賢は衝撃のあまり言葉も出なかった。しばらく呆然とし、何とか状況を理解しようとしたが、あまりにもの衝撃でなかなか飲み込めずにいた。「静真……あいつ……狂ってるのか……」まさに、静真の打った手は致命的だった。いきなり子供を二人も用意するなんて、誰が想像できただろう。月子はこの事実を受け入れられず、隼人に顔向けできなくなってしまった。だから、きっぱりと別れを選んだのだ。賢は月子のその決断力と行動力に感心せざるを得なかった。あれほどのショックを受けながらも、彼女はすぐさま、皆にとって最善だと思える決断を下したのだ。ただ、その決断は月子と隼人にとってはあまりに
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第754話

一方で、月子はここ何日のことを会社には、風邪をひいて調子が悪かったと話していた。そして、それからの数日は、昼夜もなく働き詰めだった。夜に眠れない時も、起きて仕事をした。時には、泣きながら複雑な書類に目を通すこともあった。なにせ、仕事をしている間は、他のことを考えずに済んだからだ。ただ彩乃がなにやら少し勘付いたようで、彼女がこんなにも無理をしているのに、隼人がなにも言って来ないのは、別れたいんじゃないかって文句を言っていた。だが、月子は何も答えなかった。ただ、彩乃も何かを探りを入れたいけど、でも核心に触れるのをためらっているからだろうと分かっていたからだ。この一週間、月子は隼人と連絡を取っていなかった。ラインをブロックしたわけでもないし、共通の友人もいるから、いつでも連絡はできたのに。でも、最初の数日が肝心だと月子は分かっていた。一度連絡してしまえば、その声を聞くだけで、今まで我慢してきた思いがきっと堰を切ったように溢れてしまうだろう。そうなれば、元も子もないのだ。ようやく出張も終わりに近づいていた。月子はフリーリ・レジデンスには戻らず、どこか別の場所に住もうかと考えた。でも、書斎には大量の書類があるから、どうしても一度帰らなければならなかった。彩乃は月子の家の地下駐車場に車を停めた。月子が帰りたがらない様子を見て、「うちに何日か泊まりに来る?」と提案した。「ううん、大丈夫。帰るよ。いつかは帰らなきゃいけないんだから」月子は車を降りる前、彩乃の手を握った。「心配してくれてるのは分かってる。あなたも、もう気づいてるよね。そう、私、隼人さんと別れたの……どうしてそうなったかは、もう少し元気になったら、全部話すから」彩乃は何か慰めの言葉をかけたかったが、月子の様子を見ていると、むしろ自分が泣きたくなってしまいそうだった。でも、当の本人は必死に耐えているのだから、自分もしっかりしなければと思うと、何も言えなかった。聞きたいことはたくさんあるけど、月子が落ち着くまで待とうと彩乃は思った。「うん、分かった。待ってる。きっと大丈夫だから」月子は虚ろに「うん」と頷くと、車を降りて家に向かった。エレベーターを降り、自宅のドアの前に立つと、何度も通ったこの道に、月子は大きく溜息をついて、ようやく少しだけ家に踏み入れる勇気をもてたような気がした。
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第755話

「私……今……一人じゃいられない……ねえ、そばにいてくれないかな……もう無理……彩乃、もう無理なの。本当に、本当にもう無理……体中が痛いの、全身が、どこもかしこも全部痛くて、もう死にそう……」そう言うとスマホが月子の手から滑り落ちた。そのまま彼女は床に倒れ込み、しゃくりあげる力もなく、ただ静かに涙を流すだけだった。彩乃は月子のことが心配で、まだ近くにいた。彼女は月子からの電話を受けると、すぐに車から飛び出した。エレベーターを降りると、月子の家のドアは開けっぱなしだった。彩乃が急いで駆け込むと、リビングの床に倒れている月子の姿が目に飛び込んできた。そして、そんな彼女は生きる気力も失くし、絶望しきった顔をしていた。彩乃の目から、わっと涙が溢れ出た。彼女はすぐに月子を抱き起こすと、その頬を軽く叩いて、「大丈夫、もう大丈夫だからね……」とあやすように言った。彩乃の顔を見ると、月子の瞳にようやく光が戻った。彼女は彩乃の腰に強くしがみつき、その胸に顔をうずめた。抑え込んでいた感情と、耐え難いほどの痛みが、涙となって一気に溢れ出した。本当は月子も、こんな風に弱々しく感傷的になりたいわけではなかった。でも、本当に失恋してしまったのだ。家に帰ってきた途端、その事実があまりにもはっきりと突きつけられて、もう耐えられなくなってしまったのだ。この一週間の出張中、彼女はずっと無理して気丈に振る舞っていただけだった。自分はこんなにも隼人のことが好きだったんだ。誰にも頼りたくないと思っていた自分が、隼人のことだけは心の支えにしていた。それなのに今、その支えを根こそぎ奪われてしまったのだ。「痛い、体中が痛いの……息ができない……彩乃……彩乃……」彩乃は月子をさらに強く抱きしめ、自分の体温を必死で彼女を温めてあげようとした。できることなら月子の痛みをすべて肩代わりしてあげたかった。でも彼女にできるのはただ慰めてあげることだけだった。「痛いの痛いの、飛んでいけ。大丈夫……月子、きっと大丈夫だから。痛いの痛いの、飛んでいけ……」……出張から帰ってきて四日が経ち、月子はなんとか普通に振舞えるように落ち着いた。彼女は未だに、隼人との思い出が詰まったこの部屋にまだ住み続けている。そこはかつての甘い思い出が詰まった場所だったが、今の彼女にはとても耐え難い苦痛の
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第756話

そう言った直後、彩乃がドアを開けて入ってきた。そして、月子の描いた絵が目に入った。美術展によく足を運ぶ彩乃は、その絵から伝わってくる感情に一瞬で心を掴まれた。それは息をのむほど素晴らしい出来栄えで、美術展でそこそこ有名な画家たちの作品とは比べ物にならないほどだった。月子を見ると、彼女の表情はいつも通りで、見た目には元気そうだった。しかし、本当の気持ちはすべて心の中に押し殺しているようだ。本当に強がりな子だ。死ぬほど辛いはずなのに、仕事のスケジュールを一切遅らせようとしないのだから、会社の同僚もほとんど彼女の変化には気づいていなかったのだ。でも彩乃は月子を気にかけて、気晴らしに飲みに連れ出したりしていた。そうでもしないと、月子は仕事で自分を追い詰め、壊れてしまいそうだったから。気持ちが落ち込んでいる時だからこそ、体まで壊すわけにはいかない。だから彩乃は、最近ずっと月子のそばにいるようにしていた。しかし、この絵を見てしまったら、何日も胸にしまっていた言葉が、つい口からこぼれてしまった。「月子、鷹司社長はまだあなたと一緒にいたいって言ってるんでしょ……本当にすごい人だと思う。でも、あなたの親友としては、私にも言いたいことがあるの」月子は彼女の方を向いて尋ねた。「言いたいことって、何?」彩乃は、はっきりと口にした。「もちろん、鷹司社長を受け入れてほしいってことよ。彼の気持ちをね。考えてみて。もし別れなければ、鷹司社長と一緒にいられた。子供が生まれたら大変なこともたくさんあるだろうけど、彼ならちゃんとあなたと一緒に背負ってくれるはずよ。でも今のあなたは、失恋の辛さを抱えながら、これから先、一人であのヤバい静真と向き合わなきゃいけないのよ。二人の子供の成長や教育のことも心配しなきゃいけない。頭がおかしいんじゃないかと思うような男に、まともな子供が育てられるわけないじゃない。彼自身が普通じゃないんだから。月子、あなたがもし子供たちを放っておけるような人なら、話は別よ。でも静真は、あなたの性格を分かってるから、子供を使ってあなたを縛り付けてるんでしょ。彼はきっと、子供が辛い思いをしてるってあなたの耳に入れてくるわ。子供に何かあったら、あなたは絶対に見過ごせないもの。子供たちが大人になるまで、あと十八年もあるのよ。一人だって大変なのに、二人も。
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第757話

「隼人さんが子供二人を受け入れるだけでも、ものすごく大変なことなのに。この先、彼は何度もそのことで心を傷つけられることになると思うと居た堪れないの。しかも、それは一度きりでは終わらず、子供が大きくなるまでには何年も続くことなの。それはきっと彼をずっと苦しめ続けるに違いない……そんなの隼人さんにとって、あまりにも辛すぎるでしょ。最終的に、彼は傷だらけになって、思い出さえも苦いものになってしまうかもしれない。隼人さんにそんな残酷なことはできない。私には無理よ。だから、別れるのが一番いい結果なの。こう言えば、私の気持ちを分かってくれる?」彩乃はもちろん分かっていた。でも、分かれば分かるほど、胸が痛くてたまらなかった。「あなた達って本当……別れを切り出した時、鷹司社長はあなたを引き止めなかったの?」「彼はすぐに別れに同意してくれた」「そんなはずないでしょ。鷹司社長は、あんなにあなたに執着してたのに……」月子は虚ろな笑みを浮かべた。「それは、隼人さんが私のことを理解しすぎてるからよ。どうして私が別れたいのか、ちゃんと分かってるの。別れたくなくても、引き止めることはできなかった。別れなければ私がもっと苦しむって、彼には分かっていたのよ。彼も、私のことを考えてくれたの」言葉にしなくても、相手がなぜその選択をしたのかが分かる。月子と隼人は、それほどまでに心が通じ合い、お互いを思いやっていた。だからこそ、別れ際に言い争うこともなく、ただ静かに離れることができたのだ。しかし、月子は隼人にはっきりと「別れよう」とも「さようなら」とも言ったわけではなかった。そんな言葉を口にするのは、二人にとってあまりにも残酷すぎたからだ。すべてを理解した彩乃は、もう何も言わなかった。ただ、本当に胸が痛かった。せっかく二人は出会って、あんなに素敵で甘い時間を過ごしたのに。幸せな結末を迎えるどころか、別れるしかない状況に追い込まれてしまったなんて。「おいで」彩乃は月子を抱きしめ、少しでも彼女を温めてあげたいと思った。そして、静真を罵り始めた。彼の無責任さ、後先を考えない行動、二つの小さな命を何とも思っていない態度を……罵れば罵るほど腹が立ってきて、最後にはありとあらゆる悪口で彼をこき下ろした。もちろん、月子だって早く立ち直りたかった。けれど、隼人を忘れることは、
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第758話

「個性派の新進気鋭アーティストで、作品は大胆な色使いで知られてて。一枚の絵が数千万円以上で取引されるらしいよ」桜はまたスマホをタップした。「まっ、全部話題作りってとこね。裏に専門のPRチームがついてるの。それに、マネーロンダリングみたいな裏の工作もしているらしい。有名人の資産隠しを手伝ったりしてるみたい。彼女の芸術的才能は、噂されてるほどじゃないってことね」美咲は天音と知り合ってから、本当に視野が広がった。彼女が一番強く感じたのは、絶大な資金力の前では、才能のない人間でも名声と富の両方を手に入れられるということ。まるで初めて新しい世界に足を踏み入れたようで、世の中のルールが根底から覆され、大きな衝撃を受けた。「たかが数千万円のために、こそこそ資産隠しなんてする必要がある?少なくとも数十億円の値がつく骨董品のオークションとか、数億円レベルの美術品じゃないの?」と天音は尋ねた。竜紀は言った。「それは純資産がいくらあるかによる。資産が少なければ、その程度の額しか動かせない。あるいは、この新進画家の芸術的価値が、その程度だってことだな」「ちょっと待って、彼女の経歴、結構すごいわよ」桜はスマホの画面を指差した。「J市社交界の一員みたい。界隈の有名人と一緒にイベントに出てる写真もたくさんある。多分家柄は悪くないはずよ」好きな人以外は誰であろうと見下す天音は、すぐに結論を出した。「てことは、家柄の良いお嬢様が小さい頃から絵を習っていたのに、結局は話題作りに頼らないと、この程度の価値しか認められないってこと?」桜は、楓の作品を探し出した。天音はそれを一瞥すると鼻で笑い、美咲に見せた。「これ、素敵だと思う?」美咲が覗き込んでみると、そこには様々な形の線が描かれていて、色使いも確かに大胆だった。天音は馬鹿にしていたが、彼女は正直に、「う……うん、結構きれいだと思う」と言った。天音はスマホを取り出し、画面をタップした。「じゃあ、こっちの絵と比べてみて。どっちがいい?」朝日が昇る様子が描かれ、色彩はより調和がとれていた。線とも一体化していて、見ていて心地よい。「それは断然こっちの絵ね」と美咲は言った。「これは海外で買ったの。ご飯も食べられないくらい貧乏な、無名のアーティストの作品よ」「……アーティストの支援までしてるなんて、あなたって
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第759話

人は誰かを好きになると、感覚が鋭くなるものだ。楓は、ほとんど一瞬で察した。それから彼女は狂ったように賢に付きまとい、隼人と月子が付き合っていることを突き止めた。片思いの相手に恋人ができたという事実は、楓にとって失恋と同じくらい辛いことだった。楓は、この数か月間をどうやって耐えてきたのか自分でも分からないほどだった。遥がそばにいてくれたのが、せめてもの救いだった。そして最近、遥に協力してもらい、隼人が引っ越したことを突き止めた。これで二人が別れたと確信した楓は、傷心が一瞬で癒えるほどの喜びを感じていた。以前は月子なんて眼中になく、恋敵とさえ思っていなかった。それなのに、本当に隼人と付き合っていたのだ。二人がキスをしたり、抱き合ったり、体を重ねていたかもしれないと想像するだけで、楓は月子への憎しみに駆られた。そして、今月子に会ってみると元気がないように見えた。きっと心の底から傷ついているんだろうな。いい気味ね。もともと釣り合わないくせに、よくも図々しく隼人と纏わりついたものね。身の程をわきまえない人間が一番ムカつくんだからと楓は思った。だから、二人が別れたと確信すると、楓はこのうえなく気分が良かった。彼女は周りに展示されている作品を見回してから、月子に視線を戻した。「美術展なんて見に来る余裕があるんですね。本当に彼のことが好きだったのですか?別れたなら、普通はズタボロになって、しばらく引きこもるものですよ。まあ、あなた達が別れてくれて、私はすっきりしましたけど。こうしてあなたの惨めな姿を見れたんですから」楓は嘲笑った。「でも、あなたにこの作品が理解できるのですか?あなたみたいな人がアートなんて、笑わせないでくださいよ」楓は芸術家なだけに、個性が強く、言葉もキツくて耳障りなことが多かった。ひらったく言えば、彼女は礼儀知らずなところがあるのだ。遥が隣で楓をなだめた。「楓さん、もういいから、落ち着いて」「落ち着けるわけないでしょ!家柄も資産もない、おまけにバツイチよ?彼女のどこが隼人に釣り合うっていうの!思い出すだけで虫唾が走る。気が収まるわけないじゃない!」月子は楓が言い終わるのを待ってから口を開いた。「楓さん、あなたが好きな人に振り向いてもらえない理由、まだ分からないのですか?」楓は虚を突かれた。「ふん、
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第760話

その状況に遥はとても驚いた。このボディーガードは、一目見ただけで館内の普通の警備員ではないと分かるのだ。遥のボディーガードは全員外にいた。実際彼女もまさか館内でトラブルが起きるなんて、思ってもみなかったから。遥は数秒考えると、やはり後を追った。もしかしたら、月子が何か仕組んだのかもしれない。月子は隼人と付き合っていたのだ。会ったこともない妹がこれほどの驚きを与えてくれたので、遥が月子に好奇心を抱くのは当然だった。一方で楓は、このボディーガードが騒ぎを起こすのを止めようとしているのではなく、自分を懲らしめにきたのだと気づいた。それには楓も少し恐怖を感じた。幸い、視界の隅に遥が追ってくるのが見えた。遥ならきっと助けてくれるはずだ。ただそのせいで、周りから笑いものにされたようだ。自分がこんな惨めな目に遭うのも、全部月子のせいだ。あの女。展示館の倉庫は美術品を保管するため、どこもスペースが広い。そこは関係者以外立ち入り禁止の区域だった。楓が引きずり込まれると、すぐにドアは閉められた。遥は外で足止めされた。その時になって初めて、楓は本物の恐怖を感じた。楓は倉庫の隅に放り出された。警察に通報しようとスマホを取り出すと、そのボディーガードに奪い取られた。突然、何の予兆もなく平手打ちが彼女の顔に炸裂した。激痛が走り、楓は悲鳴を上げた。「あなたたち、誰よ!よくも私を殴ったわね!」このボディーガードは特殊部隊の出身で、命令を実行することが彼の天職だった。その体からは殺伐としたオーラが漂っていた。ボディーガードはまるで冷たい道具のようだった。楓の悲鳴や詰問にも、少しも動じる様子はなかった。「もう一発。ちゃんと懲らしめて」それは、ひどく傲慢な声だった。楓はこれまで多くの人を見てきた。この言葉に含まれる傲慢さから、相手が裕福な家の令嬢であることは間違いなかった。彼女が考える間もなく、重い平手打ちが飛んできた。歯で口の中が切れ、血の味が広がり、口の端から血が滲み出た。続いてめまいがして、数秒間、頭の中が真っ白になった。楓も、J市社交界では名のある令嬢だ。家柄は鷹司家には遠く及ばないものの、資産は数千億円もある、正真正銘のセレブだった。しかも、兄の賢は家業を継いでいないが人脈は広く、影響力で言えば、実
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