オフィスの時計が、定時五分前を指していた。音のないざわめきがフロアの空気を揺らしていた。誰も言葉にしないが、皆が知っている。今日が今里の最終出勤日であることを。だが、そこに“儀式”のような見送りも、拍手も、握手もなかった。いや、必要がなかったというより、誰もそれを望まなかったのだと、皆が暗黙のうちに感じ取っていた。今里が、静かに立ち上がる。鶴橋は、その音を聞くよりも早く背筋を伸ばした。椅子にはまだ座ったままなのに、心だけが先に反応してしまっていた。ゆっくりと、今里が椅子を引く音が響く。軽く揺れた背もたれが、かすかに軋んだ。いつもより丁寧な所作でジャケットの袖を通し、肩を整える。その動作一つひとつに、迷いも、ためらいもなかった。机の上には、不要になったファイルが整然と積まれている。PCは既にシャットダウンされ、画面は暗い。何一つ置き忘れたものはない。完璧な退出の準備だった。佳奈が視線だけでそれを追い、そっと唇を噛む。村瀬は書類に目を落としたまま、指先を止めている。誰もが気づいているのに、誰も言葉にしない。鶴橋もまた、何ひとつできずにいた。今里の歩みが始まる。まっすぐな足取りで、フロアの中央を静かに横切っていく。誰の視線も避けることなく、けれど誰とも目を合わせないまま。その歩き方は、まるで何かの儀式のように静謐で、ひとつの物語の終章のようだった。鶴橋は立ち上がれなかった。足が重いのではない。立てなかった。もし声をかけてしまえば、何もかもが壊れてしまうような気がした。それほどまでに、今里の背中は確かな“決別”をまとっていた。出口の前で、今里が一度、足を止める。鶴橋は息を呑んだ。そして、振り返った。ゆっくりと、肩の動きに導かれるようにして、今里の顔がこちらを向く。けれど目は合わない。いや、あえて合わせなかったのかもしれない。真正面ではなく、わずかにずれた角度で、フロア全体を見渡すように。その視線の中に、自分はいるのだろうか。そう問いかけても、答えは得られなかった。けれど、その横顔。
最終更新日 : 2025-08-22 続きを読む