All Chapters of 元夫の初恋の人が帰国した日、私は彼の兄嫁になった: Chapter 821 - Chapter 830

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第821話

月子は淡々とした口調で話していたが、その言葉の一つひとつが、自らの古傷をえぐるようなものだった。月子は母親を亡くした経験があるため、痛みに耐える力は人一倍強かった。他の人が耐えられないような痛みでも、彼女は心の奥底にしまい込み、表にはまったく出さずにいられたのだ。よほど追い詰められ、耐えきれないほどの痛みに襲われない限り、こんなふうに弱さを見せることはなかった。まさに、今のように。でも、それはトラウマの後遺症なのかもしれない。強いショックを受ける出来事があると、過去のトラウマのせいで脳が危険を察知する。月子が打撃に耐えられないと判断し、一時的に感情を抑え込むことで、脳は彼女自身を守り、深く考えるべきことから目をそらさせていたのだろう。以前、流産した時もそうであったように。振り返ってみれば、月子の立ち直りは早かった。誰に対しても自分から流産のことを口にするわけでもなく、まるですぐに忘れてしまったかのようだった。しかし、静真が突然、法的な書類や妊娠検査の報告書を突きつけ、二人の子供がいると告げた。その瞬間、子供を失った過去のトラウマが、一気に月子を打ちのめした。月子の反応は、ひどく激しいものだった。とにかく、あの時の月子には、静真と隼人、そして二人の子供たちとの関係をどうすればいいのか、まったく分からなかった。一度子供を失っているからこそ、自分の遺伝子を受け継いだ小さな命を拒むことなど彼女にはできなかった。でも子供を選んだら、隼人はどう思うだろうか。たとえ最初は受け入れてくれても、いつまでその気持ちが続くだろう?付き合ってたった八ヶ月の不安定な関係は、少しの衝撃で壊れてしまうかもしれない。もしそうなって仲がこじれたら、結局は別れることになって、また傷つくことになるのだ。月子の心は張り裂けそうだった。だからあの頃は、頻繁に翠のことを思い出していた。どうすればいいのか教えてほしくて、彼女に助けてもらいたかった。だが結局は、自分で考えて動くしかなかった。そして、月子は、別れを選んだ。彼女は怖くなり、逃げ出したくなった。子供たちは自分の子供であって、隼人の子じゃない。彼とは何の関係もないのだ。今は子供の存在を受け入れ、そばにいてくれるかもしれない。寛大な心で、すべてを受け止めてくれるかもしれない。で
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第822話

それだけ隼人と付き合っていたこと、月子はありったけの気持ちを注いだのだ。だから、別れるのもただ彼女が選んだ一つの道だった。彼女は子供を選んだのだ。だがその選択は、隼人を裏切る結果になってしまった。そして、二人は別れた。隼人が引き留めなかったことについて、別れを切り出したのは月子の方だから、文句を言える立場にないのだ。それに、もう過ぎたことだ。月子は、これから隼人とヨリを戻せるなんて思っていない。彼が自分をどれだけ想ってくれていたかなんて、今さら考えても悩みが深まるだけだ。これもまた、月子の心の防衛本能なのかもしれない。この件については、深く考えないようにしてきた。逆に、隼人がきっぱりと去ってくれたから、月子もすぐに心を強く固めることができた。そうすれば、隼人に期待せず、自分の責任を早く果たせるし、彼に助けてもらおうなんて、望みを抱くこともないのだ。一度期待して、裏切られた時の痛みを、彼女はもう耐えられないから。静真との辛い経験を経て、月子はもうあんな風に心を痛める思いはしたくなかった。そんな自己防衛の本能と、危機を察する予感が、彼女に別れを選ばせたのかもしれない。でも、月子は隼人のことが本当に好きだった。別れは本当に辛かったから、もうこれ以上考えたくなかった。なのに、静真はわざわざその話を持ち出して、彼女の一番痛いところを突いてきたのだ。スマホの動画は、まだ再生され続けている。もう三回も再生された。静真にも、はっきりと見えたはずだ。以前、一樹がこの動画を送ってくれた時はすぐに取り消されて、月子は保存する暇もなかった。子供が海外で生まれたばかりの頃、夜中に慶の面倒を見ていた一樹から、静真とヨリを戻したりするのかと聞かれたことがあった。その時、月子はこの動画のことを話して、送ってくれるよう頼んだのだ。まさか、今日こんな形で役立つとは思わなかった。こうでもしないと、静真は自分が一途な男だったとでも勘違いしたままだったに違いない。だけどそうすることで、月子自身も、耐え難い過去に再び直面せざるを得なくなった。月子は改めて、二度とあんな惨めな状況に身を置かないと誓った。絶対に、静真とはヨリを戻さない。もう二度と、自分を傷つけさせない。これでいいんだ。自分さえ強くなれば
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第823話

静真はまた気まずい思いに駆られ、月子の香りを貪るように吸い込んだ。「月子、お前も俺を愛してくれてただろ。俺のことが好きだった時、ずっと俺にべったりだったじゃないか。お前だって簡単に諦めなかっただろ。男としてじゃなく、お前だって女なんだから分かるだろ。お前が俺を嫌ってるから、俺がしつこくするのは迷惑だろうさ。でも隼人はそこまで嫌われてなかったはずだ。なのにあいつは意気地なしみたいにお前を取り戻そうともしない。結局、そこまでお前を愛してなかったってことだ!だからもうあいつのことなんて忘れて、俺を見てくれよ」静真の挑発にも、月子は怒るでもなく反論するでもなく、ただすべてを認めたかのように言った。「あなたの言う通りね。付き合い始めたのは私からの告白だったし、別れを切り出したのも私で、彼がただ同意しただけ。そう考えるとたしかに、私は隼人さんに……選ばれたってわけじゃないかもしれない。でも、先に別れを切り出したのは私よ。隼人さんはただ本気で引き留めようとしなかった。もしくは、私は隼人さんにとって唯一の選択肢じゃなかったから、彼は私に対してそれほど強い独占欲がなかったのかもしれない。だから彼は別れを受け入れられた、ただそれだけのことね」そう言う月子はもはや何もかもどうでもよくなっているように静真は感じた。自分のことも、隼人のことも、気にしていないのだ。静真は唇を震わせた。「月子、お前は今、誰が好きなんだ?誰が大事なんだ?」月子は彼を見て言った。「私の母と、洵。それから彩乃、慶、寧々よ」それこそが月子の人生で失うことのできない、かけがえのない人たちであり、生涯そばにいて、限りない安心感を与えてくれる存在。そして彼女がすべてを捧げられる人たちだ。彼らと一緒にいれば、月子は捨てられたり失ったりする恐怖を感じずに済むのだ。多分、周りにこれらの人たちがまだいるからこそ、月子は支えられて、なんとか前向きに生きていける希望がもてるのかもしれない。静真は月子の手を取り、自分の胸に当てた。こらえきれずに涙がこぼれ落ちる。「俺は?お前にとって、俺はもうどうでもいいのか?」それを聞いて、月子はとても静かに言った。「たしかに、あなたが変えようとしているのは認める。でも、わだかまりがあまりに深かったからもう元には戻れないんだ。あなたには二度と傷つ
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第824話

引き留めることこそが、気持ちがあるのだと思っているようだけど。それに比べ引き止めなかった隼人はどちらかというと……自分の決断を尊重してくれているってことなのだろう。彼はいつもこうだった。付き合う時も、自分の気持ちを一番に考えてくれた。別れる時も、自分の意見を尊重してくれた。これこそ、自分の知っている非の打ち所がない鷹司社長ってとこね。こんなに自分を尊重してくれる隼人には、むしろ感謝しないといけないくらい。月子はそう思おうとしても、心の奥ではチクチクとした鋭い痛みが走っていた。人間って、本当に矛盾した生き物。好きな人には気にかけてほしいし、大切にされたいと思うものだ。だからこそ、相手にも自分がいることで喜んで欲しいし、自分がいなくなったことに名残惜しんでほしいと願ってしまうものなのだろう。月子の答えを聞いて、静真は力が抜けたように笑った。「じゃあ、俺がお前とまだ一緒にいられるのは、子供たちのおかげってわけか?」「ええ。全部子供たちのためよ」その言葉を聞くと、静真は月子を乱暴に抱きしめ、顔を両手で挟んでキスをした。しかし肌が触れ合うほど近くにいても、彼女の心には少しも近づけないように感じた。そして月子に腰を強くつねられると、彼は慌てふためいて手を離した。そして、月子は冷たく唇を拭うと、「消えて」と言い放った。静真は悔しそうに言った。「隼人にキスされた時は嫌がらなかったくせに!俺のファーストキスは、お前に捧げたんだぞ」「許可なく無理やりキスされたら、嫌に決まってるでしょ」隼人にだって唇を噛み切られた時は恐怖を感じたし、そもそも全く愛情が込められていないキスは誰だって嫌になるはずだ。だが、静真はそれを全く気遣うことなくさらにしつこく言ってきた。「お願いだ、キスさせてくれないか?」そんな彼を見て月子は言った。「静真、あなたって本当に幼稚ね」「じゃあ、どうすれば大人になれるんだ?お前を諦めろとでも言うのか?そんなのできるわけない!隼人はお前を大事に思ってないから、別れても平気でいられるんだよ!だけど俺は違う。生涯お前だけを愛すると決めているんだからお前じゃなきゃダメなんだ。もう他の誰も愛せない、たとえお前が俺とよりを戻してくれなくても、俺はこの先他の人と一緒になるつもりはない。静真は月子の手
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第825話

洵がこれほど女をうっとうしく思ったことは、今まで一度もなかった。そして天音とは、できることなら関わりたくないと本気で思った。そう思いつつも彼は何も言わず、天音を避けてベビールームに入ると、ドアを閉めた。ベビールームは広かった。ソファに座っている静真の姿が、洵の目に入った。スーツを着ていても、そのやつれた雰囲気は隠せていないでいた。だが、どんなにみじめな姿でも、相変わらず人を見下す傲慢な姿勢だった。そして、洵は静真に近づくと、問答無用で彼の顔を思いっきり殴りつけた。静真の顔を指さし、これにない鬼の形相で言い放った。「もし、これ以上姉さんを苦しめるなら、次は一発だけじゃ済まさないからな」静真は、洵が肝の据わった若者で、同年代の誰よりも大人びていることを知っていた。だが、静真が合図一つすれば、ボディーガードが洵を地面に押さえつけられる。自ら手を下さなくても、その勢いをくじくことなど簡単なことだった。しかし、洵は月子が最も信頼する、一番身近な人間だ。静真は目の奥に宿る冷たさを抑え、殴られて横を向いた顔を元に戻した。じんじんと痛む口の端を揉みながら、鼻で笑うと尋ねた。「俺と隼人、どっちが嫌いだ?」「どっちもろくでなしだ。でも、どちらっていうとあなたの方がもっとクズだ」と洵は答えた。「じゃあ、これからどうやって月子を守るつもりだ?」と静真は言った。「相打ちだ。共倒れになったもこっちは覚悟の上だ」と洵は返した。静真は口の端を引いた。なるほど姉弟なだけあって、似たような冷酷さを持っている。しかし、脅されたからといって、静真が大人しくなにかを約束するはずもないのだ。もはや月子からは完全に無視されているのだから、今さら洵の言うことなど気にしたって仕方がない。一発殴らせたのも、月子の気が少しでも晴れるようにとの考えからだけだ。洵は、月子のために一発殴って気が済むと、部屋を出ようとした。天音が執事にドアを開けさせると、洵が拳を握りしめているのと、静真の口元が青あざになっているのが目に入った。彼女はすぐに驚きと怒りでかっとなり、部屋に駆け込んだ。「洵、なんで急に暴力を振ったのよ!」天音のすぐ後ろにいた竜紀は、その言葉を聞いて、心の中で「まじかよ」と叫んだ。静真は入江グループのトップだ。竜紀は、普段どんなに威張っていて
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第826話

自分にこんな口を利く人間なんて、今までいなかった。なのに、洵ときたら、やっぱりイカれている。「クソッ、何様のつもりよ!あいつが入江の家に入れたの、月子のおかげじゃないか。なんであんなに偉そうなの?ただ小さいゲーム会社を運営しているだけじゃない?そんなのいつでも二つや三つは買収できるんだから。私が慶くんや寧々ちゃんにあげた会社にも及ばないくせに、なによ、洵のそのなめた態度!」天音の中では、月子と洵をまったく切り離して考えていたのだ。彼女は、気に入った相手はとことんよくするけど、気に入らない相手はどこまでも踏みにじるタイプだ。「私が囲ってる男と比べたっておよびじゃないくせに、あいつときたらよくも私にそんな態度を取ったわね!」天音は一度へそを曲げると、相手を徹底的に貶めたくなるのだ。もちろん、彼女にしてみれば言っていることは全て事実だ。今まで囲ってきた男たちは、誰もが人気スターだったけど、それでも飽きたら、彼女は目もくれないのだから、洵なんて、まだ大したことないのに、自分に逆らえるのなんてとても許せないでいるのだ。一方で友人である竜紀は、気分屋の天音がどうやってストレスを発散するのか、よく理解していた。彼女が罵詈雑言を吐き出し終えるのを待ってから、彼はようやく口を開いた。「でもさ、洵ってあなたの兄を殴ったんだろ?しかも、仕返しされなかった。そう考えると、洵はなかなか手強い相手だと思うけどな」それこそ、天音が洵を見るたびに腹が立つ理由だった。まともにやっても勝てないし、かといって裏で手を出すわけにもいかないのだ。天音は、洵に機嫌を取って笑顔を見せたこともある。例えば、自分の誕生日会に招待したり、スポーツカーでのドライブに誘ったりした。でも、返ってくる答えいつも「消えろ」の一言だった。洵は、優しくしても強く出てもダメだった。おまけにプライドが高くて、物やご機嫌取りではまったく靡かない。天音がこれまで使ってきた手は、まったく役に立たなかったのだ。そもそも、父はヒモの立場で、どうやってあの結衣っていう大物を手に入れたんだっけ?確か……色仕掛け、だったかしら。まさか、そんなことをしなきゃいけないのか。そう思うと天音の顔を歪めた。セレブの令嬢として、彼女は小さい頃から男女の関係についてはよく知っていた。成人してからは、自分で清廉
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第827話

つい最近送ったんなら、たいしたことじゃない。もし、霞が帰国した日に月子へ送っていたとしたら、自分は友達に裏切られていただろう。だが静真は今、一樹に構っている暇はなかった。彼の頭の中は、月子のことでいっぱいだったからだ。静真の言葉は本心だ。彼が月子を諦めるなんてあり得ない。隼人も月子のことを気にしているのは分かっていた。ただ、なぜ彼は三ヶ月もの間も、彼女を放っておけたのかが理解できなかった。月子は別れ話を切り出されただけじゃないか。こっちは、離婚されたっていうのに。かつて月子だって、自分を振り向かせるために長い間がんばってくれたじゃないか。それなのに隼人はどうだ。女から別れを切り出されただけで、プライドが傷ついて自信喪失か?もし本当にそうなら、静真は隼人のことを、ただの意気地なしだと思うだけだった。隼人の肩を持つわけではないが、静真が知る限り、隼人はそんな根性なしってわけじゃない。彼がまだ月子を好きなら、諦めるはずがない。きっと裏で何か企んでいるのだろう。だからこそ静真は焦っていた。なぜなら自分自身が、潜伏してから一気に勝負を決めるタイプだからだ。自分なら、当然子供を利用しようと思うだろう。でも、もし自分が隼人と同じ立場だったら、そううまくはいかなかっただろう。だから静真は、一刻も早く月子の心を動かし、振り向かせたいと焦っていた。しかし、月子が自ら心の傷をさらけ出すのを目の当たりにすると、自分が月子に与えた傷が想像以上に深く、彼女の心を取り戻すのが困難であることに気づかされた。一体、どうすればいいのだろうか。だが、静真はそれでも諦めようとしなかった。というよりもし諦めるつもりなら、そもそも子供を二人も作るような真似はしなかっただろう。彼と月子と将来的に家族四人で一緒に暮らすことを目標にしてきた。結局、静真は月子のいない人生を受け入れることができないのだ。……お披露目パーティーの後、入江家に跡継ぎが誕生したという噂は、瞬く間に上流社会に広まった。もちろん、入江家が公にしたわけではない。メディアにも一切情報は流れておらず、二人の子供の情報も、そしてその母親が誰なのかも謎に包まれていた。ただ、その子供たちと母親が、世間から羨まれる存在であることは間違いないのだ。その子たちは生まれなが
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第828話

月子は呆れたように静真を見た。「もう子供じゃないのに、どうしてプレゼントなんて欲しがるの?」「プレゼントが欲しいんじゃない。お前から貰うものだから、意味があるんだ」確かに最近の静真が変わったのは、月子も感じていた。今後の仕事を円滑に進めるためだ。仕事相手として、空港で手土産を買ってきて関係を維持するくらいなら、別に構わないかと思った。「気が向いたらね」月子はそう言うと、もう一度子供たちにキスをして、くるりと背を向けて歩き出した。静真は、月子が一週間もいなくなると思うだけで、パニックになりそうだった。彼は月子の不満げな視線をものともせず、無理やり彼女を抱きしめた。そしてその首筋に顔をうずめ、「待ってるから」と囁いた。「許可なく私に触らないでって言ったでしょ」月子は静真を押しのけようとしたが、彼はびくともしなかった。「ほんの少しでいいから」静真は懇願するように言った。月子は腹立たしげに言った。「またあの動画、流されたいの?」静真の体はこわばり、月子から手を離した。彼は心の中の動揺を抑えながら、真剣な眼差しで月子を見つめた。「お前にしたこと、少しずつでも償っていくから」月子は静真を一瞥すると、ぷいっと顔をそむけた。空港に向かう車に乗ると、不意にスマホが震えた。月子が画面を開くと、それは隼人からのメッセージだった。それを見て彼女は思わず胸がどきりとした。でも、メッセージはすでに取り消されていた。もう少し早ければ、彼が何を送ってきたのか見れたかもしれない。隼人がもう一度送ってくれるかと思ったけど、いくら待っても何も来なかった。まあ、いいか。今の月子には、恋愛をする余裕なんてなかった。だから、隼人が自分のことをどう思っているのか、あれこれ考えるのもやめにした。少なくとも彼はかつて自分を好きっていてくれたんだから、それだけで十分だ。たとえそこまで愛が深くなかったとしても、一緒にいた時間が楽しかったなら、それだけでいい。静真のことも同じだ。彼が最近、色々と頑張っているのは月子もちゃんと見ていた。だけど、彼女の心の中に静真への好きという気持ちはもうないのだ。結局恋愛はただ優しくされればうまくいく、なんて単純な話じゃない。時には努力したって報われない場合もあるのだ。結局、すべてが思うようにいくというわけでは
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第829話

その瞬間あらゆる感情が胸の中で燃え上がり、まるで巨大な渦となって、静真は飲み込まれそうになった。しかし、人は誰もが感情を隠すための「建前」という表向きの顔をもっていた。静真もそうだった。彼は社長室の中で、スーツをきっちりと着こなし、冷静なふりをしてスマホを置いた。その外見だけでは、静真の心がどれほど動揺しているかなんて、誰にも分からなかった。その間、詩織が部屋に入ってきたが、しかし、静真はしばらく彼女に気づかなかった。次の瞬間、詩織は、立っていたはずの静真が、崩れるように両手でデスクに突っ伏すのを見た。彼は顔を伏せ、ハッ、ハッと大きく息をしていた。呼吸はどんどん速くなり、とうとう静真は苦しそうにネクタイを緩めた。190センチ近い長身は、オーダーメイドのスーツを着こなす彼をより一層気高く見せていた。しかし、今は彼は体を支える腕が張り詰めていて、それはスーツ越しにでも、筋肉が固くこわばっているのが見て取れるほどだった。さらに息が荒くなるにつれて、静真の顔色も変わっていった。みるみるうちに青ざめ、額には青筋が浮き出て痙攣し始めたのだ。それはまるでとてつもないショックを受けたか、何か恐ろしい目に遭ったかのようだった。あまりのことに詩織は驚き、急いで静真のもとに駆け寄った。そして彼女自身も緊張に体をこわばらせ、声をひそめて尋ねた。「社長、いったい何があったんですか?」その声に、静真は夢から覚めたようにはっと顔を上げた。そして静真のあまりにも険しい目つきに、詩織はぎょっとして一歩後ずさり、彼女の体も、思わず硬直してしまった。「社長、いったい、何があったんですか?」「慶と寧々が、いなくなった」そう口にしても、静真もまた頭が真っ白になり、ただ信じられないといった様子だった。自分の子供たちが、いなくなるなんて……どうして?月子は出張に行く前、「子供たちのこと、よろしくね」と何度も言っていたのに。それなのに、子供たちは自分の目が届く場所でいなくなったとでもいうのか?監視カメラを確認したが、子供たちの姿は映っていなかった。ボディーガードも、子供たちを見失ったと報告してきた。さらに、正雄がつけてくれた柳田執事は、ショックのあまり気を失ってしまったという。何人かいる家政婦は別荘で泣きわめき、震えているという。子供たちがいなく
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第830話

ただ、このやり方で女の子を口説こうとしたら、まったくの逆効果をきたすのも否めないでしょう。だから、詩織は以前、静真が海外でこっそり月子との体外受精を進めていたと知ったときは驚いたけれど、いかにも彼がやりかねないとも納得していた。もちろん、同じ女として、詩織は静真のような男には絶対に出会いたくないと願うばかりだ。一度でもああいう人に目をつけられたら、ひどい目に遭っても逃げられる保障はないし……まさに悪夢そのものだ。そもそも静真の性格は、その生い立ちによって形成されたものだ。彼は裕福な家に生まれ、何不自由なく育った。そして両親や祖父、一族からのありとあらゆる資源を提供されて、おまけに頭も良くて仕事もできる。まさに欲しいものを思いのままにしてきていた。だから、彼は月子を失ってから、力ずくで奪い返そうとした。静真には、それがしつこい行為だという自覚はないし、相手の気持ちを考えようともしなかった。だからかつて隼人に対してもそうであるように、すべてを思いのままにしないと気が済まなかった。そういう権力の振りかざした傲慢な考えはすでに彼の性格に根付いてしまっているのだ。静真が過激なやり方でことを進めるのも、その原因があってのことなのだろう。しかし、詩織もよく分かっていた。人の心こそが一番思うようにならないもので、力ずくでどうにかなるものではないこともあるのだ。そして二人の子供ができた今こそ、子供たちこそが最も予測できない存在だ。仕事や権力とは違う。それらは手に入れたいと思えば、やり方次第で何かしらの結果は出る。だが、人間は思い通りにはならないものだ。今回のように、子供たちが突然いなくなるようなことこそ、静真がコントロールできない事態というものだ。そんな考えを巡らせながら、詩織はさらに子供たちのことを思うと、彼女自身でさえ居た堪れなくなった。こんな時、詩織には、静真がどれほどのプレッシャーに苛まれているか想像もつかなかった。もし子供たちが見つからなかったら、両親や正雄にどう説明するのか。そして何より、月子には?なんて言えばいいのか。そもそも子供たちは、静真が月子の心を取り戻すための、一番強力な切り札だったのだ。月子は、本当に子供たちを愛している。二つの小さな命は、かつて子を失った彼女の悲しみを埋めてくれる存在だった。慶と寧々
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