All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

海羽は一瞬言葉を失った。どんな表情をすればいいのか分からず、胸の内には嘲りばかりが渦巻く。一輝は、彼女が唯一心を動かした女だと言うのか。「男の嘘って、ほんと口を開けばいくらでも出てくるよね」彼女は鼻で笑った。「嘘じゃない」一輝は淡々と答える。「心を動かされたのは、お前だけだ」海羽は、これまで彼の周りを取り巻いてきた女たちとはまるで違っていた。それが、何より彼を惹きつけた理由だった。あの女たちは、欲しいもののためなら自分から近づき、媚び、より多くを得ようと必死になる。だが海羽は違う。取引はあっても、彼に取り入ろうと自分から動くことはない。必要な時に淡々と応じるだけで、まるで仕事として割り切っているようだった。いや、正確にはアルバイト、というべきか。なぜなら彼女は、彼と一緒にいる時間よりも、女優という仕事をはるかに愛していたからだ。彼女のスマホは二十四時間常に繋がる状態に保たれ、いつでも仕事の連絡を受け、すぐに駆けつけられるようにしている。まったく、感心するほどの働き者だ。だから彼はふと意地の悪い想像をしたことがある。もし二人があんなことをしてる最中に突然電話が鳴ったら、彼女は自分を置いて電話に出るのか、それとも動揺して、逆に敏感になるのか。その答えは、彼女の友人から電話がかかってきた時に出た。ついさっきまで情に溺れた表情をしていたのに、着信表示を見た瞬間、彼女の顔は一変した。あまりに真面目な態度で、彼は思わず言葉に詰まりそうになった。まるでさっきまでのすべてが、彼のプライドを守るために演じていた芝居だったかのようだったからだ。彼のテックは、そこまで酷いのか。わざわざ演技で合わせてもらうほど?あれは、彼が初めて自分を疑う瞬間だった。海羽は、凛々しさと艶やかさを併せ持つ顔立ちで、ひどく人目を引く。だから彼は初めて彼女を見た時、会議まで延期して、自ら彼女を病院へ送り届けた。こんな女には、特別な配慮があって然るべきだ、そう思ったのだ。色気に惑わされたと言われれば、否定はできない。だが病院で最初に彼の手を引いたのは、彼女の方だった。彼はただ、その流れに乗っただけだ。海羽の初めての時のことも、彼はよく覚えている。恐怖で全身が震えているのに、必死に
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第312話

「ない」一輝は、詩織のことを思い浮かべただけで嫌悪感が込み上げてきた。あれほど欲深いくせに、分別のある女を装ったあの偽善的な顔――思い出すだけで虫唾が走る。「好きでもないのに結婚した、それだけで十分じゃない?」海羽は唇の端をわずかに引き上げた。「男って、好きな女性としか子どもを作らないわけじゃないでしょ。たとえ愛がなくても、妻として裸でベッドに横たわっていたら......さすがに反応するでしょ」言い方は荒いが、言っていることは的を射ている。一輝は一瞬、言葉を失った。彼女とは、どうでもいい話を長々と続ける気にはなれなかった。この女は簡単には乗ってこないし、言葉の一つ一つが妙に理屈立っている。「なので瀬賀さん。私たちの取引は、ここまでにしましょう」海羽の声はきっぱりとしていて、微塵の迷いもなかった。「私は、人の家庭を壊す女にはなりたくない。でも、もしあなたが私の家族を使って脅すつもりなら――覚悟しなさい。無事じゃ済まないから」彼女はもともと何も持っていなかった。ここ数年で手に入れたものも、すべて天からの贈り物だと思っている。最悪、すべてを失って原点に戻るだけのこと。一輝はじっと彼女を見つめた。その眼差しは深く暗く、時折、この女はあまりにも強情で、頑なすぎると感じずにはいられない。空気が、しんと静まり返る。次の瞬間、不意に鳴り響いた着信音が、その沈黙を破った。海羽のスマホだ。彼女は辺りを探し回ったが見当たらず、眉をひそめる。「あれ......どこ行ったの......」一輝はすぐに、ソファの隙間に落ちているスマホを見つけ、何気なく拾い上げた。だが、画面に表示された発信者名を見た瞬間、彼の目が細くなる。――【愛しい人】「愛しい人?」琥珀色の瞳に、探るような光と、危うい色が混じる。海羽の顔色が一変し、すぐさま手を伸ばした。「返して!」だが一輝は彼女の手首を掴み、そのまま力を込める。海羽は身動きが取れない。「ずいぶん慌ててるな」一輝は、彼女の反応を見逃さなかった。「よほど大事な『愛しい人』らしいな?」「違う!全然大事じゃない!」海羽は即座に否定したが、胸の奥で心臓がかすかに震えた。自分は何も持っていないと思っていた。けれど忘れ
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第313話

一輝は一瞬、言葉を失った。海羽はすかさず彼の手からスマホを奪い返し、声を和らげて答える。「今は手が離せないの。おばさんに迎えに行ってもらって?」「......うん」瑚々は少し寂しそうだったが、それでも明るく言った。「ママ、バイバイ!」海羽は返事もせず、そのまま通話を切った。一秒たりとも間を置けなかった。今この瞬間、一輝の鋭い視線が、まるで彼女の身体を貫くかのようだったからだ。「誰の子だ」一輝の目には探るような光が宿り、ひやりとした冷気さえ帯びている。海羽は指をきゅっと握りしめ、顔を背けた。「あんたには関係ない」次の瞬間、一輝は彼女の喉元を掴み、無理やり視線を合わせさせた。「誰の子だと聞いている!」「私の子よ!聞いて満足した?」海羽も負けじと叫び返す。一輝はこめかみが激しく脈打つのを感じた。当たり前だ。あの子は彼女を「ママ」と呼んでいた。子どもが彼女の子であることなど、最初から分かっている。それでも怒りを抑え込み、低く問いただす。「父親は誰だ」その言葉に、海羽は一瞬だけ動きを止めた。目の奥に、複雑な感情がかすめる。一輝は彼女をじっと見つめていた。心のどこかで、ほんのわずかな期待を抱いていたのだ。いつも万全の対策はしていたが――もし、この子が本当に自分の子だったなら、と。「少なくとも、あんたじゃない」海羽ははっきりと言い切った。「前に付き合ってた彼の子よ」その一言で、彼の中に残っていた淡い期待は、完全に打ち砕かれた。「いい度胸だな、海羽」彼女は、本当に自分の知らないところで別の男と関係を持っていたのか。それとも自分こそが、最初から「都合のいい存在」だったのか。一輝はついに抑えきれなくなり、指に力を込めた。海羽は、一気に押し寄せる窒息感に飲み込まれた。息ができない。必死に彼の手を掴み、引き剥がそうとする。爪が彼の手の甲を引っかき、赤い筋が何本も走った。もがく彼女を見下ろしながら、一輝の顔色は、墨をひっくり返したように暗かった。このまま絞め殺してしまいたい――そう思った瞬間もあった。だが、酸欠で彼女の顔色が紫に変わっていくのを見て、ついに手を離した。「げほっ......ごほっ......!」海
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第314話

一輝は、彼女があまりにもあっさりと屈するその姿を見つめ、驚きよりも先に、底知れない嘲りを瞳に浮かべた。かつての彼女は、こんな女ではなかったはずだ。それが、ほんの短い間に、まるで別人になってしまったかのようだった。「俺が、他人の子どもを産んだ女を欲しがるとでも思ってるのか?」一輝は冷ややかに鼻で笑った。「捨てればいいじゃない!」海羽は思わず口走った。「そうすれば、子どもはいなくなるでしょ?それでいいでしょ!?」「自分が何を言っているか、分かっているのか?」一輝は拳を強く握りしめ、歯を食いしばるような声音を滲ませた。「分かってるに決まってる!」海羽は慌てて彼の手を掴み、感情をむき出しにする。「ただの一度の過ちよ。もう一度だけ、チャンスをくれない?」その目には必死な色が満ちていた。まるで、すべてが――自分の子どもでさえも彼女の利益の前では取るに足らない過去で、いつでも切り捨てられる存在だと言わんばかりに。一輝は一瞬言葉を失い、そして腑に落ちたように呟いた。「なるほど。これが、お前の本性か」その口調は断定そのものだった。折れない強さも、頑なな矜持も、すべて演技。実際の彼女は、あの貪欲な女たちと何一つ変わらない。いや、違いがあるとすれば――彼女のほうが、よほど腹の内が深いということだ。駆け引きも、引いては押す手口も、完全に計算済み。それでいて、まるで彼に追い詰められた被害者のように振る舞う。もしかすると、取引を終わらせないと聞いた瞬間、内心ではほくそ笑んでいたのかもしれない。一輝は奥歯を噛みしめ、怒りに乾いた笑いを漏らした。「最初から騙していたのか」海羽ははっとし、見透かされた動揺が一瞬、目に浮かぶ。「ち、違う......お願い、話を聞いて......」「黙れ」一輝は彼女の言葉を一切聞く気もなく、乱暴に手を振り払った。「触るな。穢らわしい」海羽は口を開きかけたが、何も言えず、目尻に涙が滲む。いかにも哀れを誘う姿だったが、一輝はもう惑わされなかった。「白鳥海羽、俺とお前の取引はここまでだ。もう二度と関わるな」「だめ!」海羽は這うように前へ出て引き留めようとしたが、一輝は一度も振り返らなかった。そのまま更衣室を出ていき――バンッ!
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第315話

その才能ゆえに、彼女はかつて監督の目に留まり、人生で初めての主役の座を掴んだ。だが残念なことに、これから先、彼女が再びその才能を発揮する機会は、おそらく二度と訪れない。彼女は最後の演技を、一輝に捧げた。娘のために、自分を「利益しか見ない、何でも切り捨てる冷酷で利己的な女」に演じ切ったのだ。それでいい。彼女は一輝にどう思われようと、最初から気にしていない。守りたかったのは、ただ一つ――自分の子どもだけ。娘だけは、絶対に一輝の手に渡してはならない。それを失えば、彼女は本当に何も残らなくなる。実を言えば、妊娠が分かった当初、彼女は産むつもりはなかった。だが医師から「長年の過酷な仕事で体は限界を超えており、根本を傷めてしまっている、この先、子どもを授かるのは極めて難しい」と告げられた。それで彼女は、この子を産む決心をした。幾度もの切迫流産を乗り越え、数え切れないほど注射を打ち、出産の際には命を落としかけながら、ようやくこの子を産んだ。この世界で、彼女にとって唯一の拠り所。娘以上に大切なものなど、何一つなかった。海羽は、肩の力が抜けたようにソファにもたれ、スマホを手に取って瑚々に電話をかけた。「ねえ、瑚々。ママ、今ちょうど時間が空いたの。迎えに行ってもいい?」瑚々の声は、明らかに弾んでいた。「ほんと?ママ、今日はもうお仕事終わったの?」「うん。今日からね、ママはもっと瑚々と一緒にいられるよ」「でも......お仕事は大丈夫なの?」慎重で、でもとても聞き分けのいい声だった。海羽は微笑んだ。「お仕事より大事なものなんてないよ。瑚々はね、ママにとって、この世界で一番大切な宝物なんだから」「ママも、瑚々にとって世界で一番大切なママだよ!」電話越しに届く幼い声は、あどけないのに、やけに力強かった。海羽はその声を聞きながら口元を押さえた。胸の奥には、割り切れない悔しさや、どうしようもない未練もあったが――それ以上に、安堵と喜びの涙が、静かに滲んでいた。......夜の帳が下り、紗夜は化粧台の前に座っていた。手には、未怜から渡された離婚訴状。署名欄には、まだ彼女自身のサインが必要だった。ペンを取ったものの、彼女の手は止まる。今日、文翔が彼女を庇って、素
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第316話

紗夜は、文翔がこんなに早く上がってくるとは思っておらず、慌てて訴状を二つ折りにして一冊の本に挟み込んだ。次の瞬間には、文翔がすでに背後まで来ていて、少し不思議そうに問いかけた。「ずいぶん早く片づけたね?」「日記よ。書き終わったからしまっただけ」紗夜は平静を装って答えた。「日記?」文翔は眉をわずかに上げる。「さーちゃんに日記を書く習慣があるなんて、知らなかったな」「ずっとあったけど。文翔が今まで気づかなかっただけ」紗夜は顔をそむけた。文翔はそれ以上何も言わなかった。彼女の表情を見つめる。落ち着いているふりをしているが、どこか不自然だ。紗夜は昔から嘘があまり得意ではなく、少しでも動揺すると耳が赤くなる癖がある。――やはり、耳がうっすら赤い。理由もなく、その様子が少し可愛らしく思えた。文翔は、その本に手を伸ばした。だが、触れる前に紗夜が彼の手を押さえる。耳の赤みはいっそう濃くなっていた。「人の日記をのぞくなんて、礼儀正しい行為じゃないわ」文翔は動きを止め、彼女の警戒した表情を見て、目の奥に一瞬考え込むような色を浮かべたが、それ以上踏み込まなかった。手を引っ込めると、紗夜はそのまま本を引き出しに戻した。「夕食の用意ができてる。下に行こう」文翔が言う。紗夜は小さく頷いた。ただ、どういうわけか最近は食欲があまりない。木村が用意したのはあっさりした料理だったが、匂いを嗅いだ途端、我慢できなくなった。胃の奥が込み上げ、彼女は口元を押さえて洗面台へ向かう。「......うっ」「お母さん!」理久が慌てて声を上げた。顔色の悪い紗夜を見て、彼はずっと前の光景を思い出す。母親が同じように激しく吐いて、病院へ運ばれたあの日。あのときの自分は、何も感じなかった。けれど今回は違った。胸いっぱいに不安が広がり、彼は小走りで近づく。「お母さん、大丈夫?」紗夜は首を振った。「大丈夫......」そう言いかけた瞬間、また吐き気に襲われる。文翔は彼女が立ち上がった時点で後を追い、隣に立って背中を撫で、呼吸を整えさせながら、顔を曇らせて執事に命じた。「医者を呼んで――」「いいの」紗夜は彼の服の裾を掴んだ。「もうだいぶ楽だから」「でも
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第317話

文翔はその後も、熱いお湯を注ぎ、カルシウム剤やほかのビタミン類を用意して、彼女の前に差し出した。紗夜はそれを受け取り、ぬるま湯で飲み下す。文翔は彼女の手からコップを受け取ると、ハンカチを取り出し、唇の端についた水滴をそっと拭った。その瞬間、紗夜は視線の端で、そのハンカチの刺繍に気づいて、思わず動きを止めた。――前に見たことのあるものだ。「aya」と刺繍された、あのハンカチ。急に、胸の奥に拒否感が込み上げてきて、彼女は顔を背け、そのハンカチが触れるのを避けた。「どうした?」文翔が怪訝そうに尋ねる。紗夜は唇を引き結んだ。たかが一枚のハンカチで、これ以上気力を使いたくはなかった。けれど、詩織の言葉が、脳裏によみがえる。――あなたのご主人だって、外での噂は少なくないでしょう。特にあの竹内っていう......竹内彩。それは棘のように、ずっと彼女の心に刺さっていた。普段は必死に見ないふりをしてきたけれど、傷口に残ったその棘は、何度も疼き、化膿を繰り返している。紗夜は下唇を噛みしめ、意を決したようにその棘を引き抜くことにした。声音はひどく冷たかった。「ほかの女が使ったものを、使いたくない」「......は?」文翔は一瞬、言葉を止めた。聞こえなかったとは思っていない。ただ、わざと理解しないふりをしているだけだ。紗夜は息を吐き、彼の手にあるハンカチを指さした。「そのハンカチ、竹内のものでしょ?」そう口にした瞬間、なぜか少しだけ気持ちが軽くなった。どうせ二人の間には、いずれ越えられない溝ができる。黙っていれば、自分が苦しくなるだけだ。今日はもう十分つらい思いをしているのだから、今さら一つ増えたところで大差はない。あとは、文翔がどう出るか。動揺して目を逸らすのか、それとも逆上するのか。正直、少しだけ期待していた。もし彼の心に彩がいると分かれば、ここ最近の優しさも、彼女を守った行動も、すべてはこの結婚に縛りつけるための芝居に過ぎなかったと証明できる。そうなれば、離婚を選んだ自分は間違っていなかったと思える。こんな男に、振り返る価値はない。――それは、自分の罪悪感を少しでも軽くするための、身勝手な期待でもあった。紗夜は彼から目を離さず、わずかな表情の変化
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第318話

紗夜は黙り込んだ。その瞳に、わずかな驚きが走る。文翔は、このハンカチが彼女のものだと言った。けれど、どうしても記憶に引っかからない。紗夜は文翔の手からハンカチを受け取り、広げてじっと見つめた。先ほどまで、そこに刺繍された「aya」という文字だけを見て、彩のものだと早合点していた。そのため、洗うときも深く考えず、さっさと済ませるつもりでしかなかった。だが今、改めて目を凝らしてみると――「aya」の手前に、切れた刺繍糸が数本残っているのに気づく。それは、もともと別の文字が縫い込まれていた痕跡だった。よく見れば、「aya」の前には確かに「S」があったはずなのだ。つまり、このハンカチに施されていた刺繍は「aya」ではない。「Saya」だった。文翔はそんな彼女を見つめ、瞳に浮かぶ驚きと戸惑いが移ろっていくのを静かに追いながら、苦笑して彼女の頭にそっと手を置いた。「やっぱり、覚えてないんだな」もっとも、紗夜が覚えていないのも無理はなかった。このハンカチは、彼女が自分の意思で渡したものではない。――彼が拾ったものなのだから。そしてその経緯は、彼自身が二度と思い出したくない過去へと繋がっている。だから、詳しく語るつもりはなかった。ただ、穏やかな声で、紗夜にだけ告げる。「忘れてもいい。ただ、これだけははっきりさせておきたい。このハンカチは彩のものじゃない。あいつは、俺とは無関係だ。俺に関係あるのは......君だけだ」声は静かで淡々としていたが、その言葉には揺るぎない強さが宿っていた。紗夜は再び黙り込み、どんな表情をすればいいのか分からなくなる。胸の奥では、言葉にできない感情が複雑に絡み合っていた。自分のハンカチだと気づけなかったのは、刺繍が途中でほどけていたからだ。彼女はもともと、ハンカチを何枚も持っていた。どれも祖母が縫ってくれたもので、祖母が亡くなったあと、それらは遺品と一緒に封じ込めてしまっていた。まさか、その中の一枚が文翔の手元にあり、しかもこれほど長い間、大切にされていたなんて――思いもしなかった。紗夜は、黙ったまま彼を見つめた。心は、幾重にも絡まった糸のようで、どう整理してもほどけない。文翔の言葉が、どこまで本当なのか。何度も彼女を失望させてき
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第319話

朝の光が、白いレースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。紗夜は少し深く眠っていたらしく、一晩夢を見ることもなく、ゆっくりと目を覚ます。布団はまだ温かく、心地よかった。起き上がろうとした、そのとき――耳元に、ほの温かな吐息がかかる。顔を横に向けると、文翔に抱き寄せられていた。彼の呼吸は穏やかで規則正しく、まだ眠っているのが分かる。二人の体はほとんど隙間なく密着していて、彼の手のひらは彼女の下腹部に添えられていた。紗夜は、その手の温もりをはっきりと感じる。彼の手をそっと外し、腕の中から抜け出そうとした――次の瞬間。後ろ首に、軽い口づけが落ちた。文翔はさらに腕に力を込め、顎を彼女の首元に埋める。掠れた声で囁いた。「......もう少し寝よう」その光景は、まるで仲睦まじい夫婦の朝のようだった。そしてそれは、かつて紗夜が、文翔と結婚したあとの生活として思い描いていた姿、そのものでもあった。紗夜のまつ毛が、かすかに震える。それでも彼女は口を開いた。「もう遅いよ。早く起きないと。お昼、長沢家の本家に行くって言ってたでしょ?」ここから長沢家の本家までは、車でほぼ一時間。すでに九時半を回っている。身支度をして出れば、どうしても十時過ぎになってしまう。その言葉を聞いて、文翔はようやく目を開いた。寝起き特有の眠たげな眼差しと、名残惜しさが入り混じっている。以前、まだ自分が彼女を好きだと気づいていなかった頃。彼にとって彼女は、ただの生理的欲求のはけ口でしかなく、抱きしめたいと思うこともなかった。だが、想いを自覚したときには、彼女はまるで避けるように、いつも早起きし、彼が目覚める頃にはもうそばにいなかった。今日は珍しく彼女が遅くまで眠っている。正直なところ、目覚めたとき、まだ彼女が腕の中にいると分かった瞬間、胸の奥で小さく喜んでいた。朝から彼女を抱いていられることが、彼にとっては不思議な安心感をもたらしてくれた。――悪くない。そう思った。だから欲張って、もう少しこのままでいたかった。彼女と、少しでも長く一緒にいたかった。だが貴仁は、遅刻する若輩者を何より嫌う。紗夜を連れて行く以上、彼女に悪い印象を持たせるわけにはいかない。文翔は名残惜しそうに彼女
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第320話

紗夜は、聞こえなかったふりをした。千歳も苛立つ様子はなく、少しだけ声を張り上げる。「深水!話がある!」これ以上声が大きくなれば、周囲の視線を集めてしまう。そうなれば、無視し続けることもできない。紗夜は仕方なく視線を向け、警戒をにじませた表情で言った。「何?」千歳が、場の空気を張り詰めさせるようなことを言い出すのではないかと身構えていたが――「この前、君がデザインしてくれたフラワーアレンジメントなんだけどさ。ちゃんと大事に保管してたのに、結局枯れちゃったんだよ。一体どうして?」真剣な口調で、まるで教えを乞うような態度だった。紗夜は少し意外に思った。まさか、そんなことを聞かれるとは思っていなかったからだ。けれど、彼が本気で知りたがっている様子だったこと、そして話題が自分の専門分野に関わるものだったこともあり、警戒心は次第に薄れていった。「使ってた花は、カーネーションとカスミソウ、それからヒヤシンスだったよね。花瓶の水位は四分の一くらいがちょうどいいの。あと、三千分の一濃度のアスピリン水溶液を簡易の延命剤として使えば、開花期間を七日から十日ほど延ばせるわ」ただ、計算してみれば、彼にそのアレンジを渡してからすでに二か月近くが経っている。一般的な保ち方では、もう限界だ。だから、紗夜は率直に結論を出した。「枯れたなら処分して、新しいのを買ったほうがいいよ」千歳は一瞬言葉に詰まったようで、名残惜しそうに尋ねた。「君は......花が枯れて、悲しくなったことはある?」その質問は少し唐突に感じられた。数え切れないほどの花を扱ってきた彼女にとって、枯れることは日常であり、もはや慣れた出来事だった。「ないかな......」「でも、俺はある」千歳は彼女を見つめ、真剣な声で続けた。「だって、あれは君が初めて俺のために作ってくれたアレンジだったから。ずっと大切にしてた」紗夜は、はっとして言葉を失った。こんな場で、こんなことを言われるとは思っていなかった。もし誰かに聞かれたら、どんな騒ぎになるか分からない。彼女は指をぎゅっと握りしめ、緊張を隠せなかった。――この人、本当に危うい存在だ。千歳は、彼女の戸惑った様子を見て、目にかすかな陰りを落とした。自分でも、今の言葉が少し
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