LOGIN明け方の三時を回ったころ、玲奈は喉の渇きで目を覚ました。目を開けた瞬間、頭の中はまだひどくぼんやりしていて、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。しばらく呆然としたままいたあと、ようやく周囲を見回す。見慣れた室内を目にして、ここが小燕邸だと気づいた。けれど、自分がどうやってここへ戻ってきたのかは、まったく思い出せない。反射的にスマホを探ると、ちょうど枕元に置かれていた。手に取って画面を開くと、一華から何件もメッセージが届いていた。最初の一通には、【玲奈、もう着いた?】とあり、その次には、【お酒が抜けたら返信して。聞きたいことがあるの】と送られていた。さらに時間が飛んで、午前三時四分にはもう一通。【玲奈、須賀さんに何を言われていたのか知りたいの】そして七分前には、こんなメッセージも届いていた。【須賀さんの連絡先、持ってる?よければ教えてくれない?】スマホを握りしめたまま、玲奈はしばらく動けなかった。最初から、拓海が自分に向けていた優しさは、必ずしも純粋なものではないかもしれない――そんな予感はあった。それでも真実がこうして目の前に突きつけられると、簡単には受け止めきれなかった。どうしてあれほど自分に良くしてくれるのか、その理由を彼女は何度も考えてきた。けれど、まさかこんな形だったとは、一度も思わなかった。長いあいだぼんやりとしたままいたあと、玲奈はようやく一華に短く返信した。【うん】それから、そのまま拓海の連絡先を一華へ転送した。送り終えると、玲奈は再びソファに仰向けになり、天井を見つめた。けれど胸の奥には、言葉にできない重苦しさが残っている。思わず、ため息が二度こぼれた。その気配で、宮下がはっと目を覚ました。「奥様、起きられたんですね?」声をかけられ、玲奈は意外そうに顔を向けた。「宮下さん?」宮下は体を起こしながら答えた。「はい。旦那様に、奥様のお世話をするよう言われていたんです」それを聞いて、玲奈は戸惑うように訊いた。「じゃあ、私は……」宮下はすぐに言葉を継いだ。「旦那様が抱えてお連れになったんですよ」その言葉に、玲奈は黙り込んだ。返事がないのを見て、宮下はためらいがちに続ける。「奥様、旦那様は、本当は奥様のこと
智也は身をかがめたまま、薄暗い明かりの中にその顔を沈めていた。一方、玲奈は顔を上向かせ、灯りに照らされたその顔立ちがくっきりと浮かび上がっていた。彼女が拓海の名を呼ぶたびに、智也の胸には苛立ちが募っていく。目を細めたその眼差しは、暗く、冷えきっていた。涙で濡れた玲奈の顔を見ているうちに、怒りはさらに膨れ上がった。次の瞬間、智也は手を伸ばし、玲奈の顎をぐいとつかんだ。指先には容赦のない力がこもっていた。痛みに彼女が眉をひそめても、なお力を緩めようとしない。玲奈は激しい痛みに耐えきれず、彼の手を叩きながら叫んだ。「須賀君、離して……痛い、痛いよ……」またその名で呼ばれたことで、智也の表情がぴくりと強ばる。彼は不意に顔を寄せ、低く押し殺した声で言った。「玲奈、よく見ろ。俺は誰だ」その怒りは、今にも相手を呑み込みそうなほど激しかった。酒に酔っているはずなのに、玲奈の瞳は潤み、そこには濃い戸惑いと怯えがにじんでいた。智也は酔っ払い相手にこれ以上言い募る気にはなれなかった。彼女の手を振りほどき、乱暴に車のドアを閉めると、そのまま運転席へ回った。小燕邸へ戻る道すがら、玲奈はシートにもたれ、頭を傾けたまま眠ってしまっていた。眠っている間も、目尻からは涙がひと筋ずつこぼれ落ちていく。隣の女がどうなろうと構うまい――そう思っていたはずなのに、信号で車が止まるたび、智也はつい横顔を見てしまうのだった。車が小燕邸の門前に着くと、智也は車を降り、助手席側へ回った。身をかがめて玲奈を抱き上げ、そのまま屋敷の中へ運ぶ。だが、玄関ホールの手前まで来たところで、揺れに刺激されたのか、玲奈が急に吐き気をもよおした。「うっ……」次の瞬間、そのまま智也の胸元に吐いてしまった。濃い酒の匂いと、胃の中のものが発酵したようなむっとする臭いが、一気に智也の鼻を突く。彼の顔色はますます険しくなった。そのまま大股でホールへ入ると、玲奈を容赦なくソファへ放り出した。倒れ込んだ拍子に、彼女の頭が背もたれにぶつかる。痛みに、玲奈はかすかに眉を寄せた。だが次の瞬間には、また吐き気がこみ上げてきた。床に広がる吐しゃ物を見下ろしながら、智也は苛立ちを抑えきれず怒鳴った。「宮下」声を聞きつけて駆けつけ
夜十一時を回るころには、テーブルを囲んでいた面々のうち、一華を除く全員がほろ酔いになっていた。会計を済ませた一華は、一人を送り届けては店へ戻り、また別の一人を送り出した。玲奈だけは個室に残し、最後に送るつもりだった。戻ってきた一華は、玲奈に拓海のことを聞こうと思っていた。けれど、テーブルに突っ伏したまま眠ってしまっている様子を見て、結局何も聞けなかった。玲奈を支えながら店の入口まで来て、暖簾を上げて外へ出ようとしたそのとき――「篠原さん」後ろから声がかかった。そのころの玲奈は、もうまともに立ってもいられず、今にも崩れ落ちそうになりながら一華に身を預けていた。口ではまだ、わけのわからないことを言っている。「飲もうよ……紗奈、最近お酒弱くなったんじゃない?全然空けないじゃん……」一華が振り返ると、こちらへ歩いてくる智也の姿があった。二人の関係を知っているだけに、一華は思わず目を見張った。近づいてきた智也は、まず玲奈に視線を落とし、それから一華に言った。「玲奈は俺が連れて帰るよ」一華は一瞬ためらったが、やがて頷いた。「……わかりました」智也はかすかに笑みを浮かべた。「ありがとう」そう言って一歩踏み出すと、彼は一華の腕の中から玲奈を受け取った。抱きかかえる腕が変わると、玲奈はそのほうが心地よかったのか、さらに智也の胸元へ身を寄せた。全身から酒の匂いが漂ってくるのを感じ、智也はわずかに眉をひそめた。そして声を潜めて尋ねた。「歩けるか?」その声が一華のものではないと気づいたのか、玲奈はふいに顔を上げた。濁った目で智也の顔をじっと見つめ、次の瞬間、ぽつりと名前を呼んだ。「……須賀君?」その名前が耳に入った途端、智也の表情はみるみる険しく沈んだ。彼はもう何も言わず、身をかがめて玲奈を横抱きにすると、そのまま大股で店の外へ出ていった。背後に立ち尽くした一華は、たしかに今の声を聞いていた。――須賀君。その瞬間、なぜだかわからないまま、一華の胸に後悔がよぎった。あのとき、拓海に嘘をついたこと。自分の本当の名前を告げなかったこと。もし、あの場で名乗っていたのが自分の名前だったなら――今、拓海が優しくしている相手は、自分だったのではないか。もしかした
三人に気遣われ、玲奈は赤くなった鼻をこすりながら首を振った。「ううん、大丈夫。何でもないから」そう答えてはみたものの、皆の視線にはなお心配がにじんでいた。ただ一人、一華だけは、玲奈を見る目に複雑な色を浮かべていた。あの年、橋の上で事故が起きたときのことだった。「お医者さんはいませんか。誰か助けてください、お願いします!」泣き叫ぶような声が聞こえてきた。医学生だった一華は、もともと首を突っ込むつもりはなかった。けれど、その必死な声を聞いた瞬間、見て見ぬふりができなくなった。彼女はマスクをつけて車を降り、人だかりの中へ入っていった。その場にしゃがみ込み、傷者の状態を確かめると、すぐに心肺蘇生を始めた。地面に横たわる男は、顔じゅう血まみれで、顔立ちはかろうじてわかる程度だった。どんな容姿なのかまでは判別できなかった。ただ、体つきや身につけていた上着の質から見て、かなり裕福な身なりであることだけはわかった。そのときの一華は、そんなことを深く考える余裕はなかった。ただ、この人を助けたい――それだけだった。ところが、蘇生を続けているうちに、男が意識を取り戻した。指先がわずかに動き、それから、かすれた声が聞こえた。「痛い……押すの、痛い」一華は慌てて手を離し、すぐに謝った。「すみません、私、まだ学生で、ちゃんとは――」だが最後まで言い終える前に、拓海のさらにかすれた声が重なった。「美しい声だ。きっと本人も美人なんだろ?」一華は思わず面食らった。死にかけているような状況で、そんなことを尋ねる人がいるだろうか。それでも、反射的に答えてしまった。「きれいじゃないですよ」すると拓海は笑った。顔じゅうを鮮血が覆い、笑うと白い歯だけが浮かび上がった。それでも、その顔立ちにはどこか端正な面影があった。やがて彼はまた訊いた。「俺、死ぬ?」一華はきっぱりと言った。「死なないです。私が助けますから」拓海は笑みを浮かべたまま、こう言った。「助かったら、責任取ってよ」一華は戸惑った。「せ、責任って……どうやってです?」拓海は答えた。「俺と結婚して」もう考えている暇はなかった。一華はとっさに口にした。「わかりました。助かったら、結婚しますよ
結局、智也は階段を上ってきた。玲奈の隣に立つと、申し訳なさをにじませながら言った。「すまない。本当に、わざと遅れたわけじゃないんだ」けれど玲奈は彼を見ようともせず、返事もしなかった。そのまま足を踏み出し、階段を下りようとする。するとその瞬間、智也が再び彼女の腕をつかんだ。「何か言え」その言葉に、玲奈の中で張りつめていたものがふっと切れた。彼女は必死にもがき、怒りをぶつけるように叫んだ。「離して!」叫んだ途端、目の縁が赤くなり、堰を切ったように涙があふれ出した。その涙を見た智也は、はっとしたように手を放した。玲奈の感情はもう抑えきれなかった。泣きながら、智也をまっすぐ見据えて問いただす。「どうして、そこまでして私を解放してくれないの?」智也は眉を寄せ、低い声で言った。「月曜は……月曜は、絶対遅れない」その言葉にも、玲奈は何も答えなかった。ただ鋭く彼をにらみつけると、背を向けて階段を下りていった。夜の風は冷たく、もの寂しかった。風にあおられてコートの裾が揺れるたび、玲奈の背中はいっそう心細く、ひとりきりに見えた。智也は階段の上に立ったまま、その後ろ姿を見つめ続けた。彼女の姿が通りの角を曲がって見えなくなるまで、視線を外すことはなかった。……玲奈が角を曲がったところで、スマホの着信音が鳴った。相手は一華だった。「玲奈、今、時間ある?」玲奈は少しかすれた声で答えた。「うん、あるよ」一華は言った。「今夜、みんなで集まらない?ちょうど明日は土曜だし、少しゆっくりできるでしょ」ちょうど気持ちが沈んでいたところだった。その誘いに、玲奈は迷わず頷いた。「行く。場所を送って。すぐ向かうわ」「うん」通話が切れると、ほどなくして位置情報が送られてきた。玲奈はその場所を頼りにタクシーを拾って向かった。店に着いたときには、一華のほか、紗奈と冴花もすでに来ていた。鍋の店で、個室が取られていた。席に着くと、ひとしきり挨拶を交わしてから、ようやく箸をつけた。紗奈が酒を飲もうと提案し、みんなもそれに賛成した。ビールを二本ほど空けたころ、玲奈の気分は少しだけ軽くなっていた。ふと顔を上げると、一華がこちらを見ていた。視線がぶつかった
離婚するために、玲奈はあまりにも長く待ち続けてきた。ここまで積み重ねてきたものを、この土壇場ですべて無駄にしたくはなかった。たとえ相手に頭を下げるような言葉を口にすることになっても、それで離婚できるのなら構わなかった。とにかく、離婚できさえすればよかった。智也は電話口で言った。「……わかった」玲奈は胸の奥に渦巻く怒りを押し込み、どうにか気持ちを落ち着かせた。彼が戻るつもりでいると聞いて、ひとまず胸をなで下ろす。市役所の閉庁まで、まだ時間はある。富士城から久我山までは三、四時間ほどだ。今すぐ引き返せば、午後には十分間に合うはずだ。電話を切ったあと、玲奈は市役所のロビーを行き交う人々をぼんやりと眺めた。若い恋人たちが笑顔で婚姻届を出しに来ている。記念日らしく写真を撮り、思い出を残そうとしているカップルもいる。その一方で、離婚の手続きに来て、激しく言い争っている夫婦の姿もあった。広い市役所の中には、さまざまな人の声と、それぞれの事情が満ちていた。そんな中で玲奈は、ただ静かに長椅子に座り続けた。その場を離れようとはしなかった。智也が来たら、すぐに離婚手続きを済ませられるように――ただ、それだけを思って待ち続けた。そうして昼になり、職員たちが休憩に入ると、玲奈も少しだけ外を歩いた。そして午後の業務が始まる前には、また市役所へ戻っていた。再び長椅子に腰を下ろすと、玲奈は智也に電話をかけた。智也は出るなり、「どうした?」と言った。その一言に、玲奈の胸はひやりと冷えた。それでも彼女は気持ちを抑え、口を開いた。「今、どのあたり?」智也は詳しくは答えず、ただ短く言った。「向かっている」玲奈もそれ以上は聞かなかった。「そう。私は市役所で待ってるわ」電話を切ると、また長い時間が始まった。玲奈はじっとスマホの画面を見つめ、表示される時刻が変わっていくのを追い続けた。市役所の閉庁時間は刻一刻と近づいていく。それでも、智也は現れない。その間にも玲奈は二度、彼に電話をかけた。彼は出たが、返ってくるのはただ一言――「もうすぐ着く」それだけだった。そして午後四時五十八分になっても、智也の姿はなかった。そのとき、職員の一人が近づいてきて、申し訳なさそ
沙羅は智也の視線を追い、その先に玲奈と拓海の姿を見つけた。その瞬間、笑顔を浮かべていた沙羅の口角がわずかに下がった。周囲には大勢の人がいて、あからさまな反応はできない。何事もないかのように智也の腕を軽く揺らし、「智也、何を考えていたの?」と問いかける。智也はようやく我に返り、沙羅に振り返り尋ねた。「......弾き終わったのか?」「ええ」「じゃあ、帰ろう」そう言って足を踏み出そうとしたが、沙羅が慌てて腕をつかむ。「智也、まだ撮影があるわ」智也は数秒沈黙してから頷いた。「ああ」会もここまでくれば、進行はほぼ終盤に差しかかっていた。一方、玲奈と拓
六時きっかりに、拓海は現れた。スタイリストに付き添われ、玲奈は実家を後にする。まだ時間が早く、兄たちは帰宅していなかったため、使用人だけが出発を見送った。家族を心配させまいと、玲奈は使用人に伝言をあずけた。「兄さんたちが帰ってきて私のことを聞いたら、図書館で勉強してるって伝えて。院試の準備中だって」使用人たちは笑みを浮かべながら、了承した。外へ出ると、すぐに拓海の車が目に入った。ランボルギーニで、ひときわ存在感を放っていた。秋の夕暮れ、橙色の夕陽が街を染める中、拓海は車体に斜めにもたれて腕を軽く組んでいた。風になびく前あきのトレンチコートは、どこか絵になる姿
実は彼女はすでに医務室に行っていたが、処置を受けようとした時考え直し、結局受けなかったのだ。智也にこれを見せた方がもっと効果があると思ったからだ。智也は慌てて言った。「今すぐ病院に連れて行くよ」沙羅を連れて病院で傷の手当てを終えた後、智也は二人を連れて小燕邸に戻った。宮下は彼らを見て、出迎えて来た。「智也様、深津お嬢さん、お嬢様、お帰りなさいませ」智也は宮下に命令した。「今夜の晩ご飯はお粥にしよう。沙羅が手に怪我をしたから、脂っこいものや辛いものは避けてくれ」宮下は聞いてから、微笑みながら言った。「かしこまりました、智也様」二人はリビングに入ると、宮下は続いて尋ねた
午後、足に薬を塗って、玲奈は仕事に戻った。昂輝は夜、玲奈を春日部家に送った。玲奈が車のドアを開けて降りようとした時、昂輝が先に車を降りてドアを開けた後、彼女のほうへ手を差し出した。「おんぶしてあげよう」「先輩、本当にご迷惑をかけるわけにはいけません。自分で家まで歩けます」と玲奈は申し訳なくて、また断った。昂輝は安心できなかった。「もう家の前まで来たんだ。玄関まであと少しくらいだろう。もし、俺が送ってあげなくて途中でまた転んで怪我でもしたらどうするんだよ。おじさんとおばさんに怒られるかもしれないだろう。今後俺が罪人扱いされるようになったらどうしてくれるんだ?」昂輝が言ったその







