All Chapters of もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記: Chapter 11 - Chapter 20

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埃と倉庫の午後

午後二時を少し過ぎた頃、三階の奥まった備品倉庫には、時間が止まっているかのような静けさが漂っていた。季節は春だが、ひんやりとした空気が棚と棚の間に籠もっている。建物の構造上、窓もなく陽射しも入らないこの空間では、外のぽかぽかとした陽気がまるで嘘のようだった。金属棚の列に挟まれたその場所に、鶴橋蓮はひとり、黙々と作業をしていた。ジャンパーの袖を少しめくり、軽く汗ばんだ額を手の甲で拭う。マスク越しに吸い込む古紙と埃の混じった空気は、薄く喉に刺さった。床にしゃがみこみ、ダンボール箱を引っ張り出しては中身を確かめる。印刷が色褪せた社内マニュアル、破れかけた請求書控え、年季の入ったバインダー。「……いつの時代やねん、これ」小さくぼやいて、使えそうな資料と廃棄対象を分ける作業を繰り返す。底がふやけた箱を持ち上げると、ずしりとした重さが腕にかかった。中はぎっしりと詰められた紙束と、大小まちまちのファイルが無造作に押し込まれていた。バインダーの角がすでに崩れかけ、どれも色褪せて黄ばみが出ていた。そんな中に、ひとつだけ妙に目を引くものがあった。色は薄い青。一般的なスカイブルーよりも、ほんの少しくすんだ柔らかな青で、他の灰色や茶色の資料の山の中では不自然なほど目立っていた。そのファイルは、ほかのもののように曲がったり埃をかぶったりしておらず、表面には手入れされたような光沢が残っている。まるで、ついさっき誰かがそこに差し込んだような存在感があった。「……なんや、これだけ浮いてんな」手に取った瞬間、微かに厚みと重さが指に伝わった。中身が詰まっているわりには、軽い。だが、整った重さだった。背表紙には何も書かれておらず、タイトルらしきラベルも貼られていない。指の腹でなぞると、表面がわずかにざらついていた。立ち上がりながら、鶴橋はそのままファイルを開いた。そこには書類ではなく、業界新聞の切り抜きが数枚、ビニールポケットに一枚ずつ丁寧に収められていた。時代を感じさせるレイアウトと、今とは違う字体の見出し。黄色くなった紙にはインクのにじみもあり、何度も読み返された形跡があった。ふと
last updateLast Updated : 2025-06-25
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なぜ今ここに?

資料の入った青いファイルを胸元に抱えたまま、鶴橋蓮はただ、その場に立ち尽くしていた。倉庫の奥は相変わらずひんやりとしていて、空気は薄く、蛍光灯の白い光が棚の隙間にゆっくりと染みこんでいくようだった。けれど、そんな物理的な寒さとは違う、もっと深い場所が、彼の内側で静かに凍り始めていた。あの人が、なぜここに──。なぜ、東陽クリエイトなんかに。そして、どうしてあんなふうに生きているんや。心に浮かんでくる問いのすべてが、今里澪という存在に向かっていた。朝のあいさつも、声の温度も、ホチキスを打ち直す時の手の細やかさも、すべてがその瞬間、頭の中で一斉に蘇ってきた。誰にも見られないように貼られた付箋。資料の綴じ方、名前の記載方法、受け取った者だけが気づくであろう順序の工夫。無言で渡された封筒の中の修正済み資料。そして、そのすべてを、今里は言い訳も説明もせず、ただ“仕事”として処理していた。鶴橋は、いま初めてそれらの意味をひとつの線で結ぶことができた気がした。(……なんで、あんなすごい人が、あんな無表情で)今の今まで、なぜか彼のことを「何も持たない人」だと思っていた。いや、思おうとしていたのかもしれない。使えない、気配が薄い、いるのかいないのか分からない──そうやって、自分の中で彼の存在を“安心して軽んじられる誰か”として分類していた。けれど、その青いファイルは違った。記事の切り抜きが整然と並び、当時の記者の筆致が語るように、あの人は本当に“何かを持っていた”のだと、否応なく知らされる。それも、ただのラッキーや、偶然の成功やない。積み重ねられた技術と、信頼と、時間と…そして、信じられないほどの静けさで他人に寄り添う能力。それを見たあとで思い返すと、社内での彼の振る舞いはすべてが違って見えてくる。空気のように気配を殺しているようでいて、その実、周囲の動きをよく見ている。声に出さずとも、必要とされることを察して動いている。一度だって、「自分はかつて
last updateLast Updated : 2025-06-26
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引き出しの底

夜の営業フロアは、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。天井の蛍光灯のうち、すでに何本かは消され、薄暗い照明が島状にいくつかの机を照らしていた。空調の風が天井をかすめて低く唸り、プリンターが時折、誰かのリモート操作で音もなく起動する。そのたびに、静けさが少しだけ揺れる。鶴橋は、まだ散らかりかけた自席で、資料のファイル整理をしていた。今日提出したクライアント向けの提案書には、小さなミスが一つだけあった。それを修正したうえで、次の展開用にフォルダを作り直していたのだ。片手にホチキスを持ったまま、ふとした拍子に一番下の引き出しに手が伸びた。もう何度も整理したつもりだったが、深夜の疲れの中で、無意識に動いた指先は、奥へ奥へと書類を掻き分けた。そして、その下にあったのは、薄く折れ癖のついた数枚の紙だった。古い提案資料の下書き用紙が、クリップで丁寧に留められている。その紙の一番上にあったのは──見覚えのある名刺だった。(…)名刺には、丁寧な明朝体で「今里 澪」の名前と、かつての会社ロゴが記されている。裏面には、打ち合わせの予定が鉛筆で書かれていた跡が、うっすらと残っていた。記憶の奥にしまわれていたその紙片が、手のひらのなかで、再び現実の重さを持っていた。鶴橋はゆっくりと腰を落とし、デスクの椅子に座り直した。手にした紙がふるえているのは、自分の指のせいなのだとわかっていた。名刺の角は、かすかに丸まり、インクの端にだけ、小さな滲みがある。それが誰の涙でできたものかなんて、もう確かめようもないのに、喉の奥が苦しくなった。その提案資料も、名刺も、今里がかつて、自分のために用意してくれたものだった。言葉にしなくても伝えようとしてくれた気持ち。資料のレイアウトの端々に、図解に挿まれた注釈に、その人のやわらかな思考が残っている。「……」声にならない吐息をもらし、鶴橋はそっと目を閉じた。視界を奪われたかわりに、指先の感触が際立った。名刺の紙質はさらりとしていて、その下にある数枚の紙が、わずかに吸い込むように湿っている気がした。空調の風がまた一度、頭上を通り過ぎていく。「…こ
last updateLast Updated : 2025-06-26
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曇り空と同じタイミング

午前八時三十五分、東陽クリエイトの自動ドアが低く音を立てて開いた。曇り空の下、ビルのエントランスは薄く湿気を含んだ空気に満ちていて、吐く息がわずかに白く曇る。春とは名ばかりで、肌を刺すような冷えが背中に入り込む朝だった。鶴橋は、いつもの時間、いつもの歩幅で会社の前に立ち、胸ポケットから社員証を取り出して、リーダーにかざす。ピッという音がしてドアが開く。その瞬間、横からもうひとつの足音が近づいてきた。斜め後ろから歩いてきた人物に、鶴橋は自然と目を向ける。グレーのスーツ。細身の体。くたびれた黒いビジネスバッグ。視線を落とし気味に歩くその姿に、すぐに誰なのかを察する。今里だった。同じタイミングで出社するのは、これが初めてだったかもしれない。普段はもっと早く来ているのか、あるいは遅れているのか。定時内には必ずデスクにいるから、鶴橋も時間までは気にしていなかった。「……おはようございます」先に言葉を発したのは、今里のほうだった。意外といえば意外だった。声は、以前と同じように低くて柔らかい。けれど、わずかに声の輪郭がほぐれているようにも感じられた。「あ、おはようございます。今日、寒いっすね」何気ない返しだった。自分でも驚くほど自然に言葉が出た。天気の話なんて、ほとんど自動的に口をつくようなものなのに、なぜか返事が気になった。今里は、一拍置いて「…そうですね」と応じた。その声に、ほんの少しだけ笑いが混じっていた。口角がわずかに上がり、目元の力がゆるんだ。作られたものではない、自然な笑みだった。そのとき、ちょうど雲間からわずかな陽が差し、ビルのガラス面に反射した光が彼の頬をかすめた。肌は驚くほどきれいだった。白く、透けるようで、疲れた表情のはずなのに、不思議な透明感があった。横顔の輪郭は細く、鼻筋が真っ直ぐに通り、まつ毛が意外なほど長かった。表情は静かなのに、なぜか目を引く。光がその横顔に触れたほんの数秒間、鶴橋は一瞬だけ、時間がゆっくりになったような錯覚に陥った。何かを言いかけて、けれど言葉にならずに飲み込んだ。代わりに、小さく会釈をして、ふたりはエントランス
last updateLast Updated : 2025-06-27
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観察する、無意識に

営業フロアには、朝のざわめきが落ち着きはじめる頃だった。九時半を過ぎ、各席でキーボードの音やマウスのクリック、電話の受話器を取る気配が混じり合いながら、それぞれの仕事がいつものように進み始めていた。鶴橋は自分の席でパソコンに向かい、クライアントからのメールに目を通していた。納期確認、見積修正、次回の商談の確認依頼。手は動いていたが、頭のどこかで、別のことが浮かんでは消えていた。視線をスクリーンから外し、無意識のうちに斜め向かいの席へと向けた。今里のデスクは、相変わらず整然としていた。派手な文具や小物は置かれていない。ボールペンと付箋と、書類の束。それらすべてが、きっちりと位置を保っていた。乱れもなければ、無駄もない。まるで“見られることを前提とせずに整えられた”ような空間だった。今里は、資料に目を落としたまま、淡々と作業を進めていた。ペラリと一枚めくる。その指が、紙の縁に触れた瞬間、わずかに紙の表面をなぞるような動きがあった。まるで、指で空気を払うように、紙を落ち着かせる仕草。以前もどこかで見たことがある。そうだ、ホチキス留めを直していた時も、同じような指の動きをしていた。(……また、それやってる)そう思った瞬間、自分が彼を“観察している”ことに気がついた。別に意識していたつもりはない。ただ、自然と目が向く。手の動き、顔の向き、書類をめくるときのまつ毛の影。どれも派手でも鮮やかでもないのに、なぜか目を引く。電話のコールが鳴り、別の社員が「今里さん、これ、お願い」と声をかける。今里は軽く振り返り、手を止める。口元だけを使って「はい」と答え、軽く頷いた。その頷きの角度が、微妙に浅い。感情を乗せない肯定。だが、拒絶でもない。そのバランスが、なんとも言えず気になる。仮に誰かがその仕草を再現しようとしたとしても、きっとその“温度”までは真似できないだろうと思った。自分のモニターに目を戻してみるものの、文字が頭に入ってこない。再び視線がずれていく。気づけばまた、今里のほうを見ている。(あかん、俺、なん
last updateLast Updated : 2025-06-28
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昼休み、見えない質問

昼休みの始まりを告げるチャイムが、社内にゆるく響いた。午前中の書類整理に一区切りをつけ、鶴橋は背筋を軽く伸ばして立ち上がる。自席の隣に置かれたマグカップを手に取り、給湯室へと向かう廊下を歩く。人の気配はまばらで、いくつかの席にはもう昼食に出かけた社員たちの姿がなくなっていた。給湯室前で角を曲がると、ちょうど出てきた奥村佳奈とばったり目が合った。彼女は両手に缶コーヒーと紙パックのジュースを持っていた。たぶん自分と誰かのぶんだろう。「あ、鶴ちゃん」「ああ、佳奈さん。休憩っすか」軽く会釈し合って、通り過ぎるかと思ったそのとき、佳奈が小さく足を止めた。「ねえ、ちょっと聞いてええ?」「ん?」「今里さんって、前職すごかったらしいで?」何気ない調子だった。口調に悪意はなかったが、興味本位の軽い噂話というよりも、どこか“探る”ような響きが含まれていた。鶴橋はマグカップを湯沸かし器の下に置きながら、一瞬だけ手を止めた。返事をしようとして、うまく言葉が浮かばなかった。「……まあ、そうらしいっすね」答えながらも、微妙に自分の声が低くなったことに気づく。抑揚を削ったその声は、無意識に感情を抑えていたのかもしれなかった。佳奈はジュースの紙パックをくるくると回しながら、もう一度だけ尋ねた。「鶴ちゃんは、どう思ってる?あの人のこと」まっすぐな問いだった。立ち話の延長にしては、少しだけ重さを含んだその質問に、鶴橋は湯が注がれていく音を聞きながら、視線をカップの中に落とした。「……いや、ミスはあるけど……なんかこう、“やろうとしてる”って感じはあるな」それは、数日前までは出てこなかった言葉だった。自分がそう思っていると気づいたのは、口にしてからだった。佳奈は少し驚いた顔をして、けれどすぐに笑った。「見てるんやね。鶴ちゃん」「いや、そんな……」
last updateLast Updated : 2025-06-29
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声と、言葉の選び方

午後の会議室は、エアコンの微かな唸りと、書類をめくる音だけが響いていた。窓の外は薄く曇っていて、陽の光も強くはなかった。壁掛け時計の針が三時を指し、営業部の定例ミーティングが始まってから、すでに二十分ほどが経っていた。長机を囲んで、課長の安住、鶴橋、村瀬、奥村、そして今里が着席している。パワーポイントのスライドが進むたび、安住の声が抑揚なく部屋に流れていく。淡々とした資料説明のあと、やや和やかな空気の中で、安住がふと笑いを交えて口を開いた。「いやぁ、このクライアントさ、無茶ばっか言うてくるけど…ま、適当にいなしといたらええねん。どうせ向こうも本気ちゃうしな」村瀬がくくっと笑う。奥村は視線を落としたまま口元だけを歪めた。緊張感が薄れ、空気が緩んでいくそのときだった。「…それでは、信頼関係は築けないと思います」低く、けれどはっきりとした声が、会議室の中央に落ちた。静けさが、一瞬だけ凍りついたように場を包む。今里の声だった。誰も笑わなかったし、返す言葉もなかった。ただ、その一言が、空気にまっすぐ突き刺さった。言い方には棘がなかった。淡々と、感情を殺したようにさえ見える口調だった。だが、その分だけ言葉の意味が研ぎ澄まされていた。表面に笑いの皮をかぶせておくことが許されないような、そんな真っ直ぐな声だった。鶴橋は、その瞬間、視線をそっと今里へ向けた。彼は前かがみになった姿勢のまま、資料に視線を落としていた。発言をしたあとも顔を上げず、周囲の反応には無関心を装うように、沈黙のなかに体を埋めている。だが、その横顔には、言葉の責任を自分で引き受けるような、揺らぎのなさがあった。安住課長がやや照れたように咳払いをし、「ま、もちろん、ちゃんと対応はするけどな」と場を取り繕った。村瀬は少し表情を引き締め、奥村は何も言わずに資料を繰った。会議はそのまま続いたが、さっきまでの雑談交じりの雰囲気は完全に消えていた。鶴橋は手元のメモに目を落としたふりをしながら、頭の中で、今の言葉の余韻を繰り返していた。“それでは、信頼関係は築けないと思います&r
last updateLast Updated : 2025-06-30
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目が、逸らせなかった

午後五時を過ぎた頃、フロアの空気は、少しだけ緩んでいた。各々がその日の締めの業務に追われつつも、どこか手を抜く空気が漂い始めるこの時間帯、日報を書きながら、鶴橋はふと顔を上げた。窓際に、今里が立っていた。西側のブラインド越しに差し込む陽の光が、彼の輪郭を淡く縁取っている。まるで背景の光だけが先に春になったかのようだった。今里はスマートフォンを耳に当て、何かを話していた。声はここまで届かない。だが、口の動き、頷きの深さ、指先の落ち着いた所作──そのすべてが、妙に丁寧で、崩れていなかった。鶴橋はその様子を、無意識のうちに目で追っていた。なぜ視線を逸らさないのか、自分でもわからなかった。ただ、その横顔に含まれる“余白”のようなものから、目を離すことができなかった。陽の光が少し傾き、今里の髪に触れる。それは決して艶やかではない。むしろ乾いた質感で、年相応の疲れもある。けれど、その疲れすら、どこか品のように映るのだった。電話の相手は、クライアントだろうか。口元は緩まず、けれど拒絶の影も見えない。声に抑揚はないはずなのに、受け答えの端々に込められた“意図”だけが透けて見えるようで、鶴橋はその静かな交信に目を奪われた。指先が、ほんの少し書類の端をなぞるように動いた。癖なのか、無意識なのか。その仕草が、なぜか胸に触れた。(…やっぱり、変や)そう思った。この人は、誰よりも地味で、無口で、派手さがない。なのに、なぜこれほど目に焼きつくのか。なぜ、こんなにも“気配”が残るのか。電話を終えた今里が、ゆっくりとスマートフォンをポケットに戻す。そして、ふとこちらを振り返った。その目と、鶴橋の目が合った。一瞬。ほんの、ほんの一瞬だった。だが、その視線の奥にある何かが、胸の奥を不意に射抜いた。冷たくはなかった。むしろ、どこか戸惑いのような、探るような光を孕んでいた。けれどそれは、他人行儀の
last updateLast Updated : 2025-07-01
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この人、ほんまに……誰なんやろ

鶴橋は梅田行きの電車に揺られていた。ちょうど帰宅ラッシュの一歩手前、車内はそれほど混んでおらず、吊り革をつかんだ彼の前には、制服の高校生が座ってイヤホンをつけていた。窓の外はすでに暮れて、ガラスに映る自分の顔が少し疲れて見える。日報も提出したし、残業もなく済んだはずなのに、頭の中はずっと落ち着かない。視界の端にちらつくのは、さっきの“目”だった。今里が振り返ったあの瞬間──目が合ったあのときのこと。鶴橋は無意識にもう片方の手でコートのポケットを探り、スマートフォンに触れたまま指を止めた。何を見るでもなく、そのまま指を動かさずに視線を落とす。目に浮かんでいるのは、光の中に立つ今里の姿だった。何度思い出しても、表情がはっきりしない。ただ、あの横顔の静けさだけが、妙に記憶に残っている。声もなければ、感情の起伏もない。それなのに、なぜこんなに気になっているのか、自分でもよくわからなかった。ミスが多くて、声が小さくて、浮いていて。けれど、それでもどこか“仕事ができる”匂いを持っていて、誰にも見せない芯を持っていた。鶴橋は、まるで見えない糸をなぞるように、今里の一つひとつの仕草を思い返していく。ファイルに添えられた付箋の順番。紙を揃えるときの、空気を抜くような手の動き。誰にも言われていないのに、資料を修正して封筒にして渡してきたこと。会議で放たれた、たった一言の重み。そのどれもが、表立つことはない。誰も気づかない。だけど、確かに“届く”ように置かれていた。必要とされる前に、既に差し出されていた誠実さ。それが、自分だけのためでないことも、分かっている。今里は、誰に対しても、きっとそうしてきたのだろう。だとすれば、あの疲れた肩や、沈んだ瞳の奥に、いったいどれほどの時間が沈んでいるのか。鶴橋は目を閉じた。「この人、ほんまに……誰なんやろ」静かに、心の中でその言葉が浮かぶ。好奇心、尊敬、そして少しの戸惑い。すべてが混ざり合って、形にならない感情の塊になっていた。ただ
last updateLast Updated : 2025-07-02
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曇り空の出社

朝七時四十五分、東陽クリエイトの通用口前にはまだ人影がまばらだった。空は一面の雲に覆われているものの、雨の気配はなく、少し肌寒い風がビルの隙間をすり抜けていく。自動ドアの前で立ち止まり、セキュリティカードを探して鞄の中をまさぐっていた鶴橋は、ふと気配を感じて顔を上げた。今里だった。黒いスーツの裾が風に揺れ、肩には小さな紙袋がかかっている。まっすぐ通用口へと歩いてくるその姿は、周囲の景色に溶け込むように自然で、けれどなぜか目を引いた。歩幅は一定で、視線は足元に落ちていたが、こちらに気づくと静かに立ち止まる。「おはようございます」鶴橋が軽く頭を下げて声をかけると、一拍の間のあと、今里もわずかに会釈しながら言葉を返した。「…おはようございます」落ち着いた低音。それはいつも通りの音調だったが、語尾が少しだけ丸く、どこか柔らかく響いた。挨拶として必要最低限のやり取りのはずだったのに、鶴橋はなぜかその言い方が耳に残って離れなかった。今里はふと顔を上げ、曇った空を一瞬だけ見上げた。重たい雲の層の下、微かに朝の光がにじむ。その光を受けた横顔は白く、肌は薄く透けるような質感を帯びていて、どこか遠くの風景を見ているようなまなざしをしていた。無造作に流された前髪が風で揺れ、額にかかったかと思えば、また元の位置に戻る。その一瞬、鶴橋は目を逸らせなかった。何を考えているのか、どこを見ているのか、それすら分からないほど静かなその表情に、強く心を引かれる自分を感じていた。声をかけた理由すら忘れかけて、言葉の残響だけが胸に残っていた。今里はそのままカードをかざし、自動ドアの奥へと消えていった。背中はすぐに人混みに紛れるのに、不思議なことに、どこにいても見つけられるような気がする。そんな感覚が胸の奥にじんわりと広がっていく。ビルに入るため、鶴橋も同じようにカードをかざした。ドアが開く音が響く中で、思わず口の中で呟いた。「……なんやねん、今の」自分でも意味がわからなかった。ただ、いつもの朝より空気が少し違って感じられた。冷たいはずの風も、肌に触れる感覚だけが妙に残っていた。
last updateLast Updated : 2025-07-03
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