Lahat ng Kabanata ng もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記: Kabanata 31 - Kabanata 40

51 Kabanata

気配を探している

社内の廊下にひんやりとした空気が流れ込んでいた。春も半ばを過ぎたというのに、このビルの奥まった通路はいつも季節に取り残されたような冷たさを纏っている。鶴橋は左手に缶コーヒー、右手にはポケットから出したスマホを持ち、昼休みの終わりをなんとなく惜しむように歩いていた。昼を食べ終えても、すぐに席へ戻る気になれなかった。そういうときに立ち寄る自販機前で、いつものようにカフェオレか微糖かを迷いながら、けれどすでに手には買った缶があるという無意味さに、小さく笑う。そのとき、ふと視界の端に動きがあった。廊下の先、ガラス越しに見える屋外スペース。ビルの裏手にある小さな喫煙所のベンチに、一人、誰かが腰をかけている。紺のカーディガン。落としたような姿勢。弁当箱の蓋を静かに閉じる細い指。一瞬でわかった。今里だった。気づいた瞬間、体の動きがわずかに止まる。足取りが自然と緩み、もう一歩前に出るつもりだった右足が、床をなぞるように小さく踏みとどまる。声はかけない。そもそも、その距離はガラス一枚を隔てた場所だ。けれど鶴橋は、無意識に姿勢をほんのわずかだけ崩して、その様子を見た。というより、目が離せなかった。今里は、こちらに気づいていない。というより、気づいていても表には出さないのかもしれない。その顔はいつも通り、感情の色の少ない穏やかなもので、箸を動かす手だけが静かに時間を刻んでいた。その一挙手一投足に特別なものはない。ただ、黙ってそこに座って食事をしているだけの光景だ。それなのに、胸のどこかに、小さな安堵が広がっていた。(ああ、いたんや)言葉にはならなかったが、脳裏にその感覚が確かに浮かぶ。べつに、探していたわけじゃない。姿が見えなくて心配していたわけでもない。ただ…あの空席を見た後、自分の中のどこかが、何かを欲していたことに、今さら気づいた。そしてそれが“ほっとした”という感情に結びついたとき、鶴橋は自分自身に軽く戸惑った。(なんで、こんなことで…)今里の姿が見えた。それだけで、知らぬ間に強張っていたものが緩んでい
last updateHuling Na-update : 2025-07-14
Magbasa pa

名前の響きが残る会話

給湯室には、午後の光がほとんど届いていなかった。天井の蛍光灯が白々とした明かりを落とし、カップの中で湯気だけが頼りなく揺れている。ポットから注ぎ終えた緑茶を片手に、鶴橋は壁に背を預けて、ひと息ついた。休憩といっても、実質数分。冷たい思考を少し溶かすための儀式みたいなものだ。ドアの向こうで足音がしたかと思えば、すぐにスニーカーの先が視界に入ってきた。「やっほ。鶴ちゃん、またお茶か」軽やかな声とともに、奥村佳奈が顔を覗かせた。いつもながらテンションは一定して高めで、それが不思議と耳に障らないのは、彼女の人柄のせいかもしれない。「缶コーヒー、今日は売り切れててさ」と、鶴橋は軽く肩をすくめて応じた。「ほんま、うちの営業フロアってコーヒー消費量すごいよね。あれ、絶対課長が半分飲んでるわ」と笑いながら、佳奈は自分もコップに白湯を注いだ。その間も、視線だけはこちらに残している。ふとした間が訪れる。お互い、話すつもりもなかったのに口を開いていたことに気づいて、わずかに沈黙が落ちる。給湯室特有のこもった静けさが、それを余計に際立たせた。「なぁ、鶴ちゃん」「ん?」「今里さんのこと、好きなんちゃう?」言葉はあまりに自然で、あまりに突然だった。思考の隙間にひゅっと吹き込んでくる風みたいに、無防備なままそのまま心に触れてきた。「えっ……」湯飲みを持つ手が、ほんの少しだけ傾いた。熱くはないけれど、心臓の鼓動が小さく跳ねる。「いやいや、そんなんちゃうわ」と笑いながら即座に返す。けれど、その“笑い”はどこか間の抜けたような響きで、自分でも完璧にごまかせていないと感じた。佳奈は、ほんの一拍の沈黙ののち、静かに頷いた。「そっか」その声は冗談めいていない。不思議なほどにまっすぐで、押しつけがましくも、茶化すようでもなかった。ただ一言、確認を終えた人間のように、肯定でも否定でもなく“納得”の色を纏っていた。コップをテーブルに置き、佳奈は振り返る。「じゃあ、戻
last updateHuling Na-update : 2025-07-15
Magbasa pa

名もない感情の重なり

夕方のオフィスは、いつもより静かだった。午後五時を回ったところで、営業チームの数人が早めに外回りに出ていたせいか、席の半分が空いている。蛍光灯の光は変わらないのに、人の気配が薄くなっただけで、空間が広くなったような錯覚すらある。そんな中で、今里澪の背中だけが、黙々と動いていた。鶴橋は、ファイルを整理するふりをして、何度目かの視線をそちらに送った。デスクに広げられた数枚の書類に目を落とし、ホチキスの針を打ち直し、ラインマーカーで数値の訂正をしている。そういった作業は、本来、アシスタントに任せてもいいようなことだった。だが今里は、自分の手でやる。彼の手は細く、節立っている。けれど動きには無駄がなく、紙をめくる際には必ず軽く指で空気を抜くように撫でる。気を抜けば、何も感じない程度の動作だ。だが、そこに無意識の丁寧さがにじんでいた。(やっぱり、すごい人やな)胸の奥で、自然とそんな言葉が浮かぶ。この“すごさ”は、誰かに褒められるためのものじゃない。誰かに評価されるためでもない。たぶん、彼自身が納得できるかどうかだけのために、こうして修正を重ねている。その一点にだけ集中するような、淡々とした姿勢。その背中を見ていると、鶴橋の中に、どうしようもなく“知りたい”という気持ちが湧きあがってくる。なんでそんなに丁寧なんやろ。誰も見てへんところで、なんでそんなに正確にやるんやろ。…そもそも、なんでここにおんねんやろ。ふと、今里がわずかに顔を上げた。視線が、鶴橋の方に向いた。その刹那、目が合いかけた気がした。けれど、お互いに反射的に目を逸らした。何もなかったかのように、鶴橋はファイルのページをめくり、今里もまたペンを握り直す。その一瞬には、言葉も笑顔もなかった。ただ、そこにあったのは、無数の感情の粒だった。尊敬、好奇心、静かな予感。それらが名前を持たないまま、すこしずつ重なっていく。理解したい、ではもう足りない。もっと知りたい。
last updateHuling Na-update : 2025-07-16
Magbasa pa

名前を呼びかけそうになる夜

夜のエントランスは、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。自動ドアの外にはまだ街灯が灯りきらず、薄暗い空にわずかな暮色が残っている。天気予報は晴れのままだったが、風は冷たく、早春の夜気が肌に触れると、背筋が自然と強張った。エレベーターホールから続くロビーの奥、ガラス扉の前で、今里がそっと一礼した。「お先に失礼します」低く落ち着いた声。その声を聞くだけで、今日という一日が終わったのだと感じる。鶴橋は、手元のバッグを持ち直しながら、何気ないふりでその背中を見送った。同じ言葉、同じ時間。けれど、今夜は少し違っていた。今里の姿が、ドアの向こうへとゆっくり消えていく。後ろ姿は細く、そして少しだけ疲れて見えた。だが、その肩の動きは静かで、どこか凛としていた。ジャケットの裾が揺れ、足元の影が伸びている。そのすべてが、妙に目に焼きつく。気づけば、口が動いていた。「…今里さ──」声が漏れかけた瞬間、喉の奥が引きつって、言葉が途切れた。その一歩先を、踏み出せなかった。なんでもないふうを装って、鶴橋は手にしていたジャケットの襟を直した。別に寒かったわけでもない。ただ、何か動かさないと、胸のざわめきに耐えられなかった。「なんで、呼ぼうとしたんやろ」心の中でそう呟いてみたが、自分でもはっきりとは答えが出なかった。ただ確かなのは、「名前を呼びたくなる」というその衝動が、今までの誰にも抱いたことのない感情だったということ。呼びたい。言葉として発したい。それは、ただの礼儀や、業務上のやり取りとは違う。もっと個人的な感情、もっと近づきたいという欲求の芽生えだった。一緒にいる時間は長くない。話すことも、特別多くはない。けれど、いつの間にか、その姿を探している。声を聞いていたいと思うようになっている。目が合わなくても、そこにいるだけでいいと思っている。今里澪という人物が、ただ“職場の同僚”ではなくなっていく実感。それは静かで、けれど確かなものだった。ロビーの照明が少し暗くなり、自動ドアが音もな
last updateHuling Na-update : 2025-07-17
Magbasa pa

雨の帰路と、足の向く先

金曜日の夕方、雨はもう降っていないのに、空はまだその名残を引きずっているようだった。街の色は褪せ、アスファルトには薄く水の膜が残っていた。人の足取りだけが速くなり、どこか皆、冷たさから逃げるように駅へ向かっていた。鶴橋蓮も、いつもの帰り道を辿るはずだった。だが、改札の手前で、ふと立ち止まった。かばんの中を探った拍子に、紙の端がひらりと出てきた。A4のクリアフォルダ。その中には、今里が週明けに提出予定の書類が入っていた。昼に見せてもらったあと、うっかり自分のデスクに持ち帰ったことを今、ようやく思い出した。(あかん、これ…月曜までにいるやつやったっけ)社内チャットはすでにオフライン。戻るには遅いし、ポストに入れるにしても宛先がない。悩む間もなく、気づけば歩き出していた。駅と反対方向。地図アプリを開かなくても、なぜか足が道を覚えている。今里の住んでいる地域は、会社の健康診断の書類で一度見たことがあった。駅から少し外れた、住宅街の中の静かなエリア。そこに彼が住んでいる理由など、考えたこともなかった。けれど、今は…その空気に触れたくなっていた。歩道の脇に咲く小さな白い花が、雨に濡れて重たげに揺れている。コンクリートに囲まれた景色に、人の気配は少なかった。ふと足を止め、見上げた先に現れた建物は、想像していたよりずっと無機質だった。三階建ての低いマンション。ベランダには何もなく、洗濯物さえ見当たらない。玄関扉はすべてグレーに統一され、余計な飾り気はなかった。(…ここか)目の前に立って、初めてその確信に触れた気がした。どうしてここだとわかったのか、自分でも説明がつかなかった。けれど、何の迷いもなく、呼び鈴に指が伸びた。静かなチャイムの音が、玄関の内側へと吸い込まれていく。しばらくして、足音。間もなく、内側からゆっくりとドアノブが回った。鶴橋の心臓が、小さく跳ねた。音を立てずに扉が開く。その隙間から、部屋着姿の今里が現れた。薄いグレーの長袖カットソーに、くたっとした黒のルームパンツ。首元は少し開いていて、鎖骨のラインがそのまま見えた。髪は乱れていないのに、乾ききっ
last updateHuling Na-update : 2025-07-18
Magbasa pa

色のない部屋

ドアの隙間から通されたのは、玄関脇のわずかなスペースだった。内側から閉じられた扉の音が、ぴたりと密室をつくる。今里は何も言わず、スリッパを差し出したあと、淡々と鞄をソファの脇に置いて小さく頷いた。「すみません、散らかってて」その言葉とは裏腹に、部屋は整っていた。床には埃ひとつなく、靴もきちんと並び、台所の流し台は乾いていた。小さなダイニングテーブルには何も置かれておらず、壁際に並んだ書棚はファイルで埋まり、その背表紙が整然と縦を揃えている。だが、鶴橋はすぐに、それが「整っている」こととは少し違うと気づいた。家具は最低限。テレビも、観葉植物もない。カーテンは片側だけ、わずかに開いているが、そこから差し込む光は中途半端で、部屋の中を照らしきっていなかった。蛍光灯も点けられてはいたが、それもひとつだけ。冷たい白色の光が、壁に影を刻んでいる。空気が妙に澄みすぎていて、息を吐く音さえ邪魔に感じた。どこかから、時計の秒針の音だけが聞こえてくる。規則的な、単調な、誰にも干渉されないままの時間。「…思ったより、綺麗ですね」言葉を選んだつもりだったが、自分でも無理があると感じた。綺麗だ。けれど、それは“誰かが丁寧に暮らしている”という印象とは違っていた。何もない。何も足されていない。そのまま生きているのに、生きている気配がほとんど残っていない部屋だった。今里は黙ってうなずくと、キッチンの端に置かれた電気ポットに水を入れ、スイッチを押した。その手つきも、無音のように見えた。「…一人暮らし、長いんですか」問いかけは、無理やり口から出た。何か話していないと、この沈黙に自分が飲まれてしまいそうだった。今里はマグカップを棚から出しながら、少しだけ間を置いて答えた。「そうですね。もう、十年くらいになります」淡々とした声。そこに情感はなかった。十年。十年も、誰にも気配を乱されず、こうして静かに暮らしてきたのかと思うと、胸がざわついた。「ここ、寂しくないですか」自分でも驚くほど、率直な言葉が出た。相手にとっては、無礼かもし
last updateHuling Na-update : 2025-07-19
Magbasa pa

壊したくなった沈黙

廊下の空気は、外よりも静かだった。雨の音はガラス越しにかすかに聞こえていたが、遠すぎて現実味がない。傘を持たずに訪ねてきたせいで、鶴橋の肩には濡れたシャツがまとわりつき、肌の冷たさがじんわりと染みていた。けれど、今はそれもどうでもよくなっていた。「…あの、俺──」去ろうとしていた足が止まり、喉の奥でせり上がってきた言葉が、鶴橋の口から自然とこぼれ落ちた。こんなふうに言うつもりではなかった。何かを伝えたくて来たわけでもなかった。ただ、目の前の人間の暮らしのなさ、そのままどこにもつながっていかないような沈黙に、どうしても声をかけずにはいられなかった。「今里さんのこと、好きです」一瞬、時間が止まったようだった。何かがぶつかる音も、誰かが呼ぶ声もなかった。ただ、二人のあいだに置かれたその言葉だけが、空気を裂いた。今里は、ゆっくりと目を見開いた。わずかに眉が動き、息を呑んだように喉が揺れた。その視線はまっすぐ鶴橋を捉え、何か言いたげに見えたが、すぐに瞼が伏せられる。長い睫毛の影が落ちる。視線が床に落ちたその瞬間、鶴橋の胸の奥が、ひとつ音を立てた。「……俺みたいなん、触らん方がええ」吐き出すような、けれどとても静かな声だった。怒鳴るわけでも、苦笑するわけでもなく。ただ、過去からゆっくりと引き上げられたような、淡い拒絶。それは決して、傷つけるための言葉じゃなかった。むしろ、優しすぎるほどだった。優しさに包んで、言葉の輪郭を曖昧にしようとするような、そんな声音だった。鶴橋は、返す言葉が見つからなかった。目の前の男は、怒っているわけじゃなかった。引いているわけでも、軽んじているわけでもない。ただ、その言葉の奥には、もう誰にも触れさせたくない、そんな思いがひっそりと埋まっていた。「なんで、ですか」絞り出すような声だった。聞いてどうするのか、自分でもわからなかった。ただ、それを聞かずに立ち去ることが、今この場所ではできなかった。今里は、答えなかった。代わりに、視線をほんの少しだけ鶴橋に向け
last updateHuling Na-update : 2025-07-20
Magbasa pa

濡れたアスファルトの匂い

舗道のアスファルトには、まだところどころに水たまりが残っていた。降り続いていた雨はようやく止んだらしく、雲の切れ間から少しだけ薄明るい空が覗いている。マンションのエントランスを出た鶴橋は、傘もささずにそのまま足を止めた。湿った空気のなかで、ゆっくりと深呼吸をひとつ。肺の奥まで入り込んできたのは、雨上がり特有の匂いだった。アスファルトの湿気、街路樹の葉から落ちるしずく、遠くの排水溝から立ちのぼる水気と、ほんの少しだけ混じる土の匂い。それらが混ざり合い、静かに、彼の胸の奥へと沈んでいく。手には何もない。忘れ物を届けたわけでもなければ、言葉が交わされたあとに残る余韻も、心地よいものとは言いがたい。ただ、胸のどこかが熱く、そしてひやりと冷たかった。(あんな顔で…あんな言い方で…)思い出そうとしなくても、今里の表情はくっきりと浮かんできた。玄関先でのあの一瞬。目を見開いたあと、すぐに逸らされた視線。感情を消すように伏せられた睫毛の動き。鶴橋の中では、それらがまだリアルすぎるほどに生きていた。「俺みたいなん、触らん方がええ」その言葉の意味を、頭では理解できていなかった。ただ、胸に落ちていくときだけ、確かな痛みを残した。今まで、誰かに何かを拒まれたことがなかったわけじゃない。それでも、あんなふうに丁寧に、やわらかく突き放されたのは、初めてだった。今里の声は決して責めるようなものではなく、むしろこちらを守ろうとしているようにさえ思えた。けれど、それがいっそう切なかった。守るということは、受け入れないということでもあったからだ。鶴橋は、ポケットに入れた手をぐっと握りしめた。冷たい指先が、シャツの中の体温と対照的で、それだけでもう胸の奥が不安定に揺れていた。振り返れば、マンションの入口はもう見えなかった。歩道の先には人影がほとんどなく、車の音も遠くに途切れがちに響くだけだった。世界が、妙に静かだった。(それでも…)心のどこかで、言い訳のように、あるいは祈るように、ひとつの思いが繰り返されていた。(それでも、好きやと思ってもうた)あの人の暮らしぶりを見
last updateHuling Na-update : 2025-07-21
Magbasa pa

遠ざかる声

朝の空気は、どこか張り詰めていた。雨の気配はすでに去っていて、窓の外には淡い光が滲んでいたが、その明るさが室内にまで届くことはなかった。営業部の会議室に満ちるのは、紙の擦れる音、パソコンの起動音、コーヒーを啜る音。そして、時おり交わされる短い言葉のやりとり。それはいつもと変わらない朝の光景のはずだった。けれど、鶴橋には、すべてが違って見えた。ミーティング用の配布資料を手にした今里が、無言のまま自分の方へと歩いてくる。淡いグレーのシャツはよく整えられていて、襟元もぴしりと折れている。肩にかかる髪の筋がわずかに揺れながら、彼の動きに合わせて滑っていった。机の上に軽く資料が置かれた。ふだんと同じ、丁寧な手つき。表紙には、フォントの統一されたタイトル、視認性のいい項目番号。完璧だ。だがその動作は、どこかよそよそしく、ひどく機械的に感じられた。「お願いします」今里の声が、低く、淡々と響いた。鶴橋の目の前に差し出された紙の端は、ぎりぎりまで自分の手に触れないように差し出されている。以前なら、指先が軽く触れるくらいの距離にあった。あるいは、さりげなく目が合って、「お願いします」の一言にうっすらとした頷きがついていた。それらが、今はどこにもなかった。鶴橋は、黙って資料を受け取った。触れたくて、けれど触れてしまえば何かを壊してしまうような紙の冷たさが、妙に重たく指先に残った。「…はい、ありがとうございます」小さく返してみても、今里はもう顔をそらして、次の社員のもとへと向かっていた。その後ろ姿に、呼び止めるほどの勇気はなかった。資料をめくりながらも、目は字面を追っているだけで、内容は頭に入ってこなかった。心の奥でじわじわと広がっていくのは、昨夜の告白の余波だった。(……あの一言で、ここまで変わるんやな)告白というより、衝動だった。言わずにはいられなかった。あの部屋の、色のない空気。今にも壊れそうな沈黙。誰かが踏み込まなければ、永遠に誰も入ってこれないような閉ざされた世界に、ただいたたまれなくなっただけだったのかもしれない。でも、だからとい
last updateHuling Na-update : 2025-07-22
Magbasa pa

昼休みの沈黙

給湯室のドアを押し開けたとき、あまりにも静かだったせいで、鶴橋は一瞬立ち止まった。人影があった。今里だ。小さな湯呑を左手に持ち、右手でそっとポットの取っ手を握っている。緑のカーテン越しに差す昼下がりの光が、その頬の輪郭にだけ静かに触れていた。気づかれないように息を整えながら、鶴橋は中に入った。いつもなら、こういう場面では何気ないひと言を投げかければ、それなりに応じてもらえる。たとえ短いやりとりでも、少しは空気が和らいだ。それが以前の二人の距離だった。だが今日は違っていた。今里は入ってきた気配に気づいたはずなのに、まったく振り返らない。音を立てないように、お湯を注ぐ動作は滑らかで、整っていて、まるで機械のようだった。その背中が、遠く感じられた。ほんの数歩しか離れていないのに。少し間を置いてから、鶴橋は壁際のコップに手を伸ばしながら、言葉を探すようにして口を開いた。「雨、降らんでよかったですね」なにげない一言だった。本当にただの会話のきっかけ。天気の話なんて、誰とでもできる。できるはずだった。今里は動作を止めなかった。湯呑に湯を注ぎきってから、ふと口を開く。「……そうですね」低く、抑えた声だった。耳には届く。けれど、それ以上、何も残らなかった。それは、単なる相槌以上の意味を持たない返答だった。以前のように、言葉の端に少しの揺れや、会話の“余白”のようなものが漂うことはなかった。鶴橋は、沈黙を恐れて、もう一言を続けかけたが、喉の奥で止まった。言っても、届かない。そう直感した。それはただの気のせいではなかった。告白のあと、今里は変わった。いや、変わったのではなく、変えたのだ。自分との距離を。「それじゃあ」今里が短くそう言って、湯呑を手に小さく一礼する。声のトーンは丁寧だった。口調にとげもなかった。でも、それはあくまで“表向きの応対”だった。まるで社内の誰にでもするような礼儀の範疇
last updateHuling Na-update : 2025-07-23
Magbasa pa
PREV
123456
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status