カードが場に並べられてから、しばらくのあいだ時間が止まったようだった。三枚目として引かれた「恋人」のカードは、ほかのどの札よりも、テーブルの上で微かに揺れていた。まるで、そこに込められた意味が空気に溶け出し、見えない波紋となってふたりのあいだを満たしていくかのようだった。
佐野は、すぐには声を出さなかった。指先だけが、ゆっくりとカードの縁をなぞる。その所作には慎重さがあった。押し殺すような呼吸と共に、何かを探るように目を伏せたまま、佐野の肩がごくわずかに沈む。
尾崎は、それを黙って見つめていた。視線の先で揺れるカードに、どこか焦点が合わず、それでも逸らすこともできなかった。心の中に生じたのは、ほんの小さな波紋。問いかけることが怖かった。けれど、黙っていることのほうが、もっと不自然に感じられた。
「……それって、俺の“恋愛”ですか?」
その声は、低く落ち着いていたが、かすかなひび割れが混ざっていた。問いを投げた自分自身に戸惑うような響き。尾崎の眼差しはカードに注がれたままだったが、まぶたの奥で何かが細く震えていた。
佐野はその言葉にすぐには反応せず、なおもカードの絵柄を見つめていた。そこには、対峙する二人の人間と、それを上空から見守る天使の姿。選択と結びつき、愛と倫理のせめぎ合い。佐野の指先が止まり、ふと、目を閉じた。
静かなまばたき。その一瞬だけ、すべての感情が内側に引き込まれたようだった。けれど次の瞬間には、まっすぐに尾崎を見つめ返していた。その目は、やさしくもあり、どこか揺れていた。視線の奥に、決して言葉にできない何かが宿っている。
「このカードが何を意味するかは……今ここでは、よう言わん」
声はいつもの穏やかさの中に、微かに掠れたような気配を含んでいた。まるで、何かを押しとどめながら言葉を選んでいるような慎重さだった。
「恋人のカードは、ただの恋愛の象徴やない。選択のカードや。誰と向き合うか、どういう関係を結ぶか……そういう問いを、本人に返してくる」
尾崎は、その言葉を聞いてもすぐに反応しなかった。代わりに、手元に置かれた湯呑みを静かに持ち上げる。そして口をつけずに、またそっと置いた。その仕草のなかに、たしかな迷いが
カードが場に並べられてから、しばらくのあいだ時間が止まったようだった。三枚目として引かれた「恋人」のカードは、ほかのどの札よりも、テーブルの上で微かに揺れていた。まるで、そこに込められた意味が空気に溶け出し、見えない波紋となってふたりのあいだを満たしていくかのようだった。佐野は、すぐには声を出さなかった。指先だけが、ゆっくりとカードの縁をなぞる。その所作には慎重さがあった。押し殺すような呼吸と共に、何かを探るように目を伏せたまま、佐野の肩がごくわずかに沈む。尾崎は、それを黙って見つめていた。視線の先で揺れるカードに、どこか焦点が合わず、それでも逸らすこともできなかった。心の中に生じたのは、ほんの小さな波紋。問いかけることが怖かった。けれど、黙っていることのほうが、もっと不自然に感じられた。「……それって、俺の“恋愛”ですか?」その声は、低く落ち着いていたが、かすかなひび割れが混ざっていた。問いを投げた自分自身に戸惑うような響き。尾崎の眼差しはカードに注がれたままだったが、まぶたの奥で何かが細く震えていた。佐野はその言葉にすぐには反応せず、なおもカードの絵柄を見つめていた。そこには、対峙する二人の人間と、それを上空から見守る天使の姿。選択と結びつき、愛と倫理のせめぎ合い。佐野の指先が止まり、ふと、目を閉じた。静かなまばたき。その一瞬だけ、すべての感情が内側に引き込まれたようだった。けれど次の瞬間には、まっすぐに尾崎を見つめ返していた。その目は、やさしくもあり、どこか揺れていた。視線の奥に、決して言葉にできない何かが宿っている。「このカードが何を意味するかは……今ここでは、よう言わん」声はいつもの穏やかさの中に、微かに掠れたような気配を含んでいた。まるで、何かを押しとどめながら言葉を選んでいるような慎重さだった。「恋人のカードは、ただの恋愛の象徴やない。選択のカードや。誰と向き合うか、どういう関係を結ぶか……そういう問いを、本人に返してくる」尾崎は、その言葉を聞いてもすぐに反応しなかった。代わりに、手元に置かれた湯呑みを静かに持ち上げる。そして口をつけずに、またそっと置いた。その仕草のなかに、たしかな迷いが
店内の空気は、扉を閉じた瞬間に外界から切り離されるようだった。柔らかな灯り、湯気のゆらぎ、茶の香り。そのすべてが、尾崎の五感をじわりと包み込んでくる。靴を脱ぎ、畳の上に足を置いたとき、わずかに足裏の緊張が抜けた。奥の席には佐野がいて、淡く微笑むように頷いた。その動作には、いつものようなゆるやかさがあったが、尾崎の目にはほんの一瞬、彼の肩がわずかに揺れたように見えた。尾崎は静かに、迷いのない足取りで佐野の前の席に腰を下ろす。湯呑みが差し出されるよりも前に、声を出していた。「占ってもらってもいいですか」自分の声が出た瞬間、尾崎の内側に波紋が走った。その言葉が、どこかから自動的に出てきたような感覚。意思を持って選んだはずなのに、言葉の端に確信はなかった。けれど、口に出してしまえばもう戻れない。それは、境界を越える合図のようにも感じられた。佐野は、わずかに目を細めた。驚いたというより、確認するような目の動きだった。長く尾崎を見てきたからこそ、意図を探ることなく、ただその言葉を受け取った。「ええよ」そう答えた声は、少し低く、響きも抑えられていた。佐野の指が、静かに箱を開ける。中から現れたタロットは、いつものケルト十字ではなく、今日に限っては三枚引きだった。何も言わずに、佐野がそう選んだのには理由があったのだろう。だが尾崎は問い返さなかった。ただ、その決定をそのまま受け取った。カードがシャッフルされる音は、乾いていて、それでいてどこか湿り気を含んだような響きだった。手元で切り分けられていくカードたちは、いずれも裏返しのまま静かに並べられていく。佐野の指先は、触れるようで触れない。まるで祈るような動き。所作には迷いがなく、それでいてどこかに慎重さを宿していた。尾崎は、カードを見つめながらも、実際にはそこに目を向けてはいなかった。視線は落ちていても、意識は別のところにある。さっきの言葉、自分から頼んだという事実が、心の奥で静かに反響している。なぜ今、自分はこれを求めたのか。その答えは出ないまま、ただ空白が広がっていた。「これが、あんさんの“今”や」佐野が最初のカードをめくる。出たのは「隠者」。そのカードが象徴するのは、
灰色が空を覆っていた。まるで厚手の布が空にかけられたような、光の通りにくい午後だった。風もないのに、空気は冷えていて、肌の表面からじんわりと熱を奪っていく。尾崎はマフラーの端を首元に巻き直しながら、無意識に歩を早めていた。どこへ向かっているのか、それが自分の意思だったのかさえ、わからないまま。ただ、指先がかすかに冷たく痺れていて、その感覚が彼に自分の輪郭を思い出させた。路地を抜けると、町家の建物が控えめに佇んでいた。《茶庭 結》と記された金文字の看板が、日陰に沈み込みながらも、なぜか確かな存在感を放っている。尾崎は立ち止まり、ひとつ息を吸い込んだ。吐いた息が白くならないことに、少し安心しながら、手を伸ばして引き戸を開けた。戸が動く音は、いつもより少しだけ重く感じられた。軋むような音が背中から現実を遠ざけ、やわらかな灯りのなかに彼を包み込んでいく。鼻先に漂うのは、焙じ茶と木の香りが混じったような匂い。まるで時間そのものが、ここだけは別のリズムで流れているようだった。奥の畳敷きに目をやると、佐野が茶器を拭いていた。気配に気づいたのか、顔を上げ、目を細めてから短く微笑んだ。「いらっしゃい」その声は、いつもの佐野のものより、ほんのわずかに低く感じられた。抑えたトーン。静かで、乾いていない。それだけで尾崎の胸のなかに、妙な波紋が広がった。誰かの声で、こんなふうに空気が変わることがあるのだと、あらためて気づく。尾崎は軽く頭を下げ、言葉を返すことなく店の中央にある一人用の小さな席に腰を下ろした。体の力が抜けないまま、背筋はまっすぐに保たれたままだった。両手を膝の上に置き、視線を落とす。けれどその視線の先には何もなく、ただ無意識の思考が空白のまま漂っていた。ふと気づけば、佐野がいつのまにか手を止めて、こちらを見ていた。その視線は鋭さも柔らかさもなく、ただそこに在るという種類のものだった。尾崎は気づかぬふりをした。わずかに目をそらし、窓際の障子越しの光へと視線を移す。この場所に来るのは、もう何度目になるのだろう。回数を数えることはしていない。ただ、休日や仕事帰り、ふとしたときに足が向くのがこの店だった。何かを求めていたわけではなかったはずなのに、気がつ
佐野は、尾崎が去ったあとの空間に立ち尽くしていた。引き戸の閉じる音がわずかに反響し、木の重なり合う乾いた音が静けさのなかに残っていた。夜が店内の輪郭をゆっくりと飲み込みはじめ、照明の温度だけがそこにとどまっているようだった。手元には、まだ湯呑の跡がうっすらと残っていた。佐野は無意識に布巾を手に取り、カウンターの木目に沿って拭きはじめる。動きは丁寧で、音ひとつ立てないように、繰り返し同じ場所をなぞるような手つきだった。けれど、その動作に集中していたわけではなかった。拭く手の途中で、ふと指が止まる。思い出したのは、先ほどの尾崎の表情だった。茶碗が傾きかけたとき、ふれそうになった指先と、そのあとの視線の揺れ。尾崎は笑った。けれど、それはいつもの“距離をつくるための笑み”ではなかった。防ぐためでも、逃げるためでもない、何かが緩んだあとの、呼吸のような笑みだった。佐野はそのとき、息を忘れそうになったのだと思い返す。目の奥に、何かが触れたような感覚。ふれてはいない。それでも確かに、そこにはあたたかさがあった。拒絶ではなく、かといって許容とも言い切れない、ただただ静かな“在る”という気配。店内の隅から、小さな音がした。風が障子の隙間をなでていったのだろう。秋の夜は思ったよりも早く訪れる。窓の外はすでに薄墨のように落ちていて、街灯の明かりだけが点在するように町家の外を染めていた。佐野は視線をそこに向けたまま、カウンターの縁に両手を置いた。ふと、胸の奥に浮かんだ言葉があった。「誰かを赦すんは……きっと、自分の声でしか、できへんのやろな」ぽつりと漏らしたその声は、想像よりも掠れていて、届くかどうかもわからないほど小さかった。けれど確かに、誰かに向けた言葉だった。尾崎に、かつての恋人に、そしてもしかすると、自分自身に。赦すということは、相手を許すことではなく、自分が抱えてきた痛みを“そこに置く”ということかもしれない。それを声に出すには、時間がいる。勇気ではなく、たぶん、静けさのようなものが。佐野の指先が、ふと震えた。ほんのわずかに。自分でも
佐野が湯の温度を確かめるように茶碗を持ち直したとき、尾崎の手元がわずかに動いた。仕草としてはごく些細なもので、湯呑の角度が変わっただけに見えた。けれど、そのわずかな傾きの先に、佐野の指先があった。茶碗が揺れて、陶器の縁がかすかに鳴った。瞬間的に、ふたりの手が、ふれあいそうな距離まで近づいた。ほんの一拍だけ、指先と指先の隙間が息を呑むほど狭くなった。けれど触れることはなかった。佐野が手を引いたのが先だったのか、尾崎がわずかに反射したのか、判断できないほど同時の動きだった。ただ、空気の密度が変わったような気がした。湯気に似た、見えないものが、二人の間にふわりと流れた。その瞬間、視線が重なった。尾崎の目が、まっすぐに佐野を見ていた。やや伏し目がちの角度から持ち上げられたその視線には、明確な感情の名がなかった。ただ、揺れていた。まばたきの間合いが不自然にゆっくりとしていて、まるで時間が一瞬だけ、伸びたかのような錯覚を覚える。佐野は声を出さなかった。ただ、見返していた。どこか遠くを眺めるような視線ではなく、いま確かにそこにいる相手を見ている眼差し。温度を伴いながらも、無理に追いかけるような圧はなかった。その距離感が、却って尾崎の胸にしずかにしみていく。尾崎は先に目を逸らした。だが、それは逃げではなかった。どこか照れくささのようなものが混ざった、淡い笑みが唇の端に浮かんでいた。あの、形ばかりの“壁を作る”笑顔ではなかった。表情の輪郭は柔らかく、目尻も少し緩んでいた。微笑というより、呼吸の一部がそのまま顔に出たような、自然なゆらぎ。まぶたは半分ほど開いたままで、すぐに伏せられることもなかった。その宙ぶらりんなまなざしが、何かを告げようとしているようにも見えた。けれど、言葉になるには至らない。そんな気配だけが、二人のあいだに滲んでいた。佐野は、その変化を追わなかった。言葉をかけることもなく、微笑み返すことさえせず、ただ茶碗の方に視線を戻した。けれど、目の奥はどこか遠くを見ているようでいて、はっきりと“いま”を見つめていた。無言のままの空気が、かえって深く流れる。窓の外では、秋の陽が傾きか
尾崎は鞄の中に手を差し入れながら、何を探しているのか、自分でもはっきりしないまま指先を動かしていた。指があるものに触れた瞬間、ふと手の動きが止まった。細くて、薄くて、端の角がわずかに丸くなっている。まるで何度も指に触れられていたかのように、紙の質感が肌に馴染んでいた。取り出したそれは、古びた名刺だった。白地に黒い文字。レイアウトに無駄がなく、企業名と個人名が中央にすっと並んでいる。見慣れた書体と、もう会うことはない名前。その名前を見た途端、尾崎の口元から小さな息が漏れた。鈴木慶吾。名前を声に出すことはしなかった。ただ、その活字を視線でなぞりながら、ふっと目元に影が差した。指先で名刺の端を折る。軽く折っただけで、紙はあっさりと折り目を受け入れた。その柔らかさが、かえって尾崎の胸に鈍い痛みを残す。「…あいつのこと、ずっとどこかで待ってたんだと思う」声にしたとき、自分の声が思った以上に掠れていたことに気づいた。佐野は何も言わなかった。そばにいたが、答えを急ごうとしないその気配が、かえって尾崎の胸に沁みていく。カウンター越しに、佐野がそっと一皿を差し出した。そこには、季節の干菓子がひとつだけ置かれていた。淡い青色の花弁をかたどった砂糖菓子で、表面は乾いているのに、どこか濡れたような光を帯びていた。尾崎はそれに目を落とした。名前を尋ねることはしなかった。佐野もまた、何も言わずにただ微笑を含んだ表情を浮かべたまま、湯呑の縁を指先でなぞっていた。そこにあったのは、言葉ではない、名前のない優しさだった。たったひとつの行動が、人の心の内をどれほど受け止めるかということを、尾崎はその干菓子から知った気がした。味わう前から、もう十分にあたたかさを受け取ってしまったような気がしたからだ。口に入れることをためらうほど、そっと差し出されたその“気配”は、彼の中にある傷の輪郭をなぞった。「破れたら、捨てると思ってた。でも、なかなか破れないもんだな」尾崎はもう一度、名刺の端を押しつぶすようにして折った。小さな音が、紙の繊維を割く。それでも完全に破ることはできず、ただ、ひとつ折り目が増えただけだった