All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 451 - Chapter 460

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第451話

智也に突然そんなことを問われ、沙羅は一瞬、言葉を失った。だが、すぐに彼の真意を理解したのだった。――そういうことか。けれど、沙羅が答える前に智也は鏡越しに彼女の瞳を見つめ、静かに問いかけた。「......嫌なのか?」その言葉に、沙羅は慌てて首を横に振る。「違うの。ただ......私は愛莉の実の母親じゃないでしょう?そんな立場で、出過ぎたことをしていいのかと思って......」智也はファスナーに絡まっていた髪を外し、そのまま彼女の髪を整えながら言った。「愛莉はお前のことが好きだ。それに......実の母親より、お前のほうがよほど母親に向いてる」その言葉を境に、沙羅の顔からさっきまで浮かんでいた笑みが消えた。これほど待ち望んでいた一言のはずなのに、いざ現実になってみると、胸は少しも弾まなかった。もし智也と一緒になるなら、「後妻」として生きることになる。――じゃあ、自分の仕事は?自分の人生は?沙羅が黙り込んでいるのを見て、智也は試すように名前を呼んだ。「......沙羅?」我に返った沙羅は、静かに彼を見た。「私、本当に......務まると思う?」智也は鏡の中の彼女に微笑みかけた。「もちろんだ」その言葉を聞いて、沙羅は視線を落とす。「......うん」けれど、心の中は複雑だった。そこに、喜びはほとんど見当たらない。もし智也と一緒になれば、自分が胸に秘めてきた願いは、どうなるのだろう。――彼女は、あの夜の灯籠に願いを書いた。「この世のすべての男に、愛されますように」と。智也という一本の木のために、森全体を捨てるだけの価値はあるのか。そんなことを考えていた、そのときだった。「......ただし、条件がある」突然の言葉に、沙羅は顔を上げた。「条件......?」智也は鏡の中の彼女と視線を合わせたままこう言った。「子どもは、愛莉だけだ。俺たちの間に新しい子はいらない」その言葉に沙羅は沈黙した。智也は彼女を追い詰めることはせず、ただ淡々と告げた。「ゆっくり考えていい」そう言い残し、智也は試着室を出て行った。鏡の前に一人残された沙羅は、心が大きく揺れているのを感じていた。智也に嫁げば、何不自由ない暮らしが待っている。
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第452話

彼女の正体は、須賀冴子(すが さえこ)だった。拓海の母親だった。新垣家と須賀家は昔から折り合いが悪く、その対立は本人たちにとどまらず、周囲の人間にまで及んでいる。顔を合わせれば、互いに不快感を隠そうともしない関係だ。冴子は美由紀を見据え、声を落として言った。「......それで?まだ道を空ける気はないの?」美由紀は渋々身をずらしながら、同じく低い声で鼻を鳴らす。「本当に、ついてないわね」小声のつもりだったのだろうが、その言葉は冴子にもはっきり届いていた。冴子はふと足を止めて振り返り、冷え切った視線を向けて言い放った。「心が濁っている人ほど、見るものすべてが汚れて見えるのよ」美由紀も一歩も引かず、嘲りを含んだ笑みを浮かべながら言い返した。「あなたこそ息子をちゃんと管理しなさい。よその家の嫁にまで手を出すなんて、常識ってものがあるでしょう。たとえうちの智也が彼女を愛していなくても、手を出す資格があるのは智也だけよ。それなのに、あなたの息子は横からずかずかと」それを聞いた冴子はかすかに笑った。余裕を崩さぬまま、静かに返した。「ずかずか、ですって?うちの息子には、それだけの力があるってことよ」美由紀の顔から血の気が引き、震える指で冴子を指し、声を荒らげた。「......あなた、本当に恥というものを知らないわね」冴子は一瞥しただけで、淡々と、しかし容赦なく言葉を重ねた。「舌も回らないほど興奮して、何を喚いているの?何?自分を大物だとでも思ってるのかしら。私があなたを相手にしないのは、争う価値もないと思っているから。それなのに、いい気になって噛みついてくるなんて......」美由紀は怒りで息が詰まり、血が逆流するような感覚に襲われた。その様子を見て、冴子はさらに冷ややかに言った。「立っているのもやっとのくせに、うちの息子を躾けろですって?拓海は胸を張って生きているわ。好きな人の恋人になることの、何が悪いの?」一拍置き、冴子はわざと一歩距離を取った。まるで、美由紀に触れることすら厭うかのように。「あなたのものでもない相手に、そこまで取り乱して......このまま倒れても、私は責任を負わないわ。あなたと関わる気はさらさらないもの」
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第453話

拓海は冴子とのやり取りを終えると、ようやく顔を上げて玲奈を見た。まだ眠っているものだと思っていたが、彼女は目を開けていた。起きているのを見て、拓海は少し驚きながら問いかけた。「どうした?」さっきまで穏やかに眠っていたはずなのに、なぜ急に目を覚ましたのかが気になったのだ。拓海はスマホをしまい、心配そうに玲奈を見つめた。改めて彼女の身体を確かめると、小さな痣はほとんど消えていたが、大きく残ったものは、いまだ色濃く肌に浮かんでいた。その視線に気づいた玲奈は、淡く笑って言った。「何でもないわ。ただ......ちょっとお手洗いに行きたくて」その言葉を聞くなり拓海は立ち上がり、点滴のボトルに手を伸ばす。「行こう。俺が一緒に行く」玲奈は慌てて首を横に振った。「ナースコールで呼ぶから、大丈夫」そう言いながら、ナースコールに手を伸ばそうとした瞬間、拓海は素早く彼女の腕を掴んだ。「みんな忙しそうだし、俺が付き添う」その声には有無を言わせない強さがあった。彼は譲るつもりがないのだと、玲奈にもはっきり分かった。恥ずかしさはあったが、我慢できる状態ではなかった。結局、彼女は小さく息をついて折れた。トイレに着くと、拓海は点滴のボトルを持ったまますぐそばに立っていた。しゃがみ込む玲奈の頬は赤く染まり、どうにも落ち着かない様子だった。そんな様子に気づいたのか、拓海がふと口を開く。「......俺の母親に、会ってみる気はない?」唐突な言葉に、玲奈は思わず固まった。「え......?」拓海は前を向いたまま続けた。「うちの母さんは、本当に優しい人なんだ。ずっと前から、お前に会いたがってた」この言葉は気まずさを和らげるためのものでもあったが、同時に彼の本心でもあった。用を済ませた玲奈は慌てて身支度を整え、水を流してから少し間を置いて言った。「......私が会いに行くのは、あまりふさわしくないと思う」拓海はそこでようやく彼女の方へ振り返り、屈託なく笑った。「どうせ、いずれは会うんだから」その真剣な口調に、玲奈の表情は冷たくなった。「......私は、会うつもりはないわ」「そのうち、そうなる」「ならない」きっぱりと言い切られ、拓海の眉がわずかに動いた。
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第454話

命令口調の文面に、玲奈は強い不快感を覚えた。返事をする気にもなれず、反射的に画面を消そうとする。だが、そのとき、智也から続けて通知が届いた。【離婚の件、もう一度話そう】離婚という言葉を見て、玲奈は画面に指を戻す。【何について話したいの?】ほどなくして、返信が来た。【協議書に、もう一つ条項を追加したい】玲奈は首をかしげた。【概要だけ、ここで教えて】二分ほどして、また通知が届いた。【離婚後、お前は愛莉に会わないこと】意味が分からず、玲奈は【?】と返した。すぐに智也から再び通知が入る。【補償金は上乗せする】だが、玲奈は引き下がらなかった。【愛莉は私が産んだ子よ。私の一部だわ】しかし、返ってきた文面は冷え切っていた。【確かにお前が産んだ。まあ、愛莉が沙羅と仲良くする姿を見ることになっても構わないなら、それでもいい】無機質な文章を読み、玲奈は短く息を吐いた。【愛莉のことについては、離婚後、完全に関わらないなんて、約束はできない。でも......できるだけ距離は置くわ】送信すると、玲奈はスマホをサイドテーブルに置いた。その後、智也から何が届いたのかはもう確認しなかった。玲奈がやり取りをしている間、拓海はずっと彼女の様子を黙って見ていた。スマホを置いたのを見て、低く問いかけた。「......智也か?」玲奈は小さく頷いた。「うん」拓海は、少し俯けば画面が見えたはずだった。だが、なぜか彼は見なかった。――見たくなかったのだ。「何を話してた?」玲奈は詳しく説明する気になれず、短く答えた。「特に何も。ただ、私の様子を気にしてただけ」......気にしてる?その言葉に、拓海は皮肉めいた笑みを浮かべた。「本当に心配してるなら、病院に来て付き添うはずだ。スマホで連絡するだけで気遣いになると思ってるなら、安いもんだな」長くやり取りをしていたから、何か重要な話をしているのだと思っていた。――それが、ただ様子を伺っただけ?玲奈は彼の苛立ちに気づき、なだめるように言った。「......忙しいんだと思う」その一言が、逆に火をつけた。「そうだな。忙しいんだろう。......大事な人に付き添うのに、な」拓海ははっき
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第455話

拓海は玲奈が布団を引き上げるのを黙って見ていた。彼女が本気で眠るつもりではないことは分かっていた。もうこれ以上、話したくないのだろう。だから、彼はあえて指摘しなかった。しばらくすると、玲奈は本当に眠りに落ちた。拓海もまた、うっすらと眠気に引き込まれ、ベッドの脇に身を横たえた。それから二時間ほどが過ぎた頃――けたたましい着信音が鳴り、二人は同時に目を覚ました。玲奈は自分のだと気づき手を伸ばしたが、すでに拓海が彼女のスマホを手にしていた。差し出された拍子に、彼女の指先が彼の手に触れる。ほんの一瞬。それだけで拓海の胸はざわついた。玲奈は電話を受け取り、画面を確認した。――昂輝からの着信だった。「先輩」電話口から心配そうな声が届く。「同僚から聞いた。休みを取ったそうだね」玲奈は詳しくは話さなかった。「ちょっと体調を崩しただけだから大丈夫。心配しないで」昂輝は納得しきれない様子だった。「どこにいる?顔を見に行こうか」「本当に大丈夫、もうかなり良くなったし」彼はそれ以上問い詰めることはせず、少し間を置いて尋ねた。「じゃあ、明日の宮口先生の食事会は、行けそう?」その会は以前から決まっていたが、宮口先生の都合で延期になっていたものだった。玲奈は迷いなく答えた。「行くわ」まだ院試には受かっていない。それでも、ここまで来られたのは、宮口先生が背中を押してくれたからだ。だから、その席を欠席する選択はなかった。「分かった。じゃあ、明日の午後、迎えに行くよ」「ありがとう。よろしくね」「いいんだ。君のためなら、喜んでやる」玲奈は一瞬言葉に詰まったが、昂輝はそれ以上待たずに通話を切った。――きっと、断り文句を聞きたくなかったのだろう。スマホを置くと、玲奈は拓海の熱を帯びた視線を感じた。「......どうしたの?」拓海は目を細めて尋ねる。「明日の夜、食事会に行くのか?」「うん」その返事を聞いた瞬間、拓海の表情が険しくなった。「玲奈、自分の体がどうなってもいいのか?」玲奈は落ち着いた声で説明した。「数日安静にすれば大丈夫。大したことじゃないわ」だが、拓海の不安は消えなかった。「......子ども
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第456話

拓海は一拍置いてから、笑って言った。「なら、ちょうどいい。正直、俺は継父になるつもりはないからな」思いがけない言葉に、玲奈はわずかに目を見開いた。それから少し間を置き、淡々と口を開く。「......じゃあ、もう寝てもいい?」拓海は、彼女の言葉をなぞるように言った。「じゃあさ、明日の食事会が終わったら、俺と一緒に母さんに会ってくれる?」また、その話題だった。玲奈は一瞬言葉に詰まったが、やがて真剣な表情で拓海を見た。「あなたには、本当はもっと連れて行きたい人がいるでしょう。それなのに、どうして私なの?」拓海は病床のそばに腰を下ろし、玲奈の目をまっすぐに見つめる。「家に連れて行きたいのはお前だけだ。連れて行くのも、これから先も、お前しかいない」その言葉に、玲奈の意識はまた揺らいだ。冗談を言っている様子はなく、表情はひどく真剣だった。――まるで、本気でそう思っているかのように。だが、玲奈はそれ以上何も答えなかった。……その夜。智也が隣の別荘から小燕邸へ戻ったのは、ちょうど夜十一時だった。その時間帯、祖父はすでに休んでいた。静まり返った邸内に足を踏み入れたとき、リビングのソファに人影があるのが目に入った。よく見ると、涼真だった。足音に気づいた涼真は、はっと顔を上げ、智也だと分かると久しぶりに見る笑顔を浮かべた。立ち上がり、深く頭を下げる。「......お帰り」その様子を見ただけで、智也は察した。――何か、頼み事があるのだろう。前置きもなく、智也は言った。「で?今日は何だ」涼真は一歩近づき、智也の腕を掴む。「......上で話したい」祖父に聞かれるのを恐れているのだと分かり、智也は黙って頷いた。二人は二階へ上がり、書斎に入った。扉が閉まるなり涼真は智也の腕を握りしめ、今にも泣き出しそうな声で言った。「......人を探してほしい」「......星羅か?」試すように問いかけると、涼真は強く頷いた。「......そう」智也は眉をひそめる。「どうした。消えたのか」少し考え、涼真は小さく頷いた。「......ほぼ、そんな感じ」智也は声を低くし、詰め寄った。「何があった」その迫力に、涼真は怯え、
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第457話

涼真は智也に蹴り飛ばされ、床に倒れ込んだ。痛みに眉を寄せながらも智也の怒りに満ちた表情を見て、胸の奥にはっきりとした恐怖が湧き上がる。声を出すこともできず、ただ必死な目で兄を見上げることしかできなかった。だが、智也は何も言わない。ソファに置いてあった上着を無言で手に取り、そのまま書斎を出ていこうとする。涼真は慌てて立ち上がり、よろめきながら二歩ほど追いかけて叫んだ。「兄ちゃん......頼れるのは、もう兄ちゃんしかいないんだ」それでも、智也は振り返らない。大股で階段を下り、そのまま玄関へ向かった。小燕邸の前で車に乗り込むと、智也は勝から玲奈が入院している病院の場所を聞き出し、迷わずアクセルを踏んだ。走り出してからも、彼の胸の内は重苦しい思いで満たされていた。あの日、玲奈が倒れ、病院で目を覚ましたときの、あのひどく弱々しい姿が何度も脳裏に浮かぶ。あれほど消耗していたにもかかわらず、あの日の夜、彼女はさらに暴力を受けた。自分との口論のあと、星羅に殴られていたなんて。胸が詰まり、息苦しくなる。この瞬間、彼の中にははっきりとした後悔が芽生えていた。もし、あの日病院を出ずに彼女のそばに残っていたら——こんな事態には、ならなかったのではないか。それ以上考えるのが怖くて、智也は思考を止めようとした。考えれば考えるほど、心が軋む。病院まであと半分ほどになった頃、車内に着信音が鳴り響いた。信号待ちの合間に視線を落とすと、発信者は勝だった。電話に出ると、勝の切迫した声が耳に入る。「新垣社長、工事現場の開発権が奪われました。至急、会社に来てください」智也は眉を寄せ、短い沈黙のあと、答えた。「......分かった」通話を終え、彼はナビ画面を確認する。病院までは、あと十分もかからない。だが、会社へ向かえば一時間以上は必要だった。それでも智也はハンドルを切り、Uターンした。会社に到着すると、すでに幹部たちが集まっていた。勝が駆け寄ってくる。「新垣社長、調べたところ、開発権を奪ったのは長谷川明です」「......あいつは飲食業じゃなかったか?なぜ建設に首を突っ込める?」勝は首を横に振る。「分かりません」しばらく考えたあと、智也はあっさりと言った。
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第458話

智也は回りくどい言い方をせず、単刀直入に切り出した。「......玲奈を、どこへ連れて行った?」だが、拓海はその問いを意にも介さず、可笑しそうに言い返す。「それ、お前に関係ある?」そう言って、拓海は一方的に通話を切った。ツーツーという無機質な音を聞きながら、智也の胸には言いようのない違和感が広がる。すでに離婚の話は出ている。手続きも、冷却期間に入っている。それなのに、なぜか心が落ち着かない。その理由がはっきりとは分からないまま、智也はしばらく考え込んでいた。そんなとき、再びスマホが鳴った。玲奈からの折り返しかと思い、反射的に画面を見た。だが、そこに表示されていたのは沙羅の名前だった。少し間を置いてから、智也は電話に出る。「......沙羅」電話口から聞こえてきた彼の声が掠れていたことで、沙羅はすぐに察した。昨夜、また無理をして働いていたのだろう。しばらく迷った末、彼女は控えめに切り出す。「今夜、宮口先生が開いてくださる食事会があるんだけど......一緒に来てくれる?」その問いに、智也は考えることなく答えた。「分かった。行くよ」その後も少し言葉を交わしたが、話題のほとんどは愛莉のことだった。本当は、勝に玲奈の居場所を調べさせるつもりだった。だが、今はそれよりも休息を取るべきだと判断し、少し仮眠をすることにした。今夜は沙羅と食事会に出る。そのためにも、少しでも体力を回復させておきたかった。祖父は小燕邸にいるはずだ。そう考え、智也は白鷺邸へ向かうことにした。白鷺邸に着くと、ちょうど使用人の山田が簡単な昼食を取っていた。野菜だけの、質素な食卓だった。玄関の音に気づき、山田は顔を上げる。「......お帰りなさい。今日はどうしてこちらに?」その驚きの含まれた口調に、智也は思わず聞き返した。「そんなに意外か?」山田は素直に頷いた。「はい。旦那様も奥様も、もうずいぶん戻られていませんでしたから」その言葉に、智也の胸がふっと重くなる。思い返せば、ここに戻るたび、玲奈は何から何まで世話を焼いてくれていた。だが、今、彼女はもうここにはいない。「......確かに、久しぶりだな」そう呟き、智也は室内を見回した。
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第459話

拓海は秋良を手伝おうとしたが、彼はそれを許さなかった。重苦しい沈黙が流れたあと、拓海は意を決したように、秋良の手から荷物を奪い取った。「いえ、義兄さん。手伝わせてください」有無を言わせぬ口調だった。彼はすべての荷物を抱え、そのままキッチンへ向かう。秋良はその場に立ち尽くし、しばらく状況を飲み込めずにいた。そこへ、綾乃が外から戻ってきた。彼女の手にも、同じように買い物袋が下がっていた。拓海が秋良から荷物を奪う様子を、綾乃はしっかり見ていた。秋良が呆然としているのを見て、彼女は手をひらひらと振る。「ねえ、大丈夫?固まってるけど」秋良がようやく我に返ったところで、綾乃はくすっと笑って言った。「手伝いたいって言ってるんだから、やらせてあげればいいじゃない。減るもんじゃないし」秋良は顔をしかめ、綾乃を一瞥して言った。「君の言いたいことは分かる。だが、俺は賛成しない」それでも綾乃は、表情を変えなかった。「あなたがどう思うかより、大事なのは玲奈の気持ちでしょ?」秋良はそれ以上言い返さず、綾乃から荷物を受け取ると、キッチンへ向かった。ちょうど拓海が荷物を置き終えたところだった。秋良が入ってくるのを見て、拓海は思わず手を伸ばしかける。だが、その視界に綾乃の姿が入ってきた。彼女の手にも荷物があるのを見ると、拓海は迷わずそれを受け取った。「綾乃さんは女性ですから。こういう力仕事は、俺がやりますよ」綾乃はぱっと笑顔を咲かせた。「玲奈があなたと結婚したら、どれだけ幸せになるかしらね」その言葉に、拓海は少し照れた様子で後頭部を掻く。「いやいや、買いかぶりすぎですよ。俺はそんな大した男じゃありません」綾乃がさらに何か言おうとした、そのとき――秋良が一歩前に出て、二人の間に割って入った。拓海はすぐに察した。――これ以上は踏み込みすぎだ。荷物を置き終えると、彼は静かに身を引き、できるだけ存在感を消した。綾乃は料理上手で、今日は自分が拓海を招いた手前、腕を振るうつもりでいた。秋良は何も言わず、黙々と彼女の手伝いに回っていた。二時間後。綾乃は玲奈のために、フナの豆腐スープを煮込み、きのこと豚ヒレの炒め物、にんにくが香るスペアリブ、手づかみ羊肉
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第460話

その様子を見て、拓海も立ち上がった。「綾乃さん、俺がやります。洗い物は任せてください」その熱心さに、綾乃は思わず笑みをこぼす。「うちは使用人がいるから。片づけは任せて大丈夫よ」綾乃には、ここまで気を配れる男がそう悪い人間だとは思えなかった。拓海は一瞬で顔を赤くし、すぐに次の手を打つ。「じゃあ......床、拭きます」綾乃はやさしく微笑み、振り返って玲奈に言った。「玲奈、ちょっと彼を止めてあげて」その様子を見ていた玲奈は、拓海が何を求めているのか分からずにいた。彼が想っているのは沙羅のはずなのに、どうしてここまで自分の家で頭を下げて立ち回るのだろう。理解できないまま、綾乃の言葉に続けて玲奈は言った。「さっき言ってたよね。午後は会社で会議があるって。......もう行っていいよ。外まで送るから」拓海は、はっきりと「帰ってほしい」という合図を受け取った。それでも、図々しく笑って返す。「もう手配は済ませた。俺がいなくても会議は回る。今日は、玲奈が最優先だ」そう言って、彼女に拒まれる隙を与えないよう、秋良と綾乃に視線を向けた。「義兄さんも綾乃さんも、玲奈を一人で行かせるのは心配でしょう?」その言葉に、玲奈は思わず声を上げる。「須賀君、あなた......」だが、拓海はただ微笑んだ。その目には、強い決心が宿っている。――きっと、兄は許さない。玲奈はそう思った。しかし次の瞬間、秋良の口から予想外な言葉が出た。「......なら、少し休んでいけ」そう言うと、彼は使用人に指示をした。「彼を客間へ案内して」使用人はうなずき、拓海を連れて二階へ上がっていった。二人の姿が消えてから、玲奈は眉をひそめて兄を見る。「どうして......?」秋良は真剣な眼差しで、妹を見返す。「少なくとも、彼がいれば玲奈の身は守られる」「でも、私......」「今回だけだ」それ以上の議論は許さないという口調だった。玲奈は観念し、黙ってうなずいた。午後五時。昂輝が春日部家の門前に到着した。電話を受けた玲奈は、身体に沿うワンピースの上にロングコートを羽織り、階下へ向かった。できれば誰にも気づかれずに出たかった。だが、階段口に差しか
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