夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった のすべてのチャプター: チャプター 441 - チャプター 450

462 チャプター

第441話

「パパ、会いたいよ」画面の中の樹は顔色が悪く、ひどく落ち込んでいるようだった。「ずっと帰ってこないんだもん。パパとママに会いたい……パパ、ママ見つかった?」「ああ、見つかった」樹の目がぱっと輝いた。「どこ?」「ママは――」圭介は「寝てる」と言いかけて、口をつぐんだ。何か思うところがあったのか、数秒の間を置いてから彼はガラス戸を開け、寝室に戻った。ベッドの縁に腰を下ろし、背を向けて横たわる小夜の肩にそっと手を置く。「小夜。樹が会いたがってる」小夜はぐっすり眠っているのか、身じろぎもしない。返事もなかった。画面の向こうで、小夜がそばにいると知った樹の声が一気に跳ね上がった。「ママ!ママ、会いたかったよ!あのね、僕ね、最近すごくいい子にしてたんだよ。どこにも勝手に行ってないし、ごはんもちゃんと食べて、お勉強もして、おじいちゃんやひいおじいちゃんの言うこともちゃんと聞いて……ママ、なんでお返事してくれないの?」いくら呼んでも小夜の声が返ってこない。樹の口調がだんだん焦りを帯びてきた。声が詰まり、それでもなお大きく叫んだ。「ママ!なんで返事してくれないの!」圭介が眉をひそめ、たしなめようとした瞬間、画面の中で必死に叫んでいた樹の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。嗚咽が止まらなくなる。「ママ……もう勝手にどこかに行ったりしない。これからはちゃんとママの言うこと聞くから、もう絶対しないから……ママは僕のママでしょ、無視しないでよ……ごめんなさい、ママ」圭介にははっきり分かった。小夜の肩に置いた彼の手を通じて、微かな震えが伝わってきたのだ。彼女の体そのものも、かすかに揺れていた。けれど最後まで、彼女は振り返らなかった。声も出さなかった。静かなままだった。小さく息をつき、圭介は手を引いた。立ち上がり、再びバルコニーへ向かう。淡々とした声で樹に言った。「ママは寝てるんだ。起きたら電話させるから」彼はガラス戸を閉めた。「パパの嘘つき!」樹の声に、怒りがにじんだ。「樹」圭介の目に冷たい光がよぎった。静かに画面の中の樹を見据えると、樹はたちまち黙り、しょんぼりと目を伏せた。「パパ……ママ、僕のこともういらないの?」「そんなわけがない」圭介の声は低く、揺るぎなかった。「樹。覚え
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第442話

「小夜、樹は俺たちの子供だ。お前と俺の血を分けた……まだ幼いんだ」せめて、あの子にだけは、そんな残酷な真似をしないでくれ。小夜は何も返さなかった。圭介の眉がかすかに震え、耐えきれないように彼女の体を引き寄せて、きつく抱きしめた。本当に、呪いのようだ――と、彼は思った。……「パパ、ママはどこ?」二十年前。十歳の圭介は小さな顔を上げ、自分よりずっと大きな父親の雅臣を睨み上げて怒鳴った。「二十日だよ!二十日もママに会ってない!ママはどこなの!」雅臣の目には陰鬱な色が浮かんでいた。苛立ちを押し殺しながらも、辛抱強く答える。「遠くに出かけてる。もうすぐ帰る」「嘘だ!ママはどこにいたって僕の電話に出てくれるのに、二十日間ずっと出てくれない!嘘つき、パパの嘘つき!」雅臣の顔が曇った。彼が叱りつけようとしたそのとき、興奮した顔の執事が駆け込んできた。「旦那様、見つかりました!」雅臣の表情がぱっと変わった。騒ぐ圭介には構わず、「坊ちゃんを見ていろ」とだけ言い残して足早に出ていった。――その日の夜、佳乃は帰ってきた。圭介は喜んで佳乃に会いに行った。けれど、寝室の前で止められた。中からは激しい言い争いと、何かが砕ける音が聞こえていた。怖くて、ドアを力いっぱい叩いた。ドアが開いて出てきたのは、疲れきった顔の雅臣だった。中に入りたがる圭介を抱き上げ、その場から連れ去る。「ママは少し一人になりたいんだそうだ」翌年、圭介が十一歳のとき、弟の祐介が生まれた。病院のベビーベッドの中で、赤ん坊がおぎゃあおぎゃあと泣いている。圭介は興味津々で指を伸ばし、小さな頬をつついた。柔らかくて、すべすべしている。すると不意に、その指を赤ん坊の手がぎゅっと掴んだ。泣いていたはずの赤ん坊が、とたんに機嫌良く無邪気に笑った。小さな胸が、じんわりと温かいもので満たされた。自分の、弟だ。父と母の次に、一番近い存在。これから先の長い時間を一緒に歩いて、世の中の多くの兄弟がそうであるように、信じ合える相手。この弟が好きだと思った。いい兄になろう。この子をちゃんと守って、大きな盾になって、両親を安心させるんだ。ただ――「パパ、祐介の目はどうして僕と違うの?緑色だ。すごくきれい」小首をかしげて、振り返って雅臣
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第443話

ママは、だいぶ元気そうだ。祐介もだ。どうして一緒に暮らせないんだろう。祐介だって、ママに会いたがってるのに。「ママ」圭介は顔を上げ、白すぎるほど白い佳乃の顔を見た。その手を握って、軽く揺した。「ママ、祐介のお世話をしてくれてる人に聞いたんだ。もう病気は治ったんだって。祐介、家に戻してあげていい?ママにすごく会いたがってるよ」佳乃の表情が凍りついた。「……何を、言ってるの」虚ろな声だった。「祐介だよ」圭介は屈託なく笑った。「ママ、長いこと会ってないから忘れちゃった?弟の佑介だよ。もう二歳になったんだ。あ、そうだ、祐介ってすごくきれいな緑の目をしてるんだよ」ドンッ。突然、分厚い絵本が額に叩きつけられた。圭介は呆然として、額に手をやった。指に、べっとりと赤い血がついていた。痛い。ママが――叩いた?何が起きたか分からずにいるうちに、さっきまで穏やかに物語を読んでくれていた佳乃が、突然顔を歪ませて叫び出した。「何を言ってるの!緑の目?あんなもの化け物よ!化け物!あの子は私が産んだんじゃない!私の子じゃない!あんな子供いない!いないの!化け物よ、化け物!来ないで、近寄らないで!みんな化け物よ!」叫びながら、佳乃はテーブルのティーセットをなぎ倒し、床に散らばったガラスの破片の上に足を滑らせて崩れ落ちた。血が飛んだ。佳乃の目は濁って、何も映していなかった。死の気配がまとわりついている。「あんたたちはみんな化け物。化け物……」その後に起きたことのすべてが、刃物で肉に刻みつけられたように、圭介の昼にも夜にもこびりつき、二度と離れなくなった。あの頃の圭介には、分からなかった。なぜママがあれほど祐介を嫌うのか。なぜあんなふうに壊れてしまったのか。優しかったママが、なぜ突然あんなに恐ろしくなったのか。でも、ママを悲しませたくなかった。その夜。眠れなかった圭介は、謝ろうと思って、慰めようと思って、両親の寝室に向かった。もう二度とママの前で祐介の話はしない。書斎の前を通りかかると、雅臣と医師が話している声がした。寝室に走った。ベッドに誰もいない。浴室から、ぽたり、ぽたり、と水の音がする。駆け込んで――この先一生消えない悪夢を、見た。赤い水が、浴槽からあふれていた
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第444話

けれど今、それを失いかけている。――小夜、お前を手放すわけにはいかない。何があっても、そのためなら何だってする。何を犠牲にしても構わない。……「宴会?今夜?」目を覚ました小夜は、圭介からそれを聞いておおよその察しがついた。「コルシオも来るのね」圭介は肯定も否定もしなかった。「ドレスは用意してある。今夜、一緒に行く」やはり、今夜が決着なのだ。ただ、腑に落ちないことがある――コルシオがこの宴会に来るのなら、囮なんて必要ないはずだ。自分が「生きた標的」として計画に組み込まれている意味が、分からない。考えても、答えは出なかった。「行きたくないって言ったら?」小夜は訊いた。圭介は笑った。「こっちの宴ってのは、なかなか面白いぞ」宴会に面白いも何もない。だがその言葉の意味は分かる。拒否権はないということだ。行きたくなかろうが、行くしかない。もっとも、拒否するつもりもなかった。行くに決まっている。コルシオはどうあっても片をつけなければならない。あの男は危険すぎる。放っておけば、次に何をしでかすか分からないのだ。その日、二人は外に出なかった。ホテルで本を読み、音楽を聴いて、静かに一日を過ごした。夕暮れになって、ようやく小夜は届けられたドレスに袖を通した。長袖のデザインだった。星空のような深い青のシルク。裾はくるぶしまで落ちている。星の連なりを象った純金のベルトが腰を巡り、金の房飾りがドレスの至るところに揺れていた。歩くたびにきらめき、目を奪う。古代ローマを思わせる、気品と華やかさを兼ね備えた仕立てだった。圭介も同じ星空色のスーツを着ていた。彼は身をかがめ、短剣を仕込んだ革のバンドを小夜の手首に巻きつけると、長袖を下ろして隠し、ふっと笑った。「あのドレスが残っていればよかったな」惜しそうな声だった。意外な言葉だったが、小夜にはすぐにその意味が分かった。――あのドレス。自分の手で作って、自分の手でずたずたに引き裂いたウェディングドレスのことだ。今さら、なぜそんなことを言うのだろう。小夜は唇を引き結び、彼の手から自分の手を引き抜くと、黙って部屋を出た。……会場はローマの郊外だった。小夜には、車の進みがひどく遅く感じられた。ずいぶん長い時間が経ったように思え
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第445話

どこにいるの?……城の広間は、広かった。そして、高い。見上げれば尖塔の頂まで一望できる。周囲には半透明のステンドグラスがはめ込まれ、外の夕焼けが透けていた。中ほどの高さには弧を描く回廊が巡らされ、人が立てるようになっていた。そこに一人の男が立っていた。金髪の巻き毛に、端正な顔立ち。黒い手袋をはめた両手をステッキの銀の握りに重ね、翡翠色の瞳で階下を見下ろしている。眼下に広がるのは、踊る群衆。そして、そのフロアの縁に並んで立つ一組の男女だ。その女は絶えず周囲を見回している。傍らの男は、女だけを見ていた。隠す気もない感情が、目からこぼれ落ちそうなほどに深い。「美しいものだな」コルシオは静かに呟いた。「ジェリー、死のバラという話を知っているか」その背後に、金髪碧眼の男が控えていた。小夜が見れば思い出すだろう。あの古城に連れてこられた最初の日、狼に追われて一階に逃げ込んだ彼女に銃を向け、追い返した男だ。ジェリーは答えた。「存じません。お聞かせください」「以前、俺が一枚の絵を買ったのを覚えているか。『エリガバルスの薔薇』。あれに描かれているのは、ある暴君の狂った殺戮だ」コルシオの緑の瞳が深みを帯びた。「歴史上の暴君が、己の愉しみのために宴を開き、客を招いた。天井には仕掛けが施してあった――およそ四十万輪の薔薇。宴の最中にそれが一斉に降り注ぎ、客たちは花の海に埋もれて生きたまま窒息した。死のバラという寓話は、そこから生まれた。ジェリー。薔薇で人が殺せると思うか」「私には分かりかねます」「俺はね、ずっと試してみたかったんだ」コルシオの口元がすっと吊り上がった。「行け。客人たちに贈り物を届けてやれ」ジェリーは一礼して下がった。階下で舞踏と音楽が最高潮に達したその瞬間――頭上で破裂音が轟き、深紅の薔薇が豪雨のように降り注いだ。人々を呑み込むほどの量だった。客たちは最初こそ驚いて悲鳴を上げたが、それはすぐに歓声へと変わった。薔薇の雨の中で、踊り続ける。小夜も驚いて見上げた。尖塔の天井から絶え間なく噴き出す薔薇の雨。――瞳孔がきゅっと縮んだ。真紅の花の中に、黒い薔薇が混じっている。こちらに向かって、回転しながら飛んでくる。コルシオだ。来た。次の瞬間、小夜は手首
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第446話

どうして?……囮は、私だったはずでしょう。「コルシオを始末するんじゃなかったの?全部準備できてるって言ったじゃない!なのに、どうしてあんたが倒れてるのよ!どうしてなの?」小夜には理解できなかった。「誰か!誰か助けて!」彼女は叫んだ。周りでは人々が悲鳴を上げながら出口へ殺到し、足元の薔薇の花びらが嵐のように舞い上がっている。誰も振り向かない。彰。――そうだ、彰。傷口を押さえていた血まみれの手を離し、助けを呼びに走り出そうとした。だが、その手首を圭介が掴んだ。彼は無理に口元を緩めたが、唇が開いた途端、どっと血が溢れた。「小夜……もう、間に合わない。お前を守ると、言っただろう」「守ってなんて頼んでない!」何かが頭の中で音を立てて千切れた。小夜は喉が裂けるほどの声で叫んだ。「いらない!そんなの、いらないのよ!なんであんたが庇うの!」涙が止めどなく溢れ、感情の濁流が思考を押し流す。言葉が、うまく繋がらない。「私は……あんたなんかいらない。なんで私の代わりに撃たれたりしたのよ。一生恨んでやるつもりだったのに、なんで庇ったのよ……一生、恨み続けるはずだったのに……」「……泣くな」圭介はかろうじて手を持ち上げ、彼女の頬を伝う涙を拭おうとした。だが拭っても拭っても涙は溢れ続け、やがて諦めたように力なく笑った。「離婚は……したくなかった。だから、これでいい。元夫なんて呼ばれるくらいなら……死んだ夫のほうが……よほどましだ。長谷川家に……離婚した人間なんて、いないんだ……俺も……嫌だったんだ……」「あんた……」大粒の涙がぽたりと落ち、血に染まった圭介の顔を打つ。灼けるほど熱いそれを、彼は瞬きもせず受け止めている。小夜は何か言おうとした。けれど喉からこぼれるのは壊れた嗚咽ばかりで、一語も形にならなかった。胸の奥が軋み、今にも裂けそうだった。憎悪と、名前のつかない感情が、ぐちゃぐちゃに絡まって渦を巻いている。――殺してやりたいほど、憎い。――なのに、どうして私の代わりに死ぬの。――これじゃ、恨むことすらできないじゃない……鋭い痛みが頭の中を引き裂き、涙で視界がぐしゃぐしゃに滲んで、もう彼の顔が見えない。その時、かすかに声が聞こえた。「なあ……最後に、ひとつだけ……キスしてくれないか」嫌だ。嫌に決まってる。小夜は荒い息のまま、ゆっくりと顔
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第447話

「小夜」意識の底で、聞き覚えのある声がこだました。うっすらと目を開けると、目に刺さるような白い光が飛び込み、風にそよぐカーテンが視界に揺れる。そこは病室のベッドの上だった。小夜は、自分が意識を取り戻したことを悟った。ゆっくりと身を起こし、辺りを見回した。声の主はいない。部屋には自分一人だった。混濁した記憶が、少しずつ輪郭を取り戻していく。――そうだ。――圭介と一緒に、パーティーに出たのだ。――そして、銃声が鳴った。指が静かに握り込まれ、真っ白なシーツにくしゃりとシワが寄る。思い出した。――たくさんの血。どれだけ手で押さえても、指の隙間から溢れ出て止まらない血。――指先の下で、彼の体温が失われていった。不意に、病室のドアが開いた。「奥様、お気がつかれましたか」入ってくるなり、ベッドの上でぼんやりと座っている小夜を見て、彰は足早に近づいてきた。「どこか、お辛いところはございませんか」そう言いながら、彼はナースコールを押す。小夜はゆっくりと首を振った。奇妙だった。何も感じないのだ。悲しくない。苦しくもない。嬉しくもない。ただ、すべてが現実ではないような、ひどくぼんやりとした感覚がある。目に映るものも、耳に入る音も、薄い水の膜を一枚隔てているようだった。なにもかもが、ひどく滲んでいる。――そうだ、意識を失う直前、フランシスと彰が見えた。――圭介は、助かったのだろうか。口を開いて、聞こうとした。「あ……っ」しかし、喉から漏れ出たのは、かすれ壊れたうめき声だけだった。小夜は凍りついた。しばらくして、ようやく理解した。声が、出ない。言葉の出し方を忘れてしまったかのように。胸の奥が、重く息苦しく塞がっていく。彰もすぐに異変を察した。ナースコールの応答すら待たず、自ら病室を飛び出して医者を連れてきた。診察を終えた医者は、静かに首を振った。「心因性の失声です。薬では改善しません。ご本人の中で整理がついて、心のつかえがほどけるのを待つしかないでしょう。感情に大きな波を起こさないよう安静にしていれば、いずれ自然と声は戻るでしょう」医者が去った後、病室に重い沈黙が降りた。はじめは少し取り乱していた小夜も、今は不気味なほど静かだった。声を出そうとする衝動を諦め
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第448話

――ただ……小夜はスマホに短い文字を打ち込み、傍らにいる彰に見せた。【どうしてこんなに早く火葬したの?通夜も安置も、まだだったんじゃないの?】いくらなんでも、早すぎる。数日前にローマで事件が起きた後、彼女は気を失った。次に目を覚ました時には、すでに国内の病院に戻っていた。彰の話によれば、コルシオの残党が引き続き彼らを狙ってくる危険があり、海外は敵の縄張りであるため、ヘリコプターを手配して最短ルートで帰国したのだという。今日退院してここにやって来たのは、最後にもう一度だけ、圭介の顔を見たいと思ったからだった。だが到着して聞かされたのは、遺体はすでに荼毘に付されたという残酷な事実だった。「旦那様のお父様のご意向です。旦那様のお母様のお耳に入る前にできる限り早く葬儀を終わらせ、この事態を速やかに収束させたいと、そうお考えのようです」彰は静かに説明した。小夜は口を噤んだ。――そうか。佳乃はまだこのことを知らないのか。当然、今回の葬儀にも出席しないだろう。……だが、これほど重大な事実をいつまでも隠し通せるはずがない。ましてや、彼女がお腹を痛めて産んだ息子なのだから。とはいえ、長谷川家を揺るがす異常事態だ。それも仕方のないことなのかもしれない。心の中で深くため息をつきながら、彼女は向き直った。黒い喪服の裾を翻し、純白の骨壺を胸に抱いて、火葬場の外へと大股で歩き出す。だが、外に出た瞬間。無数のカメラのレンズが、一斉に彼女へと向けられた。強烈なフラッシュが目を刺す。思わず目を閉じて顔を背けた瞬間、小夜は無意識に胸の骨壺を強くかばっていた。心の中に、強烈な怒りが沸き起こる。――ハイエナのようなマスコミども。こんな場所にまで嗅ぎつけてくるなんて!「高宮さん!あなたが長谷川代表と結婚して七年になるという噂は事実ですか!」「先日の海外での暴動事件で、あなたと長谷川代表の姿が撮影されています!拉致された妻を助けるために現場へ向かったと言われていますが、その『妻』とはあなたのことなのですか!」「高宮さん、長谷川代表がこれまで結婚の事実を隠していた理由を教えてください!」「以前、相沢家で隠し子のスキャンダルが出た際、長谷川代表は相沢家を強く支持し、多額の株式を譲渡するという派手な行動に出ました。あれは婚姻
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第449話

――私は今、ここで何をしているのだろう。 ――圭介の、葬儀に出ている? あれほど強く、すべてを手中に収めていたあの男が、こうして冷たい土の下に眠っているだなんて……まるで、悪い冗談だ。 白い花が、静かに墓前へと供えられていく。 黒い喪服の小夜が、白い花を手に墓前に佇む――その姿は一枚の写真に切り取られ、「圭介が七年もの間、密かに結婚していた」という衝撃の事実と共に、一夜にして世間を駆け巡り、大騒ぎとなっていた。 だが、当事者であるはずの小夜は、何も感じていなかった。 葬儀を終え、再発行したSIMカードを挿したスマホの電源を入れると、大量の通知が画面を埋め尽くした。その中には、離婚申請が取り下げられたという通知もあった。小夜がひそかに国外へ出た翌日、圭介が自ら手を回して撤回させたものだった。 ――もう、どうでもいいことだ。 圭介が、もうこの世にいないのだから。 車窓を流れ去る景色をぼんやりと眺めながら、小夜はふと思い出した。つい少し前、あの男と何度も激しく言い争ったこと。感情の抑えが利かなくなり、「死んでしまえ」と口走ったこと。――まさか、それが本当になるなんて。 ――私はただ、自由がほしかっただけだ。誰かを死なせたかったわけじゃない。なのにどうして、物事はいつも望みとは逆の方へ転がっていくのだろう。 ――今、私は本当に、自由になったのだ。 ――笑って喜ぶはずだった。なのにどうして、声ひとつ出ないのだろう。 ――すべての声が消えてしまったようだ。 …… 夕暮れ時。車が長谷川邸に到着した。 ついてこようとする彰を手で制し、小夜は深く息を吸い込んだ。そして、かつて七年を過ごした――ひどく馴染み深いはずなのに、今はどこかよそよそしく感じられる邸宅へと足を踏み入れた。 家政婦の千代が、赤く腫らした目で出迎えてくれた。 「奥様……」 小夜は静かに首を振り、彼女の言葉を遮った。階段をゆっくりと上がり、樹の部屋の前で足を止める。 そっとドアを開ける。 中は暗かった。明かりはついていない。 耳を澄ますと、ごく小さな、押し殺したような泣き声が聞こえてきた。小夜は部屋に入り、背中で静かにドアを閉めた。闇がいっそう濃くなる。 記憶を頼りに、手探りで常夜灯のスイッチを入れる。 淡いオレンジ色の
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第450話

夜が更けていた。 泣き疲れてうとうとと眠りに落ちた樹は、小さな手で小夜の黒い喪服の裾をきつく握りしめたままだった。青白い頬には、まだ生々しい涙の跡が残っている。 残った力を振り絞って樹をベッドへ運び、後回しにしていた葬儀の事後処理に取りかかろうとした。だが、裾を握る小さな指がびくともしない。悪い夢でも見ているのか、樹は目を閉じたままぽろぽろと涙をこぼし、かすかに唇を動かした。 「パパ、ママ……いかないで」 その姿にしばらく黙り込んだ後、小夜はパソコンを手元に引き寄せた。樹に裾を握らせたまま、ベッドのヘッドボードにもたれかかり、彰から送られてきたファイルをひとつずつ開いていく。 すべて、遺言に関する書類だった。 この時初めて知った。圭介が、かなり前から遺言書を用意していたことを。彼の死後、彼名義のすべての事業と株式は小夜に帰属し、樹の取り分も成人までは彼女が管理・代行する。 つまり今の小夜は、長谷川グループ本社において、筆頭株主として絶大な議決権を握っている。 病院で目覚めた時に、彰が傍にいたのもそれが理由だった。圭介亡き今、彼が最も信を置き、グループ内でも大きな発言力を持つ彰が、小夜を全力で支え、新体制の座を盤石にする――それが圭介の遺した絶対の指示だった。今後、彰に対する直接の指揮権は彼女に移る。 まるで、自分の死を見越していたかのようだった。 あの男は、すべての道筋を完璧に整えていた。受け入れさえすれば、小夜は何の障害もなく巨大な権力を手にし、これまでの立場を根底から覆すことができる。 本当の意味で、誰も手出しできない権力者になれる。 だが同時に、それを受け入れれば、小夜は生涯「長谷川家」に縛られることになる。何をしようと、どこへ行こうと、「長谷川夫人」の肩書は二度と外せない。頭の先からつま先まで、圭介の影が一生刻まれ続けるのだ。 あの男は死んでなお、こんなにも鮮やかに、自分の人生に居座り続けている。どこまでも、頑固で恐ろしい人だ。 何と言えばいいのかわからなかった。喪服の裾を握りしめたまま不安げに眠る樹の髪をそっと撫で、小夜は再び画面に目を落とした。遺言書に添付された、すべての個人資産ファイルを順に追っていく。 ――ポインタが、見覚えのあるアカウント名の上で止まった。 【夢路】 この名前に
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