玄関のドアが開いた瞬間、ひんやりとした夜気が室内に流れ込んだ。その風の向こうから、足音が重なる。小走りの気配。駆け込むように姿を現したのは、Tシャツ一枚のまま、濡れた髪と裾を引きずった大和だった。
高田は、ただそこに立ち尽くしていた。無言のまま、大和の姿を目で追いかける。体は動かなかった。思考よりも先に、感覚だけが彼を受け入れていた。
「高田」
短く名前を呼ばれたその声に、胸の奥がきゅっと締めつけられたように反応する。呼吸の仕方を忘れそうになる。次の瞬間、大和の手が伸び、ためらいもなく高田の手を取った。人差し指。包帯の隙間から滲んだ赤を見つけた大和は、眉をひそめた。視線がその指に注がれたまま動かない。触れていた掌の温度が、じんわりと肌に伝わる。
「なんやこれ…切れてるやんか。お前、何してたん…」
呆れと怒りが滲む声だった。けれど、その奥にある感情は、それとは違う。安堵だった。確かに今、目の前で生きていて、自分の声に反応してくれて、ちゃんと呼吸している。それを確認した人間の、緊張のほどけた声だった。高田は答えられなかった。喉が詰まり、声にならない。答えようにも、適切な言葉が見つからなかった。
「封筒、開けようとして…うまく…できなくて」
ようやく出てきたのは、音としても頼りない、断片的な言葉だった。けれど大和は、それを聞いてふっと口元を緩めた。
「アホやなあ、お前」
そう言って、大和は微笑んだ。その笑みは、怒っているようで怒っていない、叱っているようで、ただ包み込むような、そんなやさしさを孕んでいた。高田の心臓が、ほんの一瞬だけ跳ねる。視線は絡まなかった。けれど、繋がっていた。大和の手が包帯の上からそっと指を握ったまま、何も言わずに自分を見ているのが分かった。言葉以上に、確かなものがそこにはあった。
それから大和は手を放し、台所に向かって歩いた。手馴れた様子で戸棚を開け、薬箱を取り出してくる。戻ってきたときには、消毒液と新しい絆創膏を手に持っていた。
「ちゃんと消毒せな、化膿するで」
低く静かな声。まるで、いつ高田の部屋には、相変わらず時計の音ひとつすら存在しなかった。パソコンの排熱ファンのかすかな唸りが、無音の空気にわずかに歪みを与えていた。夕方六時過ぎ、部屋の奥から差し込むオレンジ色の光は、既に温度を失い始めていた。大和は床に置いた保温バッグを開き、二人分の弁当箱を並べている。高田はいつものように黙って座っており、その指先はすでに割り箸の包装を剥がしていた。「ほら、今日は豚のしょうが焼きやで。あと、冷凍の春巻き。こっちはサラダや」そう言って、大和が軽く笑いながらタッパーを渡すと、高田は無言でそれを受け取った。箸の動きは相変わらずきれいで、手首の角度にも無駄がない。味見をするように一口だけ春巻きを噛み、すぐに二口目に進んだ。大和は弁当箱のふたを開けながら、ちらとその顔を見た。そのときだった。ほんの一瞬、だが確かに、高田の口元がわずかに持ち上がったのを大和は見逃さなかった。「……今の、それって練習した?」箸を止めた高田が、大和の声に反応する。首をゆっくりと傾け、その表情は曖昧だった。視線は合わないまま、しかし、質問の意味は理解していた。「……データとしては、喜びの表現が相手に安心を与えるらしいので」それは、答えではなく“説明”だった。感情を伝えるためではなく、現象を報告するための声だった。表情も音調も均一で、笑っていた本人すらその感情を実感していないようだった。大和は、箸を置き、しばらく沈黙した。「お前なあ……」苦笑交じりにそう呟いたが、続きの言葉は出てこなかった。ふと胸の奥にひっかかった何かが、うまく言語化できなかったからだ。まるで、目の前の彼の笑顔が誰か別の人間の“模倣”に見えてしまったような気がした。お前の笑顔、誰かに向けたもんちゃうのか…そんな言葉が喉まで来たが、それをぶつけるのは違うと思った。高田が“笑う”ことに、どれほどの覚悟と演算があったのか、少し想像できてしまったからだった。「それ、データにある
ソファの上で、ふたりの肩がわずかに触れたまま、部屋の空気は静かに落ち着いていた。何かを語るでも、何かを強制するでもなく、ただそこに同じ呼吸が存在していた。深夜の室内はエアコンの低い駆動音と、時折外から届く車の音だけが響いていた。高田の手は新しい絆創膏に包まれ、わずかに熱を持っていたが、その温もりさえも、今は心地よく感じられた。大和は背もたれに軽く体を預けて、天井を仰ぐように目を向けていた。落ち着いたまなざし。疲れているはずなのに、不思議とその顔には穏やかな色が差している。「……連絡をくれたん、初めてやな」ぽつりとこぼれたその声は、どこか柔らかかった。問いでも詰問でもない、ただの気づきのような言い回し。咎めるような響きはどこにもなかった。高田はその言葉にすぐには答えず、わずかに視線を落とした。小さく瞬きをし、濡れたままの前髪を指で払う。その指先に、まだ少し痛みが残っている。「……それは、“喜び”で、合ってる?」沈黙の中にぽつりと落とされた、高田の問い。その声は、ぎこちなかった。問いかけという形を取りながらも、どこか確かめるような…あるいは、初めて発音する言葉を探るような響きを持っていた。大和は一瞬、目を丸くして、それから思わず吹き出した。「せやな。正解。大正解や」笑いながらも、その目元には温かな光が宿っていた。高田の言葉に、確かに心を動かされていたのだと、表情が物語っていた。高田はと言えば、その反応に目をしばたたかせてから、ごくわずかに唇の端を上げた。微笑と言っていいのか迷うほどの、ほんのかすかな表情の変化。それでも、その変化が彼にとってはどれほど大きなものだったか、大和は理解していた。「……むずかしいな、人の感情って」小さく高田が呟く。声はほとんど囁きに近く、聞き取るには耳を澄まさなければならないほどだった。けれど、その中にある真剣さは紛れもなかった。「むずかしいよ。でも、ちょっとずつ覚えていけばええ。こうやって一個ずつ、正
玄関のドアが開いた瞬間、ひんやりとした夜気が室内に流れ込んだ。その風の向こうから、足音が重なる。小走りの気配。駆け込むように姿を現したのは、Tシャツ一枚のまま、濡れた髪と裾を引きずった大和だった。高田は、ただそこに立ち尽くしていた。無言のまま、大和の姿を目で追いかける。体は動かなかった。思考よりも先に、感覚だけが彼を受け入れていた。「高田」短く名前を呼ばれたその声に、胸の奥がきゅっと締めつけられたように反応する。呼吸の仕方を忘れそうになる。次の瞬間、大和の手が伸び、ためらいもなく高田の手を取った。人差し指。包帯の隙間から滲んだ赤を見つけた大和は、眉をひそめた。視線がその指に注がれたまま動かない。触れていた掌の温度が、じんわりと肌に伝わる。「なんやこれ…切れてるやんか。お前、何してたん…」呆れと怒りが滲む声だった。けれど、その奥にある感情は、それとは違う。安堵だった。確かに今、目の前で生きていて、自分の声に反応してくれて、ちゃんと呼吸している。それを確認した人間の、緊張のほどけた声だった。高田は答えられなかった。喉が詰まり、声にならない。答えようにも、適切な言葉が見つからなかった。「封筒、開けようとして…うまく…できなくて」ようやく出てきたのは、音としても頼りない、断片的な言葉だった。けれど大和は、それを聞いてふっと口元を緩めた。「アホやなあ、お前」そう言って、大和は微笑んだ。その笑みは、怒っているようで怒っていない、叱っているようで、ただ包み込むような、そんなやさしさを孕んでいた。高田の心臓が、ほんの一瞬だけ跳ねる。視線は絡まなかった。けれど、繋がっていた。大和の手が包帯の上からそっと指を握ったまま、何も言わずに自分を見ているのが分かった。言葉以上に、確かなものがそこにはあった。それから大和は手を放し、台所に向かって歩いた。手馴れた様子で戸棚を開け、薬箱を取り出してくる。戻ってきたときには、消毒液と新しい絆創膏を手に持っていた。「ちゃんと消毒せな、化膿するで」低く静かな声。まるで、いつ
夜はとっくに更け、空気の温度も音も、感覚が曖昧になるほどに静まり返っていた。マンションの最上階。外の街路灯が室内にうっすらと影を落とすなか、高田はソファの背にもたれ、身じろぎもせずに目を開いていた。画面のスリープモードが切り替わり、ノートPCの黒い画面に自分の映像が映る。それを見ていたのか、それとも見ていなかったのか、自分でもわからないまま、ただ何かを待つように座り続けていた。作業は中断していた。体も思考も、もう数時間まともに動いていない。タスク管理アプリは未処理の通知をいくつか掲げたまま、画面の隅で点滅していたが、反応する気になれなかった。書類も、コードも、ログも、何ひとつ処理できなかった。頭の中にはずっと同じ言葉がぐるぐると巡っていた。大和がいない、という現実だった。ふと、手がスマートフォンを探していた。意図的な操作ではなかった。あまりにも自然すぎて、指先がホーム画面を開き、通話アプリを立ち上げていたことに、しばらく気がつかなかった。ディスプレイの中央に浮かぶ、たった一つの名前。大和奏多。それを目にした瞬間、喉がつかえるような感覚が走った。呼吸が乱れたわけではない。けれど、どこか深いところで、何かが確実に反応していた。通話アイコンに指を乗せる。その動作が、これまでにないほど重く感じられた。発信ボタンを押すという行為は、いわば自分から相手に手を伸ばすこと。それは高田にとって、いまだかつて一度も行ったことのない処理だった。誰かに何かを求める。それは、彼の中でずっと定義されていなかった命令文だった。それでも、指は止まらなかった。ボタンを押す。その瞬間、心のどこかで何かが確かに初期化される音がしたような気がした。呼び出し音が鳴る。ひとつ、ふたつ…そして、三つ目の音が鳴り終わる前に、相手は出た。「…高田?」受話器の向こうで聞こえる声は、少し眠そうで、それでも柔らかく、間違いなく自分の名前を呼んでいた。しばらく言葉が出なかった。何を言えばいいのか分からなかった。伝えたいことも、理由も、理屈も整理されていなかった。だが、感覚だけが、口を開かせた。「&he
深夜三時を少し過ぎた頃、部屋の中には人工的な音だけが残っていた。冷蔵庫のコンプレッサーが断続的に唸り、モニタのスリープ画面が暗闇に淡い青を灯していた。高田はソファにもたれたまま、左手に開いた手帳のページをじっと見つめていた。右手には鉛筆が握られていたが、先端は紙の上を滑らず、ただ静止していた。体の奥にあった熱はもう引いていた。切り傷に巻いたバンドエイドが、皮膚のぬるい感覚と共に異物として存在していた。けれど、痛みはない。ただ、その無痛さが、逆に胸の中の鈍い重さを強調していた。ペン先がようやく動き出した。彼が書きつけたのは、感情や出来事ではなく、あくまでもログだった。自分を機械のように外部から観察し、機能と稼働の数値で表すことに、高田は長く慣れてきた。思考を数値化すれば混乱は収まり、感情を演算すれば意味が明瞭になる。それが、彼にとっての世界の読み方だった。しかし、今夜のページはどこかおかしかった。```c// 大和訪問なし:連続48時間心的稼働率 = 42%(通常時:76%)摂食行動 = 10%感情因子 = null→ エラー:再起動不能```書いた文字の意味は分かっている。自分の状態を正確に反映している。しかし、それ以上に、このログには“何かが欠けている”と、書いた本人自身が感じていた。冷静すぎる。正確すぎる。なのに、記録として成立していないような空白があった。高田はわずかに眉を寄せ、鉛筆の先でページの余白に新たな一行を書き足した。```log大和奏多が不在である。```書き終えた瞬間、手が微かに震えた。鉛筆を握る指に力が入りすぎていたのかもしれない。だが、それ以上に、自分が“大和奏多”という名前を手帳に記したことに、内心でわずかなざわめきが生じていた。これまで、彼の名前はここには存在しなかった。必要な情報であっても、人格を特定する“固有名”は避けていた。にもかかわらず、今夜、それを記した。名前は記号であり、同時に個の証明である。誰かを名前で呼
時計の針は午前二時を回っていた。室内はすでに冷え込んでおり、足元のラグの上に置かれたサーキュレーターが、空気をゆるやかに攪拌していた。高田はディスプレイの明かりだけを頼りに、薄暗いリビングを歩いた。作業の区切りがついたわけではなかった。ただ、ターミナルに流れるログの連なりがいつもより視認しづらく感じたのだ。モニタの明るさ設定は普段と同じだった。だが、なぜか目が乾いているように思えた。キッチンの棚の横、いつもは見ないカゴのなかに、郵便物が溜まっていることに気がついた。数日前に届いたであろう封筒が何通か、まだ開封されていなかった。書類、請求書、印刷物。どれもさほど重要ではないことは予想がついたが、視界に入った瞬間、なぜか気になって仕方がなかった。高田は無言のまま封筒を取り出し、テーブルの端に重ねた。カッターナイフを探す。文具類はあまり使わないため、ペン立ての底から引き上げるようにして取り出す。青い持ち手は少しベタついていた。しばらく使っていなかった証拠だった。封筒の角に刃を当て、慎重に滑らせようとした。手元を見るというより、感覚に任せて動かした。そのとき、思っていたよりも深く、刃が逸れた。一瞬、紙が破れる感触とは異なる、柔らかい抵抗を感じた。続いて、じんわりとした熱が人差し指に広がる。高田は無意識のままカッターを置き、右手を持ち上げた。白い指先から、赤い線がにじんでいた。傷は浅い。しかし血は、止まる気配がなかった。ティッシュを探して手に取ったが、指先から垂れた血が一枚目を染め、すぐに透けた。数枚重ねても、なぜか落ち着かなかった。圧迫すれば止まると分かっているのに、どこかでその処置すら面倒に思えていた。やるべきことがわかっているのに、身体が動かない。そんなことは、ここ数年なかったはずだった。高田はそのまま、テーブルの前に座り込んだ。視線はぼんやりと宙を彷徨い、耳に入るのはエアコンの送風音と、外の街路灯が照らす道路に時折通る車の遠い音だけだった。ふと、胸の奥に穴が開いたような感覚が生まれた。正確には、穴など元からあったのかもしれない。ただ、それが“空洞”として自覚されたのは、この瞬間が初めてだった。この傷が痛いのか。そ