All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 641 - Chapter 650

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第641話

一週間後、「スパイ・ローズ」は改めてクランクイン発表会を開催した。今回の発表会には、前回を上回る数のメディアが詰めかけていた。彼らの顔からはもはや面白半分の軽蔑は消え、代わりに慎重な敬意と探るような視線だけが残っている。会場の空気には張り詰めた緊張が漂い、誰もが何かを待ち構えていた......一輝はオーダーメイドの黒いスーツに身を包み、真っ先に登壇した。息を詰めて見守る会場の一人ひとりを見渡し、簡潔に告げる。「『スパイ・ローズ』は、瀬賀アミューズメントが単独で出資・制作を行います」言葉が落ちた瞬間、会場は一斉にフラッシュの光に包まれた。続いて彼は手で合図を送る。国内で最も勢いのある商業映画監督――見牧響木が、トレードマークのキャップを被ったまま悠然と登壇し、一輝の隣に立った。【#名監督・見牧が『スパイ・ローズ』正式参加#】というワードが、その場にいる全メディアの神経を一気に刺激する。数日前のトレンドは、決して根拠のない噂ではなかったのだ。見牧はマイクを受け取り、客席に向かって軽く微笑む。「いい脚本に、いい俳優。来ない理由はありません」その一言が導火線となり、会場の好奇心は頂点へと引き上げられた。一輝は落ち着いた様子で続け、視線をステージの脇へと向ける。「本作のヒロインは――」瞬間、すべてのフラッシュが一点に集中した。海羽はシャープな白のスーツに身を包み、長い髪を高い位置でポニーテールにまとめ、10センチのハイヒールでゆっくりと歩み出る。その目は揺るぎなく自信に満ち、全身から放たれる強いオーラに、会場の誰もが無意識に息を呑んだ。それこそが、彼らの知る彼女――カメラの前で常に眩い光を放ち、誰も寄せ付けない女王の姿だった。一輝は彼女を見つめる。再び硬い鎧をまとったその姿を。その瞳の奥に、気づかれぬほどの柔らかな光が一瞬よぎる。彼はメディアに向け、一語一句はっきりと、力強く宣言した。「『スパイ・ローズ』のヒロインは、白鳥さん以外にあり得ません。彼女は選ばれたのではない。彼女が、我々を選んだのです」会場は雷鳴のような拍手に包まれた。「白鳥さん以外にあり得ません」――その言葉は、かつて彼女を追い落とそうとした者たちの頬を打つ、痛烈な一撃だった。海羽はマイクを受
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第642話

爛上の夜は、静まり返っていた。一輝は瀬賀グループ本社ビル最上階のオフィスの大きな窓の前に立ち、すでに様相を一変させた街を見下ろしている。ガラスには彼のまっすぐな姿が映り、その胸中にはすべてを掌握したあとの静かな余裕があった。彼は文翔へビデオ通話をかける。画面が点灯し、端正で冷ややかな顔立ちが映し出された。文翔は長い会議を終えたばかりらしく、指先には火をつけていないシガーを挟み、わずかに疲労をにじませている。「片付いたか?」天気を尋ねるかのような、淡々とした声。「まあな」一輝も無駄は言わない。暗号化されたファイルを送信する。「梅谷家の後始末は、想像以上に見応えがあったよ」文翔はファイルを開き、素早く目を走らせた。それは梅谷グループが破産清算の過程で暴かれた、すべての裏帳簿だった。資金の流れは蛇のように絡み合い、最終的に同じ場所へと収束している――京浜の、長沢家。「君の家の内情は、思っていた以上に賑やかのようだな」一輝は口元をわずかに歪め、かすかな皮肉を含ませる。悦代、宏の残党勢力、そして普段は無欲に見える傍系の親族たち。彼らは梅谷家と不正な資金移動や利益供与を重ねていた。まるで大木に巣食う虫のように、密かに幹を食い荒らしていたのだ。文翔の表情は動かない。ただその資料を中島へ転送した。視線を上げ、画面越しの一輝を見据える。底知れぬ瞳に、ようやく冷たい笑みが浮かぶ。「ちょうどいい。一人ずつ探す手間が省けた」一輝も笑った。頂点に立つ二人の男。数言で通じ合う。「今回の借りは覚えておく」一輝が言う。文翔の声は変わらず平坦だ。「俺は妻の友人を守った。そして君は俺の家を整理した。それで帳消しだ」そして一拍置き。「それより、君の夢見ている『家』は、いつになったら形になる?」一輝の笑みがわずかに固まる。「君には関係ない」そう言って通話を切った。暗くなった画面を見つめながら、文翔の口元はさらに深く弧を描く。一輝は強がりなだけだ。海羽という女性は、遅かれ早かれ彼のものになる。そして自分は――文翔の視線が、スマホのロック画面に落ちる。そこには紗夜の横顔。彼女は陽光の中で花の鉢を世話している。信じられないほど柔らかな光に
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第643話

週末の朝、文翔は珍しく、あの冷ややかなスーツ姿ではなかった。代わりにシンプルな白いカジュアルシャツに着替え、庭でバラの手入れをしている紗夜に声をかけた。「今日は天気がいい。理久を連れて、郊外へ気分転換に行かないか?」紗夜の剪定ばさみを動かす手が、ふと止まった。彼女は顔を横に向け、彼を見つめる。陽光が彼の肩に降り注ぎ、いつも人を寄せつけないあの冷たい雰囲気を、幾分か和らげていた。「お出かけ」と聞いた理久は、すでに家の中から飛び出してきて、紗夜の手を引きながらはしゃいでいる。「うん、いいよ」彼女は最終的に、小さく頷いた。黒いベントレーは一時間以上走り続け、窓の外の景色は高層ビル群から、やがて広々とした原野へと変わっていった。見覚えのある風景が近づくにつれ、紗夜の胸に、言いようのない違和感が広がる。やがて車はゆっくりと停まり、一座の壮大な大橋が、何の前触れもなく彼女の視界に現れた。京浜郊外の、あの橋だ。紗夜の呼吸が、ふっと止まる。この橋はかつて、彼と彼女の間に横たわる、血にまみれた越えられない深い溝だった。ここには彼の親友の命が眠り、そして彼女の父の名誉も葬られている。今では長沢グループの出資によって再建され、橋体は真新しく、堂々とした姿を誇っていた。橋には色とりどりのライトが飾られ、下を流れる川面は陽光を受けてきらめいている。あの耐えがたい過去は、まるで川の水に洗い流されたかのようだった。けれど彼女は知っている。癒えたように見える傷も、骨の奥まで染み込んでいれば、触れればやはり痛むのだと。「ママ、ここ、すごくきれいだよ!」理久が窓に張りつき、嬉しそうに叫ぶ。紗夜は何も言わず、橋を見つめたまま、複雑なまなざしを落とした。いつの間にか文翔は車を降り、彼女の側へ回ってドアを開ける。「中島が理久を近くの農場へ連れていく」彼は彼女を見つめ、声を落とした。「さーちゃん、少し一緒に歩こうか」その瞳の奥に宿る慎重さを見つめ、彼女は結局、断らなかった。二人は並んで橋の歩道を歩く。川風が吹き抜け、ひやりとした空気を運んでくる。文翔は上着を脱ぎ、彼女の肩にそっとかけた。ゆっくりと歩きながら、誰も口を開かない。聞こえるのは川水が橋脚を打つ音と、風のざわめきだけ。
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第644話

川風はなおも強く吹きつけ、紗夜のスカートと髪を揺らしていた。彼女は身をかがめ、指輪を持っていないほうの手を伸ばし、冷たい地面から彼をそっと引き上げる。文翔は息を呑んだ。引き上げられるままに立ち上がったその瞬間、彼はまるで一筋の光を掴んだかのように感じた。彼はその手を強く握り返し、もう一方の腕で彼女をきつく抱きしめる。何も言わず、ただ彼女の首元に顔を埋め、彼女だけの安心する香りを深く吸い込む。しばらくして、彼は耳元に、ひどく大切にするような口づけを落とし、かすれた声で囁いた。「見ていてくれ。俺はもう二度と、失望させないから」......翌朝。紗夜は、どこからともなく漂う焦げた匂いで目を覚ました。隣は空いていて、シーツはすでに冷えている。書斎へ向かうと、文翔が机に向かって座っていた。目の前には白紙が一枚。かつて千億規模の契約に署名してきた万年筆で、何かを一字一字、真剣に書き込んでいる。近づいてその内容を見た瞬間、彼女は足を止めた。【毎日のタスクリスト】一、さーちゃんのために愛情たっぷりの朝食を用意する(焦がさないこと)。二、さーちゃんの送り迎えを時間通りに行う(遅刻しないこと)。三、気持ちを言葉で伝える(少なくとも三回、くどくならないように)。四、就寝前にさーちゃんへマッサージ(事前に技術を学ぶこと)。......あまりに真面目な文字に、彼女はどんな顔をすればいいのか分からない。視線に気づいた文翔は体を固くし、とっさに紙を隠そうとするが、かえって不自然だと気づいてやめた。咳払いを一つ。耳のあたりがわずかに赤い。「起きたのか。顔を洗って。朝食は......できている」そう言うと、逃げるようにキッチンへ向かった。その背中と、書き連ねられたタスクリストを見比べ、紗夜はついにこらえきれず、ほんのわずかに口元を緩めた。ダイニングに座ると、文翔が二皿を持って出てくる。色合いの怪しい炒め野菜と、真っ黒な栄養スープ。「食べてみてくれ」期待と緊張が入り混じった表情。紗夜は箸を取り、正体不明の黒い野菜を口に運ぶ。味は......言葉にしづらい。彼のまなざしを見て、彼女は仕方なく頷いた。「......まあ、悪くないわ」文翔の目が一瞬で輝く。「
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第645話

海羽は大量の贈り物を両手いっぱいに抱え、勢いよく文翔と紗夜がいる別荘へと乗り込んできた。玄関を入るや否や、リビングで紗夜と雑誌を眺めていた文翔に向かって、珍しく本気の面持ちで深く頭を下げる。「長沢社長、この前の爛上の件......ありがとうございました」文翔は淡く頷いただけで、特に何も言わなかった。海羽は顔を上げ、紗夜に久々のハグをしようと身を乗り出しかけたが、ふと視線が文翔の前のローテーブルに落ちる。そこには分厚い医学書が何冊も広げられ、隣にはノートが置かれ、びっしりと文字が書き込まれていた。【胃にやさしい食事:粟と山芋の煮込み(砂糖控えめ)......】【感情と健康:心穏やかに保つこと、考え込みすぎない......】「え?え?!」海羽は顎が外れそうなほど驚き、文翔を指さした。「まさか......医者にでも転職したの?」文翔はようやくノートから顔を上げる。しかし彼女ではなく、隣の紗夜を見て、これまで聞いたことのないほど柔らかな声で言った。「うるさかったか?」紗夜は首を振る。それからようやく海羽に視線を向け、わずかに眉を寄せ、淡々とした声で言い放つ。「声を落とせ。彼女を驚かせるな」海羽「......」自分が巨大な移動式騒音源扱いされている気がしてならなかった。その後、海羽は紗夜を庭の籐椅子に誘い、久々のガールズトークを始める。本来なら親友同士の気兼ねないひとときのはずだったが、ひとりの「乱入者」のせいで妙に落ち着かない。文翔が薄手のカシミヤブランケットを手に現れ、そっと紗夜の膝にかけたのだ。その行き届いた気遣いは、温かな午後のティータイムの雰囲気とはどこかちぐはぐだった。かつて冷酷無情だった男が、今は進んで世話を焼いている。海羽はコーヒーを一口飲むが、妙に苦く感じる。ふと、一輝との関係を思い出す。彼は一度も彼女の好物を尋ねたことがなく、体調を崩したときに水を差し出してくれたこともない。二人の間にあったのは冷え切った利害と、燃えるような欲望だけ。こんな穏やかで現実的な温もりは、そこにはなかった。紗夜の穏やかで満ち足りた笑みを見ながら、海羽は初めて「安らげる家」という言葉の輪郭をはっきりと感じた。午後、紗夜はビジネス晩餐会に出席するためのドレスを選びに
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第646話

未怜はシャンパンを持つ手を、思わず固くした。視線がぶつかった瞬間、空気が凍りつく。明はその場から逃げ出したくなったが、文翔がまるで山のように彼の肩をがっちり押さえ、動きを封じた。未怜はすぐに視線を逸らし、テーブルのコーヒーを手に取って一口飲む。その仕草で不自然さをごまかした。「お二人は知り合いかな?」文翔は分かりきったことをあえて口にし、口元には隠しきれない意地の悪い笑み。「いいや」明は歯を食いしばり、絞り出すように言う。「何度か顔を合わせただけです」未怜の声は相変わらず淡々としていて、感情は読み取れない。デザイナーはその微妙な空気に気づくことなく、にこやかに文翔と紗夜を並ばせ、ドレスの採寸を始めた。明と未怜も仕方なく後ろに立つ。肩を並べながらも、その間にはもう一人立てるほどの距離が空いていて、どちらも一歩も近づこうとしない。鏡の中で、文翔は紗夜をそっと腕の中に包み、乱れた裾を丁寧に整えている。そのまなざしに宿る大切さと愛情は、あまりにも自然で、静かに溢れていた。その光景が、未怜の凍りついた心を鋭く刺す。4年前――彼女にも、ああいう男がいた。病気のときにはお粥を作り、裁判に勝てば自分のことのように喜び、悪夢にうなされれば強く抱きしめて、「大丈夫だ、私がいる」と言ってくれた。それでも彼女は自ら、その手を振り払った。――あのとき、あんな傷つける言葉を口にしなければ。彼を信じる選択をしていたなら。今ごろ自分たちも、目の前の二人のように......穏やかで、幸せな姿だったのだろうか。文翔と紗夜が満足げに去ったあと、VIPルームには未怜と明だけが残された。気まずい沈黙。「ええっと......」明が口実を見つけて先に帰ろうとしたそのとき、文翔からメッセージが届く。【許斐さんを無事に家まで送れ】「......」明は観念し、無理に笑みを作った。「行こう、許斐さん」帰り道、車内は終始無言だった。狭い空間に、重苦しい空気が満ちる。何度か口を開きかけたが、未怜の冷えた横顔を見るたびに言葉を飲み込む。未怜は窓の外を流れ去る街並みを見つめたまま。ハンドバッグを握る指先の白さが、内心の動揺を隠しきれていない。彼女の少し青ざめた顔色を見て、明はついに
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第647話

車が未怜のマンションの下に停まり、エンジンが止まると、狭い車内には死んだような静寂だけが残った。窓の外ではネオンが明滅し、二人の複雑な表情を光と影に切り分けている。明は何も言わない。ただハンドルを握ったまま、指の関節が白くなるほど力を込めている。隣の女性を振り向くことすらできなかった。あの冷えた瞳を見てしまえば、自分がようやく築いた防御線が一瞬で崩れ落ちると分かっていたからだ。――自分は彼女を恨んでいるのか。その答えは、自分でも分からない。4年前の決別を。「身代わり」という軽い一言で、4年間を消し去ったことを。それでも彼女が現れるたび、心拍は乱れ、感情は制御を失う。きっと恨んでいるのだろう。自分を、こんなにも涙もろく、情けない男に変えてしまった彼女を。未怜はすぐには降りなかった。ただ窓の外の街灯を見つめている。夜に浮かぶ淡い光が、どこか寂しそうに見えた。やがて彼女はゆっくりと顔を向ける。いつも鋭いその瞳には、今は疲れと葛藤、そして自分でも気づいていない脆さが揺れていた。彼女が先に沈黙を破る。声はかすかで、夜風に溶けそうだった。「数日後、弟の手術なんです。私にとって、とても大事だから......喜多村先生も、しっかり休んでください」またしても、事務的で、距離を保った優しさ。それで彼を押しやる。明はその完璧な笑顔を見つめ、胸に走るあの刃の痛みを再び感じた。自嘲気味に笑い、目元が赤くなる。「分かってる」自分でも気づかない震えを含んだ声。――分からないはずがない。この手術のために、関連文献をすべて読み込み、何度も術式をシミュレーションし、何夜も徹夜した。誰よりも強く、春樹が無事に手術室を出ることを願っている。彼女がもう、あんな顔をしなくて済むように。彼は一瞬言葉を切り、彼女の視線を受け止める。崩れかけた誇りを無理やり支え、ほとんど冷酷ともいえる口調で告げた。「許斐さんも忘れないでください。私が手術を引き受けた条件を」未怜の体が硬直する。彼は一語一句、はっきりと残酷に言う。「明日から一週間、私のマンションに住み込んで家政婦をすること」言い終えると彼女を見ず、アクセルを踏み込む。車はきっぱりと向きを変え、夜の流れに消えていった。
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第648話

「家政婦」の未怜が正式に仕事を始めて二日目、明の整然とした書斎は「破壊」に見舞われた。もちろん、彼女はわざとではない。本棚のいちばん下の引き出しを拭こうとしただけだ。ところが、きれいに積み重ねられていた医学雑誌の束をうっかり取り落とし、ばさり、と音を立てて床一面に散らしてしまった。「最悪......」小さく毒づき、慌ててしゃがみ込む。一文字も読めない専門文献を手探りで引き出しに戻していると、指先が思いがけず、ひやりと冷たい、凹凸のある鉄の箱に触れた。それは古びたクッキー缶だった。縁は色あせ、表面には漫画風の小さなクマが描かれている。未怜の呼吸が、ぴたりと止まった。この缶は――頭の中が真っ白になり、ほとんど無意識のまま、本棚の奥深くからそれを引き出していた。蓋を開けた瞬間、土と古い時間が混ざったような、懐かしい匂いがふわりと立ち上る。それは錆びついた鍵のように、封じ込めていた記憶をこじ開けた。中には、樹脂粘土で作られた、いびつな太陽が静かに横たわっている。大学三年のとき、退屈な選択科目をやり過ごすために、何日も徹夜して指がつりそうになりながら、どうにか形にした「作品」だ。それを誕生日プレゼントとして明に渡したときの、あの露骨に嫌そうな顔を、彼女ははっきり覚えている。「未怜、これ......ほんとに芸術作品?どう見ても変な塊だろ」「変な塊って何よ!失礼な!」あのときは腹が立って、キャンパスを半分追いかけ回した。口では散々言っていたくせに、彼は結局、大事そうにそれをしまい込んだのだ。太陽の下には、少し黄ばんだ一枚の写真があった。写っているのは、21歳の明と19歳の未怜。付き合って2年目、一緒に山へ登り、日の出を見に行ったときのものだ。彼女は彼が買ってくれたジャケットを着て、山風に髪を乱されながらも、背後の朝焼けよりずっと眩しい笑顔を浮かべている。彼はカメラを見ず、ただ横を向き、隣の彼女を愛おしそうに見つめていた。あの頃の二人は、本当に幸せだった。このままずっと一緒に歩いていけると、本気で信じていた。時間の果てまで。未怜の指先が、写真の中の若い彼の頬をそっとなぞる。視界がにじみ、目の奥が熱くなる。「何を見てる?」かすれた声が、前触れもなく背後から落
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第649話

「宝物かと思ったら、なんだ。捨てるつもりだったガラクタか」彼は歪んだ形の太陽を指でつまみ、軽蔑と嘲笑に満ちた口調でそう言った。だが、潤み始めたその目だけは、彼の本心を完全に裏切っていた。「私がこんな物をまだ取ってあるのは、君への未練が断ち切れないからだとでも思ってる?」その一言一言が、針のように未怜の心へ深く突き刺さり、同時に、すでに穴だらけになっている彼自身の心も傷つけていた。「考えすぎよ」彼女は深く息を吸い、今にも崩れそうなプライドを必死に支えながら、口角を引き上げて同じように冷たい笑みを浮かべた。「掃除をしていて、たまたま見つけただけ。これは仕事ですから。ガラクタなら、とっくに捨てればいいのに。もしかして......手放せなかった?」彼女は彼の探るような視線を真正面から受け止め、一歩も引かずに言い返した。その言葉は、鋭利な刃となって、彼の最も脆い部分を正確に貫いた。彼は彼女を見つめた。どんな偽りも容易く見透かしてしまう、あの鋭く澄んだ瞳を。長い間押し殺してきた怒りと悔しさが、一気に胸の奥から溢れ出した。「違う!捨てなかったのは、面倒だったからだ!」追い詰められた獣のように声を荒げる。「いい加減にしろ!『身代わり』の一言で、私の4年を全部踏みつけた女なんかに......未練なんかあるわけがないだろ!」「身代わり?」未怜は大きな冗談でも聞いたかのように声を上げ、赤くなった目で彼を睨みつけた。「そうよ!あんたが、私の初恋に似てたから!」「......っ」明は言葉を失った。「どうしたの、言い返せないの?」未怜は彼を見つめ、瞳の奥に一瞬だけ失望の色を走らせた。そして視線を再びあの缶へ落とした、その時だった。彼が「ガラクタ」と言い捨てたその箱は、驚くほどきれいだった。埃ひとつなく、角の隙間にさえ汚れが見当たらない。明らかに、何度も手に取られ、丁寧に拭き続けられてきた痕跡だった。その瞬間、未怜の心は、何かにそっとぶつけられたように揺れた。彼女は彼を見た。口では最も残酷な言葉を吐きながら、陰では二人のすべての過去を大切にしまい続けてきた、この男を。問いかけたかった。――いったい、どこからが本心なの?けれど、結局その言葉は喉の奥で消えた。怖かっ
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第650話

書斎での硝煙なき戦いは、棘のように未怜の胸に深く刺さったままだった。夕食の時間になっても、明は姿を見せなかった。未怜は一人、あの大きなダイニングテーブルに座り、彼が用意した豪華だが冷え切った料理を前にしていた。口に運んでも、砂を噛んでいるようで味がしない。彼が自分を避けているのは分かっていた。それもいい、と彼女は思う。顔を合わせなければ、気まずい対峙も、胸をえぐるような言葉も交わさずに済む。けれど、がらんとした客室に戻り、夜に飲み込まれた街の灯りを窓越しに眺めていると、書斎で見た彼の赤く充血した目――痛みと抑圧に満ちたあの眼差しが、焼き印のように脳裏にこびりついて離れなかった。捨てるのが面倒だったと言いながら、あの缶には埃ひとつなかった。価値がないと言いながら、歪な太陽も、色あせた写真も、4年間ずっと大切にしまっていた。――いったい、どれが本当なの?解けない糸の塊のようなその疑問が彼女を締めつけ、苛立ちで眠ることさえできなかった。......真夜中、突然の雷雨が街を覆った。ゴロゴロ――!巨大な雷鳴が、斧のように静まり返った夜を真っ二つに裂く。未怜は悪夢から飛び起きた。4年前の、あの雨の夜の夢だった。レストランの大きな窓の前に立ち、あらかじめ用意していた海外行きの航空券を握りしめ、決然と背を向けて去っていく明の姿を見送っている。自分は正しい選択をしたのだと、言い聞かせた。いちばん残酷なやり方で、二人をつなぐすべてを断ち切ったのだと。心を波立たせずにいられると思っていた。だが飛行機が離陸し、足元の街がどんどん小さくなり、やがてぼやけた光の点になったとき、結局こらえきれずに涙が溢れた。あの別れは刃のようだった。彼だけでなく、自分自身もずたずたに切り裂いた。「はぁ......」深く息を吸い、ベッドから起き上がる。額には細かな汗がにじんでいた。水を一杯飲みたい、それだけだった。足音を忍ばせて部屋を出る。リビングは真っ暗で、時折走る白い稲妻が室内の輪郭を一瞬だけ浮かび上がらせる。部屋の中央まで来たとき、彼女の足がぴたりと止まった。主寝室の半開きのドアの隙間から、かすかな音が聞こえたからだ。小さく、押し殺したような、傷ついた小動物の鳴き声のような
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