Semua Bab もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記: Bab 21 - Bab 30

51 Bab

渡された資料の端

営業フロアには朝のざわめきが満ちていた。電話のコール音、コピー機の唸るような駆動音、それに混ざる社員同士の小声の打ち合わせが、絶え間なく耳に入ってくる。午前九時を過ぎ、朝礼が終わったばかりの時間帯。各々が今日の準備に取りかかる中で、鶴橋は自席に戻り、鞄を下ろして椅子に腰を下ろした。デスクの上に、一冊の資料ファイルが置かれている。A4の薄型クリアファイル、手書きのラベルが添えられた表紙に、整った字で「営業部・A社提案資料」とある。ふと見れば、他の席にも同じようなファイルが配られているが、自分のだけどこか違って見えた。蓋をめくると、色分けされた三種の付箋が、ページの端に等間隔に貼られている。黄色は「要説明」、青は「資料参照」、緑は「自社優位性」と、明確な意図を感じさせる配置。しかも、それぞれの順番が、自分のいつもの説明の流れと一致していた。まるで、誰かが過去の営業同行を細かく見ていて、それを踏まえて“使いやすいように”整えたかのようだった。そんなはずはない、と思いながら、鶴橋は表紙に目を戻した。ファイル名の下に、小さく「202X\_0503\_Tsuruhashi」と打たれている。そこに、自分の名前があるのを見つけた瞬間、何とも言えない熱が胸の奥で灯るのを感じた。顔を上げると、二列向こうの机で、今里が立ち上がるところだった。資料をまとめ終えたらしく、手元の紙を揃えて片付けている。動きに無駄はなく、ただ淡々と所作を繰り返すその様子は、まるで誰にも気づかれたくないような静けさをまとっていた。立ち上がった今里が鶴橋の席の前を通りかかったとき、鶴橋は声をかけた。「ありがとうございます。資料、めっちゃ見やすかったです」今里は立ち止まり、わずかに首を傾けてこちらを見るようにしてから、静かに言った。「……お役に立てれば、何よりです」その声はいつも通り、感情を抑えた低音だったが、そのとき、鶴橋は確かに見た。目線を合わせないまま、今里の口元がごくわずかに、ほんの数ミリほどだけ、動いた。笑った。今、確かに、笑った気がする。一瞬の出来事だった。誰にも気づかれない
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-04
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エレベーターの静寂

昼前、十一時四十分。社内の空気が少しずつ昼休みへ向かって緩んでいく頃、鶴橋は会議室から出た足で、エレベーターホールに向かっていた。小さな打ち合わせが長引き、資料だけ渡して退席してきたばかりだ。携帯をポケットにしまいながら呼び出しボタンを押すと、すぐに「ピン」という音とともに扉が開いた。乗り込んだその瞬間、もう一人の存在に気づいた。エレベーターの奥、壁際に立っていたのは今里だった。鶴橋は一瞬、少しだけ肩をすくめる。別に避けるような理由もないのに、どこか心のどこかで身構える癖がついている。あの人のそばは、静かすぎて、無言の圧みたいなものがあるからかもしれなかった。扉が閉まり、密閉された空間に、かすかに機械音とファンの回転音だけが響く。階数の数字がカウントを下げていく中、鶴橋は何となく視線をずらして横を見た。今里はスーツの前を軽くつかむようにして立ち、壁の反対側を見ている。手には数枚の資料が挟まれたクリップボード。指先は細く、紙の端を無意識に撫でるように動いていた。沈黙が長い。扉が閉まったときに響いた機械音が、やけに耳に残っている。何か話そうか──そう思って、鶴橋はふと口を開いた。「天気、持ちそうですね」ぽつんとした言葉だった。会話の糸口としては他愛ないが、この空気には、それくらいがちょうどいい気がした。隣の気配がわずかに動いた気がして、ちらりと視線を送る。今里はすぐには答えなかった。けれど、鶴橋の方を見ようとはせず、そのまま前を向いたまま、やがてぽつりと口を開いた。「…午後からは、降るかもしれません」低くて抑えられた声だった。けれどその言い方には、確かに“返す”意志が含まれていた。遮断ではなく、継続の余地。断ち切るのではなく、どこか手綱を残すような言葉だった。鶴橋は一瞬、どう返せばいいのかわからず、ただ頷くだけにとどめた。けれどそれだけでも、この数秒の空間が、昨日までの彼との距離をほんのわずか縮めた気がした。そのとき、今里の指が資料を握る力を少し緩めた。紙が微かに揺れたその隙間から、ふと香る紙とインクの匂いが鼻先をかすめた
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-05
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営業フロアの斜め向こう

営業フロアには、午後特有の重たさが漂っていた。昼食を終えた社員たちが、書類とパソコンに向かいながら、それぞれの業務に戻っていく。ブラインド越しに射し込む陽光が、テーブルの縁や椅子の背に薄く影をつくっていた。鶴橋はモニターを睨みながら、先ほどの商談のメモを整理していた。集中しているつもりだったが、どうにも思考が散る。指先でマウスをつまんだまま、ふと目線だけを動かした。視線の先、フロアの斜め向こう。今里が静かにデスクに向かっていた。いつもと変わらない姿勢、無駄のない動き。資料を一枚めくるたび、紙の端に沿う指先がわずかに弧を描く。書きつけるペンの筆圧は一定で、文字の流れは整っている。肩の傾きすら、奇妙なほど均整が取れているように見えた。(……なんやろ)別に不思議なことではない。ただ、仕事をしている。それだけのはずなのに、なぜか目が止まってしまう。何を見ようとしたわけでもないのに、気づけば目線が引き寄せられていた。今里は、その視線に気づいた様子もなく、書類の右端に小さな付箋を貼る。その動作は極端に静かで、けれど、どこかしら“癖”のように見える繰り返しだった。人差し指と中指で軽く紙を押さえて、左手でメモを取る。誰に教えられたでもない、身に沁み込んだ仕草。けれどその丁寧さが、鶴橋には、時折妙に胸を衝いた。咳払いをして、自分の席に視線を戻す。モニターの数字がぼやけて見えた。仕事に集中しろ、と自分に言い聞かせるように、鶴橋はペンを握り直す。だが数秒後には、また目だけが、無意識に今里の机を探していた。今里がほんの少し椅子にもたれかかり、顎を引いて書類に目を通す。その瞬間、光の加減で髪の分け目が浮き上がり、こめかみの肌がやや透ける。前髪の奥、伏せがちのまぶたの影に、鶴橋はまた視線を奪われた。(別に……興味なんか、あるわけちゃうのに)心のなかで言い訳のように呟いたが、その声はすぐに霧散した。興味がないなら、なぜこんなふうに、何度も視線が向くのか。なぜ、その指先の動きすら、覚えてしまいそうになるほど目に焼きつくのか。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-06
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それは返答ではないけれど

オフィスの時計が十八時を回った。蛍光灯の明かりがやや黄みを帯び、静まりかけたフロアに、キーボードの打鍵音だけがかすかに響いていた。誰かが遠くで椅子を引く音がして、それに続くように、あちこちのデスクで帰り支度が始まる。鶴橋もパソコンを閉じ、資料をファイルに収めながら、軽く伸びをした。椅子の背にもたれて一息ついたそのとき、視界の端に今里の姿が映った。彼は、いつものように静かに立ち上がり、椅子を押し戻す音さえ控えめだった。机の上にきちんと整えた書類を残し、鞄を持ち上げる。その一連の動きには無駄がなく、儀式のような静けさがあった。ふと、鶴橋が顔を上げると、今里がこちらに向かって軽く頭を下げた。「お先に失礼します」その声は、いつものように低くて静かだった。けれど、なぜかそのときは違って聞こえた。言葉の末尾に、わずかな間があった。その一拍の空白が、鶴橋の中で妙に引っかかった。音としてはほんの些細な違い、だがそれは確かに“相手に向けて言った”声だった。今里は目を合わせることなく、フロアを出て行く。だが、あの一礼と一言に、確かに意識の“向き”があった。誰にでも同じ態度ではない、そう思わせるだけの重みが、その声には含まれていた。(今、俺に向いてたんやろか)鶴橋はそう思いながら、立ち上がったまま今里の背中を目で追った。あの、やや前屈みに歩く癖。鞄を体の前に抱えるようにして歩く姿勢。歩幅は狭く、足音も極端に静かで、それはまるで、誰にも気づかれずにこの場を立ち去るためのように見えた。けれど、今日は違った。背中には気配があった。完全な“無”ではない。鶴橋にはそれが、ようやく感じ取れるようになっていた。「……何か、変わってきてる」ぽつりと口の中で呟く。自分でもその言葉に驚くほどだった。最初は、ただの“空気”だと思っていた。気配の薄さに、仕事の出来不出来に、周囲と距離を置くような態度に、鶴橋自身も戸惑い、そして少しだけ疎んでいた。けれど、こうして何
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-07
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朝の資料確認

朝八時半、いつもより早く出社したつもりだったが、フロアにはすでに今里の姿があった。静かなタイピング音と、紙のめくれるかすかな音が、蛍光灯の明かりの下に溶けていた。誰にも気づかれないように準備を進めているその背中を横目に見ながら、鶴橋は自分のデスクへと向かい、椅子に腰を下ろした。机の上には、あらかじめ配られていた今日の商談用の資料ファイルが一冊置かれていた。無造作に手に取ったファイルは、薄いグレーの表紙に「柴田不動産 提案資料」とだけ印字されたラベルが貼られている。開いてみると、思わず指が止まった。ページごとに、内容の重要度に応じて色分けされた付箋が貼られていた。しかもそれが、鶴橋が普段資料に目を通す順番にきちんと対応していた。物件リストはまず周辺地図とセットになっており、続いて競合比較表、想定収支のグラフ、最後に担当者の過去の発言や交渉傾向がまとめられている。しかもその発言のメモは、前回の打ち合わせ内容と見事に対応していた。ページをめくる指先が徐々にゆっくりになる。こんな細かなところまで目を通しているのかと、驚きがこみ上げた。そこには、目立つ工夫や奇をてらったプレゼンは一切ない。だが、必要なものが必要な場所に、必要な形で置かれていた。表紙の裏に、小さな手書きのメモがあった。整った字でこう書かれている。「※鶴橋さん、前回の商談で触れていた“保証人の条件”も、改定案に入れてあります。確認済みです」今里の名前はどこにもなかった。だが、その一文が、彼の存在を何より雄弁に語っていた。鶴橋は無意識に、小さく息を吸った。(……ここまで読んでるって、普通ちゃうよな)誰にでもできることではない。資料をまとめる時間だけでなく、相手の言葉、反応、わずかな違和感にまで注意を払わなければ、こうはならない。それを当たり前のように、静かにやってのける人間が、あの隅っこで黙って座っていたのかと思うと、不思議な感情が胸の底にじわりと広がった。資料の中ほど、競合他社の過去の成約事例と失敗事例がまとめられているページに、赤の付箋で「柴田氏が過去に懸念していた“キャンセル事例&r
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-08
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商談の空気

応接室のドアが閉まる音が、意外と硬く響いた。十時半、〈柴田不動産〉との定例商談。部屋の窓からは曇り空が覗いていて、陽は差さないが、柔らかい明るさがテーブルの上に拡がっていた。応接ソファに腰掛けた柴田は、書類を手にしたまま眉間に皺を寄せたまま動かない。その表情は、最初からどこか突き放すようで、場に沈黙が広がっていた。鶴橋は黙って、タイミングを待った。こういうとき、先に口を開くのは得策ではない。柴田の手元にあるのは、今朝今里がまとめた提案資料。開かれたページには、周辺相場の推移グラフと、過去のトラブル事例を整理した表が見えていた。「……この物件、去年うちが揉めたやつに、似てますよね」唐突に、柴田が口を開いた。その声には、驚きというより、警戒心を含んだ確認の色があった。「そうですね」と、鶴橋は軽く頷いた。「そのとき御社が問題にされた保証人の提示条件と、契約時の付帯条項を、先に整理して提示するようにしております」「……なるほど」柴田の目が資料に戻る。数秒の間、静かな紙のめくれる音が続いた。やがてその目線が止まったところに、赤い付箋が貼られていた。「ここ、よう見てくれてますね。うちの担当者が神経質に言ってたポイントまで拾ってる。……これ、覚えてたんですか?」言葉の調子が、少しだけ和らぐ。「前回の商談内容を記録し、今後の参考としてまとめていました」と鶴橋が答えた。今里に視線を送る。彼は一歩後ろ、鶴橋の左斜め後ろに立ち、わずかに姿勢を正した。「この物件は、供給数が限られており、加えて相場の変動リスクが高いので」と、今里が静かに口を開いた。「同じ地区での過去の交渉例を並べました。価格推移と照合すれば、現状の値付けが適正であることがご確認いただけます」今里の声は、落ち着いていて、よく通るのに余計な感情を含まない。数字の根拠を淡々と示し、必要な部分を指し示す。それ以上は言わない。その控えめな話し方が、かえって説得力を持っていた。柴田は一つ息を吐き、椅子にもたれた。ファイルを閉じながら、わずかに口角を動かす。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-09
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成功の手応えとざわめき

応接室の空気がまだ肌に残るような感覚を抱えたまま、鶴橋はオフィスの自動ドアをくぐった。時計は十一時過ぎ、午前の時間帯としてはやや長引いたが、商談の成り行きを思えば順調なほうだった。営業フロアに戻ると、PCのキーボードを叩く音や、電話のやりとりが交差するいつもの雑然とした空間に、いつもよりわずかに緩んだ雰囲気が混じっていた。ちょうどタイミングを見計らったように、安住課長が自席から身を乗り出すように声をかけてきた。「おーい、鶴橋。お前、やるやんけ。さっき柴田さんから直電あってな、“資料、よう出来てた”って褒められたぞ」明るい声だった。普段は面倒事を他人に振るくせに、こういうときだけ持ち上げが軽い。鶴橋は眉を少しだけ上げ、すぐに首を横に振った。「いえ、あれは…今里さんが準備してくれた資料です」言葉にするのは、自然だった。事実だったし、自分ひとりでは決して辿り着けなかったクオリティだった。構成も数字も、すべては“気づかれないまま差し出された正解”の連なりだったのだから。鶴橋の言葉がフロアに響いた瞬間、ほんの一秒ほど、空気が静まったような気がした。キーボードの音が止まったわけでも、電話が鳴りやんだわけでもない。ただ、話題の中心が予想外の名前に切り替わったことで、誰かの意識がわずかに止まったのが、鶴橋には感じられた。「えっ、今里さん?」佳奈がプリンターの前で手を止めた。「……あの人、ああ見えて、すごいんやね」感心というより、少し意外そうに笑ったその表情は、どこか柔らかかった。これまで口数も少なく、周囲からは存在すら薄れていた今里の名前が、仕事の結果と結びついて語られるのは、おそらくこれが初めてだった。だが、全員が素直に受け入れたわけではなかった。デスクを挟んだ向こうで、村瀬が足を組み直しながら、あからさまに興味を失った顔でそっぽを向いた。「ふーん……まあ、たまたま当たっただけでしょ。ってか、今里さんってさ、営業っていうより事務屋っすよね。机でコツコツやってる感じ?ああいうのが現場で通用するかは、また
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-10
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反応しない横顔

今里が背を向けるようにして座っているのは、営業フロアの一番端、窓際の席だった。ちょうど午後の光が斜めに差し込み、ディスプレイに反射しないように傾けられたブラインドの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。その光はまるで狙いすましたように、彼の頬の輪郭だけを静かに照らしていた。キーボードを叩く音はほとんど聞こえなかった。指先の動きはなめらかで、リズムに抑揚がない。顔をほとんど動かさず、ただ目線だけでページを追い、ファイルを切り替える。肩も背も、一切の無駄がなかった。整った所作というより、何も感情を挟んでいないからこそ生まれる、透明な動きだった。鶴橋は、自分の席に戻るでもなく、通路を歩いていたはずの足を止め、目線だけを今里に送った。真正面からではなく、斜め後ろ──少し高い位置から。その角度から見える横顔には、どこか“時間が止まっている”ような静けさがあった。周囲は、午前の成功を引きずったまま、どこか浮き足立っていた。電話口で佳奈が「うちの提案、刺さったみたいでさ〜」と明るい声を出し、別の営業が「じゃあ今日は焼きにでも行きます?」と冗談を飛ばす。そのどれもが届いているはずなのに、今里の表情は変わらなかった。反応がないというより、そもそも“聞いていない”のかもしれないと思わせるほど、彼の目は深く静かだった。しかし、まったく無関心という印象とは違った。鶴橋には、今里の目が“ある一点から、決して逸らさないようにしている”ように見えた。まるで、意識的に自分を輪の外に置き、反射を避けるように光をずらしている。その意図を持った無関心が、逆に胸を締めつけた。(ほんまに、何も思ってへんのやろか)資料の整備も、データの抽出も、どれも淡々としていて、ひとつひとつの仕事に感情の波がない。けれどその中には、冷たさとも違う丁寧さが宿っていた。たとえば、前日遅くまで残っていた今里が、それでも翌朝には資料を整えて机に置いてくれていたこと。ホチキスの角度が揃えられていたこと。表紙に自分の名を入れてあったこと。それらは意識しなければできない、けれど“心を込めています”とは一度も言わない類の手間だった。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-11
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沈黙という壁

蛍光灯がひとつ、時折ちらついている。終業時刻を過ぎたオフィスには、人の気配がまばらに残っていた。誰かが遠くで荷物をまとめる音、プリンターの静かな駆動音、そして外を走る車のエンジン音が、鈍く反響していた。鶴橋は、手にしていた書類をクリアファイルに収めるふりをしながら、ちら、と視線を斜め前方に送った。今里は、いつも通りだった。無駄な動きは一つもなく、画面を見つめながらキーボードに指を滑らせ、時折、横に置いたメモ帳に何かを書きつけている。その姿に焦りはなく、かといって楽しげでもない。ただ、そこに在ることが当然のように、静かに呼吸するように“仕事”という行為を続けているようだった。(さっきの商談、あの資料がなかったら、多分押しきれんかった)柴田不動産との商談で、あれほど先方が頷いたのは、間違いなくあの資料の綿密さのせいだった。数字の整合性、言葉の選び方、順番。全てが、相手の言いたいことより半歩だけ先を行っていた。だが今里は、自分が手柄を立てたとは一言も言わず、ただ黙って引いた位置に立っていた。そういう人なのだ、と言ってしまえば簡単だった。ただ──その沈黙には、何かが隠れている気がしてならなかった。必要以上に言葉を足さないのは、配慮か、距離か、それとも…恐れか。机に戻る鶴橋の足取りは、無意識のうちに今里の席へ向かっていた。通り過ぎるふりはできなかった。今日だけは、何か言葉を伝えたかった。「今里さん」その声に、今里の手が止まった。キーボードの上で指が宙に浮く。そのままの姿勢で、ゆっくりと顔を上げる。鶴橋と、視線が合った。「今日の資料、ほんまに助かりました」その一言は、心からのものだった。誰かに聞かれることもないような声の大きさで、けれど、はっきりとそう伝えた。すると今里は、少しだけまぶたを伏せた後、また目を開き、かすかに頷いた。「……そうですか。お役に立てたなら、よかったです」低い声だった。抑揚はほとんどなく、相手に余韻を残すこともしない。でも、その声がまっすぐに返ってきたことで、鶴橋の胸の中に、じんと何かが残った。た
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-12
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視線の先の不在

春の陽射しが少しずつ角度を変え始めるころ、フロアの時計は十一時五十五分を指していた。昼休みの気配が空気の端に漂い始め、キーボードを叩く音が徐々にまばらになっていく。営業部の島ごとの会話も、自然とランチの話題へと移りつつあった。鶴橋は手元の資料を整えながら、ホチキスを机の角に当てた。その手の動きはいつも通りのはずだったが、視線だけが不意に斜め前の席へと吸い寄せられる。今里の机。黒いモニターに付箋がいくつか並び、端には定規と蛍光ペンが整然と揃えられている。そのどれもが、つい数十分前まで誰かがそこにいた痕跡を残しているのに、今は静まり返っていた。椅子の背にかけられたグレーのカーディガンが、わずかに揺れている。暖房の風か、それとも誰かが通った名残か。それすらも曖昧なまま、鶴橋はぼんやりと口の中で呟いた。「あれ、今日は外で食べてるんか…」声には出さなかった。けれど、自分でもはっきりわかるほどの違和感が胸の奥に広がっていた。たとえ一言も交わさずとも、同じ空間に「いる」か「いない」かだけで、こんなに気配が変わるものだっただろうか。そう思った瞬間、ホチキスの芯がひとつ、机の縁から転がり落ちた。慌てて拾おうとしたが、指先は少しだけ空を切った。ほんのわずかなことで、集中が途切れていた。それを誤魔化すように書類をもう一度並べ直す。まるで作業に夢中であるふりをするかのように、机の上に視線を戻したが、意識のいくらかはまだ、あの空席の方に置き去りにされたままだった。(なんやねん、別に珍しいことちゃうやろ)そう心の中で打ち消してみても、胸のざわつきは消えなかった。日常の一部のように、今里がそこにいることを前提にしていたことに気づく。たまたまじゃないか、と理屈ではわかっている。けれど、その「たまたま」が、こんなにも空白を生むとは思ってもみなかった。島の向こうで、佳奈と誰かが弁当の包みを広げる音がした。笑い声に混ざって、温かいスープの香りが流れてくる。鶴橋はようやく椅子の背にもたれ、腕を伸ばしてあくびをひとつ飲み込んだ。どこかで深呼吸でもして、気分を切り替えよう──そう思ったとき、ふとまた、あの席が視界の端に映る。空の椅子。整然としたデス
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-13
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