All Chapters of 元夫の初恋の人が帰国した日、私は彼の兄嫁になった: Chapter 811 - Chapter 820

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第811話

考えても仕方ないことは、もう考えない。月子は頭をからっぽにして、足元だけに集中した。結衣はとても情緒あふれる人だった。J市の庭も手入れが行き届いて見事だけれど、ここでの湿った気候で育った草花の生命力にはかなわない。彼女は心地よさそうに息を吸い込むと、言った。「少し、散歩に付き合ってちょうだい」月子はうなずいた。「はい、もちろんです」珍しい花を眺め、小さな池のほとりを歩き、木の下で足を止める。ほんの少し散策しただけなのに、いつの間にか十五分も経っていた。「肝が据わっているわね」結衣は月子を見つめた。「あなたくらいの若い子とは、どうも上手く付き合えなくて。だからついこっちも考え方がどんどん堅物になっていくし、あなたたちが何を考えているのかもさっぱり分からなくなってしまうのよね」結衣が若い子と付き合えないんじゃない。みんなが彼女を怖がっているだけだ。月子にも、それが結衣の謙遜だということは分かった。「とんでもないです、鷹司会長」月子にしてみれば、結衣には恭しく接するしかなく、それ以外の適切な態度が思いつかなかったから礼儀正しく、控えめな態度を保つしかなかった。「私を見て」と、結衣が言った。月子は伏せていた目を上げると、瞬きもせずまっすぐに結衣を見つめた。結衣は月子の目をじっと見つめ、ふっと笑みを浮かべた。「あなたが隼人と付き合っていた頃、私があげたプレゼントは気に入ってくれたかしら?」月子は頷いた。「もちろんです」「でも、あなたがあのプレゼントをたいして気にも留めていないことくらい、分かっていたの」月子は黙り込んだ。「当然よ。だって私も、あなたのことなんて気にも留めていなかったもの。お金を渡すのが、一番簡単で楽じゃない?頭を使わなくてもいいし、あなたからも良く思われるしね……でも、あなたはとても賢かった。私の態度がおざなりなことを見抜いて、お互いにとって一番楽な付き合い方を選んでくれた。お互い気持ちのいい付き合いかたをね。こういう細かい気遣いは、普通の若い子にはできないものよ。隼人でさえ、私のやり方にはすぐ乗せられるのに。あの時、あなたは私を本当に驚かせた。最初は隼人が好きになった子っていうだけで興味があったの。でも、付き合っていくうちに、あなたのことがとても強く印象に残ったのよ」こんな風に本心を打ち明け
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第812話

月子の内心は、不安と恐怖で揺れていた。それは彼女の目にも少しだけ表れていたけれど、それ以上に冷たく毅然とした態度が際立っていた。いかにも月子らしい。その芯の強さは、結衣が同年代の女の子にはなかなか見られない、特別なものだった。結衣には分かっていた。月子がずっとプレッシャーに耐えてきたこと、それだけでも大変なことだったはずだ。彼女が今も必死に気丈に振る舞っているのは、この状況を乗り切らなければならないという自覚があったからだろう。これが天音だったら、とっくに泣いて逃げ出していただろう。あの子は外では威張っているくせに、本当は臆病者なのだから。もっとも、天音の家柄なら強くある必要なんてない。だから、月子のような気概は育たなかったのだろう。結衣は、なにも月子を怖がらせるつもりはなかった。「あなたはよくやったわよ」月子は自分の耳を疑った。「え?」結衣は言った。「隼人は本当に馬鹿ね。あなたとあんなに長く一緒にいたのに、心を掴めないなんて。それはあいつに甲斐性がなかっただけよ。あなたのせいじゃないから」その言葉は、月子にとってあまりにも予想外だった。「鷹司会長、これは……」「あら、まだ隼人に罪悪感でもあるわけ?」結衣は隼人を容赦なく嘲笑った。「あいつがあなたを好きなのは、あなたが若くて綺麗だから。だから優しく接しただけ。あなたが負い目を感じる必要なんてない。むしろ感謝すべきは隼人のほうよ。あいつの人生は、あなたのおかげで変わったの。彼は自分の人生はずっとどんよりしていたって言ってたわよ。あなたが現れて、その人生がこれまでにないほど華やかで温かいものになった。それだけでもあいつはあなたに感謝をしないとねこれほどあなたを大事だと思っているのなら、必死で守り抜かなければいけなかったのに、それができなかった。振られて当然よ。だってあなたは、若くて綺麗で才能もあるし、何より人の愛し方を知ってる。あなたに言い寄る男なんて腐るほどいるんだし、それに加えて静真っていうとんでもない脅威までいるのに、隼人はそれを真剣に受け止めず、静真を警戒しようともしなかった。結局、静真に出し抜かれた。これって誰のせいでもない、隼人自身の問題よ」結衣から見れば、隼人と静真のやっていることなんて、ただの奪い合いに過ぎなかった。勝った方が全てを手に入れる。ただそ
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第813話

結衣は月子を見て、穏やかに笑いかけた。「綾辻さん、子供ができたことで、あなたは隼人と別れることを選んだのね。あなたにとって、男とか恋愛はそこまで大事なものじゃないって、私にはわかる。一度結婚に失敗してるから、男なんて信用できないし、期待もしなくなったんでしょうね。でも子供は違う、どんなことがあろうと親子の絆は代えがたいものよ。もし私があなたの母親だったら、あなたが子供を選ぶことを心から応援すると思う。男は今日『愛してる』って言っても、明後日には他の女を好きになってるかもしれないもの。一途な男なんて、そうそういるもんじゃないの。だからこそ、自分で選べる権利をしっかり持っておくことの方が、ずっと大事よ。どんな男を選ぶかより、まず自分が楽でいられること。女はそれを一番に考えるべきよ」月子は、ここまで静かに耳を傾けていた。最初は緊張でこわばっていた彼女も、結衣に責める様子がないとわかると、少しほっと息をついた。しまいには、慰められ、諭され、心配されているような、そんな温かさまでかすかに感じていた。とはいえ、月子はまだ油断していなかった。結衣が、ただ自分を励ましに来ただけのはずがない。この優しい言葉は、あとで何かを言うための前フリなのか、それとも皮肉なのか、彼女には判断がつかなかった。しかし、結衣に言われて、月子の中でばらばらだった考えが、一瞬で繋がり、はっきりとした形になったことは確かだった。月子は子供の存在を知った時、真っ先に隼人との別れを考えた。子供の存在が、隼人との間にたくさんの問題や、決して埋められない溝を作ってしまうと思ったからだ。隼人にも多くの犠牲や我慢をさせることになるだろう。そんなふうにお互いが苦しんで、二人の関係が壊れていくのが嫌だった。二人とも辛い思いをするくらいなら、いっそ別れた方がいい、と思っていた。でも、どうしてそんな考えが浮かんだのだろう?月子は、長い間その理由を考えていた。実際、彩乃に、なぜ自分には気兼ねなく頼めるのに、隼人には一緒に問題を解決させたがらないのかと言われた時、月子にはその理由について思い当たる節があった……結局のところ、月子は隼人と結婚するなんて、一度も考えたことがなかったのだ。もちろん、子供のことがわかるまでは、結婚への気持ちも揺らいではいた。隼人ともう数年付き合えば、勇
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第814話

しかし、別れてみて初めて分かった。失恋のショックは、月子が思っていたよりずっと大きかったのだ。そして、自分が隼人のことを、想像以上に深く愛していたことにも気づかされた。ここまで聞いても、月子には結衣の意図が読めなかった。「鷹司会長、私に、もう諦めろと説得しにいらしたのですか?」きっとそうに違いない。自分がきっぱり諦めれば、もう隼人に付きまとうことはない。そうすれば、隼人は結衣が望む嫁と一緒になれるのだから。「ええ。もしあなたがもう分かっているなら、今の話は不愉快な説教に聞こえたでしょ。気にしないで。あなたの好きなようにすればいいのよ」月子は慌てて言った。「鷹司会長。勉強になりました」結衣は、月子の冷静さに感心していた。自分の選択を後悔せず、きちんと責任を負うことができる。子供が二人もいて、権力と複雑な人間関係が渦巻く家の中でも上手く立ち回り、常に心を落ち着けていられるのだ。これほど自立している月子にとって、離婚後にわざわざ誰かと付き合う必要など、本当はなかったはずだ。隼人が離婚直後の月子と付き合えたのは、彼女が精神的に不安定で、後ろ盾となってくれる相手がいなかった、その隙を突いたに過ぎない。その上、静真の過激な行動が月子を追い詰めていたのも、隼人が彼女の心に入り込むきっかけになったのだろう。もちろん、実際に何があったのかは結衣の想像通りではないだろうが、それでも、だいたい当たっているはずだ。だから、どんなに強い人にも、ふと弱気になる瞬間がある。そんな時その心の隙をついて入り込むのは容易いことだろう。普段は気丈に振る舞っている月子だが、運悪く、隼人はその心の隙間が生まれたまさにその瞬間に居合わせ、彼女の心を動かしてしまったのだ。結衣が黙ってしまったのを見て、月子は改めて口を開いた。「ありがとうございます」自分は運がいい。これまで出会った年配者の方々は、皆優しくしてくれた。きっと、器が大きくて見識が広い方ばかりだったから、自分のような若者にも寛大でいられたのでしょ。結衣は、誰もが見惚れるような華やかな笑顔を浮かべた。「でも、若い人たちにもチャンスをあげないとね。だからわざわざこうして来たのよ」話の脈絡がまったく掴めず、月子はきょとんとした。どういう意味か詳しく聞こうとしたが、結衣はそれ以上何も言わず、じっと彼女の目を見
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第815話

達也は、緊張のあまり結衣の顔をまともに見ることができず、手までかすかに震えていた。それを見て月子は、結衣がなぜ自分を落ち着いていると褒めたのか、その理由を悟った。二人の間には何か因縁があるようだ。月子は自分がいては邪魔だろうと思い、挨拶だけしてその場を後にした。結衣は達也を見つめていたが、その瞳にかつての情はひとかけらも残っていなかった。達也は、結衣の方から何か話しかけてくるだろうと思っていた。しかし、彼女は全く口を開く気がないようだった。「どうして、ここに?」達也は、とても気まずそうに尋ねた。結衣は彼を一瞥して言った。「もちろん、隼人のことに決まってるでしょ」達也はきょとんとした。「彼のために?」それは、「あなたが母親らしいことをするなんて」とでも言いたげな、信じられないという表情だった。達也は尋ねた。「一体なんだ?」結衣は、この男が歳をとっただけで全く成長していないことに呆れ、これ以上話す気も失せてしまった。「隼人が私に懐かないのよ。だからあなたがもっと積極的に関わって、気にかけてあげて」この前の政略結婚の一件で、隼人が自分のことやJ市の家をどう思っているのか、結衣は知ってしまった。評価は最低最悪。面目を潰された彼女は、なんとしても名誉挽回したいと思っていた。一方で達也は、相変わらず大人しく言うことを聞くしかなかった。「わかった」月子が戻ると、今まで一度もいい顔を見せたことのない晶が、なんと彼女に話しかけてきた。「彼女に何を言われたの?」「一緒に花を眺めていただけです」「花だって?彼女にそんな優雅な趣味があるわけないじゃない」晶は月子をじっと見つめ、不満そうに言った。「あの女のことが好きなの?」月子は、晶から嫉妬の感情を読み取った。たぶん、結衣という存在が眩しすぎて、晶の心に棘として刺さっているのだろう。だから、無意識に何でも比べてしまう。息子を比べた次は、元嫁である自分の態度まで比べようとしているのだ。「別に、普通に接しているだけです。鷹司会長とは今まであまり接点がありませんでしたから」晶は、月子が嘘をついていると分かっていた。でも、今の彼女にはどうすることもできない。だから、こう続けた。「時間があるなら、あなたと静真の子供たちの面倒を見てあげてもいいわよ。あなたたち若い人だけじゃ、何かと至ら
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第816話

結衣の言葉は、何気ないように聞こえるけど、そこには確かな重みがあった。結衣がそう言った以上、月子には目に見えない強力な盾ができたようなものだ。この場にいる誰もが、もう彼女を軽んじることなどできないだろ。結衣の何気なく身内をかばう一言が絶大な影響力をもたらすのは、彼女自身の立場が高いからこそ、その言葉にも権威を発揮できる力があるのだ。晶がこれ以上騒ぎ立てたくても、もう何の理由もない。それに、たとえ月子に嫌がらせを続けたとしても、彼女を困らせることも、もう昔みたいに言いなりにさせることもできないだろう。そしたら、目的を達成できないどころか、自分がただの笑いものになるだけだ。というより、結衣がここに現れた時点で、晶はすでに笑いものになっているのかもしれない。そもそも結衣という存在こそが、晶にとっては一生かけても拭えないコンプレックスなのだから。晶は怒りと悔しさで顔を青ざめさせ、恨めしそうに結衣を一瞥した。そして、月子をきつく睨みつけると、結局何も言わずに踵を返し、バッグを掴んで出て行った。その時、達也が戻ってきた。これも全部、この男のせいだ。入江家に嫁いだばかりなのに、こんな大恥をかかされて、面目は丸つぶれだ。元凶のくせに、よくもあんな厚かましい顔で結衣のご機嫌を取りに行けるものだ。そう思いながら晶は夫の底の浅さに心底呆れ果て、彼の肩にわざと強くぶつかると、大股でその場を後にした。達也は怒りに満ちた表情で去っていく晶と、何事もなかったかのように振る舞う結衣を交互に見た。だけど彼には、結衣に直接何があったのか聞く勇気はなく、見て見ぬふりをするしかなかった。一方、静真の視線は、結衣が月子の肩に置いた手に釘付けになっていた。まるで自分の所有物が、他の誰かに狙われているかのような気分で、不満が心の底からこみ上げてきた。静真が憎んでいるのは隼人だけだ。彼の母親である結衣とは直接の面識はなかったが、この女にまつわる様々な噂は知っていた。だが結衣の立場からすれば、たとえ対等の立場の人間ですら彼女に月子の肩から手を離すようになどと文句を言えるものがいないのだから、静真のような若造ならなおさら何かを言う資格はなく、ただだまって見ていることしかできないのだ。だけど静真は、この不快な感情の矛先を隼人に向けた。実際、彼がそう
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第817話

結衣は隼人の考えを理解したので、それを尊重しつつ、少しだけ後押ししてあげようと思った。そうすれば、二人の関係もきっと少しずつ良くなっていくはずだと思った。でも、今の結衣にとって、隼人との関係がどうこうというより、母親として、ただ純粋に、息子のために何かしてあげたい。それだけなのだ。それを聞いて裕子は思った。隼人は決してダメな男じゃない。それは多分実の母親だからこそ、そんな風に思うのだろう。そして彼女は再び尋ねた。「綾辻さんへの態度が変わったのは、やっぱり隼人のためですか?」「まっ綾辻さんのことを気に入ったのもあるけど」以前の結衣は、隼人との関係を良くしたいとは思いつつも、本気ではなかった。ただ家柄の釣り合う嫁を見つけて、結婚の面倒を見ることが、母親としての責任だと思っていただけ。だから、月子がどんな人かなんて知る必要はなかった。ただ、結婚相手として家柄が釣り合えば、それだけで十分だったのだ。そういった面から考えると、静真の元妻である月子は、当然、家柄として相応しくないのだ。それが、結衣が彼女を気に入らなかった理由だ。でも今は、本気で隼人と向き合おうと決めた。だから、月子のことも、きちんと見るようになった。そうするうちに、彼女の素晴らしいところが少しずつ分かってきたのだ。それに、よく考えてみれば、月子には欠点らしい欠点が見当たらなかった。今日、月子を連れて裏庭を長い時間散歩したのも、彼女を試すためだった。だけど、月子の対応は自分の期待を裏切らなかった。特に、あのプレッシャーに負けない強さは見事だ。そういう月子なら、これからどんなに大きな舞台に立たされても、きっと堂々とやり遂げられるだろう。それに、その涼しげな目元も、なぜだかとても気に入った。すべてを考え合わせると、結衣は月子のことが本当に気に入っていた。初めて会った時は不満があったけれど、それでも心のどこかでは彼女を認めていたのだ。その時、結衣のスマホが震えた。相手は、息子の隼人だった。結衣が電話に出ると、隼人の冷たい声が聞こえた。「お披露パーティー会に行ったのか?なぜだ?」結衣は平然と答えた。「あなたのおじいさんにご挨拶にね。ひ孫が生まれたお祝いも兼ねて」「月子には、あなたに会ったのか?」結衣は鼻で笑った。「会っただけでなく、ちゃんと話し相
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第818話

それを聞いて、裕子はピンときた。「別れを切り出したのが綾辻さんでも、女の子って相手の出方も見るものですよね。あんな風にあっさり別れちゃったら、お互いに見切りをつけたと感じてしまいますし、それで、これからの困難を二人で立ち向かう自信を失くしてしまいますよ。たぶん、綾辻さんは別れた後で後悔しても、隼人があんなにすっぱり身を引いたから、もう自分から『やり直したい』なんて言い出せなくなっちゃったのでしょうね」それを聞いて結衣はあとを続けた。「だから、隼人がいけないのよ。付き合ってる間は完璧な彼氏でいいけど、別れ話の時まで物分かりよくしてどうするの。ああいう時こそ、もうひと頑張りしなくちゃ。綾辻さんは、突然子供の問題に直面して、隼人と一緒に乗り越える自信がなかったの。だったら隼人が、彼女に自信を持たせるような行動をすべきだったのよ。彼に覚悟があると示していれば、綾辻さんも安心して、少しずつ考えを変えられたでしょ。それで彼女も二人の未来に希望を持てたはずよ」結衣がさっき月子の前で隼人を「情けない」と言ったのは、心の底からそう思っていたからだ。月子は突然、二人の子供という問題に打ちのめされて苦しんでいた。心の中はきっと迷いでいっぱいだったはず。それなのに隼人は、男らしく彼女を支えもせず、月子が思わず尻込みしてしまった時に、何もしなかった……二人の気持ちが冷めたとか、そういう問題じゃなかった。ただ、一緒に乗り越えるべき困難にぶつかっただけなのに。本来なら隼人が踏ん張るべきだったのに、あっさり諦めてしまった。これでは月子が二人の未来に希望を持てるはずがないじゃないか。こんなんじゃ、この先うまくいくわけがないのだ。少しの困難も乗り越えられないような関係なんて、所詮はその程度のものだったということだ。……一方で、結衣が去った後、静真がベビールームにやってきた。部屋には天音と月子がいた。天音は、月子が裏で結衣とどんな話をして、どうやって彼女を味方につけたのかと、根掘り葉掘り聞いていた。それを見た静真は天音に目配せして言った。「ちょっと席をはずしてくれ」天音は兄の険しい顔つきを見て、しぶしぶ部屋を出て行った。月子も部屋を出ようとしたが、静真が彼女の立ちふさがりドアを閉めてしまった。そして、静真は目の前の月子を見ると、口の端を引き
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第819話

「月子、どうしてお前をたいして愛してもいない男のために、俺を拒むんだ?お前とは離婚したけど、俺はまだ諦めていない。俺がしてきたことは全部、お前を取り戻すためなんだ。なのに、お前は少しも俺を見てくれない。どうしてこんなに酷い仕打ちができるんだ?」静真は月子の肩を掴んだ。そして報われない彼女への思いに苦しみに、彼の声はかすれていた。「もう自分に嘘をつくのはやめろ、月子。お前は隼人のことが忘れられない。でもなあいつは、お前たちの関係なんて気にも留めていないんだ。なんの未練も残さない、あんな冷たい男のどこに、お前が執着する価値があるっていうんだ!一番お前のことを想っているのは、俺だ。もう一度だけチャンスをくれ。絶対に変わってみせる。最近、俺は変わろうとしてるじゃないか。お前だって見ていてわかるだろ?どうして、ずっと俺を拒み続けるんだ!」それを聞いて、月子の胸は突然鋭い痛みに襲われたようだった。あまりの激しい痛みに、彼女は思わず眉をひそめた。冷静に考えて、別れることが一番良い解決策だと思っていた。隼人もその考えを尊重してくれたし、今のところ物事は自分の思い通りに進んでいる。でも、自分は今まで、相手の男性の立場で考えたことはなかった。もし、本当に静真の言う通りだとしたら、隼人は……月子はそれ以上考えるのをやめ、歯を食いしばって耐えた。「静真、もうやめて。とにかく、私と隼人さんはもう別れたの。彼がどう思っていようと、もう関係ないことよ」「はははっ!月子、よくそんなことが言えるな。俺に向けた態度と、あいつに向けた態度とでは違いが大きすぎるだろ!」静真の非難に、月子は言い返した。「何が違うっていうのよ?」「少しは考えてみろよ。別れを切り出したのはお前だ。お前が逃げたんだ。もしあいつが本当に愛しているなら、お前を受け止めるはずだった。隼人はそうしなかっただろ?お前が一歩引けば、あいつも一歩引く。歩み寄ろうともしなかったじゃないか。それが愛と呼べるか?隼人は、そもそもお前のことなんて何とも思ってないんだよ。そんな男に、未練を持つ必要なんてないだろ?」その言葉に月子の動揺は隠しきれずにいた。「静真、黙って。もうそれ以上言わないで」だが、静真は構わず続けた。「月子、俺は本当のことを言っているだけだ。お前は……」すると月子の目には、み
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第820話

このまま月子を抱きしめ、静かに話を聞いてくれたから、静真は彼女が自分を受け入れてくれると思った。でもすぐに、腕の中の月子はもがいて、静真を無理やり突き放した。月子はスマホを取り出すと、画面をタップした。スマホの画面には、ある動画が再生されていた。それは月子が流産した日に、一樹から送られてきた動画だった。「霞が帰国した日、あなたは彼女にたくさんのバラを贈ったわよね。あなたの友達は囃し立てて、ハグしろとかキスしろとか言ってた。昔、濃厚なキスをしたことがあるって話まで持ち出して。彼らは、私とあなたが結婚してるのを知ってたはず。それなのに、誰も私に気にかける人はいなかった。あなたの友達の私に対する態度が、あなたの私に対する態度そのものよ。彼らが私をないがしろにしたのは、あなたが友達の前で、私のことをそれだけ軽く見ていたってこと。なのにあなたは、手術に付き添ってってお願いした私の電話を切った。そして、その足でみんなの前で霞を抱きしめて、嬉しそうに彼女の帰国を祝っていたのよ。霞をあんなに大事にしていたんなら、私はいったい何?あなたは私に、バラの一本さえくれたことがないじゃない」静真はその動画を見て完全に言葉を失った。霞……その名前はもうずいぶん昔のことのように感じていたからだ。「私がこの動画をどこで見たか知ってる?病院よ。手術が終わったばかりで、タクシーを拾う元気もなかった時に、これが送られてきたの。病院には人がたくさんいて、みんな家族に付き添われているのに、私には誰もいなかった。静真、あなたが私につけた傷が、そんなもっともらしい言葉で消えると思ってるの?私がそんなに安っぽい女に見える?あんなに傷つけられたのに、あなたが愛情深いふりをすれば、私が大人しくあなたとよりを戻すとでも?今でこそ慶と寧々がいるけど、彼らの存在を知った時、私は嬉しくもなかったし、楽しみでもなかった。幸せなんて、ひとかけらも感じられなかったの」そう言いながら、月子の涙が頬を伝った。「自分の傷口をえぐるような話はしたくなかった。特にあなたの前ではね。辛くて苦しいのは、あなただけだと思ってるの?私が黙っていたら、苦しくないようにでも見える?私がどれだけの思いで、あなたと一緒に子供を育てようと決心したか分かる?あなたには私の気持ちなんて絶対に分からない。私の
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