閉じかけたドアの隙間から、柊の白い指先が最後にひらりと動いた気がした。扉が完全に閉まると、ほんの短い機械音が鳴って、室内の空気が切り替わるように静かになる。今里が軽く頭を下げたあと、鶴橋も続いて一礼した。
商談は成功だった。それは書面上も、言葉のやりとりの流れも、明らかにそうだった。
だが、その場にいたふたりの胸のうちに、何かを勝ち取った実感はなかった。静かな廊下を歩き、呼び出しボタンを押してから数秒。小さな点滅とともに、エレベーターがゆっくりと降りてくる。到着音が鳴るまで、ふたりは一言も発さなかった。
閉ざされた箱の中に入ると、金属の壁がそれぞれの顔を淡く映し返した。天井の蛍光灯の明かりが無表情に降り注ぎ、床にうっすらと影を落とす。
ドアが閉まる。
その瞬間、鶴橋はぽつりと口を開いた。「…今里さん。あの人、なんなんですか」
声に棘を含ませたつもりはなかった。けれど、自分でもわかる。
押し殺した苛立ちが、語尾ににじんでいた。今里は、少しだけ視線を落とした。
まつげが、静かに伏せられる。「…昔、担当してた相手です」
かすれた声だった。
小さく、低く、まるで自分の胸の中から掬い上げた言葉のように、そっと発せられた。その答えに、鶴橋の中で、何かが泡立つ。
“担当してた相手”。それだけでは到底説明のつかないものが、あの部屋にはあった。あの男の視線、言葉、態度、すべてが証明していた。それは単なる取引先の過去形ではなく、もっと個人的な…感情の痕跡だった。「…それだけ、ですか」
喉が詰まりそうになりながら、なんとか言葉をつないだ。もう一歩、踏み込みたい。けれど、その先に踏み出すことが、なぜか怖かった。今里は答えなかった。
ただ、ゆっくりと指先を組み直すように、書類の角をそろえた。エレベーターの中には、金属がわずかにきしむような音と、心拍だけが静かに響いていた。鶴橋
定時を目前にして、フロアには少しずつ片付けの気配が漂いはじめていた。パソコンを落とす音、椅子を引くわずかな音、コートの袖を通すざらりとした布の擦れる音。それらが静かな夕方の空気を、機械的に満たしていく。窓の外はすでに暮色が降り始め、ガラス越しの街は冷たい色に沈んでいた。ネオンにはまだ早い時間。けれど街は確実に、昼の明るさを手放しつつある。鶴橋は手元の書類を読みながら、まったく内容が頭に入っていないことに気づいていた。行を追っては戻り、また追っては止まる。集中できていないのはわかっていたが、視線をどこに向けても気持ちは落ち着かなかった。そのときだった。視界の端に、立ち上がる人影が映る。今里だった。スーツの裾を整え、肩に鞄をかける動作は、いつものように無駄がなく静かだった。誰に声をかけるでもなく、ただ黙って、出口へと歩きはじめた。その背中が鶴橋の席の横を通りかかる。瞬間、鶴橋の手が止まった。ペンを握っていた指がゆるみ、書類の角が机にぱた、と落ちる。何も考える暇もなく、ただ顔を上げていた。「…今里さん」呼ぶ声は出なかった。ただ口が動いただけだった。けれど、今里は足を止めなかった。鞄の重さを左肩に移し替えるような仕草をして、そのまま歩を進めていく。歩幅は変わらない。音もしない。けれどその背中は、どこか遠く感じられた。まるでガラスの向こう側にいるような、声の届かない場所に立っているような、そんな距離感だった。(なんでや…なんで、こんなときに、何も言えへん)胸の奥がざわついた。唇が開きかけるたびに、言葉にならない音が喉で絡まって止まる。何かを言わなければならないと思うのに、どうしても一歩が踏み出せない。今里の背が、少しずつ小さくなる。出口のドアが近づき、手が伸び、ノブに触れる。その瞬間、鶴橋の口から、無意識に声がこぼれた。「…また、明日」言ってから、自分が何を言ったのかに気づいた。明日。そう、いつものように、仕事が終わる時間に交わす、当たり前の挨拶。でもその“明日”が、も
風が鳴っていた。昼休みの屋上は、空の青さに反して冷たく、吹き抜ける風が無遠慮に袖口から入り込んでくる。鶴橋は指先をすぼめてライターに火をつけようとするが、風にあおられてはすぐに消されてしまった。何度か試してみたが、火は最後まで煙草の先に届かない。ふと手を止めて、煙草ごとポケットに押し戻す。鉄のフェンスの向こうには、無数のビル群が並んでいる。どれも均質なガラスの壁に陽を受けて、まぶしいほどに光っていた。下では車の流れが絶えず、けれどこの屋上だけが、世界から切り離されたように静かだった。背後で扉の開く音がした。鶴橋が振り返るより早く、誰かの足音がコンクリートを踏んで近づいてくる。振り向くと、そこにいたのは今里だった。細い体を覆うスーツの襟が、風に少しだけ揺れている。手にはいつものように薄い缶コーヒー。けれど、いつものようにそれを飲む様子はなかった。視線が合ったわけではない。けれど、互いに相手の存在を意識していた。屋上にふたりきり。言葉をかわさずにいられるほどの間柄では、もはやなかった。「…なんで、辞めるんですか」鶴橋の口から出た言葉は、問いというよりも、掠れた息に近かった。風に押し返されそうなほど小さな声だったのに、なぜかはっきりと空間に落ちた。今里は立ち止まり、鶴橋のほうを見ようとはせずに、ただ風の吹く方向を眺めるようにしていた。その横顔は、どこか遠いものを見ているようで、今ここにいない人のようだった。「…俺がここにおったら、鶴橋くんまで壊してまうから」答えは簡潔で、静かだった。怒りも、哀しみも、どこにも混じっていない。けれどその響きは、深い水底から届くような重さを持っていた。鶴橋は息を止めた。その言葉が何を意味するのか、瞬時には理解できなかった。けれど、じわじわと胸の奥に沈み込んでいくにつれて、それがただの“自己都合の退職理由”ではないと気づいていった。「壊してまう、って…なんのことですか」問いかけながら、自分の声に自信がなかった。問いというより、縋るような響きになっていた。今里は缶コーヒーの表面を指先でな
ボールペンが机を転がる音が、異様に大きく響いた。耳の奥で、その音がずっと反響しているようだった。鶴橋は指先の力を失った自分に気づく間もなく、ただ机の下に目を落とす。床に落ちたペンを拾おうと腰を浮かしかけたが、動きはぎこちなく、どこかうわの空だった。「…今里さん、辞めるんやって」佳奈の声は、驚きと戸惑いを交えた小さな囁きだった。だが、鶴橋にはその言葉だけが異様な鮮明さで耳に突き刺さった。まるで周囲の音がすべて消えて、彼女の一言だけが無音の中で響いたかのようだった。「辞めるって、誰が…?」そう訊こうとしたが、喉が詰まり、言葉が舌の先で崩れていく。うまく出せないまま、視線だけが勝手に動いた。反射的に、デスクの向こうを見渡す。今里はいつもの席にいた。背筋をまっすぐに伸ばし、モニターに向かって資料を確認している。デスクの上は整っていて、ペン立ての中も乱れはない。隣に置かれたクリアファイルには、きっちりと仕分けされた書類が差し込まれている。どこも、いつもと変わらない。だが、それが逆に不気味だった。こんな日常の中で、本当に“辞める”なんてことがあり得るのか。鶴橋の中に、まず浮かんだのは“否定”だった。いや、違うやろ、という感情が、先にあった。「佳奈さん、それ、誰から聞いたんですか」やっとのことで声に出すと、自分の声がわずかにかすれていた。佳奈は目を伏せたまま、声を落とす。「人事部の子がぽろっと言ってた。今朝、退職届出されたって…封筒に自分で名前書いて、ちゃんとした手続きで」「…そんなん、嘘やろ」鶴橋は思わず口走った。そんなわけがない、と即座に返した自分に、次の瞬間強烈な違和感が押し寄せた。なぜ、こんなに即座に否定したのか。それは、現実を受け入れたくなかっただけだった。今里が辞める。そう聞かされた瞬間、胸の奥で何かが崩れた感触があった。形を持たないはずの何かが、自分の中でしっかりと存在していたことに、ようやく気づかされた。手元のペンを拾いながら、鶴橋はもう一度視線を上げ
朝の空気は、少しひんやりとしていた。外は曇りがちで、窓の向こうに広がる街並みも、どこか色を失ったように見える。始業のチャイムにはまだ少し間があり、オフィスフロアはまだ眠っているような静けさに包まれていた。数人の社員がちらほらと自席につき始め、プリンターの立ち上がる音だけが規則的に響く中、今里の足音はひどく軽かった。管理部の小さな受付窓口。木製のカウンターの上に、今里はそっと一枚の封筒を置いた。手元を見つめたまま、事務担当の若い女性に静かに頭を下げる。彼女がそれを受け取ろうとする指先よりも、今里の指は一瞬早く、まるで何かを断ち切るようにすっと引いた。「お手数ですが、こちらの処理をお願いします」声はいつもの調子と変わらない。けれどその抑揚のなさに、受付の女性はわずかにまばたきをしてから、言葉少なにうなずいた。「かしこまりました」と告げるその声の奥に、どこか戸惑いの色が混じっていたのは、たぶん、目の前の男の静けさが異様だったからだ。封筒の上には、黒いボールペンで書かれた文字がきちんと整列していた。退職願。提出日。所属部署名。いずれも乱れはなく、まるで何度も書き慣れたような筆跡にすら見えた。それを見届けた今里は、一礼をして踵を返す。その後ろ姿に、受付の女性が「おつかれさまでした」と声をかけようとするが、その言葉は声帯を通らずに宙で消えた。なにかを察していた。いや、言ってはいけないような空気が、その背中にあった。フロアに戻るまでの廊下。今里は誰とも目を合わせない。掲示板の前で話し込む若手社員たちの横を通っても、何も耳に入ってこなかった。脳のどこかが、すでに遮断されていた。自席につき、PCの電源を入れる。画面が光を放ち、メールボックスが開く。定型の業務連絡。クライアントからの返信。未処理のチェック項目。そのすべてが、もう自分には関係ないもののように感じられた。だが手は止めない。作業を進めるふりではなく、実際に処理をし、業務をこなしていく。その姿に違和感はない。いや、逆にあまりにも変わらないせいで、周囲はその異質さに気づくことができない。視線はモニターに向けられていたが、どこも見ていなかった。指だけが動き、画面の中の数字や文字を移動させる。頬のライ
オフィスの空気は朝の慌ただしさを帯びていた。キーボードを打つ音、コピー機の低い駆動音、電話のベルの合間に、人々の短い挨拶や確認の声が飛び交っている。外は薄曇りで、差し込む光は鈍く、窓際の観葉植物の影さえ淡かった。鶴橋は、あらかじめ決めていた。朝いちばん、なるべく人の目の少ない時間に声をかけようと。けれど、いざ席に着いた今里を見たとき、その背中の静けさに、言葉が喉の奥で足踏みした。それでも、逃げたくなかった。「…今里さん」低く呼びかけると、今里はゆっくりと顔を向けた。あいかわらず、感情の読めないまなざし。だが、そこには微かな戸惑いの色が滲んでいた。「昨日の方、柊さんて人。…どういう関係やったんですか」静かに問いかけた鶴橋の声には、怒りも責めも含まれていなかった。ただ、知りたいという、真っすぐな熱があった。今里は一瞬だけ目を伏せ、呼吸を整えるようにわずかに口元を引き締めた。椅子の背にもたれるでもなく、前かがみにもならず、ただ真っ直ぐ前を見据えたまま、小さく頷いた。「…昔、担当してた取引先の営業さんです。最初は、仕事として付き合い始めたんですけど」そこまで語って、また少し、言葉が止まる。鶴橋は頷きもしなかった。ただ、その場にいるという姿勢だけを保ち続けた。今里はふたたび息を吸い、続けた。「気づいたら、あの人のペースに巻き込まれてました。言葉にされなくても、いつのまにか、関係が仕事の枠を超えてて。…最初は、それでもいいと思ってたんです。頼られることに、価値がある気がしてたから」声のトーンは淡々としていたが、話している最中、一度も鶴橋とは目を合わせようとしなかった。まつげの影が深く落ち、光の差さない場所で言葉だけがぽつぽつと浮かび上がる。「けど、気づいたら、自分が何を考えてるのかもわからんようになってて。どこまでが仕事で、どこまでが感情かも、もう曖昧で。…ただ、離れられなかったんです」机の上に置かれた手の甲が、かすかに震えた。すぐ
街の灯が遠くに滲んでいた。日中の熱がすっかり抜けた舗道は、夜気にさらされてひんやりと静まり返り、風が葉をかすめる音だけが、まるで誰かの囁きのように耳をくすぐる。駅から少し離れた公園の端、木立の隙間に埋もれるように置かれたベンチに、今里はひとり腰をかけていた。スーツの上着は丁寧にたたまれ、膝の上に置かれている。シャツの袖を軽くまくった腕が、缶コーヒーを持ったまま膝の上に落ち着いていた。缶は半分ほど飲まれていたが、その手はそれ以上動く気配を見せなかった。指先はわずかに力を失い、缶の表面に浮かぶ水滴が、静かに掌に伝っていた。目の前には小さな芝生の広場。誰もいない。遊具も、電灯も、ひっそりと存在を潜めるように佇んでいる。周囲には歩行者の足音もない。ただ、たまに通り過ぎる車のエンジン音が遠くからかすかに届くのみだった。今里は、空を見ていた。見ているようで、見ていない目だった。街の灯に洗われた夜空は、星も曖昧で、空のどこを見つめても輪郭がにじんでいた。それでも、視線を上げていた。泣かないために、だった。呼吸がゆっくりと上下する。風が襟元を抜けるたびに、背筋がわずかにこわばった。ほんの少し、肩が震えていた。けれど、それは寒さのせいではなかった。ふと、今里は目を伏せた。缶コーヒーを持つ手が、そのままベンチの上に落とされる。そして、空いた両手がゆっくりと顔の前に上がった。指先が、目元に触れる。その瞬間、まつげが微かに濡れていることに、本人さえ気づいたかどうかわからない。次の瞬間、両手で静かに目を覆った。口元は何も言わない。喉も震えない。それでも、目元からこぼれた水滴が、頬の線に沿って静かに滑り落ちていった。頬を伝った涙は、顎の先で止まりもせず、まるで空気に吸い込まれるように、服の襟元に溶けていった。音はなかった。嗚咽もなかった。ただ、涙がこぼれたという事実だけが、そこにあった。今里の肩が、ほんのかすかに揺れていた。その震えは、押し殺され