夜の風は、湿気を帯びながら肌にじっとりとまとわりついていた。会社への帰路、駅からビルへと向かう人々の流れのなかで、鶴橋と今里は並んで歩いていた。だが、会話はなかった。沈黙は重たくも、どこか静かだった。今里の横顔に声をかけようと思えば、できたはずだ。けれど、鶴橋は言葉を選べなかった。選べば選ぶほど、余計なものまで口にしてしまいそうで、ただ歩くことしかできなかった。電車に乗り込むと、今里は座席の端に体を沈め、目を閉じた。まつげの影が長く落ち、口元の力が抜けているのが分かる。眠っているのか、それとも目を閉じているだけなのか、判別がつかないほどにその姿は静かだった。その横に座る鶴橋は、落ち着かない気分のまま、視線を泳がせていた。目の前に立つ乗客たちの会話も、吊り広告の派手な文言も、何もかもが上滑りする。今里のこと以外、何ひとつ頭に入ってこなかった。あの部屋で、柊が投げたひとつひとつの言葉。どれもビジネスの場にふさわしくはなく、けれど“完全に見慣れている”関係性がにじみ出ていた。今里は、そのすべてを黙って受け止めていた。声色も、態度も、反論も、なかった。それが、いっそう胸を締めつけた。ふたりはいつものビルに戻り、鶴橋は軽く頭を下げると、そのまま自席の荷物をまとめ、早めに退社した。今里の姿は背後にあったが、あえて振り返らなかった。マンションの扉を閉めると、部屋の中には微かな静けさが満ちていた。スーツを脱ぎ、シャツを脱ぎ、ベッドに倒れ込む。そのまま天井を見上げるも、瞼の裏には柊の笑みと、今里の表情が交互に焼きついて離れなかった。「……なんやねん、あれ」声が漏れる。誰に向けたわけでもない、ただの吐き捨てだった。枕元に置いたスマホを掴んだ。LINEのトーク画面を開いては閉じ、また開いては閉じる。メッセージ欄には何も打たれていない。ただ、画面の“今里”という名前だけが、まるで異物のように目に刺さった。(俺&hellip
Dernière mise à jour : 2025-08-12 Read More