拓海はもう遠くへ行っているのに、笑い声だけが耳の奥にいつまでも残っていた。涼真はその音が耳障りで、思わず両手で耳を塞ぐ。拓海が去ってから、智也はようやく涼真の顔の傷をきちんと見た。頬は青あざと紫あざがまだらに広がり、切れた傷口まである。ただし致命傷というほどではない。智也の胸は不快感で満ちたが、それでも怒りは押さえつけ、弟の肩を叩いて言った。「どれだけ悔しくても、今日は飲み込め。腹にしまえ」広い久我山では、智也と拓海、二つの勢力が拮抗していて、どちらかが一方的にのさばることはできない。だが智也は、拓海ほど捨て身にはなれなかった。拓海は玲奈のためなら、何もかも投げ出せる。涼真は目を赤くした。兄が出てきても片づかないことが、この世にあるとは思っていなかった。そのとき、智也のスマホがまた震えた。ポケットから取り出すと、着信は沙羅だった。電話口で沙羅が言う。「智也。食事会が終わったけど、今どこ?迎えに行くわ」少し考えて、智也は答えた。「トイレのほうにいる」すると涼真が慌てて首を振り、沙羅を呼ばないでくれと訴えた。涼真は沙羅をずっと女神みたいに思っている。もし彼女が兄の恋人でなければ、どんな手を使ってでも手に入れようとしたはずだ。一生手が届かないと分かっていても、想いは薄れない。だから「行く」と言われた瞬間、恐ろしくなった。崇拝している相手に、こんな惨めな姿を見られるくらいなら、死んだほうがましだと思う。智也は弟の気持ちなど知らず、ただ体面を気にしているのだろうと受け取った。だから沙羅にはこう言った。「来なくていい。ホールで待ってて。すぐ行く」沙羅は短く返す。「分かった」電話を切ると、智也は涼真に言った。「顔を洗って、一緒に出るぞ」涼真は反射的に拒んだ。「兄貴は戻っていい。俺は放っといてくれ。このまま出たら恥だし、沙羅さんにも笑われる」智也は冷たい顔で言い切る。「沙羅はそんな人間じゃない」それでも涼真は譲らない。「みんなが帰ってから出る」智也は不安になり、言った。「薫を呼んで迎えさせる」だが涼真は首を振った。「嫌だ。自分で帰る」そこまで頑ななら、智也もそれ以上は押し付けようとしなかっ
Read more