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第318話

Auteur: 花朔
紗夜は黙り込んだ。

その瞳に、わずかな驚きが走る。

文翔は、このハンカチが彼女のものだと言った。

けれど、どうしても記憶に引っかからない。

紗夜は文翔の手からハンカチを受け取り、広げてじっと見つめた。

先ほどまで、そこに刺繍された「aya」という文字だけを見て、彩のものだと早合点していた。

そのため、洗うときも深く考えず、さっさと済ませるつもりでしかなかった。

だが今、改めて目を凝らしてみると――

「aya」の手前に、切れた刺繍糸が数本残っているのに気づく。

それは、もともと別の文字が縫い込まれていた痕跡だった。

よく見れば、「aya」の前には確かに「S」があったはずなのだ。

つまり、このハンカチに施されていた刺繍は「aya」ではない。

「Saya」だった。

文翔はそんな彼女を見つめ、瞳に浮かぶ驚きと戸惑いが移ろっていくのを静かに追いながら、苦笑して彼女の頭にそっと手を置いた。

「やっぱり、覚えてないんだな」

もっとも、紗夜が覚えていないのも無理はなかった。

このハンカチは、彼女が自分の意思で渡したものではない。

――彼が拾ったものなのだから。

そしてその経緯は、彼自身が二度と思い出したくない過去へと繋がっている。

だから、詳しく語るつもりはなかった。

ただ、穏やかな声で、紗夜にだけ告げる。

「忘れてもいい。ただ、これだけははっきりさせておきたい。このハンカチは彩のものじゃない。あいつは、俺とは無関係だ。俺に関係あるのは......君だけだ」

声は静かで淡々としていたが、その言葉には揺るぎない強さが宿っていた。

紗夜は再び黙り込み、どんな表情をすればいいのか分からなくなる。

胸の奥では、言葉にできない感情が複雑に絡み合っていた。

自分のハンカチだと気づけなかったのは、刺繍が途中でほどけていたからだ。

彼女はもともと、ハンカチを何枚も持っていた。

どれも祖母が縫ってくれたもので、祖母が亡くなったあと、それらは遺品と一緒に封じ込めてしまっていた。

まさか、その中の一枚が文翔の手元にあり、しかもこれほど長い間、大切にされていたなんて――

思いもしなかった。

紗夜は、黙ったまま彼を見つめた。心は、幾重にも絡まった糸のようで、どう整理してもほどけない。

文翔の言葉が、どこまで本当なのか。

何度も彼女を失望させてき
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