All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 381 - Chapter 390

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第381話

彼女は注射に弱く、一度刺されると、痛みが長く尾を引く体質だ。蒼白な顔色を見て、明は首を傾げる。「そこまで辛い思いをしてまで、どうしてこの子を残そうとするんだ?」「爛上で検査を受けたとき、この子の心拍を聞きましたから」紗夜は、あの力強い鼓動を思い出し、目の奥に柔らかな光を宿した。彼女はその音を録音していた。何度も心が折れそうになったとき、その心音を聴いて自分を支えてきたのだ。それが彼女にとっての救いだった。――けれど、スマホは落として壊れてしまい、今はもう聴けない。だから彼女は、女医に胎児心拍のモニタリングをお願いし、レコーダーで録音してもらうことにした。ちょうど医師が機器を持ってきており、紗夜の服をそっとめくった。明はその場を離れ、部屋を出た。するとふいに、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。――誰か、何かを煮ている?匂いを辿ってキッチンへ向かうと、オープンキッチンの中に、きっちりとしたスーツ姿のままエプロンをつけた、背の高い男の姿があった。どう見ても、会議室から直行で帰宅し、そのまま「家庭的な夫役」にシームレスに切り替わったばかりだ。「いやあ、ほんと働き者だな」明は冷蔵庫にもたれ、文翔が手際よく餃子を作る様子を眺めていた。一連の動作は実に滑らかで、知らなければ職人だと思うほどだ。しかも、芳村餃子店の副菜まで完璧に再現している。「ここまで本格的だと、他人の商売奪うよ?」明が笑って言う。「うるさい」文翔は箸を器に添え、淡々と指示した。「彼女のところに持っていけ」「は?」明は自分を指さす。「私が?」「他に誰がいる?」文翔はそう言い返した。明は眉をひそめた。「君じゃなくて?」文翔は答えず、蛇口で手を洗い、ハンカチで拭いただけだった。明は眉を上げて納得する。――なるほど、夫婦喧嘩の真っ最中ってわけか。器に並んだ、餃子を見て、ふと思いついたように言う。「彼女、そんなに食欲ないだろ?だから半分、私にくれても――」「ダメだ」文翔は冷たい視線を向けた。「冷蔵庫に昨日の残りがある。食べたきゃ自分で作れ」「ひどいな!」明は不満たらたらに抗議した。「このところ、私がどれだけ二人の面倒を見てきたと思ってる?それなのに、失敗作の餃子は
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第382話

それを聞いて、明は一瞬手を止め、小さじ一杯の塩を入れながら、口元を少しだけ上げた。「なかなか見る目あるじゃないか」「旦那様と奥様のためにここまでして、本当にありがとうございます」池田の声には、素直な感謝が滲んでいた。「まったくだよ。医者が用心棒まで兼任して、いずれ文翔には給料二人分払ってもらわないとな」明は軽く鼻を鳴らし、不満げに言った。池田は、喜多村先生が口は悪いが情に厚い人だと知っている。思わず敬意を込めて言う。「陰で気を配ってくださってますよね、喜多村先生」「大げさだ」明は手を振り、眉を上げた。「まさか、あの長沢社長が気づいてないとでも?」実際のところ、文翔はとっくに気づいていた。明がわざとやっていることも、わざと自分に「行く口実」を与えていることも。本当は最初から、文翔自身が餃子を紗夜のところへ持って行くつもりだった。ただ、さっき喧嘩したばかりで、彼女に歓迎されないのが怖かっただけだ。「あいつは考えすぎなんだよ。しかも前後左右を気にしすぎる」明は肩をすくめる。「会いたいなら会えばいいのに。余計なことばっかして、ほんと面倒くさい」その頃、「面倒くさい」長沢社長は、部屋の前に立ったまま中へ入らず、足を止めていた。――ドクン、ドクン。速く、力強い心音が聞こえてくる。まるで小さな馬が駆けているような、生命力に満ちた音だった。文翔の静かな瞳の奥に、かすかな光が走る。「胎児の心拍はとても力強いですね。生命力のある赤ちゃんです。きっと大丈夫ですよ」医師はそう言って、レコーダーを紗夜に手渡した。「ありがとうございます」紗夜はレコーダーを大切そうに握りしめ、心音を聞きながら、目元を潤ませた。半開きのドア越しにその姿を見つめる文翔の瞳に、複雑な感情がよぎる。医師は薬箱を片付けて立ち上がり、ドアを開けると、そこに立つ文翔を見て少し驚いた。「長沢社長」「お疲れ」文翔は軽く頷く。「運転手に送らせるよ」医師はさらに驚いた。長沢社長の運転手が送る――それだけで、今日の機嫌が悪くないことが分かる。彼女は外へ出て、静かにドアを閉めた。部屋には、紗夜と文翔の二人だけが残された。紗夜はレコーダーを丁寧にしまった。その仕草から、どれほど大切
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第383話

文翔は、彼女の警戒に満ちた様子を見て、心の中で小さく溜息をついた。今の自分が、紗夜の中でほとんど信頼されていないことは、嫌というほど分かっている。だから無理に踏み込むことはせず、静かに言った。「......ゆっくり休め」そう言い残し、部屋を出て行った。紗夜はほっと息をつき、レコーダーを取り出して耳元に当て、再生ボタンを押した。赤ちゃんの心音が耳に響き、それだけで胸が満たされるような安らぎを覚える。夜11時半。書斎で海外との会議を終えた文翔は、張りつめていた眉間を指で揉んだ。「旦那様、コーヒーです」池田がカップを差し出す。一口飲んだ文翔は、わずかに眉をひそめた。池田は慌てて尋ねる。「お口に合いませんでしたか?」「いや、悪くない」淡々と答えたが、紗夜が淹れたものほどではない、というだけだ。ふと、昔の光景が脳裏をよぎる。紗夜が父親の件で時間を稼ぐために、わざわざコーヒーを持って書斎に来て、彼の膝に座り、キスをして、そしてこの机の上で――――いけない、考えが逸れすぎた。文翔は我に返り、尋ねた。「彼女は、もう寝たか?」「一時間ほど前にお休みになりました」池田が答える。文翔はカップを置き、主寝室へ向かった。灯りを落とした室内は薄暗く、外から差し込む月明かりが、紗夜の穏やかな寝顔を照らしている。まるで眠れる姫のようだった。音を立てないようにベッドへ近づき、布団から出ていた彼女の手をそっと戻し、掛け直す。そのまま、彼女の寝顔をじっと見つめた。ふと、枕の下から少し覗いているレコーダーが目に入る。手に取り、耳に当てて再生した。静寂の中で、赤ちゃんの心音がはっきりと響く。文翔の瞳に波紋のような揺らぎが広がり、目尻が赤く滲んだ。彼女の小さなお腹に視線を落とし、低く掠れた声で呟く。「ごめん。パパは、お前を愛していないわけじゃない。ただママのことを......もっと愛しているだけなんだ」レコーダーを長い間握りしめ、何度も何度も再生した。やがて、唇にごく淡い笑みが浮かぶ。元の場所へ戻そうとしたとき、眠っていた紗夜が小さく声を漏らし、左手を外へ伸ばした。その手首にあるブレスレットが目に留まる。初めて会ったときから、彼女はずっとそれを身につけていた。
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第384話

「どうしたの?」紗夜は眉をひそめた。「まさか、反故にする?」「いえ」ボディーガードは淡々と答える。「旦那様のご指示で、奥様は外出して構いませんが、我々が後方から随行し、警護に当たるようにとのことです」そう言うと同時に、彼らは車両を手配し、紗夜たちの車の後ろにつけた。紗夜は指先に力を込めた。――警護、とは名ばかりで、実際は監視だ。「お母さん、もう行こう」理久はそこまで深く考えていない。ただ、母が一緒に保護者会に来てくれる、それだけで十分だ。――これで、クラスメイトに母を紹介できる。小さな手に引かれ、紗夜ははっと我に返り、ボディーガードたちのことは一旦脇に置いた。とにかく、まずは外に出る。あとは、改めて機会を探せばいい。車はすぐに理久の学校へ到着した。紗夜が降りると、後ろのボディーガードたちが即座に動き、左右に並んでついてくる。全員スーツ姿で、黒々とした圧迫感が一気に広がった。周囲の人たちは思わず距離を取り、子どもの中には興奮気味に親へ言う子もいる。「ママ見て!マフィアのボスみたい!」紗夜は口元をわずかに引きつらせ、先頭のボディーガードを見た。「そんなに近くにいなくてもいいでしょ。ほかの子たち、怖がるから」「旦那様のご指示です」ボディーガードは感情を交えず答える。「すべては奥様の安全を最優先に、とのことです」――まったく話が通じない。紗夜はそれ以上言うのを諦め、理久の手を引いて教室へ向かった。理久はもう待ちきれない様子だった。教室の中に、あの子の姿を見つけるなり、紗夜の手を離して駆け出す。「瑚々!」紗夜は一瞬、足を止めた。――瑚々?ただの同名?そう思いながら近づき、理久と話している瑚々の顔を見た瞬間、彼女の目に驚きと喜びが広がった。本当に、瑚々だった。理久は瑚々を連れて紗夜の前へ来る。「紹介するね。この人は、ぼくの......」「紗夜お姉ちゃん!」瑚々が興奮した声を上げ、理久が反応する前に両腕を広げて紗夜の脚に抱きついた。「すっごく会いたかった!」紗夜の顔に、自然と笑みが浮かぶ。瑚々の頭を撫でながら言った。「私もよ」隣の理久は、大きな目をさらに丸くしている。「お母さん、この子と知り合いなの?」
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第385話

ただ紗夜は、文翔に関する話題をそれ以上広げることはしなかった。今、彼女が気にしているのは、前回の式典で海羽に起きた出来事だ。海羽は自尊心が強い人だ。だから紗夜は遠回しに、そっと尋ねるしかなかった。「元気にしてる?」「うん、絶好調」海羽は笑ってみせ、目の奥をよぎった一瞬の寂しさを押し隠し、軽い口調で続けた。「このところ仕事もあんまりなくてさ。ちょうど瑚々と一緒にいられる時間が増えたの。前はちゃんと付き合ってあげられなかったから、今は思いきり甘えさせてる」「でも海羽、保護者会に出るのって、本当に大丈夫?その、立場的に......」紗夜は、パパラッチに撮られて仕事に影響が出ないかを心配していた。「大丈夫よ」海羽は口元を緩める。「この学校、情報管理がかなり厳しいよ。それに、女優が子どもを持ってたって、別にスキャンダルでもないでしょ」もともと公表していなかったのは、一輝を避けるためだった。でも、もう彼には知られてしまった。今さら隠れる必要もない。気をつけるべきなのは、一輝と瑚々を会わせないこと、それだけだ。「もう二度と関わるな」――あのとき一輝が言った言葉が、脳裏によみがえる。彼女は自分の女優人生を賭けて、ようやく完全に縁を断ち切ったのだ。爛上に行かなければ、一輝と顔を合わせることもほとんどない。そう思うと、むしろ気持ちは楽だった。少なくとも、瑚々は守れたのだから。彼女にとって、瑚々以上に大切なものなどない。そう思うと、海羽の笑みはさらに深くなった。紗夜は、彼女が心から笑っているのを見て、ようやく胸をなで下ろした。だが、ふと思い出したように海羽の手を掴む。「ねえ、スマホ......ちょっと貸してもらえる?」長沢家では、誰も彼女にスマホを渡そうとしなかった。まるで意図的に、外界の情報から遮断しているかのように。それが、紗夜の不安を煽っていた。――もしかして文翔、何か隠してる?「どうかした?」海羽はそう言いながら、スマホを差し出した。紗夜は答える間もなく、未怜の番号を思い出し、すぐに発信した。10秒ほどで、相手が出る。「もしもし?」「未怜?私、紗夜よ」紗夜は急いで名乗った。「紗夜?」未怜の声が一瞬戸惑ったようになる。「
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第386話

ボディーガードたちはその言葉を聞き、互いに視線を交わした。油断はできない。「わかった。どうせ職権乱用でしょ」海羽は鼻で笑い、スマホを取り出した。「今すぐ長沢に電話して、あんたたちのやってることがどれだけ異常か教えてあげよう。奥さんがトイレに行くのまで付き添うなんてね。あの変態じみた性格の人だもの、目玉くらい平気で抉り出すんじゃない?」そう言いながら、文翔の連絡先を探し始める。さすがにボディーガードも折れた。大きく一歩後ろへ下がり、紗夜に向かって丁重に言う。「我々は命令に従っているだけです。どうか、早めにお戻りください。これ以上は困りますので」紗夜は何も答えなかった。彼らを困らせなければ、その分、困るのは自分だからだ。彼女は身を翻し、海羽と一緒にトイレへ入った。中に入るなり、海羽が事情を聞こうとした。「紗夜ちゃん、いったい何が......」「海羽、お願い。助けて」紗夜は彼女の手を強く握った。海羽は一瞬言葉を止め、紗夜の瞳に宿る必死な願いを見て、同じように手を握り返す。「わかった。任せて」外では、ボディーガードたちが落ち着かない様子で行ったり来たりしながら、腕時計を確認した。「もう二十分近く経つぞ。奥様が出てこない」「奥様!」外から声をかけるが、返事はない。「中を確認しろ!」扉を押して中へ入った瞬間――その背後から、突然人影が飛び出した。「そこだ!」振り向いたその瞬間、相手は防犯スプレーを噴射した。「ぐあっ......!」体格のいい四人のボディーガードが、唐辛子成分にやられ、目を押さえてうずくまる。その隙に、相手はドアを開けて外へ飛び出し、モップを取っ手に引っかけて扉を塞ぎ、彼らを中に閉じ込めた。「まずい!逃すな!」紗夜を逃がしてしまったら、文翔が黙っているはずがない。一人が力任せに扉を引き、モップごと引きちぎった。だが、先ほどの混乱で時間を取られ、紗夜はすでに遠くへ行ってしまっていた。「いたぞ!奥さまだ!」誰かが指差した先、長い廊下を走る人影があった。紗夜と同じワンピースを着ている。彼らはすぐに追いかけた。訓練を積んだボディーガードに、一般人が敵うはずもなく、すぐに追いつく。「奥様!」進路を塞いだそのと
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第387話

「おめでとう」仁は文翔のそばへ歩み寄った。「ようやく、あれほど思い描いていた席に座ることになる。気分はどうだ?」「別に」文翔の声には、何の感慨もなかった。その地位は、彼にとって単なる目標のひとつにすぎず、切望していたわけでもない。ましてや、「あれほど思い描いていた」などというものでもなかった。彼が心の底から想い続けていたのは、始めから終わりまで、ただ一人だけだ。「そういえば、この寺はよく当たるって聞きますよ」一輝が口を挟んだ。「願い事は何でも叶うとか。せっかく来たんですし、お二人もいかがです?」「いや、遠慮しておくよ」仁は穏やかに断った。「俺も文翔も、仏には頼らない主義なので」だが、その言葉が終わる前に、文翔はすでに仏像のほうへと歩き出していた。仁の目に、わずかな驚きがよぎる。文翔は線香を手に取り、まっすぐ本殿へ向かった。本殿の中は、沈香の香りに満ちている。主尊の仏像は静かに座し、慈悲深く穏やかな表情を浮かべていた。金色に輝くその仏身は、堂内の灯明に照らされ、静かに光を放っている。文翔は線香を両手で捧げ持ち、仏前に膝をついた。表情は真摯そのもの。低く、しかし誠実な声で、仏に願いを告げる。「どうか。妻がこの先の人生を、病なく健康に過ごせますように。妻があらゆる災厄を退け、憂いなく過ごせますように。我ら夫婦が年を重ねても離れず、常に共にありますように」商業界では冷酷な決断を下してきた男が、今この瞬間、仏の前に跪き、心からの祈りを捧げ、深く頭を下げた。仁は、そのまっすぐな背中を見つめ、口元に安堵の微笑を浮かべた。一輝が仁を見て言う。「瀬戸内社長も、お願いしてみては?」「いや」仁は笑った。「俺の願いは、だいたいもう叶ってる。これ以上、欲張ることもないさ」文翔は参拝を終えただけでなく、札を一枚受け取り、そこに丁寧に文字を書き、寺の前に立つ古木の枝へと掛けた。すべてを終えたとき、彼の脳裏に浮かんだのは、紗夜の姿だった。思わず、唇の端が柔らかく上がる。今すぐにでも戻って、彼女のそばにいたい。たとえ追い出されても、椅子を持って外に座り、ただ一目、彼女を見ることができれば、それでいい。彼女が自由を愛していることを、彼はよく知ってい
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第388話

あの日の光景は、まるで悪夢のように、彼女を深く縛りつけて離さなかった。紗夜の背中には冷たい汗がにじみ、呼吸すら一瞬止まってしまう。――だが次の瞬間。海羽がアクセルを踏み込み、交差点を抜けたとき、後方の二台の黒い車は、突然割り込んできた大型トラックに進路を遮られた。追跡してきた黒い車は、そのまま足止めを食らう形になった。頭の中を埋め尽くしていた長いノイズが、この瞬間、ふっと途切れたようだった。紗夜は一瞬呆然としたが、反応する間もなく、前方の交差点に今度は二台の白い車が現れ、行く手を塞いだ。――あの四人のボディーガードだ。海羽はやむを得ずブレーキを踏み、舌打ちする。「くそっ、追いつくの早すぎでしょ。どうやって行き先が分かったのよ?」二人のボディーガードがすぐに車の外に立ち、丁寧ながらも有無を言わせぬ口調で告げた。「奥様、車から降りてください」紗夜は指先をきゅっと握りしめる。「どうする?」海羽が眉をひそめた。「本当に降りる?」「いいえ」紗夜は前方の二台の白い車と、必死な表情で彼女の安全を守ろうとしているボディーガードたちを見据え、一切の迷いもなく言い切った。「ぶつけて」「え?」瑚々がぱちぱちと瞬きをする。「ぶつける......?」「ええ」紗夜は視線を逸らさず、淡々と、しかし揺るぎない声で繰り返した。「大丈夫。ぶつけて」海羽は一瞬言葉を失ったが、すぐに意図を悟る。「了解。いくわよ!しっかり掴まって!」海羽の赤い唇が、どこか挑発的な弧を描いた。紗夜はシートベルトを強く握り、心臓が激しく跳ねるのを感じていた。無謀に死にに行くつもりはない。――これは、賭けだ。次の瞬間、海羽はアクセルを床まで踏み抜いた。エンジンが唸り、タイヤが路面を削り、黒い痕跡を残しながら、車は一直線に白い二台の車へ突っ込んでいく。「まずい!」運転席のボディーガードが目を見開いた。文翔からは、何があっても紗夜を傷つけるな、と厳命されている。衝突寸前、彼らは即座にバックに入れ、左右へと退いた。彼女たちの車は、その隙間を一気にすり抜け、一瞬で彼らを後方へ置き去りにした。「やった!」海羽が興奮気味に口笛を吹く。「スリル満点じゃない!」こんな場面を体験したの
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第389話

海面にきらめく波光が、ことごとく彼の身体に映り込み、幻なのか現実なのか判然としなかった。だが、耳をつんざくほどのローター音が、彼女を呆然とした状態から引き戻す。――本当に、文翔だ。しかも、これほど距離が離れているにもかかわらず、彼女ははっきりと感じていた。距離など意にも介さない、その圧迫感を。彼は、彼女を連れ戻すためだけに、爛上から追ってきたのだ。紗夜は眉をひそめた。車はすでに橋の半分以上を走っている。その瞬間、強烈に引き返したい衝動に駆られた。――けれど、橋の上ではUターンはできない。そして彼女は、あらかじめ彼によって用意された檻へと、自ら乗り込んでいくかのようだった。もう後戻りは許されない。海羽は紗夜の表情に気づかなかった。彼女自身の胸にも嫌な予感が広がっていたからだ。案の定、橋を下りた瞬間、数台の車が行く手を塞いでいた。しかも、先ほどのように強行突破されないよう、地面にはスパイクまで敷かれている。海羽は慌ててブレーキを踏み、慣性で身体が前に傾いた。額に落ちた前髪が視界を遮り、手でかき上げた瞬間、前方に立つ二つの人影が目に入った。一人は、陰鬱な表情をした文翔。もう一人は、一輝だった。一輝はどこか他人事のような、見物に来たかのような態度だったが、フロントガラス越しに運転席の人物が海羽だと分かると、目を細めた。海羽の心臓が、ぎゅっと跳ね上がる。咄嗟に瑚々を隠そうとしたが、声をかける前に、瑚々はチャイルドシートのベルトを外し、小さな身体を乗り出して不思議そうに言った。「ママ、どうして急に止まったの?」返事がないことに首を傾げ、瑚々は海羽の視線を追って前を見た。そこには、背が高くて格好いい男が二人立っていた。一人は表情を変えず、もう一人は、彼女と目が合った瞬間、顔色がはっきりと変わった。文翔は大股で歩み寄ってきた。紗夜はすぐに窓を閉めようとしたが、彼は一歩早く窓枠を掴み、力任せに押さえつける。彼の手の甲には、すでにかさぶたになった痕があり、四つ並んだ骨張った関節や指先には、細かな傷が無数に残っていた。その光景に、あの日、文翔が命がけで駆け寄り、素手で車窓を叩き割って彼女を救い出した場面が脳裏に浮かぶ。紗夜は一瞬、動きを止め、やがて窓のボタンから指を
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第390話

紗夜は、彼の赤くなった目元を見つめた。本当は、彼に問いただしたかった。何も言わずに自分を家に閉じ込め、スマホ電話すら渡さず、外界との一切の繋がりを断ち切って――そんな彼はいったい、何がしたいのか、と。だが、それらの答えは、今の彼女にとって何の意味もなかった。紗夜は文翔の視線を真っ向から受け止め、冷え切った声で、彼の心臓に突き刺すように言った。「文翔のそばにいたくないし、縛られるのも嫌。どこでもいい。とにかく、文翔のいないところに行きたい」――文翔のいないところに行きたい。文翔は、自分の心臓を刃物で貫かれたような感覚に襲われた。あの日、全身傷だらけになったときの痛みなど、比べものにならないほどだった。「させない!」彼は歯を食いしばり、声を荒らげる。「そんなこと、させないぞ!」紗夜は、その表情に思わず身構えた。今の彼は、まるで咆哮する猛獣のようだった。瞳には血の色と殺意が宿り、見ているだけで背筋が凍る。また、何か常識外れなことをするのではないか――そう思った瞬間、文翔は無理やりすべての感情を押し殺し、彼女から手を離した。そして隔板を下ろし、運転手に冷ややかに命じる。「家まで運転しろ」運転手は一瞬、言葉を失った。長年の経験から、これから嵐が来るはずだと感じていたのに――すべてが、そこで止まったのだ。「早くしろ!」文翔は怒鳴りつけるように言った。まるで紗夜への怒りを、そのままぶつけるかのように。運転手は驚いて、慌てて車を発進させた。「駄目!まだ帰らないから!」紗夜は焦って声を上げる。「病院に行くの。お父さんに会わせて!」ドアを開けようとした瞬間、文翔に手首を掴まれ、身動きが取れなくなる。「放して!」彼女は必死に振りほどこうとするが、力は逆に強まった。「少し会うだけなの!」「何度も言っただろう。お前の父親は無事だ」文翔は眉をひそめて答える。「じゃあ、どうして会わせてくれないの?」紗夜は鋭く問い返した。文翔は一瞬、言葉を詰まらせ、やがて冷えた声で吐き捨てる。「あいつを、楽にさせたくないからだ」紗夜は呆然とした。その言葉には、冷酷さと剥き出しの憎しみが滲んでいた。「どうして極悪非道な殺人犯が、何事もなかったように出てき
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