父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した? のすべてのチャプター: チャプター 401 - チャプター 410

503 チャプター

第401話

海羽は顔色を変えた。彼女は思い出していた。あのとき、一輝に「自分は完全に利欲に目がくらんだ詐欺師」と思わせるために、山ほど嘘を並べ立てたことを。その中には、「子どもを捨ててもいい」などという言葉まで含まれていた。けれど、まさか――あのときは一輝が激怒してその場を去ったというのに、今になって、彼がそれを受け入れるとは、夢にも思っていなかった。「......いったい、何を企んでるの?」海羽の声は冷えた。突然、彼のことがよく分からなくなった気がした。縁を切ると言い出したのは彼自身だったはずだ。それなのに、再会するなり有無を言わせず彼女と瑚々を車に押し込んだ。しかも今は、どこか面白がるような目で彼女を眺めている。だが一輝は答えず、視線を瑚々へと移した。「ねえ、君。名前は?」瑚々は眉をひそめ、口をきかなかった。顔が良いからって何だというの。――ママをいじめる人は、極悪非道の大悪党だ。こんな悪いおじさんと話すなんて、絶対イヤ。黙り込んだままの瑚々に、一輝は苛立つ様子もなく、穏やかな笑みを浮かべた。ただし、その言葉にはわずかな威圧が滲んでいた。「ちゃんと答えないなら、ママに違約契約書を渡すことになるよ。そうなると、多額の違約金を払わなきゃいけない。払えなかったら......君を売るしかなくなるかもしれないね」「......!」「売られる」という言葉を聞いた瞬間、瑚々の目に涙が溜まった。「一輝!」海羽は、彼がこんな切り札を残していたことも、それを子どもの前で口にすることも予想していなかった。「いい加減にして!」「ただ話をしたいだけだよ。傷つけるつもりはないんだ」一輝は平然と問い返す。「そんなに慌てるってことは......聞かれたら困ることでもあるのか?」海羽は一瞬言葉を失い、顔を背けた。彼の卑劣な表情を直視したくなかった。「何言ってるの。そんなわけないじゃん」「それならいいが」一輝は唇をわずかに引き、再び瑚々を見る。「聞いた?ママはそんなわけないって。だから、大金を払わせたくないなら、ちゃんと質問に答えてくれる?」口調はあくまで穏やかだったが、海羽の目には、舌を出して威嚇する毒蛇のように映った。瑚々は服の裾をぎゅっと掴んだ。幼くても、状況は
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第402話

あの程度の資源のために、身を削って産んだ娘を売るはずがない。彼女は、二度と芸能界に足を踏み入れなくなったとしても、娘を取引材料にするくらいならそのほうがましだ。「見事だね、『互いに干渉しない』だの、『わきまえている』だの」一輝は鼻で笑った。「海羽、俺たちだって五、6年は一緒にいたんだ。愛情がなくても......身体で情くらいはできただろ」「ちょっ......何を言ってるの!」海羽は慌てて遮り、瑚々の耳を塞いだ。「今さら恥ずかしくなった?」一輝の声には皮肉がたっぷり含まれている。「忘れたとは言わせないぞ。あのときお前は、『大切な親友』のために、自分から俺の膝に乗ってきて、子どもを産んでやるってまで言ったじゃないか」「一輝!」海羽は声を荒らげて遮り、怒りと焦りで顔を真っ赤にした。「いい加減黙って!」どうしてこの人は、子どもの前でこんな話ができるのか。一輝は、彼女が必死になって怒鳴りつけてくる様子を、余裕たっぷりに眺めていた。彼はこの表情が好きだった。この女はあまりにも理性的で、冷静で、そして残酷なほど決断が早い。欲しいときは迷わず手を伸ばし、去ると決めたら一切振り返らない。まったく、手の打ちようがない。だが同時に、少しばかり意外でもあった。あのとき彼の前で語った、「利益のためなら自分の子どもさえ捨てられる」という言葉は、あまりにも真に迫っていて、吐き気がするほどだった。それなのに今は、ここまで必死にこの子を庇っている。あまりにも矛盾している。一輝は目を細め、海羽を見つめた。妖艶さと凛々しさを併せ持つその顔立ちは、まさに天に恵まれていて、生まれつき大スクリーン向きだ。そのうえ、圧倒的な演技力で名だたる大御所たちを抑え、初ノミネートで国際映画祭の主演女優賞を勝ち取った。プレミア上映のとき、彼は中央の席に座り、彼女の映画を観ていた。演技は、確かに見事だった。――待てよ。女優賞、演技......一輝はふと動きを止め、表情が微妙に変わった。その変化に気づいた海羽は、胸騒ぎを覚え、反射的に瑚々を背中へとかばった。「海羽、お前の演技は本当にうまいな」一輝は軽く笑った。その一言だけで、海羽には分かった。彼はもう気づいている。――あのとき、自分が意図
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第403話

「パパ......?」瑚々はぱちりと瞬きをした。「瑚々......」海羽が止めようと口を開いた、そのとき。瑚々は小さく首を横に振り、どこか寂しさを含んだ声で言った。「瑚々、パパがいないの」「いない?」一輝の目の奥に、意味深な光が一瞬走り、海羽へと視線が向けられた。「そうなのか?」海羽は反射的に喉を鳴らしたが、何事もないふうを装って答えた。「取るに足らない元カレよ。私の娘の父親を名乗る資格なんてないから」「どの元カレだ?」一輝はさらに食い下がる。「あんたには関係ないわ」海羽の声は冷えきっている。「そんなことまで話すほど、私たち親しい間柄だっけ?」一輝は鼻で笑った。――この女、よりにもよって「親しくない」と言いやがった。「海羽......お前は本当に恩知らずだな」一輝は奥歯に舌を押し当て、鋭い視線で彼女を射抜いた。その目つきは、今にも八つ裂きにしそうなほどだった。海羽は顔を背ける。「降ろして。じゃないと警察に通報するわ!ここは京浜よ、爛上じゃない。あんたのテリトリーじゃないのよ」だからこそ、彼女は瑚々を連れて京浜まで来たのだ。少なくとも、ここには一輝の影響力がそれほど及んでいない。そう言いながら、彼女はスマホを取り出し、緊急通報の番号を押す素振りを見せた。「停めろ」一輝はようやく折れた。車は路肩に停まり、瑚々は大きな目で一輝をじっと見つめた。まるで観察しているかのように。だが、その視線が長く続く前に、海羽は彼女の手を引き、ドアを開けて降りようとした。海羽の手がドアノブにかかった瞬間、一輝の手がその手の甲を押さえた。「瑚々の誕生日は、いつだ」そう問いかける。海羽は一瞬怔み、眉をひそめて手を引き抜いた。「瀬賀さん、質問はもう終わったはずよ」「俺はお前に聞いている」一輝は探るような目で彼女を見据え、冷ややかに言った。「瑚々の誕生日は?」海羽の瞳に一瞬、揺らぎが走ったが、すぐに押し隠した。「8月25日」一輝は眉を寄せた。8月25日。そこから十一か月遡っても、彼女と関係を持っていた時期とは合わない。「だから言ったでしょう。瑚々はあんたの子じゃないって」海羽の声には、露骨な嘲りが滲んでいた。「瀬賀さん
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第404話

海羽の胸の奥に、かすかな罪悪感がよぎった。だが次の瞬間――「ママはぜんぜんわがままじゃないよ」瑚々は顔を上げ、海羽の頬にちゅっとキスをした。その目は三日月のように弧を描いている。「瑚々はママが大好き!ずっとママのそばで、ママを守るんだから!」幼い声で、まっすぐな誓いを口にする瑚々を聞いて、海羽は笑った。目尻にはうっすらと涙が滲み、彼女はさらに強く娘を抱きしめる。「ママも、瑚々が大好きよ」海羽は娘を抱いたまま、街灯の下をゆっくりと歩いていった。灯りは二人の影を長く地面に伸ばし、暖色の光が横顔をいっそう柔らかく照らし出して、ほのかな温もりをまとわせている。そのずっと後方には、ストレッチリムジンが静かに走っていた。車内で一輝は、遠ざかっていく母娘の背中を見つめていた。その瞳の奥には、羨望の色と、どこか満たされない寂しさが交じっている。彼の手元でスマホが鳴り続けていた。詩織からの着信だが、出る気はまったくなかった。そのまま放置し、やがて着信音は消え、画面には不在着信の通知だけが残る。――と、次の瞬間、運転手のスマホが鳴った。運転手は慌てて電話に出ると、恭しく応じ、その後、仕切り板を軽くノックした。「何だ」一輝は仕切り板を下ろし、素っ気なく尋ねる。「薫様からです。どうしても一輝様にお電話を、とのことです」一輝は不機嫌そうに唇を結びつつも、結局電話を受け取った。「今日は家族の食事会でしょう。どこに行ってたの?」一輝の母親・瀬賀薫(せが かおる)の詰問が飛んでくる。「会社で急用があった。多分間に合わない」一輝は適当に答えた。「急用?」薫は鼻で笑う。「私の前で嘘はやめなさい。あなたの母親よ、分からないとでも思ってるの?詩織と一緒に出たくなかっただけでしょう」「全部分かってるなら、聞く必要もないだろ」「一輝!」薫の声が鋭くなる。「またあの女に会いに行ったんでしょう!?結婚式を何度も延ばしてるのは、その女のせいなの?」一輝は答えず、少し痛む目元を指で押さえた。頭の中には、瑚々の誕生日が浮かんでいる。それはちょうど、彼が海外事業の処理で出国していた年だった。思いもしなかった。自分が出た途端、海羽という女がすぐ別の男と付き合い、しかもあんな
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第405話

文翔がその言葉を口にする前に、縛られていた男が突然くぐもった声を上げ、必死に首を横に振って制した。文翔は一瞬怔み、喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。「誰が声を出していいと言った!」永井は苛立たしげに怒鳴り、男の頬を平手打ちした。その様子を見て、文翔の傍らにいたボディーガードたちが前に出ようとする。「動くな!一歩でも近づいたらどうなるか分かってるだろ!」永井は男の背後に身を隠すように回り込み、素早くナイフを取り出して男の喉元に突きつけた。文翔はそこでようやく手を上げ、護衛を制止した。視線の端で、彼はその男を見やる。頬は殴られて血が滲んでいたが、その表情は揺るがない。何度も暴行を受け、全身に傷を負い、シャツを染めた血もすでに乾いているというのに、恐怖の色は微塵もなかった。文翔は胸に込み上げる衝動を必死に押さえ込み、まるで見知らぬ他人を見るかのような目で彼を見つめる。そのとき、中島が冷ややかに口を開いた。「どこの誰とも分からない無関係な人間を連れてきて、長沢社長を脅せるとでも思っているんですか?」「無関係だって?」永井はくすりと笑い、男の顎を掴んで無理やり文翔の方へ向かせる。そして、平然と男の頬を何度も叩きながら言った。「こいつの名前は雄史(ゆうじ)だ。長沢社長、本当に覚えていないのか?育ての恩、というものがあるはずだが......」中島の瞳に困惑が走る。永井が何を言っているのか、まったく理解できなかった。文翔は脇に垂らした拳を強く握り締めたが、表情は冷えたままだ。何事もなかったかのように話題を変える。「どうやって刑務所から出てきた?」「それはもちろん、あんたのご親戚のおかげさ」この話題になると、永井の笑みはいっそう深まり、声にも得意げな色が滲んだ。「どうやら、長沢家じゃあんたの人望も大したことないらしいな。これだけ多くの人間が、あんたを始末したがっている」永井は嬉しくてたまらなかった。自分と同じように、文翔を目の上のたんこぶ、喉に刺さった棘のように憎み、消し去りたいと願う者が、これほどいるのだから。だが、誰も表立って文翔に手を出す勇気はない。だからこそ、彼らは文翔を骨の髄まで憎む自分を牢から出し、復讐をさせようとしたのだ。「利用されてるって分かって
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第406話

「ながざわ――!!!」永井は腕の激痛に額の血管を浮き立たせ、ナイフを握っていられず、がしゃんと音を立てて地面に落とした。「甘く見てたみたいだな!」「今すぐ手を引け。引けば、綺麗なまま殺してやるよ」文翔の声には、感情の起伏が一切なかった。ナイフを失った以上、永井は雄史にとどめを刺すことはできない。あとは包囲して、時間をかけて終わらせるだけ――のはずだった。だが永井は突然笑い出した。「ははははは!長沢、俺がこれ一手しか用意してないとでも思ったのか?」言い終わると同時に、雄史の顔色がさっと青白くなり、続いて黒い血を一口、吐き出した。文翔の表情が一変する。「これこそが、あんたに用意した最大のサプライズだ!」永井は片手で瀕死の雄史を引き起こし、自分の前に盾のように突き出した。生身の盾がある以上、ボディーガードたちは撃てない。文翔の常に冷静だった顔に、初めて亀裂が走るのを見て、永井の愉悦はさらに膨らんだ。「まだ始まったばかりだ!あんたが大切にしている人間は、一人残らず逃がさないからな......!」高笑いしながら、永井は工場の外に警察車両が集まり始めているのを見ると、すぐさま雄史を掴んだまま後退した。「永井、もう逃げ場はない!大人しく投降してください!」中島が叫び、周囲のボディーガードたちが一歩一歩距離を詰め、包囲網を狭めていく。「投降だと?」永井は冷たく鼻で笑い、背後に広がる荒れ狂う漆黒の川を一瞥すると、まるでゴミでも捨てるかのように、用済みとなった雄史を放り投げた。ボディーガードたちが即座に駆け寄り、雄史を受け止める。その瞬間、文翔は再び腕を上げ、引き金を引いた。だが、手の傷のせいで弾道が逸れ、致命傷にはならず、相手の肩を撃ち抜いた。永井は呻き声を上げ、身体を大きく仰け反らせ、そのまま後方へと落下し――ドボン、という音とともに、激流の闇へと飲み込まれていった。「追え!死んでいても必ず遺体を見つけろ!」警察車両から慌ただしく降りてきた千歳が叫ぶ。廃墟となった階段を駆け上がり三階に辿り着いた彼の目に映ったのは、吐血して倒れる男のもとへ、よろめくように駆け寄る文翔の姿だった。千歳の瞳に、一瞬の驚愕が走る。――彼は、文翔がこんな表情を浮かべるのを、これまで一度
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第407話

窓の外では雨脚が次第に強まり、紗夜は理久の宿題を手伝いながら、使い終えた道具を片づけていた。理久は、窓の外で筋になって流れ落ちる雨水を眺めながら言った。「雨すごいね。神さまが泣いてるの?」「そうかもしれないわね」紗夜はわずかに唇を緩めた。子どもの想像力は、いつだって豊かだ。「奥様、夕食の準備ができました」池田が声をかけてくる。紗夜は軽くうなずき、理久と一緒にダイニングへ向かった。稲妻が空を裂き、轟音とともに雷が炸裂する。理久はびくっとして、紗夜の脚にしがみついた。「お母さん、こわい......」「大丈夫よ。ただの雷だから」紗夜は優しい声でなだめながら、横目で外の雨を見やった。まるで空に大きな穴が開いたかのように、すべての水がそこから一気に流れ落ち、街全体を瞬く間に霞んだ雨の幕で包み込んでいた。「こんな時間なのに、旦那様はまだお戻りにならないんですか?」執事は両手を組み、何度も外を気にする様子で、不安そうに言った。「何かあったんじゃ......」その言葉に、紗夜の瞳に小さな波紋が広がったが、彼女は静かに席につき、木村が用意した夕食をゆっくりと口に運んだ。不思議なことに、同じお粥なのに、文翔が作ったもののほうが美味しかった気がする。紗夜はスプーンを持つ手を、ふと止めた。「奥様、口に合いませんでしたか?」木村が慌てて尋ねる。「いいえ、大丈夫」紗夜はかすかに口角を引き、食事を続けたが、小さな椀一杯で満腹になった。視線は無意識のうちに玄関へと向かい、どこか上の空だった。その直後――「旦那様!どうして全身びしょ濡れで......手に血まで......!?」執事の悲鳴が響いた。紗夜ははっとして声のほうを見る。そこに立っていたのは、玄関に現れた、すらりとした長身の男だった。だが、いつも商業界で意気揚々と采配を振るうその男は、顔色を失い、虚ろな双眸には血走った赤が滲み、その背後には長い水の跡が床に引きずられていた。――彼は、雨に打たれながら帰ってきたのだ。「パパ、大丈夫?」理久は、こんな文翔を見るのは初めてで、心配そうに尋ねた。文翔は何も答えず、重たい足取りで階段を上っていく。彼の手に付いた血は、腕を伝って床へと滴り落ち、赤黒い濡れた痕を広げ
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第408話

ちょうどその時、執事が乾いたタオルと清潔な着替えを用意して戻ってきて、扉を開けようとした。「ここは私が」なぜかそう口をついて出て、紗夜は手を伸ばした。執事は一瞬だけ動きを止めたが、それ以上は何も言わず、彼女にそれらを手渡して言った。「旦那様のこと、どうかよろしくお願いします」紗夜は一度息を吐き、静かに扉を押し開けて中へ入った。「文翔......?」返ってきたのは沈黙だけだった。稲妻が走った瞬間、その光に照らされた文翔の顔は、ひどく青白かった。紗夜は彼の前まで歩み寄り、半分しゃがんで顔を覗き込む。「何があったの?」いったい何があれば、頂点に立つ男が、ここまで打ちのめされるのだろう。それでも文翔は答えなかった。伏せられたままの瞳は虚ろで、長いまつ毛には水滴がぶら下がっている。それが涙なのか雨なのかは分からない。濡れきった髪の先から水が滴り、彼女のスカートに小さな染みを作った。紗夜は、喉まで出かかった言葉をそっと飲み込み、タオルを手に取って、彼の濡れた髪を拭き始めた。彼は何も言わず、まるで大人しく撫でられる大型犬のように、されるがままだった。外では雨脚がさらに強まり、激しい風が雨を叩きつけ、今にも窓を打ち破りそうな勢いだった。髪を半分ほど乾かしたところで、タオルが足りないことに気づき、紗夜は外に取りに行こうと身を翻した。次の瞬間、冷えた手が彼女の手首を掴んだ。「文翔?」振り返ると、文翔も顔を上げて彼女を見ていた。彼女が行ってしまうと思ったのか、手首を掴む力が徐々に強まる。紗夜は立ち止まり、穏やかに説明する。「タオルを取りに行くだけよ」それでも彼は動かず、手を離そうとしない。紗夜は困ったように彼の指を外そうとしながら言った。「大丈夫。すぐ戻るから」「......行かないでくれ」掠れた声だった。彼はじっと彼女を見つめている。赤く充血した目は水を含んで、今にも涙が零れ落ちそうだった。紗夜は一瞬、言葉を失った。その姿は、まるで捨てられて路地に取り残された、行き場のない犬のようで――あまりにも痛々しかった。まさか「可哀想」という言葉が、文翔に当てはまる日が来るとは思ってもみなかった。彼女が一瞬呆けている間に、文翔は身体を寄せ、もう一方の
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第409話

どれほど時間が経ったのか分からないうちに、外の雨はいつの間にか止んでいた。蓮の葉に溜まった水滴が葉脈に沿って滑り落ち、ぽたりと水面に落ちて、幾重もの波紋を広げる。朝の陽光が雲間を抜け、客間の寝室へと差し込み、ベッドを照らしていた。文翔はすでに濡れていた服を着替え、目を閉じて規則正しい寝息を立てている。腕は紗夜の腰に回され、彼女を抱き寄せるようにして、顎を彼女の後頭部に預けていた。まるで、紗夜の体に残る淡い香りを感じていないと、安らかに眠れないかのようだった。紗夜はすでに目を覚ましている。彼女の方が少し早く起きていて、そのまま起き上がるつもりだったのだが、文翔に抱き留められ、離してもらえなかった。仕方なく身を任せながら、昨夜の光景が脳裏によみがえる。いつもは強引で揺るがない男が、彼女の前に膝をつき、必死に抱きつき、声を殺して泣いていた姿。――「さーちゃん、行かないで......」――「俺にはもう、君しかいない」その口から、繰り返し零れていた言葉。紗夜には、それが理解できなかった。彼女から見れば、彼はあまりにも多くのものを持っている。誰もが羨む家柄と地位、容姿に至っては神様に愛されたかのようだ。彼に「ないもの」など、何があるというのだろう。もしそんな言葉を、一般人の前で口にすれば、きっと嫌味だと受け取られるに違いない。けれど、彼の瞳に宿っていた悲しみは、あまりにもはっきりとしていて、目を逸らそうとしても逸らせなかった。――いったい、何があった?紗夜は身を翻し、彼の方を向いた。眠っている文翔は、驚くほど穏やかだった。いつも周囲を息苦しくさせるような圧迫感はなく、ただ、赤くなった目尻と、頬に残る乾いた涙の跡が、壊れやすさを際立たせている。寄せられた眉は山脈のようで、その一本一本の皺に、深い哀しみが溜まっているかのようだった。紗夜は彼を見つめ、なぜか衝動に駆られて、そっと手を伸ばした。指先が彼の眉間に触れ、その固く結ばれた皺を解いてやりたいと思った。悪夢に囚われた悲しみを、少しでも和らげてやりたくて。その瞬間、文翔がゆっくりと目を開けた。寝起き特有のぼんやりとした眼差しだった。紗夜ははっとして、静かに手を引っ込める。「......起きたの?」文翔は小さく
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第410話

文翔は口元に浮かんでいた笑みを一瞬で消し、無表情のまま明を見やった。「ノックってものを知らないのか?」「いや、あまりに慌てててさ、つい忘れちゃって......」明は乾いた笑いを浮かべながら後ずさりし、「ごゆっくりどうぞ」と言い残して部屋を出ていく。しかも律儀に、扉まで閉めていった。明に水を差され、文翔はわずかに気分を乱されたが、布団に潜り込んだままの紗夜を一瞥すると、目の奥にふっと柔らかな色がよぎった。......リビングでは、千歳がフォークで果物を刺し、口に運んでいた。仁は手に取った本をぱらりとめくりながら、階段を下りてきた明に声をかける。「様子はどうだ?」「心配して損したよ。奥さんといちゃいちゃしてるよ」明は軽く舌打ちする。朝飯はしっかり食べてきたはずなのに、不意打ちで甘い空気を浴びせられた気分だった。その言葉を聞いた千歳は、噛む動作が自然と遅くなり、視線を落とした。「どうした?元気ないじゃん」明はどかっと千歳の隣に座り、片腕で首に絡みつくようにして、にやにやと問いかける。「関係ないだろ」千歳はその手をぱしりと叩き落とした。紗夜にきっぱり断られた時点で、もう望みはないと分かっているし、彼女への気持ちも少しずつ整理してきた。それでも、文翔と紗夜が親密にしていると聞くと、胸の奥が微妙にざわつく。――完全には、吹っ切れていないのだろう。しばらくして、身支度を整えた文翔が階段を下りてきた。「おはよう」「おはよう」仁は彼の様子が悪くなさそうなのを見て、軽く笑う。「もうすぐ十時だけど?」明が呆れたように突っ込んだ。文翔は特に反応せず、彼らのそばのソファに腰を下ろすと、淡々と切り出した。「あの男の後始末は、もう済んだか?」「全部片付いたよ」仁が答える。「ただの漁師だった。結婚歴もなく、身寄りもほとんどない。若い頃に一人養子を取ったらしいが、その後は消息不明で、ずっと独り身だったみたい。家庭関係も至って単純だ」「それが逆に不思議だよな」明は首をかしげる。「狙うなら、関係ある相手を選ぶのが普通だろ」千歳は何も言わず、文翔を見つめた。昨夜、毒が回って息絶えたあの男を抱きしめ、深い悲しみを浮かべていた文翔の姿を見たのは、彼だけだった。気の
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