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沈黙の温度差

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-25 17:34:30

会議は淡々と進んでいた。葉山がプロジェクトAの進捗資料をモニターに投影し、各セクションの進行状況と次週の予定を読み上げる。議事録を取る真島が要点をまとめる間にも、他のメンバーたちは資料に目を落とし、各自の業務内容と照らし合わせていた。

静かに、しかし緊張感を保ったまま時間は流れていく。誰かのペンが紙を走る音と、モニターのページが切り替わるリモコンのクリック音だけが、ときおり音として空間を満たした。空調の風すらも鈍く、どこか抑えられているように感じられた。

その空気の中で、河内は椅子にもたれながら、斜めに身体を倒して資料に目を落とす。指先で端を軽くつまむようにしてページをめくりながら、ひとつ前に映されたバナー案のビジュアルを思い返していた。

白地に青を基調としたミニマルな構成。訴求ポイントはきちんと整理され、情報量の取捨選択も適切。何より、見た瞬間に意図が伝わってくる。押しつけがましくないが、確実に目に残る作りだった。

「この案ええな…なあ、コサカくん?」

唐突に、河内が口を開いた。柔らかく、けれど会議室に響くだけの声量で、真正面に座る小阪に向かって話しかけた。

その瞬間、微かに空気が揺れた。

小阪は手元の資料から目を上げなかった。だが、わずかに睫毛が動いた。表情は変わらない。だが明らかに、一瞬の思考の間が挟まれていた。視線を上げることはなく、それでも応答はあった。

「……はい」

低く、抑えた声だった。語尾に揺らぎはない。肯定だけが、機械的に告げられた。

河内は一拍の沈黙を挟んで、ふっと笑った。肩をすくめて、隣の真島を見ながら口を開く。

「めっちゃ愛想ないやん。俺、ちょっと泣きそうなるわ」

冗談めかした口調だったが、その目は再び小阪の表情を捉えていた。どこか試すような、いや、むしろ確かめるようなまなざしだった。

小阪はそれに反応しない。返事も、視線もない。資料に戻った視線は、そのままモニターと手元の書類を往復していた。頬の動きも、眉の角度も微動だにせず、ただそこに座っているだけのようだった。

けれど、河内の目は一瞬だけその唇の動きを捉えていた。確かに、気のせいかと思うほど僅かに、口角が…上がったように見えた。

ほんの一瞬の、それこそ一秒にも満たない動きだった。すぐに元の無表情へと戻ったその横顔に、周囲は誰も気づかない。真島も、葉山も、他のメンバーたちも、淡々と次の話
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