All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 221 - Chapter 230

230 Chapters

第221話

智也は小燕邸を後にすると、すぐに薫へ電話をかけた。住所を聞き出すと、そのまま車を走らせる。火鍋店の前に車を停め、降り立った瞬間、透き通るガラス越しに春日部家の面々が見えた。玲奈は席に座っていた。その隣で拓海がバースデーキャップをかぶせている。綾乃はケーキを彼女の前へ押し出し、兄の秋良はろうそくを立てて火を灯した。陽葵は直子の膝の上に座り、手を叩きながら楽しげに誕生日の歌を口ずさむ。玲奈はケーキに向かってそっと目を閉じ、両手を合わせ、心の中で願い事を唱えた。願いを終えると、彼女はろうそくを吹き消す。綾乃がナイフを差し出し、玲奈はケーキを切り分け始めた。家族だけの温かな光景――その輪に混じる拓海は、本来なら部外者のはずなのに、まるで自分のことのように共鳴し、優しく微笑んでいた。その光景を見た瞬間、智也の体は硬直した。そしてようやく気づく。――今日は玲奈の誕生日なのだ、と。結婚して五年、彼女の口から誕生日の話を聞いたことは一度もない。自分もまた尋ねたことはなかった。その時、背後から薫が歩み寄り、肩を軽く叩いて声を潜める。「玲奈と拓海、どうやらずいぶん親しいようだな」智也は淡々と応じた。「......ああ」薫は眉をひそめる。「お前、何とも思わないのか?」智也は冷えた声音で答える。「あれだけで何かを証明できるわけじゃない」薫は焦れたように声を荒げた。「智也、まさか本当に浮気されないと気が済まないのか?」だが智也は揺るがなかった。「――彼女がそんなことをするはずがない」そう言い切ると、そのまま店内へ足を踏み入れた。場にそぐわないその姿に、周囲の客が次々と視線を向ける。だが智也は意に介さず、真っすぐに春日部家のテーブルへ向かった。玲奈は背を向けたままケーキを分けていて、彼が来たことに気づいていない。最初に気づいたのは直子と健一郎で、二人の顔は一気に曇った。空気を読むのに長けた拓海も、二人の表情の変化に気づき、振り返る。そこに立つ智也を見て、わずかに眉をひそめた。智也は春日部家に馴染みはなかったが、誰が誰かを見分けるのは難しくなかった。そして順に口を開く。「お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん......」玲奈はその声にハッとして
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第222話

最初から最後まで、春日部家の誰一人として智也に正面から目を向けることはなかった。彼の態度は決して悪くはなかったが、家族は誰も相手にしなかった。智也は強いて求めようとはせず、ただ顔を向け直し、玲奈に穏やかに告げる。「誕生日のお祝いは、あとで時間を作って改めてやろう。今日はこれで失礼する」玲奈は顔を上げ、まっすぐに彼を見た。「必要ないわ」智也は眉をひそめる。「言うことを聞け」彼女はなおも視線を外さず、言葉を継ごうとしたが、智也はすでに背を向け、会計へ向かって歩き出していた。その時、拓海が声を掛ける。「新垣社長、ちょっとお待ちを」智也の足が止まる。拓海は眉を上げ、余裕の笑みを浮かべて言った。「この火鍋店、ついさっき俺が買い取ったんだ。だから会計は不要。今日の食事代は、俺のおごりだ」智也は特に言葉を返さず、足早に店を出て行った。玲奈はケーキを分け終えると、今度はフォークを配り始める。母の直子は、娘を気遣って涙ぐみながら声を掛けた。「玲奈、大丈夫なの?」玲奈は肩をすくめ、淡々と答える。「もう慣れたから」家族が心配しているのは分かっていたが、本当にそれほど気にしてはいなかった。彼女は場を和ませるように笑顔を作り、声を弾ませる。「さあ、ケーキを食べましょう」陽葵は口いっぱいにクリームをほおばりながら、無邪気に言った。「おばちゃん、こんなに優しいんだから、きっといい人に出会えるよ。そしたら私に、すっごく素敵なおじさんもできるんだ」その言葉に玲奈は思わず笑ってしまう。拓海はそれを聞き、急いで身を乗り出した。「陽葵、じゃあおじさんはどうだ?おじさんは?」陽葵はフォークを噛んだまま、しばらく考え込み、ようやく口を開いた。「おじさん、かっこいいのは確かだけど......かっこいい人って、リスクも高いよね」拓海はにやりと笑う。「でもおじさんは、ちょっと違うぞ」陽葵は大真面目に頷いた。「じゃあ、おじさん頑張って」玲奈は二人のやり取りを聞きながら、隣の秋良の不機嫌そうな気配をひしひしと感じていた。そこで彼女は言葉を添える。「陽葵、おじさんとおばさんはただの友達なの」陽葵は「ああ......」と肩を落とし、しょんぼりと答えた。「
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第223話

玲奈が春日部宅に戻ったのは、家族の中で一番最後だった。広間に入ると、秋良と綾乃がソファに腰かけていた。その様子からして、どうやら彼女を待っていたらしい。戸口に立った玲奈は、身をすくめるように小さな声で呼びかける。「兄さん、お義姉さん」秋良が振り向き、鋭い目を向ける。「こっちに来い、話がある」声の硬さからして、良い話ではないことがすぐに分かった。幼いころから玲奈は兄を怖れていた。本心では兄が自分を大切に思っていると分かっていても、それでも畏れを抱いてしまう――それは血のつながりによる圧のようなものかもしれない。玲奈は茶卓の前に立った。綾乃が座るよう促そうとしたが、それより先に秋良が口を開く。「離婚の話はまだ決まってないのか?」玲奈はうつむきがちに答える。「まだ......智也の署名を待ってるところ」秋良の眉間に皺が寄る。「奴が署名を拒んでいるのか?それとも財産分与で揉めているのか?」玲奈自身も理由は分からなかった。小さく首を振り、兄を見て言う。「私にも分からないの。彼からは何も話してくれなくて」兄の表情はさらに冷たくなり、声も厳しさを増す。「離婚すると決めた以上、ぐずぐずするな」玲奈は、兄が今夜の火鍋店での智也の出現に苛立っているのだと悟った。そこで柔らかな声を出す。「分かったわ。これから部屋に戻って、智也に電話する。離婚の件、ちゃんと話し合うから」ようやく兄は短く頷いた。「それでいい。じゃあ、上へ行け」玲奈は彼と綾乃に視線を送り、微笑んで言った。「兄さん、お義姉さん、おやすみなさい」そう言って階段を上がっていった。兄に離婚を急かされた言葉が、耳に残る拓海の囁きをかき消していた。そのせいで彼の言っていたサプライズのことをすっかり忘れていた。部屋の扉を押し開け、反射的に灯りを点けた瞬間――目に飛び込んできた光景に、思わず口元を手で押さえる。兄たちに気づかれるのを恐れ、慌てて寝室のドアを閉めた。整然とした温かな空間だったはずの寝室が、いまや赤い薔薇の花びらで埋め尽くされている。大きなベッドの中央には、シャンパン色の薔薇の巨大な花束。その隣には大きな箱が置かれていた。玲奈は花びらを踏みながらベッドへと近づ
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第224話

玲奈はベッドの端に腰を下ろし、薔薇の花にそっと手を伸ばした。その瞬間、ふと智也のことが胸に浮かぶ。結婚して五年――彼から誕生日の贈り物をもらったことは一度もなかった。だからこそ、今初めて「誰かが心を込めて準備してくれた」という実感を味わっていた。たとえ拓海に打算があったとしても、この部屋の仕掛けや贈り物は、確かに彼女の心を温めていた。その時、不意に携帯が鳴り響く。智也からかと思い急いで取ると、耳に飛び込んできたのは拓海の低く抑えた笑い声だった。「ベイビー。俺の贈り物、気に入ってくれたか?」玲奈は数秒黙り込み、言葉を探そうとした。だが拓海の方が先に続けた。「窓の外を見てみろ」好奇心に駆られ、彼女は携帯を握ったまま窓辺へ歩み寄る。「下を見ろ」その声に従い視線を落とすと、アオギリの木の下、黒いセダンが一台停まっていた。月光の下、背の高い影が長く伸びている。車体にもたれた拓海は、黒いトレンチコートを羽織り、夜風に髪を揺らせていた。闇に浮かぶ端整な顔に、深い笑みを刻んでいる。左手に携帯を耳へ当て、右手を高く掲げて、玲奈のいる窓に向かって軽く振った。受話口からは風の音が混じり、そして豊かで艶やかな声が響く。「どうだ、俺の贈り物。気に入ったか?」彼の視線は夜の中から真っすぐに玲奈を射抜いていた。凛とした立ち姿は、まるで絵から抜け出した人物のようだった。玲奈は認めざるを得なかった。――あの贈り物は、胸を震わせた。だがもう子供ではない。拓海が何を狙っているか、悟らぬほど愚かでもない。彼女はわざと冷めた声を返した。「須賀君、そんなことをしなくていいの。私なんて、何の価値もない人間だから」自分には立派な家柄があるわけでもない。たとえ智也に惹かれて、あらゆる手を尽くして近づいたとしても──智也にとって、自分など取るに足らない存在だった。そう言い捨てると、彼女は通話を切った。だが拓海は立ち去らなかった。次の瞬間、彼は身をかがめて箱に火をつけた。空へと打ち上がった花火が夜空に大輪を咲かせた瞬間、玲奈には彼が振り返り、こちらに向かって笑いかけたように見えた。同時に、携帯の画面が光を放つ。メッセージにはこうあった。【俺は、これからもずっとこ
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第225話

電話を切ったあと、玲奈はベッドの縁に座り込み、しばらく呆然としていた。愛莉の言葉にも、もう胸は大きく揺れなかった。――どうせ彼女はもう、沙羅を母親だと思いたがっている。理由などどうでもよかった。思考を打ち切り、玲奈は部屋の片づけを始めた。薔薇の花びらも贈り物もすべて箱に収め、ようやく洗面を済ませて眠りについた。翌朝早く、身支度を整えた玲奈は再び家を後にした。目的はひとつ――智也に会って、直接離婚の話をすること。彼女は真っすぐに彼の会社へ向かった。ビルの前に着くと、すぐに智也へ電話を掛ける。だが応答はなく、代わりにメッセージが届いた。【外で会議中だ。あとで話そう】玲奈は即座に返信した。【じゃあ、会社で待ってるわ】それ以降、彼からの返事はなかった。玲奈は一階ロビーの椅子に腰を下ろし、静かに待つことにした。三十分ほどが過ぎたころ、フロントの女性が突然ぱっと顔を輝かせ、満面の笑みで立ち上がった。「深津さま!いらっしゃいませ!」その笑顔は媚びるように甘く、目尻まで下げられていた。玲奈がそちらを見やると、沙羅が入ってきたところだった。「智也は?」沙羅は受付に歩み寄り、穏やかに尋ねる。フロント嬢は嬉々として答えた。「社長は外で会議中です。ただ、以前からご指示がありまして......もし深津さまがお越しの際に社長がご不在なら、専用オフィスでお待ちいただくようにとのことです。今、ご案内いたします」沙羅は優しく微笑んだ。「ありがとう。お手数をおかけするわね」「とんでもありません!深津さまは何なりとお申し付けください」「ええ」沙羅は軽く頷き、それ以上何も言わなかった。専用エレベーターへと案内される彼女の姿を、玲奈は黙って目に焼き付ける。胸の奥に、どうしようもない苦味が広がった。――智也と結婚して以来、彼の会社へ来ることはほとんどなかった。けれど沙羅は、すでにここで女主人のように振る舞っている。名実ともに妻であるはずの自分を、智也の周囲は誰ひとり認めていない。逆に沙羅のことは、誰もが敬い、大切に扱っている。つまり――智也がどれほど彼女を重んじているか、その態度が周囲を動かしているのだ。さらに三十分ほどが過ぎ、ようやく外から車
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第226話

智也は、彼女が何を言おうとしているのか分からなかった。だが彼にも予定があったため、こう告げた。「これから会議がある。少し待っていてくれ」玲奈は眉をひそめ、問い返す。「どれくらい?」智也は考え込んでから答えた。「三十分くらいだ」不満を覚えながらも、玲奈は頷くしかなかった。「分かったわ。待ってる」これ以上先延ばしにしたくなかった。引き延ばせば引き延ばすほど、傷つくのは自分なのだから。智也の後ろに連なる人々は、誰一人として玲奈の顔を知らない様子で、好奇の眼差しを向けていた。その視線の冷たさも、玲奈は無視した。智也は専用エレベーターで上階へ。玲奈は再び椅子に腰を下ろした。――けれど結局、二時間近く待たされた。フロントから水一杯すら差し出されなかったが、どうでもよかった。彼女が望むのは、ただ離婚について話すことだけだった。ようやく携帯にメッセージが届いたのは、もう日も傾いたころだった。【明日、病院に迎えに行くから、話は明日の夜にしよう。俺はもう会社を出た。今日は日曜だ、愛莉が俺を待っている】画面を見つめた玲奈は、思わず拳を握りしめた。――このまま画面の向こうへ手を伸ばし、智也の頬を張り飛ばしたい。だがどうしようもなかった。彼女にできるのは、ただ再び待つことだけだった。翌日の夕刻。勤務を終え病院を出た玲奈の目に、智也の車がすぐに映った。乗り込むと、後部座席に花束と高級ブランドの袋が置かれているのが目に入る。中身を確認しなくても分かった――それは沙羅への贈り物だ。車が渋滞を抜けたころ、智也がふと玲奈へ視線を向ける。「花と贈り物は、お前への誕生日の埋め合わせだ。気に入ってくれるといい」玲奈は一瞬呆然としたが、すぐに冷ややかな声を返した。「智也、いらない」その声音には不満が滲んでいた。だが智也は、それを「誕生日を忘れていたせい」だと勘違いする。「これからは、忘れないようにするよ」玲奈にとっては、もうどうでもいいことだった。反論もせず、ただ尋ねる。「今からどこへ行くの?」「予約してあるレストランだ」玲奈は小さく首を振る。「レストランじゃ落ち着いて話せないわ。白鷺邸にしましょう」そこは二人の新居――すべ
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第227話

玲奈の瞳には、一片の波風も立っていなかった。悲しみも、怒りも、喜びもなく――ただ淡々とした静けさだけがあった。その時、ようやく智也は悟った。彼女が口にしているのは、離婚の話なのだと。助手席に座る玲奈は、静かに顔を上げ、彼を見ていた。智也はまだ信じられず、問い返す。「......今、なんて言った?」結婚して五年。彼女はずっと従順で、全力で愛莉の世話をし、両親に仕え、決して自ら波風を立てることはなかった。智也は、そんな玲奈を好ましく思っていた。大人しく、騒がず――だからこそ、二人の結婚生活は五年も続いたのだ。だが今、その「おとなしい妻」が、自ら離婚を切り出している。智也の耳は確かに聞き取っていた。それでも、もう一度確かめずにはいられなかった。玲奈の瞳は変わらず静かなまま、淡々と告げる。「智也......離婚しましょう」その口ぶりは、まるで昼に何を食べたのかを語る程度の平板さ。本来なら天が崩れるほどの言葉を、彼女は何事もなかったように口にした。智也は玲奈を見つめると、胸の奥を言葉にできない感情が渦巻いた。それでも、声は落ち着いていた。「拓海のせいか?だから離婚を言い出したのか?」結婚して五年。智也は、玲奈を愛していないと自覚していた。だが、彼女の方はいつも自分を気にかけていた。そんな彼女が、いま平然と「離婚」と言えるのは――理由があるはずだ。考えられるのはただ一人、拓海だった。玲奈は首を横に振った。声はやはり淡々としている。「違うわ。私は自分のためにそうするの」智也はシートに身を預け、目を閉じる。そして再び開いた時、彼女へ顔を向けて問う。「じゃあ愛莉は?どうするつもりだ」玲奈は迷わず答える。「親権は争わない。愛莉はあなたと一緒に」智也の眉間に深い皺が寄る。「本当に、それでいいのか?」「ええ」玲奈ははっきりと頷いた。その様子が冗談でないことは明らかだった。智也はしばらく沈思し、やがて口を開いた。「考える時間をくれ。愛莉の意見も聞かなきゃならない」玲奈の胸に、不意に鋭い痛みが走った。彼の口から「引き止める」言葉は一つもなかった。――もしかすると、彼はずっとこの日を待っていたのかもしれない
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第228話

小燕邸に戻ると、愛莉はすでに洗面を終え、寝室で横になっていた。智也は外からドアを叩き、声をかける。「愛莉、パパ入っていいか?」「うん、入ってきて」娘の声が返る。扉を開けると、愛莉はベッドに腰掛け、タブレットでアニメを見ていた。彼の姿を見つけるなり、嬉しそうに声を上げる。「パパ!」智也はベッド脇に座り、娘の髪を撫でながら、優しい口調で尋ねる。「眠くないか?」愛莉は素直に首を振った。「パパ、ぜんぜん眠くないよ」智也は彼女の小さな鼻を軽くつまみ、穏やかに笑う。「じゃあ、パパから話したいことがある」「うん、何?」娘のあどけない顔を見ていると、胸が締め付けられるようだった。帰りの道中で、どう切り出すか考えていた。だが、いざとなると口が重くなる。その迷いを感じ取った愛莉は、彼の腕に飛びつき、不安そうに問いかけた。「パパ、どうしたの?」智也は長い間娘を見つめ、歯を食いしばって口を開く。「もし......もしパパとママが別れることになって、ママと会う時間が少なくなったら悲しいか?」愛莉は迷いなく首を振った。「悲しくないよ。一生会えなくても大丈夫。パパとララちゃんがいてくれれば、それでいいの」その言葉に、智也は沈黙する。切り出すのをためらっていたのが馬鹿らしくなるほど、娘は何の執着も示さなかった。もう心配はいらないと悟り、智也はそれ以上は何も言わず、部屋を後にした。出てすぐ、玲奈にメッセージを送る。【愛莉にはもう話した。離婚協議書は弁護士に作らせる】数分後、返信が届く。【分かったわ】その冷ややかな一言を見つめながら、智也は深く考え込む。あれほど自分を愛し、愛莉を溺愛していた玲奈が――本当に、この結婚を捨てる覚悟を決めたのか。翌日、月曜日。勤務を終え、病院を出た玲奈は偶然、昂輝と鉢合わせる。同時に、智也の車も視界に入った。昂輝が彼女の方へ歩み寄り、問いかける。「一緒に夕食はどう?」玲奈は微笑みを浮かべて答える。「先輩、ごめんなさい。今日は智也と離婚の話をするの。また今度、今度は私がご馳走するわ」昂輝は驚きを隠せなかったが、目に微かな笑みをにじませる。「そうか。じゃあ、楽しみにしてる」別れを告げて、
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第229話

智也がまだ何も言わないうちに、邦夫から電話がかかってきた。通話を取ると、受話口から不満げな声が飛んでくる。「この馬鹿者、ちゃんとお嫁さんを迎えたんだろうな?」智也は短く答える。「ああ」「なら早く戻ってこい。みんな待ってるぞ」祖父の言葉に頷き、電話を切った。携帯をしまうと、智也は玲奈へ視線を向けて告げる。「離婚協議書ができたら連絡する。署名はその時に」玲奈も、この件は急かしても無意味だと分かっていた。まして新垣家のような家庭で、しかも子どもが絡むのだから、手続きには時間がかかる。「分かったわ」彼女が承諾すると、智也は続ける。「それじゃ、今は家に戻って夕食にしよう」そのまま車を発進させた。向かう道中、二人の間に会話はなかった。玲奈はふと、祖父のことを思い出す。離婚となれば誰もが頷くだろう。だが、祖父だけは違う。彼だけは心の底から、玲奈と智也に添い遂げてほしいと願っている人だった。そもそも二人の結婚は、祖父が強く後押ししたからこそ実現した。当時、玲奈はその厚意に心から感謝し、結婚後も変わらず祖父を大切にしてきた。そして祖父もまた、彼女を実の孫娘のように可愛がってくれた。――だからこそ、離婚の話をどう切り出せばいいのか分からない。信号待ちの合間に、玲奈は智也の横顔を見つめる。前方を見据える顎のラインは硬く緊張し、鼻梁は鋭く、薄い唇は固く結ばれ、長い睫毛の影が目元に落ちている。彼は、誰が見ても美しい男だった。かつて玲奈は、その顔に心を奪われ、すべてを捧げてきた。――けれど今は、何の感情も湧いてこない。視線を外さず、玲奈は問いかけた。「おじいさんには、どう説明するつもり?」智也は顔を向け、正直に答える。「分からない。ただ、絶対に反対されるだろう」彼が自分を見る目は、もうずっと冷めきっていた。玲奈は少し考え、淡々と告げる。「じゃあ隠しておきましょう。離婚届を出したあとで、少しずつ伝えればいい」智也は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。「......ああ」着くと、使用人たちが出迎えに出てきた。智也は車を降りると、玲奈のためにドアを開けることもせず、まっすぐ後部トランクへ向かう。彼女が降り立った時
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第230話

祖父は上座に腰かけ、角に座っている涼真へ声をかけた。「涼真、おまえ、義姉さんのために誕生日の歌を歌ってやれ」涼真はスマホをいじりながら、鼻で笑う。「じいちゃん、義姉さんももう大人だろ。子供でもないのに、誕生日の歌なんてバカバカしい」その言葉に祖父はすぐさま憤りを見せた。「なら、私が歌う!孫の嫁に、私が歌って何が悪い!」そう言って声を張り上げ、歌い出そうとした。実と美由紀は互いに顔も見ず、口もきかない――どうやら夫婦喧嘩の最中らしい。祖父もその二人には何も言わなかった。智也は玲奈の隣に座り、俯いてスマホを操作していた。指先がせわしなく動いている。誰とやり取りしているのか、玲奈には分からなかった。――けれど、おそらく沙羅だろう、と彼女は思った。涼真は祖父の言葉を拒絶した後、再びスマホに目を落とした。結局、この食卓で心から「おめでとう」と思ってくれているのは、祖父ただ一人だった。それを悟った瞬間、玲奈の胸にじわりと熱いものがこみ上げる。かつては、彼女はこの一族の誰にでも必死に気に入られようとしてきた。けれど実際には、祖父以外の誰一人として、彼女の努力を心に留めた者はいなかったのだ。気まずそうな祖父の顔を見て、玲奈はそっと口を開いた。「おじいさん、お気持ちは十分伝わりました。歌は結構です。今度おじいさんのお誕生日には、私が歌いますから」その言葉に祖父の目は赤く潤み、うつむいた声が震えた。「......じゃあ、ケーキを切ろうか」祖父が自分のために悲しんでくれていると分かって、玲奈は逆に笑顔を作った。「はい、まずはおじいさんに」玲奈最初の一切れを祖父へ渡すと、邦夫はゆっくりと味わいながら食べ始めた。玲奈が他の人たちへ目を向けると、それぞれが勝手に動き、彼女の誕生日など意にも介していなかった。彼女は祖父に続いて自分の分を切り取ると、もう誰にも配らなかった。ケーキを口に運んだ時、ちょうど智也がスマホを置いた。彼は顔を向け、低く声をかける。「誕生日おめでとう」甘いケーキが口に広がるのに、心は苦く締めつけられる。玲奈は作り笑いを浮かべ、短く返した。「ありがとう」祖父は甘ったるいものは苦手だった。だが玲奈を悲しませまいと、無理をして一切れ
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