All Chapters of もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記: Chapter 51 - Chapter 60

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頭を下げる

フロアには、静けさだけが残っていた。天井の照明のいくつかは既に落とされ、光と影のコントラストがそこかしこにゆるく伸びている。時計は午後九時をまわり、エアコンの気流が低い唸りを上げるなかで、デスクに残っているのは二人だけだった。今里はいつものように背筋を伸ばし、画面に集中していた。白く光るモニターの光が頬を淡く照らし、静かな呼吸のリズムに合わせて、指先がキーボードを打つ。ファイル名を整え、資料のバージョンを更新し、次に備えるような準備作業を淡々と進めていた。その姿を遠くから見つめていた鶴橋は、胸の奥に何かが静かに満ちていくのを感じていた。焦りでも怒りでもない、けれど、言葉にしなければ流れてしまいそうな、そんな思いだった。深く息を吸い込む。呼吸が肺に広がる感覚を、心の中で確かめながら、鶴橋はゆっくり立ち上がった。自席から、今里のデスクまでは十歩にも満たなかった。けれど、その一歩一歩が、これまでになく重く感じられる。近づくたびに、鶴橋は自分の鼓動が耳の奥で響くのを感じていた。「あの…今里さん」呼びかける声が、天井の蛍光灯の揺れる音にまぎれる。今里の手が、ほんの一瞬だけ止まった。画面から目を離すと、ゆっくりと顔を上げる。伏せたまつげの奥の瞳が、こちらをとらえる。その視線の静けさに、鶴橋は少しだけ肩をすくめる。だけど、逃げたくはなかった。「俺…あのときの今里さんの仕事、まだ覚えてます。〈柴田不動産〉んときの資料、ほんまに、すごかったです。数字も構成も完璧やったし、空気まで変わった気がして…俺、あれを、もう一回見たいって、ずっと思ってました」言葉が、自然と口から出ていった。用意したものでも、考え抜いた台詞でもない。ただ、自分の心の底から出た、本当の気持ちだった。「……」今里は何も言わなかった。ただ、視線が少し揺れて、デスクの端を見やるように動いた。そのわずかな間に、鶴橋は続けた。「俺ひとりでは、どうにもできへん。現場も動揺してるし、上は頼りにならへん。けど、今里さんの力を借りられたら、なんとかなる気がするんです」
last updateLast Updated : 2025-08-03
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再起の種

オフィスビルのエントランスをくぐったとき、鶴橋の頬を、かすかな風が撫でた。曇天の朝。灰色の雲が空一面に広がり、春の終わりかけの空気を鈍く濁らせていた。けれどその曇りは、どこか昨日までとは違っていた。湿った予感と、まだ見えない光の気配が、足元にひっそりと影を作っている。今日は少しだけ早く出社した。意識したわけではない。けれど、目が覚めてから、なんとなく眠れなかった。布団のなかで、昨夜の光景を思い出しては、また心がざわめいた。何かが動き出した、確かにそう思えた。それを確かめたくて、自然と早足になっていた。誰もいないフロアは、いつもの喧騒とは別の表情を見せていた。まだ照明のついていない窓際は薄く青白く、机の間に沈黙が漂っている。鶴橋は静かに席へと向かい、自分のデスクに手を伸ばす。キーボードを動かすと、その下に何かがあった。黒いクリアファイル。表紙はシンプルなままで、余計なラベルやタイトルはない。けれど、その中央に貼られた小さな付箋が、まっすぐ視線を引いた。《案件候補3件。条件、傾向、想定先のリストです。ご確認ください》その文字を見た瞬間、呼吸が少しだけ止まった。丸みを帯びた整った筆跡。丁寧に書かれたひと文字ひと文字が、やわらかく胸に染み込んでくる。名前はなかった。どこにも、差出人の印はなかった。けれど、そんなものはいらなかった。誰が書いたのか、自分のために置いたのか。それはもう、疑いようもなく分かっていた。鶴橋は、ゆっくりとファイルに手をかけた。指先がかすかに震える。震えを隠すことも、止めようともしなかった。むしろ、その感覚に身をゆだねたかった。開いたページには、表形式で整理された情報が並んでいた。物件の所在、業種、現状の取引先、ターゲット層、各社の過去の傾向。どれも、ただ集めただけではない。並べ方に意味があり、見る人が何を読み取るかを計算して構成されている。時間をかけて、静かに、丁寧に積み上げた情報。そこには、技術だけではない“信念”があった。ページをめくるごとに、胸の内に静かな熱が灯っていく。昨日の言葉が、嘘ではなかったと証明されていく。今里が、自分の言葉に応えてくれた。それだけで、まだこの職場に
last updateLast Updated : 2025-08-04
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名刺の向こう側

革の張られた応接椅子が並ぶ、少し古びた事務所だった。壁には型落ちのカレンダーと、会社の理念を刷った紙が額縁に収められている。蛍光灯の白が乾いた書類の山に反射して、冷たく光っていた。鶴橋はソファの端に腰を下ろしながら、ちらりと横を見た。今里はすでに名刺を取り出し、丁寧に指先を揃えて差し出していた。目の前の社長と思しき初老の男は、最初はやや警戒した目つきで名刺を受け取った。だが、今里が軽く頭を下げ、静かに口を開くと、その空気がゆっくりとほどけていくのがわかった。「このたびは突然のお時間、失礼いたします。以前、関東の支店にいらっしゃった清水課長をご存じかと思います。あの方とは私、前職でご一緒しておりまして」話の切り出し方は穏やかで、まるで相手の思い出のページをめくるようだった。語尾が柔らかく、それでいて曖昧さのない音調だった。鶴橋は、その声の響きを聞きながら、ふと妙な既視感に襲われた。あの声は、どこか“過去”のもののようだった。今ここで発されているはずなのに、耳に届いたときには、もう少し前の時点で話されたように感じる。まるで、今里という人間の中に、過去の彼がそのまま埋め込まれているような感覚だった。社長は名刺の端を指でとんと叩きながら、「ああ、清水さんのご紹介でしたら、話は早い」と言い、背もたれに軽く体を預けた。どこか安心したように微笑みを返していた。そのやりとりを見ながら、鶴橋は黙っていた。言葉を挟むタイミングもなければ、必要もなかった。今里はすべてを整えていた。話す順序も、相手の警戒心が緩むポイントも、その後に置くべき言葉も。完璧な流れだった。けれど、どこか寂しいとも思った。彼が微笑んでいることには間違いなかった。ただその笑みには、どこか体温がなかった。唇の端を上げる角度も、眉を和らげる筋肉の使い方も、何もかもが教科書通りで、感情はそこにないように見えた。視線はまっすぐに相手に向けられているのに、焦点がずれているようにも見えた。その奥にあるものは、今この場ではない何か──ずっと以前の記憶か、それとも別の時間軸か──そんなふうに思わせる遠さだった。(この人、いま何考えてるんやろ)ふと、そんな疑問が浮
last updateLast Updated : 2025-08-05
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ふたりの歩幅

電車の車内には、夕方特有のだるさが沈殿していた。窓の外には濃い灰色の雲が流れ、遠くのビルの隙間をぬって陽がわずかに射し込んでいたが、その光も濁っていて、街全体をくすませていた。車両の揺れが足元を撫でるように伝わってくるなか、鶴橋は手すりに軽く触れながら、今里の横顔を盗み見た。ふたりとも言葉を発していなかった。けれどその沈黙は、不思議と苦ではなかった。むしろ、言葉にしなくてもこの場に“共にいる”ことを確かめ合えるような、そんな手触りのような静けさだった。今里は、いつも通りの無表情だった。目線は窓の外に向けられているが、その視線の先がどこにも定まっていないことに、鶴橋はうすうす気づいていた。何かを見ているようで、何も見ていない。そういう目を、この数日、今里は時折見せるようになっていた。けれど、今日の商談では違った。あの場にいた今里の声には、少しだけ熱が宿っていた。微かながら芯があって、相手の表情を確かに動かした。その姿が、脳裏から離れなかった。ああやって、かつて彼はどれだけの相手と向き合ってきたんやろう。どれだけの信頼を、その声と目で築いてきたんやろう。言葉にできない尊敬が、胸の奥で膨らんでいた。電車が駅に滑り込むと、ふたりはほとんど同時に歩き出した。階段を下りる足音は、自然に同じリズムになっていた。別に揃えようとしたわけではない。ただ、そうなっていた。改札を抜けると、わずかな風がシャツの裾を揺らした。肌に触れる空気が、少しだけ湿っているようだった。横並びで歩きながら、鶴橋は何度か迷ってから、ようやく口を開いた。「今日は…助かりました」声は低かったが、はっきりと届いた。今里は立ち止まることも、顔をこちらに向けることもしなかった。ただ、ほんの一拍おいて、軽く一度うなずいた。それだけだった。それ以上の言葉は、今里からはなかった。それでも鶴橋は、どこか安心していた。返事の内容ではなく、その沈黙の質に。以前なら、その無言は壁にしか思えなかった。けれど今は、少し違って聞こえた。目には見えない揺らぎのようなものが、今里の沈黙のなかに微かに混じっていた。駅前の大通りを抜け、川沿いの道
last updateLast Updated : 2025-08-06
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過去という音

革張りのロビーチェアは妙に冷たく、空調の風が天井から真っ直ぐに降りてくるせいか、鶴橋は無意識にスーツの前をかすかに合わせ直した。商談先の企業ロビーは白を基調にした内装で、静けさがやけに強調されていた。足音ひとつにも余白がありすぎて、耳に響く。今里は隣の椅子に腰かけ、手元の資料に目を通していた。指先でページの角をそっとつまみ、音もなくめくる。光の落ち方のせいで、その指が一層白く見えた。正面のガラス越しには街路樹が揺れていたが、それすらも切り取られたように感じられるほど、ふたりのあいだに流れる空気は均衡していた。「ここの会社、かなり前からお付き合いあるんですか」と、鶴橋はふと思いついたように問いかけた。静寂が続いていたせいか、自分の声が思ったよりも大きく響いて、少しだけ気まずくなった。今里はすぐには答えなかった。資料のページをめくる手を止め、そのままの姿勢でわずかに息を吸った。「昔…担当してた頃があって」そう言って、口角だけを動かした。その笑みは薄い膜のようで、感情を遮るための形だけのものに見えた。「昔の担当…」鶴橋は繰り返すように呟いてから、視線をそっと横に向けた。今里の顔は、伏し目がちだった。睫毛の影に隠れた目元が、いつもより深く沈んで見えた。まるで、何かにふれた瞬間、すぐに壊れてしまう硝子細工のような輪郭をしていた。言葉を選ぶように、今里はわずかに口を開きかけたが、結局そのまま何も言わなかった。ただ、資料の角を指で押さえたまま、小さく息を吐いた。その息が、鶴橋の胸の奥に染み込むようだった。今まで、過去の話をほとんど聞いたことがなかった。誰かといたか、どんな案件を抱えていたか、なぜ突然部署を移されたのか。誰も口にしないし、本人も語らない。その沈黙を、鶴橋は「必要以上に踏み込むべきじゃないこと」として、どこかで受け入れてきた。けれど今、目の前にあるその沈黙は、ただの防御ではなかった。もっと切実なもの…時間の中に取り残されたままの傷のようなものが、そこにあった。「…その頃、今里さんが担当やった時って、何年ぐらい前なんですか」と、鶴橋は声を落として尋ねた。返ってくるかは
last updateLast Updated : 2025-08-07
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繋がりの気配

駅前の広場に傾いた西陽が伸びて、舗道に影を長く引いていた。午後五時を少し回った時間。人通りはそこまで多くなく、風も控えめだった。春の手前のまだ肌寒い風が、背広の裾をかすかに揺らす。鶴橋はベンチに座り、手帳を膝の上で開いた。ページの右下には、今日すでに訪問を終えた企業の名前が数件、丁寧に横線で消されていた。左上には、残りの候補がいくつか並んでいる。その横で、今里も自分の小さなメモ帳を手にしながら視線を落としていた。「次、どこ行きましょか」そう尋ねると、今里はすぐに反応した。「この『澤井工務』さんは、確か去年までは設備案件が多かったです。ここなら、条件さえ合えば話はしやすいかと」静かな声だったが、内容は要点をついている。指先がなぞったのは、リストの四番目に記された中規模企業の名だった。今里の視線は、まるで情報の奥を読むように慎重で、そしてどこか沈んでいた。「…じゃあ、そっちに当たりましょうか」鶴橋がそう言って手帳に印をつけると、ふたりのあいだにしばしの沈黙が降りた。自販機の音だけが、静かな広場に響いていた。どこか遠くで電車が滑り込むような音がして、空気がゆるく揺れた。そのまま、ページを閉じようとした手を止め、鶴橋はふと、横顔を見た。今里の姿勢は相変わらず整っていて、スーツの襟元には皺ひとつなく、髪もきちんと整えられている。ただ、目の奥の光が少しだけ鈍って見えた。「…今里さん」鶴橋は声を落とした。「疲れてません?」今里はすぐには答えなかった。手帳を伏せたまま、静かに空を見上げるような仕草をした。けれど、顔は正面ではなくわずかに斜め下を向いていた。その目線が、風の中に漂っているように見えた。「慣れてるんで」やがて返ってきたその言葉には、柔らかさと硬さが同居していた。声色はいつもよりわずかに掠れていたが、それを取り繕うように、今里は小さく笑った。それは“笑顔”というよりも、“形”だった。だが、鶴橋は知っていた。これまでなら、そんな場面でも何も浮かべずにいた今里が、今はたとえ薄くても、笑おうとしている。気配が、ほんの少し、変
last updateLast Updated : 2025-08-08
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触れた指先

ビルの谷間に夕日が沈みかけていた。ガラス張りの外壁に差し込む橙の光が、都市の輪郭を柔らかくなぞっている。帰宅ラッシュには少し早い時間帯。人通りはそこまで多くなく、けれど背広姿の影が時折交差する。鶴橋と今里は、並んで歩道を進んでいた。商談を終えた帰り道。言葉はなかったが、その沈黙は気まずさではなかった。必要がないから、語らない。そういう種類の静けさだった。ビルの陰に入ると、気温が少し下がる。風が抜けるたび、鶴橋はスーツの袖を少しだけ押さえた。隣の今里は、変わらず淡々と歩を進めている。顔を横に向けることもなく、けれど逃げてもいない。ただ、その視線は前を向きながら、少しだけ落ちているように見えた。交差点に差し掛かったとき、信号が赤に変わった。ふたりは自然に立ち止まり、横並びで足を止める。車の往来はそこそこあったが、その音もどこか遠くに感じられるほど、周囲の時間はゆっくりとしていた。そのときだった。ほんの一瞬、すれ違う人波の中で肩がわずかに触れ、その反動で鶴橋の指先が隣の今里の手の甲にかすかに触れた。あ、とも、しまった、とも、声にはならなかった。ただ、息がひとつ、小さく喉の奥で引っかかる。触れたのは、ほんの二本の指先。それだけのことだったのに、そこから、静かに熱が広がっていった。引こうと思えば、すぐにでも引けた。けれど鶴橋の指は、そのままの位置にとどまっていた。触れたまま、ただ風の音にまぎれていた。今里もまた、わずかにその手を動かした…ように見えた。けれど、それは離すためではなかった。どちらかといえば、意識的に“そのままにしている”ような微細な動きだった。目を伏せ、視線は前を向いたまま。口元には何の表情も浮かんでいないのに、そこには確かな“応え”の気配があった。鶴橋は、言葉にできないまま、自分の内側で何かが静かに反響していくのを感じていた。それは喜びでも、興奮でもなく、もっと深いところにある、衝動だった。あたたかい。そう思った。どれだけ距離を測っても、言葉を交わしても超えられなかった何かを、その指先が一瞬で越えてきたような気がした。心
last updateLast Updated : 2025-08-09
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再会の声

会議室の扉が静かに閉まり、冷房の風が淡く流れる中、先方の担当者が紹介された。「こちら、営業部の柊 真琴さんです」名刺を差し出しながら、秘書が言葉を添える。その名前を聞いた瞬間、今里の姿勢がごくわずかに固まったように見えた。目線も、わずかに下がった。柊は、形のよい唇に微笑を浮かべたまま、鶴橋と今里の前にゆっくりと歩み寄ってくる。淡いグレーのスーツに、艶のある髪。姿勢には一切の乱れがない。肩で切り揃えた髪が動くたび、光が淡く反射していた。「変わってないね、今ちゃん」その第一声は、柔らかさのなかにかすかに尖ったものを含んでいた。丁寧な敬語や形式ではなく、意図的に崩した呼び名。そして声の抑揚が、妙にゆっくりと、低く落ち着いていて…それが、誰のほうが優位かを宣言するように感じられた。今里は、無言のまま名刺を差し出した。目線はきちんと合っていたが、その瞳の奥はどこか遠くを見ているようで、焦点があっていなかった。名刺を持つ手がほんのわずかに震えていることを、鶴橋はすぐそばで気づいた。「ご無沙汰しております。東陽クリエイトの今里です」その声は、いつもどおり穏やかだった。だが、その穏やかさが、どこか不自然に思えるのはなぜだったのか。発音が澄んでいるのに、感情の響きがなかった。言葉が宙を滑っているような印象が、妙に心に引っかかった。柊は名刺を受け取りながら、顎をほんのわずかに上げ、目を細めて言った。「へえ…“東陽クリエイト”か。なんだか、しっくりくるね。堅実そうで」言葉自体は何もおかしくないのに、その響きが皮肉に聞こえる。いや、実際にそうだった。あきらかに“過去を知る人間”が、“知っているという余裕”で遊んでいる。そういう目だった。鶴橋は隣で、無意識に肩に力が入っていた。今里の声も態度も、いつもと変わらないはずなのに、その空気の濁りをひとつひとつ吸い込んでいくような苦しさがあった。今里の頬に光が差し込んで、シャープな輪郭が一層際立つ。けれどその顔には、明らかに&
last updateLast Updated : 2025-08-10
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旧い支配

長テーブルを挟んで向かい合う三人の間には、整った書類と資料の束が規則的に並べられていた。冷房の風がわずかに肩をかすめ、紙の端をめくる音が静かに響く。その音だけが、妙に浮いて聞こえた。商談自体は、滞りなく進んでいた。今里が組んだ資料は無駄がなく、内容も的確で、説明も理路整然としていた。細かな数字にも裏付けがあり、柊の相槌も時折うなずくようなものだった。けれど、その合間合間に、鶴橋の胸に小さな棘のように引っかかる言葉が投げられる。「やっぱり丁寧やね、今ちゃん。誰かに縋ってでも立つのが、あんたのやり方だったろう」柊の声は、微笑の中にしっかりとした意図を忍ばせていた。言葉の先が針のようにとがっていて、穏やかな口調のまま、過去を引きずり出してくる。今里は、ふとだけ目を伏せた。だが次の瞬間には、なにごともなかったかのように顔を上げていた。「そうですね。今も昔も、不器用なままです」その返しは穏やかだったが、声には温度がなかった。笑っているはずのその表情からは、ほんとうの笑みがまったく見えなかった。唇はゆるやかに弧を描いているのに、目の奥にはまったく光が差し込んでいない。鶴橋は思わず、その横顔から目を離せなくなった。「懐かしいな、こういう空気。あのころの今ちゃんと、今の今ちゃんって、あんまり変わってないんやなって思ったわ」さらりとした一言に、鶴橋の胸の奥がかすかに軋んだ。誰かに縋る。変わっていない。懐かしい。どの言葉にも、刃のような裏の意味があることが分かる。それを投げつける男の表情は、あくまでも優雅だった。だが、視線が冷たい。ときおり、柊の視線は今里ではなく、鶴橋にも向けられた。そのたびに、鶴橋は無意識に背筋を伸ばし、喉の奥を詰まらせる。何かを見透かされているような気配がした。まるで「こっち側の人間じゃない」とでも言うような、値踏みする視線だった。鶴橋は自分の唇が乾いていくのを感じながら、言葉を飲み込んでいた。怒りのようなものが喉元までせり上がってきて、それを
last updateLast Updated : 2025-08-10
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揺れる確信

閉じかけたドアの隙間から、柊の白い指先が最後にひらりと動いた気がした。扉が完全に閉まると、ほんの短い機械音が鳴って、室内の空気が切り替わるように静かになる。今里が軽く頭を下げたあと、鶴橋も続いて一礼した。商談は成功だった。それは書面上も、言葉のやりとりの流れも、明らかにそうだった。だが、その場にいたふたりの胸のうちに、何かを勝ち取った実感はなかった。静かな廊下を歩き、呼び出しボタンを押してから数秒。小さな点滅とともに、エレベーターがゆっくりと降りてくる。到着音が鳴るまで、ふたりは一言も発さなかった。閉ざされた箱の中に入ると、金属の壁がそれぞれの顔を淡く映し返した。天井の蛍光灯の明かりが無表情に降り注ぎ、床にうっすらと影を落とす。ドアが閉まる。その瞬間、鶴橋はぽつりと口を開いた。「…今里さん。あの人、なんなんですか」声に棘を含ませたつもりはなかった。けれど、自分でもわかる。押し殺した苛立ちが、語尾ににじんでいた。今里は、少しだけ視線を落とした。まつげが、静かに伏せられる。「…昔、担当してた相手です」かすれた声だった。小さく、低く、まるで自分の胸の中から掬い上げた言葉のように、そっと発せられた。その答えに、鶴橋の中で、何かが泡立つ。“担当してた相手”。それだけでは到底説明のつかないものが、あの部屋にはあった。あの男の視線、言葉、態度、すべてが証明していた。それは単なる取引先の過去形ではなく、もっと個人的な…感情の痕跡だった。「…それだけ、ですか」喉が詰まりそうになりながら、なんとか言葉をつないだ。もう一歩、踏み込みたい。けれど、その先に踏み出すことが、なぜか怖かった。今里は答えなかった。ただ、ゆっくりと指先を組み直すように、書類の角をそろえた。エレベーターの中には、金属がわずかにきしむような音と、心拍だけが静かに響いていた。鶴橋
last updateLast Updated : 2025-08-11
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