営業フロアには朝のざわめきが満ちていた。電話のコール音、コピー機の唸るような駆動音、それに混ざる社員同士の小声の打ち合わせが、絶え間なく耳に入ってくる。午前九時を過ぎ、朝礼が終わったばかりの時間帯。各々が今日の準備に取りかかる中で、鶴橋は自席に戻り、鞄を下ろして椅子に腰を下ろした。
デスクの上に、一冊の資料ファイルが置かれている。A4の薄型クリアファイル、手書きのラベルが添えられた表紙に、整った字で「営業部・A社提案資料」とある。ふと見れば、他の席にも同じようなファイルが配られているが、自分のだけどこか違って見えた。
蓋をめくると、色分けされた三種の付箋が、ページの端に等間隔に貼られている。黄色は「要説明」、青は「資料参照」、緑は「自社優位性」と、明確な意図を感じさせる配置。しかも、それぞれの順番が、自分のいつもの説明の流れと一致していた。まるで、誰かが過去の営業同行を細かく見ていて、それを踏まえて“使いやすいように”整えたかのようだった。
そんなはずはない、と思いながら、鶴橋は表紙に目を戻した。ファイル名の下に、小さく「202X\_0503\_Tsuruhashi」と打たれている。そこに、自分の名前があるのを見つけた瞬間、何とも言えない熱が胸の奥で灯るのを感じた。
顔を上げると、二列向こうの机で、今里が立ち上がるところだった。資料をまとめ終えたらしく、手元の紙を揃えて片付けている。動きに無駄はなく、ただ淡々と所作を繰り返すその様子は、まるで誰にも気づかれたくないような静けさをまとっていた。
立ち上がった今里が鶴橋の席の前を通りかかったとき、鶴橋は声をかけた。
「ありがとうございます。資料、めっちゃ見やすかったです」
今里は立ち止まり、わずかに首を傾けてこちらを見るようにしてから、静かに言った。
「……お役に立てれば、何よりです」
その声はいつも通り、感情を抑えた低音だったが、そのとき、鶴橋は確かに見た。目線を合わせないまま、今里の口元がごくわずかに、ほんの数ミリほどだけ、動いた。
笑った。今、確かに、笑った気がする。
一瞬の出来事だった。誰にも気づかれない
営業フロアには朝のざわめきが満ちていた。電話のコール音、コピー機の唸るような駆動音、それに混ざる社員同士の小声の打ち合わせが、絶え間なく耳に入ってくる。午前九時を過ぎ、朝礼が終わったばかりの時間帯。各々が今日の準備に取りかかる中で、鶴橋は自席に戻り、鞄を下ろして椅子に腰を下ろした。デスクの上に、一冊の資料ファイルが置かれている。A4の薄型クリアファイル、手書きのラベルが添えられた表紙に、整った字で「営業部・A社提案資料」とある。ふと見れば、他の席にも同じようなファイルが配られているが、自分のだけどこか違って見えた。蓋をめくると、色分けされた三種の付箋が、ページの端に等間隔に貼られている。黄色は「要説明」、青は「資料参照」、緑は「自社優位性」と、明確な意図を感じさせる配置。しかも、それぞれの順番が、自分のいつもの説明の流れと一致していた。まるで、誰かが過去の営業同行を細かく見ていて、それを踏まえて“使いやすいように”整えたかのようだった。そんなはずはない、と思いながら、鶴橋は表紙に目を戻した。ファイル名の下に、小さく「202X\_0503\_Tsuruhashi」と打たれている。そこに、自分の名前があるのを見つけた瞬間、何とも言えない熱が胸の奥で灯るのを感じた。顔を上げると、二列向こうの机で、今里が立ち上がるところだった。資料をまとめ終えたらしく、手元の紙を揃えて片付けている。動きに無駄はなく、ただ淡々と所作を繰り返すその様子は、まるで誰にも気づかれたくないような静けさをまとっていた。立ち上がった今里が鶴橋の席の前を通りかかったとき、鶴橋は声をかけた。「ありがとうございます。資料、めっちゃ見やすかったです」今里は立ち止まり、わずかに首を傾けてこちらを見るようにしてから、静かに言った。「……お役に立てれば、何よりです」その声はいつも通り、感情を抑えた低音だったが、そのとき、鶴橋は確かに見た。目線を合わせないまま、今里の口元がごくわずかに、ほんの数ミリほどだけ、動いた。笑った。今、確かに、笑った気がする。一瞬の出来事だった。誰にも気づかれない
朝七時四十五分、東陽クリエイトの通用口前にはまだ人影がまばらだった。空は一面の雲に覆われているものの、雨の気配はなく、少し肌寒い風がビルの隙間をすり抜けていく。自動ドアの前で立ち止まり、セキュリティカードを探して鞄の中をまさぐっていた鶴橋は、ふと気配を感じて顔を上げた。今里だった。黒いスーツの裾が風に揺れ、肩には小さな紙袋がかかっている。まっすぐ通用口へと歩いてくるその姿は、周囲の景色に溶け込むように自然で、けれどなぜか目を引いた。歩幅は一定で、視線は足元に落ちていたが、こちらに気づくと静かに立ち止まる。「おはようございます」鶴橋が軽く頭を下げて声をかけると、一拍の間のあと、今里もわずかに会釈しながら言葉を返した。「…おはようございます」落ち着いた低音。それはいつも通りの音調だったが、語尾が少しだけ丸く、どこか柔らかく響いた。挨拶として必要最低限のやり取りのはずだったのに、鶴橋はなぜかその言い方が耳に残って離れなかった。今里はふと顔を上げ、曇った空を一瞬だけ見上げた。重たい雲の層の下、微かに朝の光がにじむ。その光を受けた横顔は白く、肌は薄く透けるような質感を帯びていて、どこか遠くの風景を見ているようなまなざしをしていた。無造作に流された前髪が風で揺れ、額にかかったかと思えば、また元の位置に戻る。その一瞬、鶴橋は目を逸らせなかった。何を考えているのか、どこを見ているのか、それすら分からないほど静かなその表情に、強く心を引かれる自分を感じていた。声をかけた理由すら忘れかけて、言葉の残響だけが胸に残っていた。今里はそのままカードをかざし、自動ドアの奥へと消えていった。背中はすぐに人混みに紛れるのに、不思議なことに、どこにいても見つけられるような気がする。そんな感覚が胸の奥にじんわりと広がっていく。ビルに入るため、鶴橋も同じようにカードをかざした。ドアが開く音が響く中で、思わず口の中で呟いた。「……なんやねん、今の」自分でも意味がわからなかった。ただ、いつもの朝より空気が少し違って感じられた。冷たいはずの風も、肌に触れる感覚だけが妙に残っていた。
鶴橋は梅田行きの電車に揺られていた。ちょうど帰宅ラッシュの一歩手前、車内はそれほど混んでおらず、吊り革をつかんだ彼の前には、制服の高校生が座ってイヤホンをつけていた。窓の外はすでに暮れて、ガラスに映る自分の顔が少し疲れて見える。日報も提出したし、残業もなく済んだはずなのに、頭の中はずっと落ち着かない。視界の端にちらつくのは、さっきの“目”だった。今里が振り返ったあの瞬間──目が合ったあのときのこと。鶴橋は無意識にもう片方の手でコートのポケットを探り、スマートフォンに触れたまま指を止めた。何を見るでもなく、そのまま指を動かさずに視線を落とす。目に浮かんでいるのは、光の中に立つ今里の姿だった。何度思い出しても、表情がはっきりしない。ただ、あの横顔の静けさだけが、妙に記憶に残っている。声もなければ、感情の起伏もない。それなのに、なぜこんなに気になっているのか、自分でもよくわからなかった。ミスが多くて、声が小さくて、浮いていて。けれど、それでもどこか“仕事ができる”匂いを持っていて、誰にも見せない芯を持っていた。鶴橋は、まるで見えない糸をなぞるように、今里の一つひとつの仕草を思い返していく。ファイルに添えられた付箋の順番。紙を揃えるときの、空気を抜くような手の動き。誰にも言われていないのに、資料を修正して封筒にして渡してきたこと。会議で放たれた、たった一言の重み。そのどれもが、表立つことはない。誰も気づかない。だけど、確かに“届く”ように置かれていた。必要とされる前に、既に差し出されていた誠実さ。それが、自分だけのためでないことも、分かっている。今里は、誰に対しても、きっとそうしてきたのだろう。だとすれば、あの疲れた肩や、沈んだ瞳の奥に、いったいどれほどの時間が沈んでいるのか。鶴橋は目を閉じた。「この人、ほんまに……誰なんやろ」静かに、心の中でその言葉が浮かぶ。好奇心、尊敬、そして少しの戸惑い。すべてが混ざり合って、形にならない感情の塊になっていた。ただ
午後五時を過ぎた頃、フロアの空気は、少しだけ緩んでいた。各々がその日の締めの業務に追われつつも、どこか手を抜く空気が漂い始めるこの時間帯、日報を書きながら、鶴橋はふと顔を上げた。窓際に、今里が立っていた。西側のブラインド越しに差し込む陽の光が、彼の輪郭を淡く縁取っている。まるで背景の光だけが先に春になったかのようだった。今里はスマートフォンを耳に当て、何かを話していた。声はここまで届かない。だが、口の動き、頷きの深さ、指先の落ち着いた所作──そのすべてが、妙に丁寧で、崩れていなかった。鶴橋はその様子を、無意識のうちに目で追っていた。なぜ視線を逸らさないのか、自分でもわからなかった。ただ、その横顔に含まれる“余白”のようなものから、目を離すことができなかった。陽の光が少し傾き、今里の髪に触れる。それは決して艶やかではない。むしろ乾いた質感で、年相応の疲れもある。けれど、その疲れすら、どこか品のように映るのだった。電話の相手は、クライアントだろうか。口元は緩まず、けれど拒絶の影も見えない。声に抑揚はないはずなのに、受け答えの端々に込められた“意図”だけが透けて見えるようで、鶴橋はその静かな交信に目を奪われた。指先が、ほんの少し書類の端をなぞるように動いた。癖なのか、無意識なのか。その仕草が、なぜか胸に触れた。(…やっぱり、変や)そう思った。この人は、誰よりも地味で、無口で、派手さがない。なのに、なぜこれほど目に焼きつくのか。なぜ、こんなにも“気配”が残るのか。電話を終えた今里が、ゆっくりとスマートフォンをポケットに戻す。そして、ふとこちらを振り返った。その目と、鶴橋の目が合った。一瞬。ほんの、ほんの一瞬だった。だが、その視線の奥にある何かが、胸の奥を不意に射抜いた。冷たくはなかった。むしろ、どこか戸惑いのような、探るような光を孕んでいた。けれどそれは、他人行儀の
午後の会議室は、エアコンの微かな唸りと、書類をめくる音だけが響いていた。窓の外は薄く曇っていて、陽の光も強くはなかった。壁掛け時計の針が三時を指し、営業部の定例ミーティングが始まってから、すでに二十分ほどが経っていた。長机を囲んで、課長の安住、鶴橋、村瀬、奥村、そして今里が着席している。パワーポイントのスライドが進むたび、安住の声が抑揚なく部屋に流れていく。淡々とした資料説明のあと、やや和やかな空気の中で、安住がふと笑いを交えて口を開いた。「いやぁ、このクライアントさ、無茶ばっか言うてくるけど…ま、適当にいなしといたらええねん。どうせ向こうも本気ちゃうしな」村瀬がくくっと笑う。奥村は視線を落としたまま口元だけを歪めた。緊張感が薄れ、空気が緩んでいくそのときだった。「…それでは、信頼関係は築けないと思います」低く、けれどはっきりとした声が、会議室の中央に落ちた。静けさが、一瞬だけ凍りついたように場を包む。今里の声だった。誰も笑わなかったし、返す言葉もなかった。ただ、その一言が、空気にまっすぐ突き刺さった。言い方には棘がなかった。淡々と、感情を殺したようにさえ見える口調だった。だが、その分だけ言葉の意味が研ぎ澄まされていた。表面に笑いの皮をかぶせておくことが許されないような、そんな真っ直ぐな声だった。鶴橋は、その瞬間、視線をそっと今里へ向けた。彼は前かがみになった姿勢のまま、資料に視線を落としていた。発言をしたあとも顔を上げず、周囲の反応には無関心を装うように、沈黙のなかに体を埋めている。だが、その横顔には、言葉の責任を自分で引き受けるような、揺らぎのなさがあった。安住課長がやや照れたように咳払いをし、「ま、もちろん、ちゃんと対応はするけどな」と場を取り繕った。村瀬は少し表情を引き締め、奥村は何も言わずに資料を繰った。会議はそのまま続いたが、さっきまでの雑談交じりの雰囲気は完全に消えていた。鶴橋は手元のメモに目を落としたふりをしながら、頭の中で、今の言葉の余韻を繰り返していた。“それでは、信頼関係は築けないと思います&r
昼休みの始まりを告げるチャイムが、社内にゆるく響いた。午前中の書類整理に一区切りをつけ、鶴橋は背筋を軽く伸ばして立ち上がる。自席の隣に置かれたマグカップを手に取り、給湯室へと向かう廊下を歩く。人の気配はまばらで、いくつかの席にはもう昼食に出かけた社員たちの姿がなくなっていた。給湯室前で角を曲がると、ちょうど出てきた奥村佳奈とばったり目が合った。彼女は両手に缶コーヒーと紙パックのジュースを持っていた。たぶん自分と誰かのぶんだろう。「あ、鶴ちゃん」「ああ、佳奈さん。休憩っすか」軽く会釈し合って、通り過ぎるかと思ったそのとき、佳奈が小さく足を止めた。「ねえ、ちょっと聞いてええ?」「ん?」「今里さんって、前職すごかったらしいで?」何気ない調子だった。口調に悪意はなかったが、興味本位の軽い噂話というよりも、どこか“探る”ような響きが含まれていた。鶴橋はマグカップを湯沸かし器の下に置きながら、一瞬だけ手を止めた。返事をしようとして、うまく言葉が浮かばなかった。「……まあ、そうらしいっすね」答えながらも、微妙に自分の声が低くなったことに気づく。抑揚を削ったその声は、無意識に感情を抑えていたのかもしれなかった。佳奈はジュースの紙パックをくるくると回しながら、もう一度だけ尋ねた。「鶴ちゃんは、どう思ってる?あの人のこと」まっすぐな問いだった。立ち話の延長にしては、少しだけ重さを含んだその質問に、鶴橋は湯が注がれていく音を聞きながら、視線をカップの中に落とした。「……いや、ミスはあるけど……なんかこう、“やろうとしてる”って感じはあるな」それは、数日前までは出てこなかった言葉だった。自分がそう思っていると気づいたのは、口にしてからだった。佳奈は少し驚いた顔をして、けれどすぐに笑った。「見てるんやね。鶴ちゃん」「いや、そんな……」