All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 451 - Chapter 460

462 Chapters

第451話

赤いシルクハットをかぶった、ころんと丸い小さなブリキのロボット。ある賭けがきっかけで、「空に浮かぶお月様を摘み取ってみせる」と大見得を切り、えっへんと胸を張って家を飛び出した。それが、世界を巡る冒険の旅の始まりだった。 旅の途中、ロボットはたくさんの人と出会い、彼らに降りかかる不幸を知った。そして英雄のように現れては、出会った人々を苦しみから救っていく。家族からの虐待、愛する者からの裏切り、そして別離…… 描かれている数々の苦難を、小夜は嫌というほど知っていた。 漫画の中で救われる人々は、すべて彼女自身の過去の影だったのだ。空から降ってきた小さなロボットは、暗い部屋に閉じ込められ、飢えと暴力にさらされている少女を助け出し、食事も与えずに殴りつける身内を追い払った。 そして長い間そばに寄り添い、新しく温かい家が少女を受け入れるのを見届けてから、またえっへんと胸を張って去っていく。 去り行く背中に、少女は心から祈った。 ――あなたならきっと、お月様を摘み取れるわ。 また別の場所で、ロボットは家の者に無理やり花嫁輿に押し込まれた娘に出会った。輿のそばを通りかかった時、中から声にならない泣き声と、助けを求める気配を感じ取ったのだ。ロボットは婚礼の場に乗り込むと、命と金を賭けた大勝負の末、二十億円で娘の自由を買い取った。 自由になった娘は、心から祈った。 ――あなたならきっと、お月様を摘み取れるわ。 やがてロボットは、ある古い城の前を通りかかった。城の主に道を尋ね、立ち去ろうとした時、地の底から女の泣き叫ぶ声が聞こえた。迷うことなく地下牢へ飛び込むと、そこには冷たい鎖で繋がれた女がいた。 ロボットは女の悲痛な声に応え、城の主を打ち倒して、彼女を暗い地下から連れ出した。 光を浴びた女は、ロボットの冷たいブリキの身体にそっと口づけをし、心から祈った。 ――あなたならきっと、お月様を摘み取れるわ。 そしてロボットは、一人の美しい顔立ちの男に出会った。男は言った。 「俺はある女を愛して、結婚した。だが、彼女の心には別の男がいる。それが憎い。けれど、どうしても手放したくはない。そして何より……俺のこの愛を、彼女に知られたくはないんだ」 さすがの小さなロボットにも、どうしたらいいかわからなかった。 今度ばかり
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第452話

小夜は、長い間、我に返ることができなかった。 これは単なる冒険漫画なんかじゃない。ここに綴られているのは、小夜の人生そのものだった。彼女と圭介の過去をなぞり、立場を逆転させた物語。彼女の過去のすべての悲劇が、この漫画の中では救済されていたのだ。 それは現実であり、同時に現実ではない。 現実と違う部分はすべて、あの男の「こうあってほしかった」という切実な願いだった。激しく求めながら深く悔い、悔いながらもまた求める。あの人自身の不器用な生き方のように、初めから終わりまで矛盾だらけだった。 読み終えた小夜の心に残ったのは、荒涼とした虚無感だけだった。 どんな感情を抱けばいいのかもわからないまま、小夜はページを閉じようとして、何気なくさらに下へスクロールした。そして、ぴたりと手が止まった。あの墜落のコマで終わりではなかったのだ。 数日前、あの惨劇の宴の前夜に、本当の最後の更新がされていた。 …… 翼が砕け散る。 小さなロボットは、暗い空から墜ちていった。 すさまじい勢いで海面に叩きつけられ、水面に映っていた美しい月を粉々に砕いて、夜の闇に染まった黒い海に呑まれ、深海へと沈んでいく。 冷たい波間に揺られながらロボットは見た。粉々に砕けた月が、揺れる海面で再び一つに姿を結んでいくのを。その瞬間――はっと悟ったのだ。 月は、ずっと自分のそばにいたということに。 ひとりきりで眠る夜も、月の光はいつも自分を優しく照らしていた。過酷な冒険で傷だらけになったブリキの身体を、まばゆいほどに包み込んでいた。たとえ厚い雨雲が空を遮った夜でも、必ずどこかから一筋の月光がこぼれ落ちてきていた。 空の月を追いかけ、月を摘みたいと狂おしく焦がれ続けた長い道のりの中で、月はずっと傍にいてくれたのだ。自分は最初から――月に、深く愛されていたのだと。 けれど、気づくのがあまりにも遅すぎた。 ロボットはどこまでも深海へと沈んでいく。完全な暗闇に呑まれる、その最期の瞬間。海面で揺らめく月光がふいに集まり、ひとりの女の輪郭を結んだ。顔はおぼろげだが、その髪にはレモンの花がいっぱいに飾られている。ロボットは最後の力を振り絞り、月光に向かって、月を追い続けた生涯で一番伝えたかった言葉を口にした。 それは、ロボットがずっと、月に伝えたかった言葉
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第453話

一年後。帝都空港。 VIPゲートの出口。隙のないスーツ姿の男が、背筋を真っ直ぐに伸ばして前方を見据えていた。 彰だった。 五分ほど待つと、ゲートの奥から女性の明るい笑い声が近づいてきた。やがて、ふたつの人影が姿を現す。 彰は無意識のうちに姿勢を正した。 ゲートから出てきたのは、二人の女性だった。小柄な方がにぎやかに何かを喋り続けており、笑い声の主はどうやら彼女のようだ。だが、彰の視線は一瞬にして、その隣を歩くもう一人の女性に吸い寄せられた。 洗練された目鼻立ちに、すらりと高い背。張りのある黒のスラックスが長い脚を包み、白のサテンブラウス越しの細い腰を、黒のレザーベルトがきゅっと絞っている。 その上にショート丈のジャケットを無造作に羽織った、端正なブリティッシュスタイル。エレガントでありながら、一切の隙がない。唇にほんのかすかに浮かんだ笑みが、彼女の放つ冷ややかなオーラをいっそう際立たせていた。 たった一年で、彼女はまるで別人のように生まれ変わっていた。 「……社長」 彰が進み出た。 「桐生さん、お久しぶりです!」 笑い声の主である小柄な女性――中野奈々(なかの なな)が、彰の姿を認めてパッと目を輝かせ、嬉しそうに声をかけた。 彰は軽く頷くだけで応じた。 自分に向けられた視線を感じ、小夜はわずかに眉をひそめた。唇の笑みをすっと消し、素っ気なく顎を引くにとどめる。 この一年、業務で頻繁に顔を合わせてきたにもかかわらず、小夜はどうしても彼に対して壁を感じていた。 だからこそ、珠季の勧めに従って専属の秘書を雇い、間にワンクッション置くことで彰との直接的なやり取りを減らしていたのだ。それが奈々である。 それでも、完全に避けることはできない。 イギリスから帰国している間は、長谷川グループのトップとして、どうしても彼と顔を突き合わせる必要があった。 迎えの車に乗り込む。 運転席の彰が、後部座席へタブレットを差し出した。「本日の役員会の議題をまとめてあります。お目通しを」 「雅臣さんは?」 小夜が尋ねたのは、グループのもう一人の大株主のことだ。 現在の長谷川グループを実質的に支えているのは、小夜と雅臣の二人だった。そうでなければ、巨大な帝国を背負いきれるはずもない。小夜が気を配るべき場所
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第454話

長谷川グループの経営だけではない。珠季の指導のもと、小夜は少しずつ「スプレンディド」のマネジメントも引き継ぎ始めていた。 その重圧は、想像を絶するものだった。 幸い、彼女はもう一人ではなかった。 …… 電話が繋がった。 小夜の少し冷ややかだった顔に柔らかな光が差し込み、声も自然と優しくなった。「大叔母様。無事に着いたわ」 「そうか」 珠季の口調は少し硬かった。「いつこっちへ戻るんだ?」 珠季は長谷川家を毛嫌いしており、小夜が未だに関わりを持ち続けていることを快く思っていなかった。あの憎き男が死んだからといって、たとえ莫大な遺産が残されようと、本当なら小夜にそれを継がせる気などなかったのだ。 珠季自身も、小夜に十分な財産と地位を与えてやれるのだから。 彼女から見れば、あの遺産などただの足枷であり、小夜の貴重な時間を奪うだけの代物にすぎない。 姪孫である小夜がどれほどの地獄を味わったか、珠季は決して忘れてはいない。だが、元凶である圭介はすでにこの世を去っている。小夜自身の決断に対し、珠季がそれ以上強く干渉することはなかった。 死んでしまえば、どんな罪も追及のしようがないのだから。 「すぐよ。いつも通り、一週間くらいで戻れると思うわ」 珠季の心にある棘を理解している小夜は、長谷川家の話題にはあえて触れず、できる限り早く戻るという約束だけを伝えた。 短い報告を終え、通話が切れる。 車はすでに、緑豊かな敷地内へと滑り込んでいた。統一されたデザインの赤い六階建てのビル群が、中央にそびえ立つ超高層ビルを囲むように配置されている。ここが長谷川グループの本社中枢だ。周囲の低層ビルは、それぞれ部署ごとの機能を集約している。 一年前までは見慣れぬ風景だったが、今では隅々まで熟知していた。 車を降りる。 小夜は迷いのない足取りで中央のメインビルへと入り、指紋認証で役員専用エレベーターを開くと、一気に最上階の役員会議室へと向かった。 …… 本日の予定は役員会議である。 この会議室に座ることを許されているのは、グループの株式を保有する役員たちのみだ。筆頭株主である小夜が、静かに上座へ腰を下ろす。 それを合図に、会議が始まった。 進行は迅速だった。長谷川グループの主力事業は重工業であり、すでに
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第455話

それが今日、隆栄の口から突然持ち出された。 しかも、一千億円もの予算をつけてプロジェクトを立ち上げるという。役員たちは押し黙り、上座で表情ひとつ変えない小夜をちらちらと窺うばかりだった。 隆栄はプロジェクト計画書をスクリーンに映し出し、自動化の研究がいかに長谷川グループの未来にとって不可欠かを淡々と説明し始めた。そして、これは前代表である長谷川圭介がかねてより構想していたものであり、いわば「遺志」でもあると付け加えた。 彼はまっすぐに小夜へ目を向けた。 「このプロジェクトの重要性は、社長にもご理解いただけるはずです。大型の工業設備にスマート管理システムを導入し、機器の故障予測から保守、部品の消耗削減、リスクの予見、そして安全性の向上に至るまで――グループにとって、計り知れない利益をもたらします。 外部との技術提携という選択肢もありますが、やはり自社の開発部門に勝る機密性と信頼性はありません。どうか、個人的な感情は脇に置いて、合理的なご判断をいただきたいです」 明らかな当てこすりだった。 だが小夜は、涼しい顔でかすかに笑っただけだった。 「個人的な感情?岸本取締役は、ずいぶんと私の内情にお詳しいのですね。私自身、この件にどのような私情が絡んでいるのか、まったく心当たりがないのですが。よろしければ、皆さんの前で具体的にご説明いただけますか」 隆栄はぐっと眉根を寄せた。 愛人のゴシップなどという下世話な話を、この厳粛な場で口にできるわけがない。確証もないのだ。だが、彼には到底理解できなかった。この一年、ヴァルテックが上げてくる案件を、なぜ彼女はことごとく潰してきたのか。審査を通ったものはほとんどない。 たしかに問題のある計画もあった。だが、まったく欠陥のないものまで無慈悲に否決されている。そこに彼女の「個人的な感情」が混じっていない証拠など、どこにもないではないか。 「岸本取締役」 小夜が、静かに口を開いた。 「私も以前は、技術畑で生きてきた人間です。おっしゃる自動化技術、その構想自体は決して悪くありません。ですが、ヴァルテックの現行の技術チームを精査した上で申し上げます。構想は良くとも、彼らの開発力がまったく追いついていない。長谷川グループ全体のスマート化を担えるだけの水準には達していないと判断しました。
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第456話

小夜はグループの業務を片付けた後、本家の佳乃を見舞う前に、まず霊園へと足を運んだ。 空は、重く暗い雲に覆われていた。 誰の同行も許さず、彼女は車を降りてひとりで霊園の小道を進んでいく。手にした白い花を墓石の前に供え、しばし無言で立ち尽くした。それからゆっくりと腰をかがめ、墓石の埃を指先でそっと拭う。 切れ長の瞳に、鋭く妖しい光を湛えたあの男。あの顔が脳裏に浮かぶ小夜の表情は、凪いだ水面のように静かだった。 「一日、遅れたわ」 昨日が命日だった。あえて来なかった。わざと一日ずらしたのだ。 彼女は独り言のように、小さな声で続ける。 「あなたは私の人生の中で、何度も遅れてきたでしょう。いつも少しだけ遅くて……だから私も、少し遅れることにしたの。これからはもっと遅くなるわ。そしてそのうち……来なくなるかもしれない。不満でしょうけど、我慢してちょうだい」 もっとも、怒ったところで、もうこちらには届かないのだけれど。 小夜はゆっくりと背筋を伸ばし、ふっと口元をほころばせた。 「帰るわね。来年、また来る。来ないかもしれないけど。ここまでの道は歩きにくいし、この季節は湿気がひどいし…… それに、死んだ人より生きてる人のほうが大事だから。あなたなら、わかってくれるわよね」 言い終えると、小夜の唇の笑みがふっと薄れた。 まるで強がる子供のような自分の幼稚さに呆れたのか、小夜は小さくかぶりを振って踵を返した。そのまま振り返ることなく、霊園の出口に向かって歩いていく。 その華奢な姿が遠く小さくなった頃―― 墓の裏手の木立から、ひとつの影が音もなく姿を現した。長身の男だった。しなやかで力強い手が、墓石の上にそっと置かれる。 黒いロングコートの裾が、冷たい風にゆるく翻っていた。 …… 長谷川本家。 ガラス張りの温室のドアを開けると、中で小さなスコップを片手に草花をいじっている佳乃の姿があった。 役員会議の席で冷たく張り詰めていた小夜の目元が、ふわりとほどける。小夜はわざと少し足音を立てて近づき、振り返った佳乃にやわらかく声をかけた。 「お母さん」 「小夜ちゃん!帰ってきたのね!」 佳乃は子供のような無邪気な笑顔を弾けさせ、スコップを放り出すと、泥だらけの手も気にせず飛びついてきた。 一年前、あの島で
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第457話

夕食を終え、小夜はしばらく佳乃に付き合って他愛のない話をした。やがて佳乃がうとうとと微睡み始めたのを見届けてから、そのまま雅臣のいる書斎へと向かった。 …… 「お母さんに、何があったんですか」 小夜は眉間に深い皺を寄せていた。「様子が変です。どう見てもおかしいですよ」 「記憶だ。記憶に障害が出始めている」雅臣の顔には、隠しきれない深い疲労が滲んでいた。眉間を指で揉みほぐしながら、重いため息をついた。 「私も、先週になってようやく気づいたんだ。毎朝目を覚ますたびに、少しずつ何かを忘れている。記憶も心も、ゆっくりと退行しているんだ」 「そんな……」小夜は絶句した。「今は、どの頃の記憶まで戻ってるんですか」 雅臣は力なく答えた。「十八歳になる前の状態だろう。正確な年齢まではわからないが」 「待ってください」小夜は納得がいかないように首を傾げた。「おかしくないですか?さっき、私のことはちゃんとわかってましたよ」 「それが私にもわからないんだ」雅臣自身も、同じ疑問を抱えていた。「この一週間、医師と一緒に佳乃の記憶を慎重に探った。多くのことを忘れている。私との結婚も、圭介を産んだことも……だが、なぜかお前のことだけは鮮明に覚えているんだ」 雅臣と佳乃は幼なじみであり、早くから付き合い始め、成人してすぐに婚約した。今の佳乃の記憶はまだその頃に戻っているため、彼を「恋人」だと思っており、拒絶されることだけはなかった。 だがそれでも、夫としてはやはり堪えるものがある。三十年以上連れ添った自分との記憶が消えつつあるのに、数年前に嫁いできた小夜のことだけは、彼女の中に強く根付いているのだから。 小夜は黙り込んだ。 圭介の死後、小夜が最も警戒してきたのは、決して表舞台に姿を現そうとしないコルシオだった。この一年、なぜ彼らが動かなかったのかはわからない。こちらの厳重な警備が功を奏したのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。 それでも、いつ暗闇から現れて佳乃を傷つけるか――その恐れはずっと小夜の胸の底に巣食っていた。 けれど今、コルシオが動くより先に、佳乃の精神はここまで崩れてしまっていた。以前はトラウマで感情の波が激しくなるだけだった。だが今は、記憶の土台そのものが崩れ始めているのだ。
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第458話

少しは懲りてほしい。 あれほどの惨劇を経験したというのに、まだ教訓が足りないというのか。 「どうして急に、留学なんて?」小夜は怪訝そうに尋ねた。「どこへ」 「イギリスだ」雅臣は淡々と答えた。 小夜は絶句した。 「お前がしばらく国内に留まるわけにはいかないのか」雅臣もお手上げといった様子でぼやいた。「お前さえここにいれば、佳乃が海外へ行きたいなどと言い出すこともないだろうに」 佑介の留学については、これ以上一言も触れようとしなかった。 長谷川家のこのいびつな親子関係にはとうに慣れていたから、小夜も今さら驚きはしない。 だが、やはり静かに首を振って応えた。「大叔母様のそばにもいなければなりませんし。それに……大叔母様は私が国内に長く留まることを、あまり良く思っていませんから」 ――正確には、小夜が「長谷川家」と関わり続けることを良く思っていないのだろう。 雅臣にはわかっていた。だが、どうしようもない。珠季と長谷川家の折り合いが悪いのは昨日今日に始まった話ではなく、もう七、八年にもなるのだから。 ――あの馬鹿息子め。いなくなった後まで、こんな厄介ごとを残していきおって。 …… 書斎を出た後、雅臣の言葉が引っかかっていた小夜は、やはり気になって佑介に電話をかけた。すぐに繋がった。 「お姉さん?」 小夜は回りくどいことはしなかった。「留学したいって、本当?」 「……今、本家にいるんですか?」 「ええ」 「……はい、行きたいです」 佑介は声を落として続けた。「お姉さん、前に約束したじゃないですか。お姉さんがイギリスに行ったら、僕も追いかけるって。それなら、留学がいちばん自然でしょう?」 そこで、声のトーンがさらに沈んだ。 「それに、お姉さん。僕はずっと先生と籠もって数学の研究をしていて、お姉さんがあんな目に遭っていたなんて全然知らなかったんです。 ……もう少しで、もう二度と会えなくなるところだったんですよ。お姉さんが一人で海外にいるなんて、心配で仕方ないんです……僕にはもう、お姉さんしか家族がいないんですから」 ――違う。あなたには、佳乃と雅臣がいる。 小夜はそう否定しかけて、さきほどの雅臣の突き放すような態度を、そして佳乃の消えゆく記憶を思い出し、口
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第459話

鉛色の空から、糸のような細い雨がしとしとと降り続いている。 陰鬱な風景の下、鮮やかなオレンジ色のベントレー・コンチネンタルが、大通りを滑るように走っていく。後部座席では、柔らかなベージュのニットワンピースに身を包んだ小夜が、目を閉じて深く背もたれに体を預けていた。 ふいに、スマホが震えた。 数日続く激務で、小夜の疲労は限界に近かった。画面を確認する気力すらなく、反射的に応答する。聞こえてきた声に、小夜の眉間がすっと寄った。ゆっくりと身を起こす。 「相沢さん?」 この女が、わざわざ電話をかけてくるとは。 今度は何のつもりだ。 少し考えて、小夜は通話を切らないことにした。素っ気なく応じる。「……何の用かしら」 「私の計画書を否決したのね?」電話越しの声は、小夜以上に冷え切っていた。 小夜は不思議でならなかった。かすかに眉を上げ、率直に問い返す。「それが、そんなに意外なこと?」 相手はしばし黙り込み、やがて冷ややかに言った。「あの計画書に、問題はなかったはずよ」 「ええ」 小夜はあっさりと認めた。「着想は悪くないわ。でも、今のあなたの技術チームでは、あのプロジェクトは支えきれない。それに、計画書の穴は自分でもわかっているでしょう。それとも、もっとはっきり言ってあげた方がいいかしら」 「……っ」 若葉は歯を食いしばるようにして言った。 「高宮。私の計画書は完璧よ。あなたはただ、私を狙い撃ちにしているだけじゃない! 忘れないで。ヴァルテックは、圭介が周囲の反対を押し切ってまで立ち上げた会社よ。あの人の情熱であり、心血そのものなの。今回の計画書だって、彼の遺志に沿って作ったわ。あなたはあの人を死なせておきながら、今度はその残した心血まで潰すつもり!? プロジェクトの申請を意地悪く止めさえしなければ、十分な資金で優秀なチームを引き抜ける。プロジェクトは絶対に成功するわ!」 小夜は黙った。 正直なところ、若葉という人間がさっぱりわからない。この一年、小夜も雅臣も圭介の死が残した山のような後始末に追われ、ヴァルテックにまで気を回す余裕などなかった。 ところが、設立間もない子会社が、最大の後ろ盾を失ったにもかかわらず、若葉があちこち手を回してどうにか立て直してしまったのだ。彼女に確か
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第460話

「まだ、言い足りないかしら」 小夜は淡々と続けた。「あの計画書は、ただの絵に描いた餅よ。今のあなたの技術水準で、あんな最終収益目標を達成するなんて夢物語もいいところ。相沢さん、誰もがあなたと同じ思考回路だと思わないで。仕事は仕事よ。計画書に本当に問題がないのなら、役員会で圧倒的多数で否決になんてならないわ。……それから、ヴァルテックの株式の買い戻しについて、私が提示した条件は今でも有効よ。金額も――」 「あり得ないわ!」 若葉が、氷のように冷たい声で遮った。 「高宮。ヴァルテックは、圭介が私にくれたものよ。契約は正式に成立している。あれは私の会社なの。絶対に手放さないわ」 …… 一方的に電話が切れた。 どう考えても理解できない。小夜はスマホを無造作に隣のシートへ放り出し、心の中で深くため息をついた。背もたれに体を預け、そっと目を閉じる。 「着きました」 車が、繁華街の一角にひっそりと佇む茶室の前で停まった。彰が先に降りて後部のドアを開ける。「お供しましょうか」 「いいわ」 小夜は小さく首を振り、ひとりで茶室へと向かった。引き戸を開けると、風鈴がちりんと涼やかな音を立てる。 その音が消えるか消えないかのうちに、車のそばに残った彰がふと視線を上げた。二階の掃き出し窓の前に、青竹のようにすらりとした男が立っている。視線が絡んだ。いつも淀んだ水底のように凪いでいる彰の瞳に、かすかな波が立つ。 ――青山だ。 階上と階下、窓越しに二人の男が静かに向かい合う。どちらも表情ひとつ動かさず、どちらも決して目を逸らさなかった。 茶室の扉が、ふたたび鳴るまで。 青山はゆっくりと窓際から振り返った。さきほどまでの無表情が嘘のように消え去り、穏やかな笑みを浮かべて入り口へ歩み寄る。 「ささよ、来てくれたね」 「ええ」 柔らかなベージュのニットワンピースが、女性らしいしなやかな輪郭を描いている。仕事の場で常に張り詰めていた小夜の目元が、この男の前ではほんの少しだけほどけ、穏やかな笑みに変わった。 落ち着いた茶室で、二人はテーブルを挟んで腰を下ろした。青山は手慣れた優雅な所作で茶器を扱い、澄んだ黄金色のお茶を一杯淹れて差し出す。そして、ふっと笑った。 「ささよに会うのも、すっかり難しくなったな
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