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偶発の発見、触れた傷

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-26 17:31:00

大和はコンビニの袋をテーブルに置き、靴を脱いで部屋の奥へと足を進めた。高田は先にソファへ腰を下ろしていて、足元のルームライトの明かりだけが空間を照らしていた。室内は相変わらず整然としていて、しかしどこか無機質な冷たさが漂っていた。生活の形跡がほとんどない。モニタはすでにスリープに入っており、唯一動いているのは空気清浄機の微かなライトだけだった。

「キッチン、借りるな」

そう言って大和は奥へ向かう。言葉に返事はなかったが、高田の目線が一瞬だけこちらを向いたのが分かった。いつもは視線をそらすのに、今夜はほんの数秒、見ていた。表情は変わらず、けれど、そのまなざしはどこか…揺れていた。

大和がキッチンの手前を通ろうとしたとき、不意に高田の背中が目に入った。

照明の柔らかな光が、Tシャツ越しに浮かび上がる肩甲骨のラインを照らしている。その下、左肩のあたり。薄く、しかし確かに、傷が見えた。爪で引っ掻いたような形。すでに少し古く、赤黒く痕になっていた。

瞬間、大和の足が止まった。

「なあ、それ……誰にやられたん?」

声が出るまでに、わずかに時間がかかった。自分でも予想していなかった問いかけだった。けれど、口に出さずにはいられなかった。言葉が先に出た。

高田の体がぴくりと揺れる。背を向けたままの彼は、肩越しに少しだけ振り返った。その表情は薄暗くてよく見えなかったが、顔を伏せるようにして、低く呟いた。

「……前の恋人が、怒ると……よく、こうなってました」

言葉はまるで報告書の一節のようだった。抑揚がなく、感情も読み取れない。ただ、手元に置かれたタオルを指先で握るその手が、わずかに震えていた。

大和は息を呑んだまま、その場から動けなかった。胸の奥で何かがざわついていた。頭よりも、感情が先に反応していた。

「なんやそれ……俺、ムカついてきた」

絞り出すように声にしたその言葉には、自分でも驚くほど熱がこもっていた。怒りというより、憤りだった。高田がそんな目に遭っていたという事実。しかも

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    大和はコンビニの袋をテーブルに置き、靴を脱いで部屋の奥へと足を進めた。高田は先にソファへ腰を下ろしていて、足元のルームライトの明かりだけが空間を照らしていた。室内は相変わらず整然としていて、しかしどこか無機質な冷たさが漂っていた。生活の形跡がほとんどない。モニタはすでにスリープに入っており、唯一動いているのは空気清浄機の微かなライトだけだった。「キッチン、借りるな」そう言って大和は奥へ向かう。言葉に返事はなかったが、高田の目線が一瞬だけこちらを向いたのが分かった。いつもは視線をそらすのに、今夜はほんの数秒、見ていた。表情は変わらず、けれど、そのまなざしはどこか…揺れていた。大和がキッチンの手前を通ろうとしたとき、不意に高田の背中が目に入った。照明の柔らかな光が、Tシャツ越しに浮かび上がる肩甲骨のラインを照らしている。その下、左肩のあたり。薄く、しかし確かに、傷が見えた。爪で引っ掻いたような形。すでに少し古く、赤黒く痕になっていた。瞬間、大和の足が止まった。「なあ、それ……誰にやられたん?」声が出るまでに、わずかに時間がかかった。自分でも予想していなかった問いかけだった。けれど、口に出さずにはいられなかった。言葉が先に出た。高田の体がぴくりと揺れる。背を向けたままの彼は、肩越しに少しだけ振り返った。その表情は薄暗くてよく見えなかったが、顔を伏せるようにして、低く呟いた。「……前の恋人が、怒ると……よく、こうなってました」言葉はまるで報告書の一節のようだった。抑揚がなく、感情も読み取れない。ただ、手元に置かれたタオルを指先で握るその手が、わずかに震えていた。大和は息を呑んだまま、その場から動けなかった。胸の奥で何かがざわついていた。頭よりも、感情が先に反応していた。「なんやそれ……俺、ムカついてきた」絞り出すように声にしたその言葉には、自分でも驚くほど熱がこもっていた。怒りというより、憤りだった。高田がそんな目に遭っていたという事実。しかも

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   濡れた夜、思わず向かった先

    駅を出た瞬間、まだ地面には雨の余韻が残っていた。夜の気配に混じるような湿った風が、頬をかすめていく。空は濃い藍色に沈み、ところどころ街灯の光だけがぼんやりと滲んでいた。大和は傘もささずに歩いていた。右手にはコンビニのビニール袋、左手はポケットの中。袋のなかでは、冷えた弁当とカスタードプリンが揺れていた。本当は、まっすぐ帰るつもりだった。出張続きで疲れが溜まっていたし、上司からのメールも溜まっていた。けれど、電車を降りた足は、なぜかそのまま高田のマンションへと向かっていた。理由を考えるまでもなかった。どこか心の奥で“今夜は行かなあかん”と決めていた。連絡はしていない。来ると伝えてもいない。それが失礼なことは分かっていた。けれど、連絡を入れてしまったら、彼はたぶん断るだろうとも思っていた。あいつ、たぶん…今日、部屋で誰にも会わんまま、一日終えたんやろな。そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。なぜそんなことが分かるのか、自分でもよく分からない。ただ、そうであることに、抗えない確信があった。マンションの前に着く。エントランスの自動ドアが静かに開き、湿気を含んだ空気が一気に背中へと入り込む。エレベーターのなかでは誰にも会わなかった。人の気配がなく、音すら消えた箱のなかで、大和はコンビニ袋を持ち替える。プリンが中でころんと音を立てた。部屋の前に立ち、インターホンに指を伸ばす。押す直前、少しだけ躊躇った。何度目かの呼吸のあと、指先が静かにボタンを押す。チャイムの電子音が、どこかよそよそしく響いた。返答はない。少しの間、沈黙が続いた。やっぱり、あかんかったか…と思った瞬間、「カチャッ」と、小さな音がした。ゆっくりとドアが開いた。そこに立っていた高田は、濡れた髪をタオルで拭いたままの姿だった。パーカーのフードも被っておらず、いつもの無表情も、どこか緩んで見えた。目の下にかすかに影があり、頬にはまだ水滴が残っている。光に濡れた睫毛が、部屋の明かりに照らされて一瞬だけきらめいた。「……来るなら、言ってください

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   まだ定義されていない感情

    モニタがゆっくりと黒に沈んでいく。OSの終了音がかすかに鳴り、画面に反射していた高田の顔も、その光を失った。電源ランプが点滅を繰り返したあと完全に消えると、部屋は、微細な機械音すら失った完全な静寂に包まれた。高田は椅子から体を起こし、机の端に置いていた黒い手帳を手に取る。手帳の表面には、今日一日を通して熱を帯びた掌の跡が、わずかに湿り気として残っていた。紙の重みを感じながら、彼はベッドに向かう。スリッパを脱ぎ、静かに布団へと身を沈める。室内の照明は落とされ、わずかに開いたカーテンの隙間から、外の街灯が淡く差し込んでいた。輪郭を失った影が天井にうっすらと浮かび、その形を無意識に視線で追ってしまう。輪郭を持たないものに目を向けると、意識が内側へと引き込まれていくような感覚になる。高田はそのまま、手帳を胸元に抱えた。窓の外から、車が通り過ぎる音がした。遠くから響く雨音が、アスファルトを打つような一定のリズムで耳に届く。パソコンやサーバーの稼働音ではない、自然音。通常であれば、ノイズキャンセリングで遮断してしまう音たち。けれど今夜は、それらの小さな音が、なぜか心の奥に触れてくる。静けさのなかに、何かが満ちている。明確な輪郭を持たないそれが、呼吸とともに増幅していく感覚。手帳を開く指は、躊躇いがちだった。今日のページはすでに記入されていた。けれど、何かが足りない気がしていた。ログとしては成立している。定量的な記述、感情変化のプロセス、刺激と応答の因果関係。それらは整然と並んでいる。けれど、そこに答えはなかった。今日は“大和が来ない日”だった。それだけで、コードの処理効率が著しく低下した。視線が定まらず、呼吸が深くならず、食欲すら揺らいでいた。その一つひとつが、自分の内部リソースを奪っていった。if文で制御できない何かがあるということ。それが、こんなにも不快で、そして奇妙に心に残るという事実が、今も頭のなかで繰り返されていた。布団のなかで、手帳を閉じたまま目をつぶる。まぶたの裏には何も映らないはずなのに、黒の奥から浮かんでくるのは、大和の声だった。「うまい、って言ってくれて嬉しかったわ」

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   いない日

    高田は午後の光を遮るカーテンの隙間を見つめていた。時間はすでに十五時を回っている。外は晴れているらしかったが、室内の気温も光量も、アプリで一定に管理されており、天候の影響を受ける余地はない。けれど、なぜか今日は、モニタの色が少しだけくすんで見えた。タスクは定時通りに処理されているはずだった。午前中に提出されたログの確認、脆弱性レポートの対応、バックアップスクリプトの再構築。すべて予定通り。指先も、キーボードの上では一定のリズムを保っていた。それでも何かが違った。集中が維持できなかった。いつもなら切り替えがスムーズなはずの画面遷移で、なぜかエラーを起こしたように、視線がモニタに定着しない。カーソルが点滅している場所を見ていても、視界の周辺にぼんやりと何か別の像が浮かんでくる。……今日は来ない。その事実が、頭のどこかでずっと響いていた。昨日、メッセージが届いた。大和からだった。「明日から出張入ってしもた。来週また行くわ」文面は短く、語尾に軽いニュアンスがあるのが、彼らしいと思った。それだけの内容。けれど、読み終えたときの胸の奥に残った空洞は、妙に深く、広かった。高田はキーボードから手を離し、デスクの脇に置かれた黒い手帳に指を伸ばした。手に取ったそれは、いつものように重く、確かな厚みがあった。記録の重み。日々の感情と数式が、紙の上に降り積もった塊。いつものようにページを開き、今日の日付を確認する。書きかけのページに鉛筆を走らせようとした瞬間、手が止まった。何も書くことが、なかった。正確には、“書くべきデータ”が、思考の中に浮かばなかった。演算子も、変数も、構造体も。コードが意味を持たない。今日一日、自分の中で最も大きく揺れた要因が「何も起きなかったこと」だという事実が、途方もなく不確定で、不安定だった。手帳を閉じず、ただページをめくった。書くわけでも、読むわけでもなく、紙の感触を指先で確かめながら、意味のない行動を繰り返す。その行為の中にあるわずかなリズムだけが、自律を維持する唯一の手段のように思えた。ページの片隅

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   ギャップと、笑いと、重曹

    キッチンに立った瞬間、ふわりと漂ってくるだしの香りがまだ残っていた。大和は無意識に鼻をひくつかせながら、弁当箱をシンクに置く。高田が食べ終えたあとのそれは、いつもきちんと拭き取られ、几帳面に重ねられて戻ってくる。几帳面すぎるほどに、だった。蛇口をひねり、ぬるま湯を流しながら洗剤を探そうと棚を開けたとき、ふと目に留まった電子レンジの扉に目を向ける。貼られている「金属類注意」のシールが…上下逆だった。正確には、天地が完全に反転している。しかも、微妙に斜めにズレているのが、視界の片隅でじわじわと引っかかった。思わず吹き出しかけて、口元に手をあてる。笑いを堪えながら、大和はそのままレンジのドアを開けてみた。中に何かがあるわけではない。けれど、その貼り方ひとつで、見えてくる人物像がある。あいつ…何を考えて、こんなことしてんねやろ。それとも何も考えてへんのか。弁当箱を片手にシンクへ戻り、洗い物を終えると、視線は自然と背後の洗濯機に向かった。洗濯機の上には畳まれていない洗濯物が二、三枚置かれている。白シャツ、パーカー、そしてタオル。どれも柔軟剤の香りはせず、少し湿気を含んだ空気に馴染んでいた。何気なく蓋を開けて、次の洗濯の準備をしてやろうかと思ったそのとき、目に入ったのは透明な容器に入った白い粉末だった。中身は洗剤のはずだが、ラベルがなかった。指先でつまみ、鼻先に近づけてみると…それは洗剤特有の甘い香りではなく、どこか懐かしいような、無機質な匂いだった。重曹…やな、これ。一瞬あっけにとられて、次の瞬間には、思わず笑いがこみ上げた。お前……こんなイケメンやのに、何してんねん。独り言が自然に漏れた。高田 彗。部署内では有名な天才SEで、トラブル対応率100パーセント。だけどその実態は、電子レンジのシールを逆さに貼り、洗剤の代わりに重曹を使う男。完璧な外見と、完璧に抜けた生活感。そのギャップが、どうしようもなくツボだった。イケメンやけど、全然隙がないタイプとはちゃう。むしろ、抜け落ちたところだらけや。けど、そ

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   この人物は、トリガーである

    薄暗い部屋に、モニタの光がわずかに揺れていた。高田は両肘を机についたまま、画面のカーソルが瞬くのをぼんやりと見つめていた。画面にはコードの断片がいくつも開かれているが、どのタブにもカーソルは動かされていない。視線はそこに向いているのに、意識は別の場所にあった。キーボードから手を離し、静かに息を吐く。その動作すら、どこかぎこちない。長時間座っていたせいで、足元の血流が鈍くなっていた。何かが、自分のなかでずれている。それは不具合とも言えず、バグでもない。ただ、処理の優先順位が狂っている感覚だった。彼は右手を伸ばして手帳を取る。黒い表紙は手汗を吸って微かにぬめりがあり、ページをめくると指先に紙のかすかな引っかかりが戻ってくる。毎日の記録、ログのように綴られた日々の数式と断片的な単語。機械のように淡々と綴ってきたはずのページが、ここ数日はどこか様子が変わりつつあった。ページを一枚めくる。今日の日付を記入する前に、手は一瞬だけ止まった。鉛筆の先を紙に触れたまま動かさず、頭の中で言葉の配列を探る。思考の奥に残っているのは、夕方に交わされた短い会話。弁当を渡され、箸を動かし、「うまい」と言ってしまったあの瞬間。自分が、自分の言葉で何かを伝えていた。それがどうしても引っかかっていた。ゆっくりと鉛筆を動かし始める。まずはコード形式の記録から。言葉より先に論理。数値で整理されて初めて、彼にとってそれは“扱える”対象になる。```c// 大和 奏多:感情変動トリガー認定if (大和 == present) { 情緒安定度 += 26; 拒絶反応 = 無し; 注意領域 = 彼に収束;}```文字を書きながら、高田は自身の内部にある“違和感の正体”を解析しようとする。なぜ、この人物の存在が、ここまで自分の内部状態を揺らすのか。それは他者の誰でも起こせる反応ではない。接触する他人はすべて、一定の疲労とストレスを与える存在だったはずだ。だが、大和だけは違った。接触後、明らかに思考

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