タバコの箱に触れたとき、何か特別な意味を持たせようとしたわけじゃなかった。ただ、その形が視界に入った瞬間、手が自然と動いていた。ベランダの片隅、灰皿のそばに無造作に置かれたセブンスター。角が少し潰れたその箱は、河内がいつもポケットに入れていたものだ。中指と人差し指で、一本をそっと引き抜く。指に馴染む重さと紙の手触りが、懐かしい記憶を呼び起こす。もう何年も、こうしてタバコを吸うことからは距離を置いていたのに。ライターを手に取る。マッチの代わりに河内が使っている、銀色の古いジッポ。蓋を開けると、金属の軋む音が小さく響いた。火花が弾け、青白い炎が瞬いた。タバコの先端をその火に近づける。吸い込むと、細く赤く光る。煙を口に含み、肺へと流し込む。その一瞬、頭の奥がじんわりと痺れた。胸の奥に重たい熱が広がる。吐き出した煙が、朝の冷たい空気に溶け込んでゆく。小阪は目を細めて空を仰ぐ。雲がまだ残る灰色の空。けれど、どこかで陽の光が輪郭を滲ませている。吐息のような煙がもう一度、細く長く立ちのぼる。火をつけたその瞬間から、小阪のなかで何かが変わっていた。逃げ場としてのタバコじゃない。誰かの代わりでも、誰かに見せつけるためでもない。ただ、自分の意思で、選んで火をつけた。その煙が、ようやく自分の胸の内と繋がったような気がした。「よう似合うな、俺より」背後から聞こえた声は、低く、少しだけ掠れていた。振り向かなくても、それが河内の声だとすぐにわかった。小阪はベランダの手すりに背を預けたまま、ほんのわずかだけ肩を上げる。河内はTシャツ姿のまま、寝癖もそのままの髪でベランダに立っていた。手には何も持っていない。タバコも、飲み物も。目元に少し眠気を残しながら、小阪を見ていた。「そうか?」ぽつりと返す。声に感情を乗せるのが、少しだけ恥ずかしかった。言葉よりも、煙のほうがよほど雄弁だった。小阪がもう一度、タバコを咥えてゆっくり吸い込む。肺の奥に熱が届く感覚が、河内との距
Last Updated : 2025-08-06 Read more