All Chapters of もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記: Chapter 51

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頭を下げる

フロアには、静けさだけが残っていた。天井の照明のいくつかは既に落とされ、光と影のコントラストがそこかしこにゆるく伸びている。時計は午後九時をまわり、エアコンの気流が低い唸りを上げるなかで、デスクに残っているのは二人だけだった。今里はいつものように背筋を伸ばし、画面に集中していた。白く光るモニターの光が頬を淡く照らし、静かな呼吸のリズムに合わせて、指先がキーボードを打つ。ファイル名を整え、資料のバージョンを更新し、次に備えるような準備作業を淡々と進めていた。その姿を遠くから見つめていた鶴橋は、胸の奥に何かが静かに満ちていくのを感じていた。焦りでも怒りでもない、けれど、言葉にしなければ流れてしまいそうな、そんな思いだった。深く息を吸い込む。呼吸が肺に広がる感覚を、心の中で確かめながら、鶴橋はゆっくり立ち上がった。自席から、今里のデスクまでは十歩にも満たなかった。けれど、その一歩一歩が、これまでになく重く感じられる。近づくたびに、鶴橋は自分の鼓動が耳の奥で響くのを感じていた。「あの…今里さん」呼びかける声が、天井の蛍光灯の揺れる音にまぎれる。今里の手が、ほんの一瞬だけ止まった。画面から目を離すと、ゆっくりと顔を上げる。伏せたまつげの奥の瞳が、こちらをとらえる。その視線の静けさに、鶴橋は少しだけ肩をすくめる。だけど、逃げたくはなかった。「俺…あのときの今里さんの仕事、まだ覚えてます。〈柴田不動産〉んときの資料、ほんまに、すごかったです。数字も構成も完璧やったし、空気まで変わった気がして…俺、あれを、もう一回見たいって、ずっと思ってました」言葉が、自然と口から出ていった。用意したものでも、考え抜いた台詞でもない。ただ、自分の心の底から出た、本当の気持ちだった。「……」今里は何も言わなかった。ただ、視線が少し揺れて、デスクの端を見やるように動いた。そのわずかな間に、鶴橋は続けた。「俺ひとりでは、どうにもできへん。現場も動揺してるし、上は頼りにならへん。けど、今里さんの力を借りられたら、なんとかなる気がするんです」
last updateLast Updated : 2025-08-03
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