Se connecterいや、まさか。樹は決して黙ってやられっぱなしになるような性格ではない。認めたくはないが、樹は圭介によく似ている。外見だけでなく、決して損な役回りを引き受けない負けん気の強さまで、そっくりそのまま受け継いでいるのだ。本当にいじめられているなら、絶対に黙っているはずがない。ということは、今回が初めてなのだろうか。推測を重ねても不安が募るだけだ。小夜は彰に急ぐよう促し、まずは学校へと急いだ。……陽光小学校にて。小夜が医務室に入ると、部屋の中の凄惨な光景に思わず足が止まった。担任によって引き離されている二人の子供は、どちらも顔が青や紫にひどく腫れ上がっている。「ママ!」姿を見るなり、樹は口から舌足らずで不明瞭な声を上げながら飛びついてきた。彼女の腰に抱きつき、わあわあと大声で泣き崩れる。「ママ、あいつらが僕をいじめたんだ!殴られて、歯まで折れちゃったよ!」その言葉を聞いた瞬間。事情を尋ねる余裕など吹き飛び、小夜は慌ててしゃがみ込んだ。青あざだらけの無残な樹の顔を、恐る恐る両手で包み込む。泣叫ぶために開かれた口からは、確かに上の前歯が一本欠けており、唇には血が滲んでいて、言葉も隙間から漏れていた。見る間に、彼女の胸の奥で怒りが燃え上がった。なんてひどい手出しをするの!「あの、樹くんのお母様、事情の経緯は……」傍らにいた女性の担任が気まずそうに説明しようとした矢先、ドアがバンと音を立てて乱暴に開かれた。少し遅れて車で学校に到着した隆栄が、怒りを露わにして、二人の屈強なボディーガードを従えて踏み込んできたのだ。「私の息子はどこだ!」「パパ、うわあああん!」同じく顔を青く腫らした澄人が、ずっと静かに涙を拭っていたものの、隆栄の顔を見た途端に堪えきれずに大泣きし始めた。樹よりも大きな声で泣きわめきながら、告げ口をする。「パパ、長谷川が僕を殴ったんだ!それに、僕のことを馬鹿にした!」「嘘だ!お前たちが僕を馬鹿にして、殴ったんだ!僕の歯まで折ったくせに、嘘をつくな!」樹はさらに声の限りに叫び、小夜の手を強く握りしめた。「ママ、あいつらが僕をいじめたんだよ、うわあああん」一瞬にして、医務室は、二人の泣き叫ぶ声で埋め尽くされた。お互いに声を張り上げ、全く事情が呑み込めない。双方の大人た
グループ本社、社長室。 デスクの上に置かれた新規プロジェクトの報告書と、若葉が提出したAI自動化技術の計画書にざっと目を通すと、小夜はそれを相手へ押し返した。目の前の隆栄を真っ直ぐに見据え、再び端的に断りをいれる。 「駄目ですよ。岸本さん、役員会でも何度も言ったはずですよ。このプロジェクトは、今の技術チームでは到底体制が追いついていません。計画書をいくら手直ししたところで根本的な解決にはなりません。資金を食いつぶすだけの穴になるのは目に見えています。……あなた、頭がどうかしましたの?会社のために他にやれることがないわけじゃないでしょう」 小夜の声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。 長年グループに貢献してきた大株主である人間だ。あまりきつい言い方はしたくなかった。けれど、ここまで頑なに話が通じないと、さすがにうんざりしてくる。 若葉はこの男に、いったい何を吹き込んだのか。 それとも、この男がただの馬鹿なのか。 「しかし社長、このプロジェクトの発想そのものが優れているのは事実です。将来性も計り知れません。機会さえ与えていただければ、十分に成功する可能性があります。もし初期投資が大きすぎると懸念されるのでしたら、まずは少額で立ち上げ、様子を見ながら段階的に……」 隆栄が食い下がりかけている、その途中だった。 彼の手元のスマホが震えた。取り上げてそのまま切ろうとした隆栄だったが、続けて届いたメッセージを見た瞬間、顔色がサッと変わった。小夜に「失礼」と一言だけ短く告げると、慌ただしく部屋を出ていった。 ようやく静寂が戻った。 秘書の奈々にデスクの上の書類を片付けさせながら、小夜はふと壁の時計を見上げた。もう少しで、樹を学校へ迎えに行く時間だ。 今夜はちょうどスケジュールが空いている。 樹を連れて外で食事でもして、どこかで遊んでから帰ろう。 しばらく、母親としてまともに相手をしてやれていなかった。せっかくの帰国なのだから、少しは埋め合わせをしてやらなければ。そう思って自分のスマホを取り出し、子供が喜びそうなイベント情報を調べようとした。 その時だった。 ドアが乱暴に開いた。隆栄が血相を変えて戻ってきて、小夜を憎々しげに睨みつけた。 「社長。私への当てつけのつもりか知らないが、私の提案を通したく
樹は突然飛びかかった。強烈な蹴り一発で澄人を地面に倒すと、そのまま馬乗りになって容赦なく拳を叩き込む。日頃から栄知のもとで厳しく鍛え上げられている体だ。周りの子供たちが慌てて引き剥がそうとしたが、まったく歯が立たず、逆に殴り飛ばされて悲鳴を上げながら逃げ散った。 二人がもみ合いになり、床を転げ回る。 澄人も負けん気が強かった。必死にもがいてデタラメに拳を振り回し、樹の体にぶつけながら怒鳴り散らした。 「長谷川!お前なんか父さんも母さんもいない、誰にも要らない子だろうが! 知らないのかよ!お父さんが死ななくたって、とっくに離婚してたんだよ!誰もお前なんか欲しくないんだ! 父が言ってたぞ、お前は誰にも要らないゴミで疫病神だって。お前が生まれたからお父さんが死んだんだって――がっ!」 その言葉を聞いても、樹の顔には驚きのかけらすら浮かばなかった。一言も発することなく、底知れぬ暗い目を向けたまま、黙々と拳を振り下ろし続けた。 鮮血が飛んだ。 すぐに、澄人は抵抗を諦めてうめき声を漏らすことしかできなくなった。 駆けつけた担任が、ようやく二人を力ずくで引き離した。医務室に連行すると、担任は声を荒らげた。 「樹くん、澄人くん!二人とも親を呼びなさい!学校で殴り合いなど、どういうつもりだ!」 鼻血まみれで顔を腫らした澄人は、薬を塗られながらもわめき散らし、担任の言葉を聞くなり喚き立てた。「呼べばいいだろ!長谷川、父が来たらただじゃ済まないからな!この親なし――いっ、痛い!先生もっと優しくしてよ!」 「澄人くん!」 担任は澄人の耳をきつく引っ張り上げ、また飛びかかろうとする樹を必死に押さえつけると、二人を別々の部屋に押し込んだ。 「樹……」 なだめようとした担任だったが、樹の底の見えない暗い瞳で睨みつけられ、言葉を失った。 「先生、出ていって。一人にして」 とはいえ、担任もそのまま放っておくわけにはいかない。 部屋を出てもその場を離れず、ドアの小窓から中の様子をこっそり見張っていた。 …… 部屋の中の樹は、異様なほど静かだった。 担任がいなくなったのを確かめると、腕のスマートウォッチを外し、彰に電話をかけた。子供とは思えないほど落ち着き払った声だった。 「桐生おじさん、僕、人を殴った。先生
パシッ。 雪が、翔の後頭部を容赦なくひっぱたき、冷え切った声で言った。「その言葉、誰に向かって言ってるの」 そして、再び視線を小夜へ向ける。「高宮。うちの出来の悪い息子が、あなたのことをずいぶん慕っているそうね。暇があったら、うちに遊びにいらっしゃい。これから――長くて深い付き合いになりそうだから」 彼女は紅い唇の端を吊り上げて微笑んだ。だが、その目の中は完全に凍てついていた。 それだけ言い残し、雪は背を向けた。 傍らの若葉が、小夜にちらりと冷笑を投げかけた。目の奥の悪意が、今にも溢れ出しそうだった。彼女もすぐに雪の後を追って歩き出す。 「雪さん、待ってくれよ」 残された翔は、ひどく居心地が悪そうに頭を掻いた。こんな騒ぎになってしまい、彼自身どうしようもなかった。「姉は、完全に誤解しているんだ。あとで俺からちゃんと話して、改めて謝りに伺わせるから……」 「……」 どう説明しろというのか。 説明で済む話なら、出所してからの半年間でとっくに済んでいるはずだ。今でもこんな態度を取るということは、雪は小夜が息子をたぶらかしたと本気で思い込んでいるのだ。小夜には、もう返す言葉もなかった。星文が実の母親を認識できない理由など、これだけ時間が経てば、雪自身がいちばんよくわかっているはずではないか。 ――もう、本当に勘弁してほしい。 小夜は深く息を吸い込み、胸の奥から湧き上がる苛立ちを無理やり押し込めて、淡々と訊ねた。「星文は最近どうなの?まだ、お母さんのことがわからないの?」 翔は気まずそうに頷いた。 昨年、出所したばかりの雪から引き離すため、翔は星文を海外にいる母親のもとへ送り、精神的な治療を受けさせていた。 だが、あまり効果はなかった。 ただ、向こうの環境のおかげで精神的にはいくらか落ち着いてきてはいたのだ。 少しずつ良くなると思った、まさにその矢先だった。雪が動いたのだ。星文になど一切興味がないと思っていたのに、出所して間もなく、彼女は海外まで星文を追いかけていった。だが星文は、雪を母親だと認めなかった。 現地で大騒ぎになった。 結局、彼らの母親がその騒動にうんざりして、雪と星文の二人をまとめて国内へ送り返してきたのだ。 「あのさ」 家の重苦しい状況を思い浮かべ、翔は少し
「あなたが、高宮小夜よね?」 低く鋭い、ひどく圧の強い声だった。小夜は一歩後ずさり、軽くぶつけた額をさすりながら顔を上げた。目尻にうっすらと赤みを差した、刃物のように鋭い目と視線が絡み合う。 女だった。 この華やかなレセプションの席で、口に細いタバコを咥えている異端の女。 背が高い。身にまとった深紅のパンツスーツが、寄せつけがたい冷気を放っている。鋭い目が値踏みするように、小夜を頭からつま先までゆっくりとなぞった。真紅のネイルを施した指に細いタバコを挟み、紫煙をくゆらせながら、ふっと顔を近づけてくる。息が詰まるような圧。彼女はもう一度訊いた。 「高宮小夜でしょう?」 「……ええ」 ふっと顔に煙が吹きかかった。決して不快な臭いではない。むしろ冷涼な薄荷の香りがする。それでも小夜は不快げに眉をひそめ、さらにもう一歩退いた。 タバコの匂いは嫌いだ。 どんなタバコであろうと。 「あなたは?」 この女に見覚えはない。今まで一度も会ったことがないはずだ。さきほど若葉が口にした「落ちぶれる姿を見に来た」という言葉が頭をよぎり、小夜の眉が寄る。 この尋常ではない気迫を持った女は、若葉の差し金か。 また面倒事か。 そう思った時、傍らから若葉が歩み寄り、女の深紅のスーツの袖を引いて、親しげに声をかけた。 「雪さん、いらしてたのね」 「ええ」 女は若葉をちらりと一瞥して短く応じると、すぐに視線を小夜へと戻した。その眉間に、うっすらと霜が降りる。タバコを挟んだままの右手が、小夜に向かってすっと差し出された。ごく静かで、凍りつくような声。 「初めまして。柏木雪。星文の母親よ」 小夜の思考が、一瞬ピタリと止まった。 ――星文の母親。夫の不倫に激怒し、ためらうことなく夫を殺害して、六年間服役していたあの女。 すでに出所していたのか。 いや――去年の時点で、もう外へ出ていたはずだ。自分が国内外を慌ただしく飛び回っていたから、会わなかっただけだ。まさか今日、こんな場所で出くわすとは。 小夜は無意識のうちに、さらにもう一歩下がった。 気のせいだろうか。冷たい薄荷の香りが鼻先を満たしているはずなのに、その奥に、どうしても拭い去れないねっとりとした血の匂いが漂っている気がした。 はっきりと確信した。
小夜が本気で怒っているわけではないと気づき、奈々は背後でようやくほっと息をついた。 けれど、その胸のうちは好奇心でいっぱいだった。 秘書として小夜のそばにつくようになってしばらく経つが、奈々から見れば、彰という男は絵に描いたような完璧な右腕だった。細かい指示を出さずとも、必要な時に必要な資料を先回りで揃え、代替案まで常に何パターンも用意してある。 あれだけ完璧に仕事をこなせる男がいるなら、自分のような若手の秘書をわざわざもう一人雇う意味などないはずだ。 実際、奈々の仕事は小夜と彰の間の「橋渡し」に過ぎなかった。 自分の秘書としての能力を活かす場面などほぼなく、たいていはただの伝言役だ。それなのに小夜は、明らかに彰を意図的に遠ざけている。 奈々に言わせれば、彰ほど優秀で、かつ忠実な部下はどこを探してもいない。 しかも、とんでもなく顔がいい。 オフィスに黙って立っているだけで目の保養になるというのに、小夜は彰を目の敵のように扱い、国内での社長室まで彼とは完全に分けているのだ。二人の間に過去に何があったのかは知らないが、そこまで彼を毛嫌いしているのなら、いっそ辞めさせてしまえばいいのに。 ――まあ、いいか。 大財閥には、大財閥の複雑な事情があるのだろう。 一介の会社員である自分が、深く首を突っ込む話ではない。 奈々はこっそり振り返り、風を切るように歩く長身の美男の姿をたっぷりと鑑賞してから、上機嫌で小夜の後を追った。 高い給料をもらえて、おまけにタダで極上のイケメンまで拝めるのだ。 文句なし、十分すぎる待遇だった。 …… レセプション会場。 会場に入った小夜は、グループと取引の多い重役たちとそつなく二言三言言葉を交わし、紹介された若手起業家にも型通りの挨拶を済ませると、適当な理由をつけて早々にその輪から抜け出した。 ウェイターから受け取ったシャンパンをひと口含み、何気なく視線を巡らせたところで、彼女の動きがぴたりと止まった。 ――まったく、いつまでも執着してつきまとう女だ。 「高宮さん。久しぶりね」金のフリンジが揺れる華やかなドレスをまとった若葉が、完璧な笑みを浮かべてゆっくりと近づいてきた。 「……」 小夜は素っ気なく返した。「昨日、電話で話したばかりでしょう」 「…
小夜は、頭が割れるように痛かった。耳に入ってくる言葉は遠く、視界も霞んでいる。全身が火のように熱く、指一本動かせないほど力が入らない。彼女が意識も朦朧と、顔を真っ赤にして黙り込んでいるのを見て、航は額に手を当てた。彼は「熱っ!」と叫ぶと、慌てて外へ飛び出し、この家の女主人を呼びに行った。小夜は高熱を出していた。ひとしきり大騒ぎして薬を飲ませると、彼女はようやく泥のように眠りについた。その眠りは苦しいものだった。混濁した意識の中で、小夜は夢を見た。ずっと昔に戻る夢だ。それは、彼女が圭介と初めて出会った時のこと。七年前よりも、もっと前のことだ。まだ大学に通ってい
小夜は、まだ状況がよく飲み込めていなかった。雨の中に飛び出したことまでは覚えているが、その後の記憶が曖昧だ。見知らぬ部屋の造り、着替えさせられた服を見て、当然ながら戸惑っていた。不思議に思っていると、突然ドアが開き、六、七歳くらいの少女が走り込んできた。二人は無言で見つめ合った。少女は声を張り上げた。「ママ、ママ!綺麗なお姉ちゃんが目を覚ましたよ!」少女は叫んだ後も出て行かず、駆け寄ってきて、物珍しそうに小夜を見上げた。黒目がちの瞳がくるくると動き、とても愛らしい。子供を見て、小夜は思わず笑みをこぼした。「お嬢ちゃん、ここはどこ?」「私の家だよ」少女は小首をかし
これは航が調達したものだ。小夜は、ガイドブックの赤いペンでなぞられたルートに再び目を落とした。帝都から「西の都」へ、そこから出発して国道317号線を通り、終点の「陽光の都」へ向かう。全行程、およそ五千キロメートル。ざっと計算してみたが、順調にいけば七日で到着できるだろう。地図帳を置くと、窓の外を飛ぶように過ぎていく春の景色を眺めながら、小夜の心にふと穴が空いたような感覚が訪れた。純粋な息抜きのために、こうして外の景色を眺めるのはいつ以来だろうか。思い出せないほど昔のことだ。あまりに多くの出来事が彼女の生活を埋め尽くし、息つく暇もなかった。物思いに耽るうち、眠気が
「進展はどうだ?」その質問は、しない方がよかった。それを聞いた途端、青山の顔から温度が消え失せた。常日頃の穏やかな表情が消え、初めて露骨な不満の色が浮かんだ。「君が以前教えてくれた、女性の気を引くための手段――金を使う、プレゼントを贈る、遊びに連れて行く。どれもこれも、全く役に立たなかったよ。よくもまあ、恋愛マスターなんて自称できたものだね」「はあ?」他のことならいざ知らず、その分野でケチをつけられては、宗介も黙ってはいられない。彼は青山の腕を掴むと、強引に外へと連れ出した。「待て待て、聞き捨てならないな。私の教えが間違っているはずがない。絶対にお前みたいな、脳







