応接室の空気がまだ肌に残るような感覚を抱えたまま、鶴橋はオフィスの自動ドアをくぐった。時計は十一時過ぎ、午前の時間帯としてはやや長引いたが、商談の成り行きを思えば順調なほうだった。
営業フロアに戻ると、PCのキーボードを叩く音や、電話のやりとりが交差するいつもの雑然とした空間に、いつもよりわずかに緩んだ雰囲気が混じっていた。ちょうどタイミングを見計らったように、安住課長が自席から身を乗り出すように声をかけてきた。
「おーい、鶴橋。お前、やるやんけ。さっき柴田さんから直電あってな、“資料、よう出来てた”って褒められたぞ」
明るい声だった。普段は面倒事を他人に振るくせに、こういうときだけ持ち上げが軽い。鶴橋は眉を少しだけ上げ、すぐに首を横に振った。
「いえ、あれは…今里さんが準備してくれた資料です」
言葉にするのは、自然だった。事実だったし、自分ひとりでは決して辿り着けなかったクオリティだった。構成も数字も、すべては“気づかれないまま差し出された正解”の連なりだったのだから。
鶴橋の言葉がフロアに響いた瞬間、ほんの一秒ほど、空気が静まったような気がした。キーボードの音が止まったわけでも、電話が鳴りやんだわけでもない。ただ、話題の中心が予想外の名前に切り替わったことで、誰かの意識がわずかに止まったのが、鶴橋には感じられた。
「えっ、今里さん?」佳奈がプリンターの前で手を止めた。「……あの人、ああ見えて、すごいんやね」
感心というより、少し意外そうに笑ったその表情は、どこか柔らかかった。これまで口数も少なく、周囲からは存在すら薄れていた今里の名前が、仕事の結果と結びついて語られるのは、おそらくこれが初めてだった。
だが、全員が素直に受け入れたわけではなかった。デスクを挟んだ向こうで、村瀬が足を組み直しながら、あからさまに興味を失った顔でそっぽを向いた。
「ふーん……まあ、たまたま当たっただけでしょ。ってか、今里さんってさ、営業っていうより事務屋っすよね。机でコツコツやってる感じ?ああいうのが現場で通用するかは、また
夕方のオフィスは、いつもより静かだった。午後五時を回ったところで、営業チームの数人が早めに外回りに出ていたせいか、席の半分が空いている。蛍光灯の光は変わらないのに、人の気配が薄くなっただけで、空間が広くなったような錯覚すらある。そんな中で、今里澪の背中だけが、黙々と動いていた。鶴橋は、ファイルを整理するふりをして、何度目かの視線をそちらに送った。デスクに広げられた数枚の書類に目を落とし、ホチキスの針を打ち直し、ラインマーカーで数値の訂正をしている。そういった作業は、本来、アシスタントに任せてもいいようなことだった。だが今里は、自分の手でやる。彼の手は細く、節立っている。けれど動きには無駄がなく、紙をめくる際には必ず軽く指で空気を抜くように撫でる。気を抜けば、何も感じない程度の動作だ。だが、そこに無意識の丁寧さがにじんでいた。(やっぱり、すごい人やな)胸の奥で、自然とそんな言葉が浮かぶ。この“すごさ”は、誰かに褒められるためのものじゃない。誰かに評価されるためでもない。たぶん、彼自身が納得できるかどうかだけのために、こうして修正を重ねている。その一点にだけ集中するような、淡々とした姿勢。その背中を見ていると、鶴橋の中に、どうしようもなく“知りたい”という気持ちが湧きあがってくる。なんでそんなに丁寧なんやろ。誰も見てへんところで、なんでそんなに正確にやるんやろ。…そもそも、なんでここにおんねんやろ。ふと、今里がわずかに顔を上げた。視線が、鶴橋の方に向いた。その刹那、目が合いかけた気がした。けれど、お互いに反射的に目を逸らした。何もなかったかのように、鶴橋はファイルのページをめくり、今里もまたペンを握り直す。その一瞬には、言葉も笑顔もなかった。ただ、そこにあったのは、無数の感情の粒だった。尊敬、好奇心、静かな予感。それらが名前を持たないまま、すこしずつ重なっていく。理解したい、ではもう足りない。もっと知りたい。
給湯室には、午後の光がほとんど届いていなかった。天井の蛍光灯が白々とした明かりを落とし、カップの中で湯気だけが頼りなく揺れている。ポットから注ぎ終えた緑茶を片手に、鶴橋は壁に背を預けて、ひと息ついた。休憩といっても、実質数分。冷たい思考を少し溶かすための儀式みたいなものだ。ドアの向こうで足音がしたかと思えば、すぐにスニーカーの先が視界に入ってきた。「やっほ。鶴ちゃん、またお茶か」軽やかな声とともに、奥村佳奈が顔を覗かせた。いつもながらテンションは一定して高めで、それが不思議と耳に障らないのは、彼女の人柄のせいかもしれない。「缶コーヒー、今日は売り切れててさ」と、鶴橋は軽く肩をすくめて応じた。「ほんま、うちの営業フロアってコーヒー消費量すごいよね。あれ、絶対課長が半分飲んでるわ」と笑いながら、佳奈は自分もコップに白湯を注いだ。その間も、視線だけはこちらに残している。ふとした間が訪れる。お互い、話すつもりもなかったのに口を開いていたことに気づいて、わずかに沈黙が落ちる。給湯室特有のこもった静けさが、それを余計に際立たせた。「なぁ、鶴ちゃん」「ん?」「今里さんのこと、好きなんちゃう?」言葉はあまりに自然で、あまりに突然だった。思考の隙間にひゅっと吹き込んでくる風みたいに、無防備なままそのまま心に触れてきた。「えっ……」湯飲みを持つ手が、ほんの少しだけ傾いた。熱くはないけれど、心臓の鼓動が小さく跳ねる。「いやいや、そんなんちゃうわ」と笑いながら即座に返す。けれど、その“笑い”はどこか間の抜けたような響きで、自分でも完璧にごまかせていないと感じた。佳奈は、ほんの一拍の沈黙ののち、静かに頷いた。「そっか」その声は冗談めいていない。不思議なほどにまっすぐで、押しつけがましくも、茶化すようでもなかった。ただ一言、確認を終えた人間のように、肯定でも否定でもなく“納得”の色を纏っていた。コップをテーブルに置き、佳奈は振り返る。「じゃあ、戻
社内の廊下にひんやりとした空気が流れ込んでいた。春も半ばを過ぎたというのに、このビルの奥まった通路はいつも季節に取り残されたような冷たさを纏っている。鶴橋は左手に缶コーヒー、右手にはポケットから出したスマホを持ち、昼休みの終わりをなんとなく惜しむように歩いていた。昼を食べ終えても、すぐに席へ戻る気になれなかった。そういうときに立ち寄る自販機前で、いつものようにカフェオレか微糖かを迷いながら、けれどすでに手には買った缶があるという無意味さに、小さく笑う。そのとき、ふと視界の端に動きがあった。廊下の先、ガラス越しに見える屋外スペース。ビルの裏手にある小さな喫煙所のベンチに、一人、誰かが腰をかけている。紺のカーディガン。落としたような姿勢。弁当箱の蓋を静かに閉じる細い指。一瞬でわかった。今里だった。気づいた瞬間、体の動きがわずかに止まる。足取りが自然と緩み、もう一歩前に出るつもりだった右足が、床をなぞるように小さく踏みとどまる。声はかけない。そもそも、その距離はガラス一枚を隔てた場所だ。けれど鶴橋は、無意識に姿勢をほんのわずかだけ崩して、その様子を見た。というより、目が離せなかった。今里は、こちらに気づいていない。というより、気づいていても表には出さないのかもしれない。その顔はいつも通り、感情の色の少ない穏やかなもので、箸を動かす手だけが静かに時間を刻んでいた。その一挙手一投足に特別なものはない。ただ、黙ってそこに座って食事をしているだけの光景だ。それなのに、胸のどこかに、小さな安堵が広がっていた。(ああ、いたんや)言葉にはならなかったが、脳裏にその感覚が確かに浮かぶ。べつに、探していたわけじゃない。姿が見えなくて心配していたわけでもない。ただ…あの空席を見た後、自分の中のどこかが、何かを欲していたことに、今さら気づいた。そしてそれが“ほっとした”という感情に結びついたとき、鶴橋は自分自身に軽く戸惑った。(なんで、こんなことで…)今里の姿が見えた。それだけで、知らぬ間に強張っていたものが緩んでい
春の陽射しが少しずつ角度を変え始めるころ、フロアの時計は十一時五十五分を指していた。昼休みの気配が空気の端に漂い始め、キーボードを叩く音が徐々にまばらになっていく。営業部の島ごとの会話も、自然とランチの話題へと移りつつあった。鶴橋は手元の資料を整えながら、ホチキスを机の角に当てた。その手の動きはいつも通りのはずだったが、視線だけが不意に斜め前の席へと吸い寄せられる。今里の机。黒いモニターに付箋がいくつか並び、端には定規と蛍光ペンが整然と揃えられている。そのどれもが、つい数十分前まで誰かがそこにいた痕跡を残しているのに、今は静まり返っていた。椅子の背にかけられたグレーのカーディガンが、わずかに揺れている。暖房の風か、それとも誰かが通った名残か。それすらも曖昧なまま、鶴橋はぼんやりと口の中で呟いた。「あれ、今日は外で食べてるんか…」声には出さなかった。けれど、自分でもはっきりわかるほどの違和感が胸の奥に広がっていた。たとえ一言も交わさずとも、同じ空間に「いる」か「いない」かだけで、こんなに気配が変わるものだっただろうか。そう思った瞬間、ホチキスの芯がひとつ、机の縁から転がり落ちた。慌てて拾おうとしたが、指先は少しだけ空を切った。ほんのわずかなことで、集中が途切れていた。それを誤魔化すように書類をもう一度並べ直す。まるで作業に夢中であるふりをするかのように、机の上に視線を戻したが、意識のいくらかはまだ、あの空席の方に置き去りにされたままだった。(なんやねん、別に珍しいことちゃうやろ)そう心の中で打ち消してみても、胸のざわつきは消えなかった。日常の一部のように、今里がそこにいることを前提にしていたことに気づく。たまたまじゃないか、と理屈ではわかっている。けれど、その「たまたま」が、こんなにも空白を生むとは思ってもみなかった。島の向こうで、佳奈と誰かが弁当の包みを広げる音がした。笑い声に混ざって、温かいスープの香りが流れてくる。鶴橋はようやく椅子の背にもたれ、腕を伸ばしてあくびをひとつ飲み込んだ。どこかで深呼吸でもして、気分を切り替えよう──そう思ったとき、ふとまた、あの席が視界の端に映る。空の椅子。整然としたデス
蛍光灯がひとつ、時折ちらついている。終業時刻を過ぎたオフィスには、人の気配がまばらに残っていた。誰かが遠くで荷物をまとめる音、プリンターの静かな駆動音、そして外を走る車のエンジン音が、鈍く反響していた。鶴橋は、手にしていた書類をクリアファイルに収めるふりをしながら、ちら、と視線を斜め前方に送った。今里は、いつも通りだった。無駄な動きは一つもなく、画面を見つめながらキーボードに指を滑らせ、時折、横に置いたメモ帳に何かを書きつけている。その姿に焦りはなく、かといって楽しげでもない。ただ、そこに在ることが当然のように、静かに呼吸するように“仕事”という行為を続けているようだった。(さっきの商談、あの資料がなかったら、多分押しきれんかった)柴田不動産との商談で、あれほど先方が頷いたのは、間違いなくあの資料の綿密さのせいだった。数字の整合性、言葉の選び方、順番。全てが、相手の言いたいことより半歩だけ先を行っていた。だが今里は、自分が手柄を立てたとは一言も言わず、ただ黙って引いた位置に立っていた。そういう人なのだ、と言ってしまえば簡単だった。ただ──その沈黙には、何かが隠れている気がしてならなかった。必要以上に言葉を足さないのは、配慮か、距離か、それとも…恐れか。机に戻る鶴橋の足取りは、無意識のうちに今里の席へ向かっていた。通り過ぎるふりはできなかった。今日だけは、何か言葉を伝えたかった。「今里さん」その声に、今里の手が止まった。キーボードの上で指が宙に浮く。そのままの姿勢で、ゆっくりと顔を上げる。鶴橋と、視線が合った。「今日の資料、ほんまに助かりました」その一言は、心からのものだった。誰かに聞かれることもないような声の大きさで、けれど、はっきりとそう伝えた。すると今里は、少しだけまぶたを伏せた後、また目を開き、かすかに頷いた。「……そうですか。お役に立てたなら、よかったです」低い声だった。抑揚はほとんどなく、相手に余韻を残すこともしない。でも、その声がまっすぐに返ってきたことで、鶴橋の胸の中に、じんと何かが残った。た
今里が背を向けるようにして座っているのは、営業フロアの一番端、窓際の席だった。ちょうど午後の光が斜めに差し込み、ディスプレイに反射しないように傾けられたブラインドの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。その光はまるで狙いすましたように、彼の頬の輪郭だけを静かに照らしていた。キーボードを叩く音はほとんど聞こえなかった。指先の動きはなめらかで、リズムに抑揚がない。顔をほとんど動かさず、ただ目線だけでページを追い、ファイルを切り替える。肩も背も、一切の無駄がなかった。整った所作というより、何も感情を挟んでいないからこそ生まれる、透明な動きだった。鶴橋は、自分の席に戻るでもなく、通路を歩いていたはずの足を止め、目線だけを今里に送った。真正面からではなく、斜め後ろ──少し高い位置から。その角度から見える横顔には、どこか“時間が止まっている”ような静けさがあった。周囲は、午前の成功を引きずったまま、どこか浮き足立っていた。電話口で佳奈が「うちの提案、刺さったみたいでさ〜」と明るい声を出し、別の営業が「じゃあ今日は焼きにでも行きます?」と冗談を飛ばす。そのどれもが届いているはずなのに、今里の表情は変わらなかった。反応がないというより、そもそも“聞いていない”のかもしれないと思わせるほど、彼の目は深く静かだった。しかし、まったく無関心という印象とは違った。鶴橋には、今里の目が“ある一点から、決して逸らさないようにしている”ように見えた。まるで、意識的に自分を輪の外に置き、反射を避けるように光をずらしている。その意図を持った無関心が、逆に胸を締めつけた。(ほんまに、何も思ってへんのやろか)資料の整備も、データの抽出も、どれも淡々としていて、ひとつひとつの仕事に感情の波がない。けれどその中には、冷たさとも違う丁寧さが宿っていた。たとえば、前日遅くまで残っていた今里が、それでも翌朝には資料を整えて机に置いてくれていたこと。ホチキスの角度が揃えられていたこと。表紙に自分の名を入れてあったこと。それらは意識しなければできない、けれど“心を込めています”とは一度も言わない類の手間だった。