もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記 のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

81 チャプター

一度だけ、振り返った

オフィスの時計が、定時五分前を指していた。音のないざわめきがフロアの空気を揺らしていた。誰も言葉にしないが、皆が知っている。今日が今里の最終出勤日であることを。だが、そこに“儀式”のような見送りも、拍手も、握手もなかった。いや、必要がなかったというより、誰もそれを望まなかったのだと、皆が暗黙のうちに感じ取っていた。今里が、静かに立ち上がる。鶴橋は、その音を聞くよりも早く背筋を伸ばした。椅子にはまだ座ったままなのに、心だけが先に反応してしまっていた。ゆっくりと、今里が椅子を引く音が響く。軽く揺れた背もたれが、かすかに軋んだ。いつもより丁寧な所作でジャケットの袖を通し、肩を整える。その動作一つひとつに、迷いも、ためらいもなかった。机の上には、不要になったファイルが整然と積まれている。PCは既にシャットダウンされ、画面は暗い。何一つ置き忘れたものはない。完璧な退出の準備だった。佳奈が視線だけでそれを追い、そっと唇を噛む。村瀬は書類に目を落としたまま、指先を止めている。誰もが気づいているのに、誰も言葉にしない。鶴橋もまた、何ひとつできずにいた。今里の歩みが始まる。まっすぐな足取りで、フロアの中央を静かに横切っていく。誰の視線も避けることなく、けれど誰とも目を合わせないまま。その歩き方は、まるで何かの儀式のように静謐で、ひとつの物語の終章のようだった。鶴橋は立ち上がれなかった。足が重いのではない。立てなかった。もし声をかけてしまえば、何もかもが壊れてしまうような気がした。それほどまでに、今里の背中は確かな“決別”をまとっていた。出口の前で、今里が一度、足を止める。鶴橋は息を呑んだ。そして、振り返った。ゆっくりと、肩の動きに導かれるようにして、今里の顔がこちらを向く。けれど目は合わない。いや、あえて合わせなかったのかもしれない。真正面ではなく、わずかにずれた角度で、フロア全体を見渡すように。その視線の中に、自分はいるのだろうか。そう問いかけても、答えは得られなかった。けれど、その横顔。
last update最終更新日 : 2025-08-22
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あの席に触れる

蛍光灯の光が、ひとつ、またひとつと落ちていく中、営業フロアは徐々に夜の表情を帯びていった。残業する者も、今日ばかりはなぜか早く席を立ち、パソコンのシャットダウン音がまばらに響いたあとは、空気までもが静まり返った。まるで誰かの退職を、皆がそっと見送ろうとしているかのようだった。鶴橋は、自分の席に座ったまま身じろぎもせず、ただ一点を見つめていた。視線の先にあるのは、数時間前まで確かに“在った”存在の痕跡…今里の机だった。日中のざわめきが嘘のように消えたフロア。ブラインドの隙間から差し込む夕焼けの名残りが、机上の金属部分に微かに反射している。その光が、不意に生々しく感じられて、鶴橋は立ち上がる決心をする。呼吸が浅い。なぜか、胸の内にひどく湿った重さが張りついているのを感じながら。足音を立てないように、今里の席へ近づいた。机は、まるで誰かが手本にしたかのように整っていた。ディスプレイは消えていて、マウスはきちんとパッドの中央に。ペン立てには三本のボールペンが立っており、その並びに乱れはない。引き出しはすべて閉じられ、書類も残されていなかった。ただ、モニターの下に一枚、小さなメモ用紙が残っていた。鶴橋はそれを、そっと指先で引き寄せる。「2/20 会議資料 校閲済」の文字が、細く整った文字で記されている。日付は、もう過ぎていた。意味のないメモだった。でも、誰よりも几帳面だった今里が、この一枚だけを残していったことに、何か伝えようとした痕跡のようなものを感じてしまう。その瞬間、指先が微かに震えた。こんなにも静かに、人は去ってしまえるのか。誰にも迷惑をかけず、誰にも甘えず、ただ必要なものだけを整えて、何も言わずに。鶴橋は、そっと椅子の背に触れた。今里が、何度も座り、何度も立った椅子。言葉を選び、視線を伏せ、無表情のまま日々を過ごしたその居場所に、自分の手が触れている。それだけのことで、心の奥がぎゅっと収縮するような痛みに襲われた。(こんなに好きになってもうたのに。こんなにも触れたかったのに)そう心の中で呟いたとき、自分でも驚くほど自然に、涙がにじんで
last update最終更新日 : 2025-08-23
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確かなものとして残った

モニターの黒い画面に、鶴橋自身の影がぼんやりと映っていた。姿勢を前のめりにして、今里の席の端に手を置いたまま、彼はしばらく動けずにいた。蛍光灯の光が時間と共に弱まり、フロアの空気も冷え始めている。けれどその場から離れる気には、どうしてもなれなかった。心の奥に沈んでいた何かが、ようやく形を成し始めていた。今里が去ってしまったという事実。声もかけられず、引き止める言葉ひとつかけられなかった自分。その全てを責めるには、もう遅すぎた。もう誰の手にも、あの背中は届かない。そう思えば、自然と胸の奥が鈍く疼く。けれど、失ったことで初めて気づいたこともあった。ただ一緒にいたいと思った。何気ない会話を重ねたいと思った。沈黙の中にも意味を見出したいと思った。それは、いつからだったのか。思い返せば、最初の頃はただ不思議な存在だった。感情の読めない目をして、冷静に資料をまとめ、必要最低限の言葉でだけ人と関わる今里を、ただ「変わった人やな」と思っていた。けれど、仕事の端々でふと見せる配慮や、誰にも気づかれずに整えている裏方の仕事の姿に、鶴橋は徐々に惹かれていった。それは、感情を揺さぶるものではなく、むしろ静かに沈んでいくような…気づけば胸の奥にじわりと染み込んでいたような感覚だった。あれは、決して一方的な片思いなんかやなかった。たとえ言葉にして伝えていなくても、心がどこかで応えていたような気がしていた。信号待ちで、ふと触れた指先。資料に書き加えられた小さな付箋。営業帰りのベンチで交わした、ごく短い会話。それらすべてが、思い返せば確かに何かを伝えようとしていた。あの人は、ただ黙って耐えていたわけじゃない。過去の傷を、誰にも預けられず、それでも他人と同じ空間で息をしていた。壊れたままで、壊れずにいる術を、今里はずっと身につけてきたのだ。だからこそ、優しくはなかった。でも、その不器用さを誰よりも尊く思える気持ちは、確かに“恋”だった。誰かを守るために、自分が壊れることを選んだ人。それがどれだけ孤独な道だったか、今になってようやくわかる。自分には、そんな選択ができただろうか。いや、で
last update最終更新日 : 2025-08-24
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助言の重さ

曇り空の下、オフィス街の一角にある小さな休憩スペースは、昼休みの人影でほどよく埋まっていた。植え込みの緑は湿気を含んで深い色をしており、遠くで鳴るサイレンの音がくぐもって響く。その中に、鶴橋と佳奈はベンチを挟んで並んで座っていた。佳奈は缶コーヒーのプルタブを軽く引き上げ、ぷしりと音を立てて口をつける。いつも通りの軽い調子で、けれどどこか、表情の端が固い。「仕事、もう慣れてきたんちゃう? あんた、この前のプレゼン、結構よかったで」そう言って、佳奈は笑った。鶴橋もつられるように笑い返す。「まあ、なんとか。あれも…今里さんの残してくれた資料があったからですよ」そう口にした瞬間、自分の声がわずかに濁った気がして、鶴橋はごまかすように缶を口に運んだ。炭酸ではないはずのコーヒーが、喉の奥にしゅわりと痛い。「…あの人の退職、ほんま急やったよな」佳奈がぼそりとつぶやいた。その言葉には、とげはなかった。ただ、静かな事実のような響きだった。鶴橋は頷こうとして、一瞬言葉が詰まる。名もない焦燥が、胸の奥でじわじわと膨らんでいく。「…まあ、そうですね。あの人らしいっちゃ、らしいですけど」そう答えながら、自分の口調にどこか冷めた響きが混じっていたことに、気づいてしまう。佳奈は、そんな鶴橋の顔をしばらく見つめていた。風がひと吹き、背後からベンチをなでる。佳奈の髪が少し舞い、そしてそのまま目元にかかる。彼女はそれを払うようにして、少しだけ視線を伏せた。「鶴橋くんさ、自分に…嘘ついてへん?」ぽつりと投げられた言葉だった。けれど、それはまるで胸の奥の、触れられたくなかった引き出しを不意にこじ開けられたような感触だった。「え…?」聞き返す声が、ほんのわずかに上ずった。けれど、佳奈はもうそれ以上言葉を重ねなかった。ただ、じっと、見ていた。「俺、別に…」口を開いて言いかけたが、何も続かない。自分でも、何を言いたいのか分からなかった。ただ、喉の奥に溜まっ
last update最終更新日 : 2025-08-25
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引き出しの底

夜の営業フロアは、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。天井の蛍光灯のうち、すでに何本かは消され、薄暗い照明が島状にいくつかの机を照らしていた。空調の風が天井をかすめて低く唸り、プリンターが時折、誰かのリモート操作で音もなく起動する。そのたびに、静けさが少しだけ揺れる。鶴橋は、まだ散らかりかけた自席で、資料のファイル整理をしていた。今日提出したクライアント向けの提案書には、小さなミスが一つだけあった。それを修正したうえで、次の展開用にフォルダを作り直していたのだ。片手にホチキスを持ったまま、ふとした拍子に一番下の引き出しに手が伸びた。もう何度も整理したつもりだったが、深夜の疲れの中で、無意識に動いた指先は、奥へ奥へと書類を掻き分けた。そして、その下にあったのは、薄く折れ癖のついた数枚の紙だった。古い提案資料の下書き用紙が、クリップで丁寧に留められている。その紙の一番上にあったのは──見覚えのある名刺だった。(…)名刺には、丁寧な明朝体で「今里 澪」の名前と、かつての会社ロゴが記されている。裏面には、打ち合わせの予定が鉛筆で書かれていた跡が、うっすらと残っていた。記憶の奥にしまわれていたその紙片が、手のひらのなかで、再び現実の重さを持っていた。鶴橋はゆっくりと腰を落とし、デスクの椅子に座り直した。手にした紙がふるえているのは、自分の指のせいなのだとわかっていた。名刺の角は、かすかに丸まり、インクの端にだけ、小さな滲みがある。それが誰の涙でできたものかなんて、もう確かめようもないのに、喉の奥が苦しくなった。その提案資料も、名刺も、今里がかつて、自分のために用意してくれたものだった。言葉にしなくても伝えようとしてくれた気持ち。資料のレイアウトの端々に、図解に挿まれた注釈に、その人のやわらかな思考が残っている。「……」声にならない吐息をもらし、鶴橋はそっと目を閉じた。視界を奪われたかわりに、指先の感触が際立った。名刺の紙質はさらりとしていて、その下にある数枚の紙が、わずかに吸い込むように湿っている気がした。空調の風がまた一度、頭上を通り過ぎていく。「…こ
last update最終更新日 : 2025-08-26
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彼がいない日常

翌朝、ビルの自動ドアが開く音に、何人かの社員が足早に入っていく。曇ったガラス越しに差し込む陽光はどこか淡く、昨日より少し肌寒く感じた。鶴橋は、自分の足音が床に吸い込まれていくような感覚のまま、いつも通りの時間に出社した。エレベーターの中、特に話す相手もいないまま、数人の背中をぼんやりと見つめていた。頭のなかは、昨日の引き出しと、名刺の手触りで満たされている。エレベーターが営業フロアのある階で開いたとき、空気の匂いが昨日までと何も変わらないことに、かえって胸がざわついた。コピー機の始動音、PCの起動音、どこかから聞こえてくる軽口と笑い声。そのすべてが、日常の風景を正しく演出しているはずだった。けれど、そのどこにも、今里の気配がなかった。席に着いた瞬間、視界の端に、今里が座っていたあのデスクが映った。誰かが一時的に資料を広げて使っているようだった。鶴橋は、思わず視線を逸らし、唇を結ぶ。その椅子が引かれる音ひとつで、心臓が跳ねたのが、自分でもおかしかった。あの席に、誰が座っても構わない。そう思いたいのに、名前すら知らない同僚がその机の上で紙をめくっている姿を見るだけで、胸の奥がきしんだ。仕事の手につかないまま、午前中の会議が始まった。会議室のドアを開けた瞬間、ふいに記憶が戻ってきた。以前、今里とふたりでこの会議室に入った日のこと。資料の順番を確認するため、向かい合って座りながらも、どこか距離のあったあの静けさが蘇る。部屋に入った瞬間、目が自然と右側の席に流れた。そこに、かつて今里が座っていた。あのとき、指先でキーボードを打つ音、少し低くて落ち着いた声、机の上で揺れるネクタイの端――それらが今は、完全に“音のない残像”としてそこにあるだけだった。鶴橋は、空いている椅子の背に触れた。一瞬だけ、呼吸が止まった。椅子は何も語らない。ただ、そこにいたという事実だけを、確かに残しているように思えた。会議の内容は半分も頭に入ってこなかった。周囲が笑いながら冗談を交わしている間、鶴橋はひとり沈黙していた。ペンを回していた手が止まり、いつの間にか、机の端を指でなぞっていた。(何してんねん、俺)
last update最終更新日 : 2025-08-27
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交差点の記憶

午後の陽差しは傾きながらもまだ強く、透明なガラス越しに射し込んだ光が、床の木目に淡い縞を描いていた。鶴橋は取引先との打ち合わせを終え、近くのコワーキングスペースに足を運んでいた。この場所に来るのは久しぶりで、以前より少し静まり返って見えたのは、時間帯のせいか、それとも自分の心持ちのせいか。手にしていたアイスコーヒーの結露が、指先をしっとりと濡らしていた。席に着き、パソコンを開くでもなくただぼんやりと空間を眺めていたとき、視界の端に見覚えのある後ろ姿が映った。銀縁のメガネにタイトなジャケット。椅子に浅く腰掛け、画面に集中しているその姿に、どこか覚えがある。思わず身を乗り出すと、やはり仁科だった。以前、今里と営業同行をしたことのある起業家で、鶴橋自身も何度か顔を合わせていた人物だ。「仁科さん?」声をかけると、仁科は顔を上げて「ああ」と笑った。すぐに笑みがほころび、向こうもすぐに思い出してくれたようだった。「鶴橋くんやん。久しぶりやな。相変わらず、忙しそうやなあ」「いえ、まあぼちぼちです。偶然ですね、こんなとこで」「いやあ、俺もたまに来るねん。作業しやすいし、空いてるやろ」軽く雑談を交わすなかで、ふいに出た言葉が、鶴橋の耳に重く響いた。「今もあの人に、ちょいちょい手伝ってもろてんねん。営業支援のアドバイザーみたいな立場で」「…あの人?」「今里さんやん。知らんかった?今、フリーでやってはるで」その名を聞いた瞬間、胸の奥に何かがぶわっと広がった。音もなく波打つような感情が、喉元に迫ってくるのを感じた。「えっ…今里さんが、ですか」思わず繰り返した言葉に、仁科は不思議そうな顔をしたあと、にこりと笑ってうなずいた。「うん。ほんまに丁寧な人やで。抜け目ないし、説明もうまい。うちも正直、今里さんおらんかったら詰んでたわ」「…そうなんですね」胸の奥がじわりと熱くなる。喜びとも違う、悔しさでもない、けれど確かに感情の火がついた。「それに…ちょっと寂しそうな目してるな、あの人」
last update最終更新日 : 2025-08-28
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ビルの下、ふたり

人波が引きかけたオフィス街の通りに、細長い影が伸びていた。夕方の空は茜色をうっすらとまとい、ビルのガラス面には、その色が淡く映り込んでいた。冷たさを含んだ風がときおり吹き抜け、鶴橋のネクタイを小さく揺らす。ポケットのなかのスマホの振動は止まり、画面には17時56分の数字が浮かんでいた。ビルのエントランス前。視線は、ドアの向こうから現れる誰かひとりを待ち続けている。行き交う人々の中に、目当ての姿を見つけるたび、違うとわかるまでの一瞬に心臓が強く跳ねた。期待と不安、後悔と願いがないまぜになったような胸の内で、ただそこに立ち尽くしていた。ふと、ゆっくりと歩いてくるひとりの男が視界に入る。スーツの裾が風を含んで揺れ、鞄を片手に持ったまま、前を見据えて歩いてくるその姿に、鶴橋の呼吸が浅くなる。顔を見るよりも先に、身体がそれを察していた。あの歩き方。あの肩の傾き。ずっと見てきた背中だった。今里だった。ガラス扉が開く音に重なるように、二人の視線が交わる。歩みを止めた今里の顔に、わずかに動揺が走る。眉が一瞬、ぴくりと震えた。けれど次の瞬間には、それが何事もなかったように静かに整えられる。鶴橋は一歩、前に出ようとして、足元に力が入らないことに気づく。言葉が出てこなかった。会いたいと思っていたのに、その姿を前にして、何から話していいのかわからなくなる。沈黙が流れた。風が木の葉をさらい、車のタイヤがアスファルトを擦る音が遠くで鳴った。けれど、どれもふたりの間に置かれた空白を埋めるものにはならなかった。「…鶴橋くん?」小さく呼ばれた名に、鶴橋はようやく目をまっすぐ向ける。そうして、言葉を探すでもなく、声を張るでもなく、ただ、まっすぐに口を開いた。「俺は、今里さんを救いたいわけやないです」今里の表情が、わずかに変わった。驚いたような、けれど警戒も混じったような目をしている。「助けたいんやなくて…ただ、今里さんと、生きていきたいねん」その言葉が、夕暮れの空に沈みながら、ゆっくりと空気を震わせて届いていく。飾りのないその声に、今里の目が微かに
last update最終更新日 : 2025-08-29
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心で応える

小さな公園の一角、ビルの裏手にある古びたベンチにふたりは腰を下ろしていた。日が落ち、空は藍に沈み、街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。遠くで車のクラクションが鳴り、それに続くように風が木の葉をかすかに揺らした。空気は昼間の熱を残しながらも、どこか乾いていて、呼吸の音がやけに耳に残る。沈黙が長く続いていた。言葉が見つからないわけではない。ただ、その一言が持つ重みを互いに知っているからこそ、無闇には切り出せない時間が流れていた。ベンチの背にわずかにもたれながら、今里が小さく息をついた。その音が夜の空気に溶けた直後、ぽつりと低い声が漏れる。「ほんまに、ええの?」視線は前を向いたまま。鶴橋を見ようとはしなかった。だが、その問いがどこから発せられたものか、鶴橋にははっきりとわかった。「俺とおったら、また振り回されるかもしれへん。あんたの時間、ぐちゃぐちゃにしてしまうかもしれん」冗談めいた口調だったが、その声には揺れがあった。唇の端だけがわずかに持ち上がっていたが、目元は笑っていなかった。夜の光がその頬に薄く影を落とし、わずかに震える睫毛が、何かを耐えるように瞬いた。「俺な…今でも、たまに壊れたままやって思うときあるねん。急に呼吸がうまくいかへんようになったり、理由もないのに心がぐらぐらして…せやのに、笑ってる自分が一番気持ち悪くて、余計に疲れるねん」告白とも懺悔ともつかない声だった。けれど、それは明らかに“本音”だった。鶴橋は、その言葉の奥に、誰にも見せてこなかった今里の心の風景を感じ取っていた。しばらくの間、風の音だけが流れる。葉擦れが静かに耳を撫で、足元に落ちる街灯の光がふたりの影をぼんやりと伸ばしていた。鶴橋は、ふっと細く息を吐いてから、まっすぐに前を見据えたまま、言った。「それでも、ええんです。俺は、今里さんが、壊れたままでも、笑えへん日があっても、それごと…受け止めたいんです」今里が、ゆっくりと鶴橋のほうを見た。その目は何かを試すように静かで、けれどほんの少しだけ、濡れたような光を含んでいた。
last update最終更新日 : 2025-08-30
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並んだ肩書き

午後の光は柔らかく、窓辺の影がゆっくりと室内を横切っていく。古びた木製の机の上に、段ボールがいくつも積まれていた。まだ整いきらないその空間には、生活感というよりも、始まりの匂いが漂っていた。壁には新しく貼られたカレンダーが一枚。赤い丸のなかに、小さな文字で「start」とだけ書かれている。「…なんか、ほんまに始まったんやな」今里がぼそりとつぶやいた。手にはハサミとガムテープ。けれど、その声の中には、テープを切る音よりももっと静かな振動があった。「ま、オフィスっていうには狭すぎるけど、ええ感じですやん」鶴橋が応じる声には、どこか高揚した響きが混じっていた。新しい何かを形にしていくことへの期待。けれどそれは、仕事の成功に対するものというよりも、今里とこうして並んでいる事実そのものに対してだった。段ボールをひとつ空け、今里はその中から名刺箱を取り出した。薄い白箱の縁をそっと撫でるようにして開ける。少しだけ緊張が、彼の指先に表れていた。「とりあえず、これが俺の」鶴橋がもう一つの名刺箱を開け、自分の名刺を取り出す。ふたりの名刺が、木の机の上に並べられる。「|Consultant《コンサルタント》 今里 澪」「|Sales Partner《セールスパートナー》 鶴橋 蓮」印字された文字は、どちらも小さく整っていた。肩書きは違っても、その間に流れる距離感は、今や曖昧で、けれど確かなものだった。「これ、並び順どうします?肩書きより先に出る方とか決めます?」鶴橋が、少し茶化すように問いかけた。けれど、その声の裏には、遠回しな確認があった。この名刺が並ぶこと、その意味を、今里自身がどう思っているのか。今里は一瞬、視線を名刺に落としたまま黙った。そして、ゆっくりと顔を上げて言った。「…並んでれば、それでええよ。上下やないやろ」その言葉に、鶴橋の目元がふっと緩んだ。「はい。それがいちばん嬉しいです」そう答える鶴橋の声は、ささやくように静かで、それでいてしっかりと芯を持っていた。
last update最終更新日 : 2025-08-31
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