All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話

玲奈の頬は、拓海の胸に押しつけられていた。耳に響くのは低く唸るような声と、どくどくと力強い鼓動。その言葉はあまりにも情熱的で――既婚者である彼女ですら、一瞬心臓が跳ねた。だが同時に悟っていた。拓海は人の心を操る術に長けた男。女の子が喜ぶ言葉を心得ている。玲奈は身をよじり、逃れようとした。だが振りほどけないと知ると、観念して口を開いた。「救急箱は......テーブルの引き出しに」その瞬間、拓海は彼女を放し、吐き捨てるように言った。「おまえのことなんか、犬でも気にしない」言うなり窓際へ歩み寄る。そこには、先ほどから垂れているロープ。掴めばすぐにでも去れるはずだった。だが、彼は動けなかった。大きな背中が窓ガラスに映り、目を閉じて必死に何かと戦っているように見えた。やがて拓海は舌打ちし、再び振り返る。テーブルへ向かい、救急箱を探り当てると、玲奈に向かって短く命じた。「来い」その声は強く、逆らう余地を与えなかった。玲奈は一瞬ためらったが、結局歩み寄ってソファに腰を下ろした。腕を差し出し、かすかに呟く。「......ありがとう」拓海は黙々と袖をめくり、突然「ワン、ワン......」と口にした。玲奈は目を瞬き、思わず俯いて彼を見つめる。大柄で、整った顔立ちを持つ男が、不器用ながらも細心の注意で包帯を取り替えている。彼の優しさは、逆に心をざわつかせた。この距離は、決して純粋ではないと知っているからだ。処置を終えると、拓海は言葉ひとつ発せず、彼女のスマホをテーブルに置いた。そしてロープを掴み、窓から軽やかに姿を消した。残された静寂の中、救急箱を片付け終えると、再び電話の着信音が鳴り響く。画面に映る名は――智也。「離婚協議の件かもしれない」そう思い、玲奈はためらわずに応答した。「普段、どうやって愛莉のお腹を撫でてやっていた?」電話越しに聞こえた智也の声は、驚くほど淡々としていた。またも失望が胸を過ったが、それも一瞬。息を整え、玲奈は丁寧に説明する。「まず手のひらを温めて。それから掌で痛む場所を優しく押して、円を描くように」「分かった」智也の短い返事。切る直前、玲奈は彼を呼び止めた。「智也」「何だ?」「離婚協議
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第242話

その夜、智也からの電話は結局かかってこなかった。代わりに鳴ったのは勝からの声だった。「奥さま......実は新垣グループでトラブルがありまして。社長は緊急会議を開いています。離婚協議の署名は明日の夜に延期してほしいと」玲奈は食い下がる。「......今夜は戻らないの?」「もうすぐ成立しそうだった案件を、横取りされました。チーム全員が尽力した仕事です。社長も引き下がれず、対応策を協議しています」「そう......」ため息とともに応じるしかなかった。電話を切ると、玲奈はソファに身を預けた。――今夜も離婚は進まない。だが智也のプロジェクトを奪えるほどの相手がいる。その存在感に、少しだけ不安を覚えた。翌日、玲奈がまだ病院にいる時に、智也から電話が入った。「今、病院前にいる」「分かったわ」白衣を脱ぎ、玲奈は外へ出る。そこには智也の車があった。後部座席に乗り込むと、車内には沈黙が満ちる。彼は何本か仕事の電話を取り、最後には沙羅の声に応答した。その間、玲奈は一言も発しなかった。やがて車は白鷺邸に着く。二人が玄関を入ると、山田が目を丸くした。「......お二人でご一緒に?」智也はそれを遮るように命じた。「山田、休んでいい。俺と妻は話がある」「は、はい......」山田は気配を察し、すぐに下がった。重苦しい空気が残る居間に、智也は一枚の書類を取り出す。「これが離婚協議書だ。目を通してくれ。異論があれば、話し合おう」玲奈はうなずき、真剣に目を走らせた。――第一条、愛莉の親権は智也が持つ。――第二条、玲奈には二百億円を補償金として支払う。ただし、白鷺邸と小燕邸は対象外。――第三条、離婚後五年間、再婚・再出産を禁止。――第四条、愛莉が母を必要とする時、玲奈は必ず応じること。――第五条、玲奈には面会権があるが、智也と愛莉の同意が必要。――第六条、祖父には当面秘密とし、呼び戻された際は夫婦を演じること。読み終え、玲奈は顔を上げた。「異議はないわ」まるで些細な事務手続きを話しているかのような静けさ。この結婚を得るために、どれほど必死にしがみついてきたか。だが今、彼女は驚くほどあっさりと手放した。智也は
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第243話

翌朝九時。玲奈が市役所に着いた時、智也はすでに来ていた。車は路肩に停まっていたが、彼は車内から降りようとはしない。――彼は決して時間を守る男ではない。だが今日ばかりは違った。きっと彼自身も、この日を待ち構えていたのだろう。車内で智也は電話を取っていた。相手は勝だった。「社長、案件は......やはり取り戻せませんでした」智也の目が街路樹に向けられ、表情は暗く翳る。「分かった」「相手は須賀グループと接触しました。二、三日のうちに契約締結かと」智也の声はさらに冷ややかになる。「須賀拓海が我々の案件を横取りしたのは、一度や二度じゃない。しばらく大人しかったが......結局、性根は変わらない」「社長、では東区のあの案件に入札しましょう。須賀に勝ち目は高いですが、長年我々の案件を奪い続けてきた相手です。このまま好きにさせてはなりません」「いいだろう。たとえ落札できなくても、奴に痛手を負わせろ」敵を討つ代償に、自分はより深い傷を負う。それでも構わない――智也の決意には、そんな執念が滲んでいた。拓海は、何年も前から公然と、あるいは密かに新垣グループの行く手を阻んできた。協力関係に必ず割り込み、最後に得られずとも満足する。その執拗さは異常とも言えた。智也は長く「久我山での自分の地位を奪うのが目的」と考えていた。だが今は違うかもしれない。――拓海が法外な額で競り落とした翡翠のブレスレット。それが今、玲奈の手首に光っている。それを思えば、智也の胸中に妙なざわめきが走る。玲奈の何が、拓海をそこまで駆り立てるのか。考え込む彼の耳に、コンコンと窓を叩く音が響いた。顔を上げると、そこには玲奈が立っていた。窓を下ろすと、澄んだ顔立ちと、冷ややかで静かな声が届いた。「行きましょう」一瞬、智也は見惚れて動けなかった。――いつからだろう。彼女の瞳が、自分を映しても微塵も揺れなくなったのは。車を降りた智也の目に、玲奈の手首が映る。そこに輝く翡翠のブレスレットを、思わず問いかけていた。「そのブレスレット......気に入っているのか?」玲奈は反射的に手首を覆い隠す。あの日、拓海が競り落とした場に、智也と沙羅もいた。――彼女は覚えて
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第244話

職員は二人の間に火花が散りそうなのを見て、すかさず口を挟んだ。「すみません、離婚申請には身分証、離婚協議書、そして戸籍謄本が必要です。ひとつでも欠ければ手続きできません」玲奈は何とか融通してもらえないかと食い下がろうとした。だが職員は苦笑し、首を横に振る。「申し訳ありません、必須の書類です。揃えてから明日またお越しください」仕方なく、二人は市役所を後にした。外へ出ると、玲奈は悔しさにため息を何度も洩らした。一方の智也は、泰然とした顔。何事にも動じないといった風情だった。その姿に、玲奈の胸は妙にざわついた。――どうして、あの人はこんな時でさえ揺るがないのか。だが言葉を重ねても無駄だと悟り、ただ告げた。「私は一時間だけ休みを取ってるから、病院に戻るわ。戸籍謄本は小燕邸にあるはずよ。今夜きちんと探して明日、改めて来ましょう」離婚手続きが思うように進まず苛立つ彼女を見て、智也の心に奇妙な感情が湧き上がる。――あれほど自分を愛してきた玲奈が、なぜ離婚を口にするのか。拓海ではないと彼女は否定した。では、何が理由なのか。その日の午後。玲奈がまだ病院で仕事をしていると、昂輝が姿を現した。彼が現れると、科の若い看護師たちは一斉に頬を染め、夢見るような顔をする。昂輝は彼女たちに礼儀正しく微笑み、真っ直ぐ医師室へ向かった。「先輩」玲奈が立ち上がり声をかけると、彼は自然な動作で彼女のバッグを受け取り、穏やかに言った。「夕食、一緒にどうだ?」玲奈は一瞬迷ったが、やがて頷いた。「はい、今度は私がおごります」昂輝は多くを語らず、ただ静かに微笑んだ。レストランに着き、昂輝はメニューを差し出し、玲奈に言った。「君が決めな」玲奈が二品ほど選んだ時、背後から足音が近づいてきた。顔を上げると、そこには智也と沙羅が並んでいた。沙羅は智也の腕に絡みつき、得意げに微笑んでいる。――この偶然は、沙羅が仕組んだものだった。博士課程の研究課題が定まらず、沙羅は焦っていた。智也が名のある教授を紹介してくれたものの、どのテーマも行き詰まり、やり直しを余儀なくされる恐れがあった。それでは卒業が遅れ、最悪は博士号を得られない。最後にすがったのは昂輝。前に冷たく突き
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第245話

智也の言葉には、露骨ではないがはっきりとした威嚇が込められていた。玲奈はすぐに気づいた。――彼が庇っているのは沙羅だ。昂輝に余計な火の粉が降りかかるのを恐れ、玲奈は立ち上がって言った。「先輩、店を変えましょう」その行動を、智也は冷ややかな眼差しで見ていた。細められた瞳に、探るような光が宿る。――玲奈が離婚を急ぐのは、拓海ではなく昂輝のためなのか?ここ数日、彼の胸には常にその疑念が渦巻いていた。昂輝は椅子を引いて立ち上がり、静かな声で告げた。「課題研究のことでないなら、なおさら付き合う理由はない」そう言うと彼は玲奈の腕をとり、店を後にした。沙羅は赤くなった目で、その背を追う。――まさか、本当に玲奈のせいで私を嫌うなんて?そんなはずはない......そう思いたかった。智也は彼女の羞恥を悟り、頬に手を添えて囁いた。「気にするな。研究課題のことは俺が片づけてやる」「......ごめんなさい、智也。私の出来が悪いから」沙羅の声は震え、涙で滲んでいた。智也は彼女を抱き寄せ、背を撫でる。「何を言う。お前は十分聡い」沙羅は胸に顔を埋め、次第に落ち着きを取り戻していった。昂輝は別の中華料理店を選んだ。席につくと、玲奈にメニューを渡した。「君が頼みな」料理を注文したあと、玲奈はおずおずと顔を上げた。「先輩......沙羅は智也の宝物よ。彼女が傷つけば、きっと黙ってはいない。だから先輩も......」言い終わる前に、昂輝は遮った。「玲奈、俺にはただ品性を欠いた二人にしか見えない。言うべきことを言ったまでだ。医学の道は誰もが歩けるものじゃない」その冷徹さは玲奈を守るものでもあった。だが彼女はやはり彼の立場を案じずにはいられなかった。高みに立つ者ほど、落ちれば深い――智也の言葉は、図らずも真実だった。それでも昂輝の揺るがぬ姿勢に、これ以上言葉を重ねることはできなかった。料理が運ばれると、昂輝は玲奈にご飯をよそい、箸を差し出す。食事の合間、彼はふと尋ねた。「もうすぐ院試だな。準備はどうだ?」「ええ、順調です」玲奈は頷いた。妊娠する前からすでに試験に備えていた。再び勉強を始めた今も、不安は少なかった。昂輝は
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第246話

玲奈はベッドから勢いよく身を起こした。「そんなはずないわ!」「本当に、見当たらないんだ」智也の声は冷静だった。玲奈は深く眉間に皺を寄せた。「......私が白鷺邸に行って探してみる」電話を切ると、彼女はすぐに上着を羽織り、外へ出た。白鷺邸に着いてから屋内を隅々まで探したが、やはり戸籍謄本は見つからない。物音に気づいた山田が階段を上がってきて、彼女を見つけると声をかけた。「奥さま、何をお探しで?」玲奈は落胆を隠せず、すぐに問いかけた。「山田さん、私と智也の戸籍謄本を見かけなかった?」「奥さま、それはご夫婦の大事な物。私が触れるわけがありません」「......そうよね」玲奈はため息をつき、諦めたように答えた。しばし考えたのち、彼女は再び智也へ電話をかけた。だが通話中でつながらない。――どうせ沙羅の研究課題に付き合っているのだろう。数分後、ようやく折り返しがきた。「智也、白鷺邸まで来て。直接探しましょう」「わかった。ただ少し遅くなる」「十時までに来なければ、私は帰るわ」言い残し、彼が返事をする間もなく電話を切った。夜十時が迫るころ、玲奈は外の闇を見やり――今夜はもう来ないだろうと覚悟した。立ち上がって帰ろうとした瞬間、外からクラクションが響いた。数分後、智也が入ってきた。出迎えたのは、上着を手にしたままの玲奈だった。彼は一瞬立ち止まり、問いかける。「見つかったのか?」「......いいえ」智也の眼差しは鋭く陰を帯びた。「結婚してから、家のことはずっとお前が仕切ってきた。戸籍謄本もお前が持っているはずだろう?」非難めいた口調に、玲奈は思わず笑みを漏らした。「結婚してからは愛莉にかかりきりだったのよ。戸籍謄本なんて気にする余裕、あるわけないでしょう」彼女の苛立ちを見ても、智也は淡々とした声で返す。「俺は発行のときに一度見ただけだ。その後は一度も」玲奈は、全身から力が抜けていくのを感じた。――この離婚、進めれば進めるほど頭が痛い。「じゃあ......どうするつもり?」彼女の焦燥を見つめながら、智也はふと皮肉めいた笑みを浮かべた。「いっそもう一度取り直してから、改めて離婚するか?」だが玲奈には一
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第247話

玲奈はその場に立ち止まり、智也の顔を見据えた。かつては昼も夜も思い焦がれたその顔が、すぐ目の前にある。だが彼女の胸の内は、もう一片の波風さえ立たなかった。智也の問いを耳にした玲奈は、自嘲めいた笑い声を漏らした。しばし間を置いてから、静かに告げる。「智也、私たちはもともと夫婦なんかじゃなかった。だから早く、お互いを自由にした方がいい」智也の瞳に、迷いが浮かぶ。彼は真剣な声で尋ねた。「......どうすれば、夫婦らしくなれるんだ?」玲奈は彼の真意を測りかねつつも、淡々と答える。「あなたと沙羅みたいなのが、よっぽど夫婦らしいわ」そう言って立ち去ろうとした玲奈だったが、ふと思い返し、もう一度顔を上げた。「それと――あなたの自尊心を傷つけるのは気が進まないけど......ベッドの上じゃ、本当に三分しかもたなかったわよね」その一言に、智也の表情が一気に暗くなる。瞳に陰が差し、彼は咄嗟に彼女の手をつかんで低く問い詰めた。「......どういう意味だ?他の男と比べたのか?」玲奈は怯まずに見返し、澄んだ声で答える。「仮にそうだとして――だから何?智也、私たちはもうすぐ離婚するのよ」そのまま彼の手を振り払い、振り返りもせず歩き去った。智也は彼女の背中を見つめ、光と影が入り混じるように瞳が揺れた。胸の奥が、なぜかざらついて仕方がない。――ベッドでの三分。それが自分の限界であるはずがない。白鷺邸を出た玲奈は、車を走らせて実家へ戻る道を選んだ。だが心は落ち着かず、信号で車を止めたときだった。突然、助手席のドアが開いた。振り向くと、疲れ果てた顔の和真が乗り込んでくる。玲奈の身体は一瞬で緊張に包まれ、声も冷たく低くなった。「降りて」だが和真は微動だにせず、鋭い目を彼女に向ける。「心晴はどこだ?あいつはどこにいる?」玲奈は即座に返す。「知らないわ」その答えに、和真の瞳に凶暴な色が宿った。「家を出て行って、俺の電話も出ない。お前がそそのかしたんだろ?」玲奈は静かに彼を見返す。「彼女が出て行った理由、別れを切り出した理由――本当は分かってるはずでしょ」心晴は八年間、すべてを捧げて彼に尽くした。だらしない私生活に巻き込まれ、堕胎まで背
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第248話

誰かが駆けつけ、和真を引きはがした。殴り合いまで始まる。数分後、意識が徐々に戻った玲奈の耳に、夜を切り裂くような怒声が響いた。「失せろ!」聞き覚えのある低い声――拓海だ。和真は劣勢だったのか、去り際にまだ未練がましく怒鳴り散らした。「春日部玲奈......覚えてろ!」拓海の声は圧倒的な迫力を帯び、冷たく吐き捨てられた。「俺の女に手を出すだと?試してみろ、命が惜しくなけりゃな」それきり和真の声は途絶え、夜に残ったのはクラクションの余韻だけだった。シートにもたれた玲奈が顔を向けると、助手席のドア脇に立つ拓海の姿が見えた。彼の黒い瞳は一瞬たりとも彼女から離れず、右手を背に隠したまま。――血が滴っているのを、見せまいとしているのだろう。おそらくまだ怒りを抑えているのだろう、拓海は口を閉ざしたまま何も言わない。沈黙に耐えかね、玲奈は唇を結んで微笑み、短く言った。「ありがとう」だが、その作り笑いがかえって拓海の苛立ちを煽った。背に隠した手のひらは血に濡れている。彼はそれを悟られたくなかった。玲奈に余計な記憶を呼び起こしたくなかった。なのに――彼女がそんなふうに笑うから。拓海は怒気を帯びて言い放った。「礼が言いたいなら、とっとと約束を果たせ」玲奈は眉をひそめ、不思議そうに問い返す。「......約束?」ますます苛立った拓海は、短く鼻で笑うと背を向けた。「自分で考えろ」それだけ吐き捨て、振り返りもせずに自分の車へと向かう。玲奈は思わず後ろ姿を追った。助手席にはすでに一人の女が座っている。艶やかな巻き髪を肩に垂らし、紫のドレスに包まれた細い腰。顔立ちも雰囲気も、絵のように華やかで、まさに絶世の美貌だった。拓海が乗り込むと、女は自然な仕草で彼の手を取った。そのまま彼の手は彼女の腿に置かれる。まるで長く連れ添った恋人同士のように。車が横を通り過ぎていく一瞬――玲奈はその光景を目に焼き付けた。そして、淡い笑みを浮かべる。最初から分かっていた。拓海の言葉も、贈り物も、「宝物」と呼ぶ声も――すべては一時の気まぐれか、何かの打算にすぎない。名うてのプレイボーイが、たった一輪の花に留まるはずがない。気持ちを切り替え、玲奈は車を出し、実家
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第249話

翌朝、玲奈は早番を終えた。迎えに来た心晴に連れられ、そのまま会場へ向かう前に簡単なスタイリングを施すことになった。時間が限られていたため、メイクは華やかだが複雑すぎない仕上がりに。心晴が選んでくれたのは、純白のビスチェ型ロングドレスだった。足元まで届く裾が長い脚を隠す一方で、上半身は程よく露わにされている。出産を経ても玲奈の体型は美しく保たれており、引き締まった腰はまるで片手で握りこめるほど。ドレスに身を包み、ヒールを履き、メイクを整えた玲奈の姿を見て、心晴でさえ思わず息を呑んだ。「玲奈......すごい。あの智也って男、まさに宝の持ち腐れね」彼女は玲奈の腕を取って笑った。鏡に映る自分を見て、玲奈も一瞬、心を奪われる。結婚してからの五年間、智也に伴われてパーティに出席したことは一度もなく、ここまで本格的な装いをしたのも久しぶりだった。日常の淡い化粧とはまるで違う。ドレスに包まれ、髪を背に流した彼女は、柔らかな気配を纏い、思わず目を引く存在となっていた。会場に到着すると、すでに多くの人々が集まっていた。ショーや舞踏会、商談スペースに子ども向けのエリアまで、賑わいを見せている。そのとき、玲奈と心晴の視線が同じ方向に止まった。黒のオーダースーツに身を包んだ智也。そして真紅のショートドレスを着こなした沙羅。沙羅は智也の腕に絡みつき、二人は二階へと上がっていく――おそらく打ち合わせのためだろう。一方、フロアの食事エリアには子どもたちがいた。男の子が声をかける。「ねえ、あの赤いドレスのきれいなお姉さん、君のお母さん?」向かいに座っていたのは愛莉だった。二人は入口に背を向けているため、玲奈と心晴の存在には気づいていない。愛莉は少し考え、素直に答えた。「違うよ。あの人は私のおばさん」「へえ、そうなんだ。すごく仲良さそうだね」ケーキを頬張りながら、愛莉は得意げに言う。「でもね、ママみたいなものよ。ママよりずっといいくらい」その言葉に、男の子は無邪気に尋ね返した。「じゃあ本当のお母さんは?学校に迎えに来てるの見たことないよ。もしかして死んじゃったの?」愛莉の手が止まった。そして小さな声で、ぽつりと。「......そんなところ」背
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第250話

玲奈は小さくため息をついた。「......あなた、あの子が私の言うことを聞くと思う?」先ほど愛莉が「ママ」と呼びもしなかった場面を思い返し、心晴も肩を落とす。「そうね。結局はその子自身の人生を尊重するしかないのかも」玲奈は口ではそう言っても、心は静まらなかった。走り去った娘の背中を見つめる目には、不安の色が濃く浮かんでいた。自分が産んだ娘――人より偉くなれなくてもいい。ただ、人を傷つける言葉を吐かず、礼儀を忘れない子に育ってほしい。けれど、今の愛莉にはその思いは届かない。もう考えても仕方ないわ。小さな男の子は掴まれた痛みにしくしく泣き続けていたが、声が大きくなかったため、幸い周囲の注目は集まらなかった。そこへスタッフが近づき、心晴に声をかける。「失礼いたします。菅原さんがお待ちですので、上階へどうぞ」「はい、わかりました」心晴は頷き、玲奈に振り返る。「玲奈、ちょっと打ち合わせに行ってくるわ。すぐ戻るから、先に食べてて」玲奈は穏やかに微笑んだ。「うん、行ってらっしゃい」心晴が二階へ上がると、玲奈は泣き顔の男の子のもとに歩み寄った。しゃがみ込み、ティッシュで涙を拭ってやる。「ほら、大丈夫。男の子がいつまでも泣いてたらかっこ悪いわ。泣きやんで」男の子は肩を震わせながらも、すすり泣きは止まっていた。大きな瞳で玲奈を見上げ、素直に言った。「お姉さん......すごくきれいだね。さっきの赤い服のお姉さんより、ずっときれい」玲奈の胸が小さく震えた。驚きと、そして不思議な温かさが広がる。「まさか、この子の目には私が沙羅よりきれいに映っているなんて」彼女は男の子の頭を撫で、微笑んだ。「ありがとう」すると、男の子は両手を広げ、赤い目でおねだりする。「抱っこして」母親の顔を持つ玲奈は、その視線に抗えなかった。小さな体を抱き上げ、椅子に腰かけ、自分の膝に座らせる。「さっき女の子に意地悪されたでしょう?ごめんね。おばさんから代わりに謝るわ」男の子は首を振り、真っ直ぐに言う。「お姉さんは悪くないよ。学校に戻ったら先生に言う。先生があの子に注意してくれるもん」玲奈はくすっと笑った。「そうね。先生の言うことな
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