クリエイティブ第3チームのフロアは、朝の喧騒が落ち着き始めたころに、ようやくそれぞれのリズムを取り戻していた。天井から落ちる蛍光灯の明かりが、整然と並ぶデスクを淡く照らし、Macの白い筐体にうっすら反射している。コピー機が一度、低い唸り声を上げて沈黙し、数人の社員がそれに反応するように小さく動いた。けれど、それ以上に何かが“動く”気配は、どこにもなかった。
その静けさの中心に、小阪陸斗の姿があった。
デスクの前で真っすぐに背筋を伸ばし、両手はキーボードの上に滑らかに並ぶ。モニターに映るデザインソフトのウィンドウには、進行中のWeb案件のバナー案が映っていた。白と黒を基調にしたミニマルなレイアウト。フォントの余白や行間の詰め方に、確かな技術と美意識が滲んでいる。それは、ただ美しいだけではない。どこか、観る者を遠ざけるような緊張感をはらんでいた。
小阪の指は静かに動き続けていた。けれど、彼の顔には一切の感情が浮かんでいない。無表情というより、感情を排除することを意識的に選んでいるような無音の静寂。唇はわずかに引き結ばれ、瞼は伏せがちに整っている。顔色は決して悪くない。肌は白く、頬の赤みも体温を感じさせる程度には存在していた。それでも彼の気配は、周囲と異なる“重さ”を持っていた。
彼の美貌は、社内でもよく知られていた。目元の繊細な切れ長、鼻筋の通り、やや長めに揃えられた黒髪が耳にかかる仕草には、誰もが一度は目を奪われる。だが、それ以上に人を遠ざけているのは、その佇まいだった。
まるで、空気にさえ触れられたくないとでも言いたげな、緊張をはらんだ沈黙。
「コサカくん、午前提出分の資料、もう仕上がってる?」
声をかけたのは、同じチームの女性ディレクター、真島だった。彼女は気を遣ったようなやや高めの声で、席の横からそっと問いかけた。
小阪は、ほんのわずかに顔を上げる。その視線は一度モニターから真島の顔へと滑るが、ほんの一瞬だった。すぐに、わずかに首を縦に振る。唇は動かさない。返事は、それだけだった。
「ありがとう。助かるわ」
真島が笑みを浮かべて去っていくと、近くにいた若手社員が気まずそうに、そっと息を吐いた。その息づかいまでもが、まるで小阪に聞こえてはならないかのように小さく抑えられていた。
「コサカさんって、きれいやけど、なんか…怖ない?」
「目ぇ合わせたら、なんか透かされそうで」
コピー機の陰から聞こえた囁き声に、小阪は何の反応も示さなかった。おそらく耳に届いていたはずだが、彼はただ、手を止めずに作業を続ける。目の動きも、呼吸も変わらない。それがかえって、彼が“感じている”ことを示しているようでもあった。
椅子に寄りかかるでもなく、姿勢を崩すこともないまま、彼はMacの画面に向かい続ける。静けさは周囲に伝染し、誰もが声のボリュームを自然と抑えていく。フロアの空気が、彼という存在を中心に、ゆっくりと沈んでいくような錯覚。
そこにいて、そこにいないような人間。
そんな彼の横顔を、ふと廊下から通りがかった河内が、遠目に目にとめていた。ふたりはまだ一言も言葉を交わしていない。けれど、ガラス越しに見えた小阪のシルエットに、河内はなぜか、妙な引っかかりを覚えた。
ガラスに映る彼の横顔は、無機質なくらい整っていて、それでいて、何かが欠けているようにも見えた。
それが何かは、このときの河内にはまだわからなかった。
ただ、そう思って目を逸らそうとしたその瞬間、小阪がふとモニターから視線を上げた。
ほんの一秒。いや、それより短い刹那。
ふたりの視線が、確かに交錯した。
何も言わず、何も表情は動かなかった。だが、河内の中に、なぜかひやりとしたものが走った。
目を逸らしたのは、小阪のほうだった。だが、その動きに怯えや焦りはなかった。むしろ、何かを見透かした者だけが持つ静けさが、そこにはあった。
河内は少しだけ口元を引き結んで、歩き出した。
そして小阪は、何事もなかったように再びキーボードを打ち始めた。
朝のフロアは、再び静寂に包まれていた。だが、その空気には、わずかに熱のようなものが混じり始めていた。
段ボールの山のあいだに、小阪はそのまま崩れ落ちるようにして座り込んでいた。片膝を立て、もう片方の足は投げ出している。薄いカーペットの感触が尻の下にやわらかく広がり、まだ片づいていない部屋の匂いが、どこか乾いた段ボールと新品の木材の混じるような香りで鼻腔に満ちていた。夜の帳がすっかり降りていた。カーテンはまだ取りつけておらず、窓の外の街灯がまばらに光り、室内の明かりと溶け合って、微妙な陰影を壁に描いていた。照明は天井の裸電球ひとつだけ。部屋の隅はまだ暗く、壁に立てかけたフレームの影が、ゆるやかに揺れている。小阪は両手をだらりと膝の上に乗せ、空っぽの段ボール箱を無造作に見つめていた。何かを考えているというよりも、考えることをやめたような表情。無音ではないのに、妙に静かだった。遠くから微かに車の音が聞こえるが、それもここまで届くころにはただの風のように溶けていた。そのときだった。背後から、ふと声が落ちた。「陸」小阪の身体がほんの少しだけ揺れた。返事はない。だが、振り向かなくても分かる。唇の端が、わずかに持ち上がっていた。河内は小阪のすぐ背後に立っていた。段ボールを一つ片づけてきたばかりの手を、まだ拭ききれていないホコリがうっすら包んでいる。指先は小さく開いたまま、何かを求めて宙に置いていた。「もう、名前で呼んでええか?」河内の声は、硬さも照れもまじっていた。だがその奥にあるのは、どうしようもなくまっすぐな願いだった。呼びたかったのだ、ずっと。誰にも許されないと思ってきたその名前を。小阪は、ゆっくりと目を閉じた。その目元にだけ、かすかな熱が集まっていた。けれど涙は流れない。ただ、長く息を吐くように、ぽつりと呟いた。「…ずっと、そうしてほしかった」言葉は壁にぶつかることなく、静かに空間に溶けた。ふたりのあいだに、何かがようやく、確かに届いた瞬間だった。河内は床に膝をつき、小阪の横に並んで腰を下ろした。ふたりの肩がわずかに触れ合い、何も言わずに並んだまま時を過ごす。名前を呼ぶこと。それは、過去を超えて相手の存在を受け止める行為だった。名前
ベランダに出ると、冬の空気が肌を撫でた。冷たいというほどではなかったが、頬にかかる風には、どこかすっきりとした切れ味があった。陽はまだ高く、雲の輪郭はぼやけながらも、全体としては明るい空。高層でもないこの部屋からでも、遠くの空の色がはっきり見える。ふたりは並んで立ち、ベランダの手すりに寄りかかるようにして、しばらく無言のまま外を眺めていた。河内がセブンスターの箱を取り出し、ひとつを口にくわえる。ライターの音が小さく響き、赤い火が先端を照らす。煙草が焼ける香ばしい匂いが、かすかに風に乗った。小阪はそれを見て、ポケットから缶コーヒーを取り出し、プルタブをカチリと鳴らして開けた。「はい」何も言わず差し出された缶を、河内は受け取った。手が少しだけ触れた。コーヒーのぬるさが、掌にしみる。受け取りながら、河内はふと口元をゆるめて言う。「なんか、おれら…老夫婦みたいやな」言ってから、少し気恥ずかしそうに笑う。煙草を口から離し、煙を長く吐き出す。空に向かってのびていくその煙は、まるで何かが昇っていくようだった。小阪は缶コーヒーを自分の唇に運び、ひとくち啜ったあと、目を細めて空を見上げた。「ちゃうやろ。はじまったばっかやで」その言葉は、冗談のようにも聞こえたが、言葉の奥には確かな実感が滲んでいた。誰に聞かせるでもない、自分の中から自然に出てきた言葉。河内は驚いたように横目で小阪を見る。その顔には、迷いがなかった。風が二人のあいだをすり抜けていく。缶の小さな金属音が、微かに響く。ふたりとも空を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。未来のことを話すのは、怖かった時期があった。誰かと同じ景色を見て、同じ明日を描こうとすればするほど、その「明日」が遠く感じられてしまう瞬間が、確かにあった。けれど今、こうして隣にいるのは、自分が選んだ人で、自分を選んでくれた人だった。決めつけなくていい。明日がどうなるか、何が変わるか、それをすべて決めてしまう必要なんてなかった。ただ、この瞬間の呼吸が、きちんと隣と合っていること。その事実だけで、十分だった。河内が缶を口に運ぶ。飲み口に触れた唇が、少し
洗面所にはまだ朝の光が届ききらず、照明も点けられていないまま、淡い反射が鏡の奥をぼんやりと濁していた。小阪は静かにそこに立ち、息を吐く音すら抑えるように、自分の姿を見つめていた。髪は少し乱れ、目元にはわずかな寝癖の痕跡が残る。それでも、鏡に映る表情は穏やかだった。もう目を背けない。視線を外さない。ただ、今そこに立つ「いまの自分」をまっすぐに見つめていた。左耳にそっと指を添える。何年も、そこに触れるたび、過去が割れるように滲み出ていたのに、いまは違った。ピアスはもうない。跡だけが残っている。薄い赤みが少し残る肌を、薬指の腹でなぞる。痛みはない。ただ感覚だけが、そこにある。「……」小さく、呼吸をひとつ整えるように唇を閉じる。そのとき、背後でわずかな足音が聞こえた。振り返らなくても、誰かはわかっていた。足音の重さ、歩幅の間隔、それらすべてが小阪の身体に沁みついていた。河内は何も言わず、ただその背後に立った。そして、声もかけず、そっと肩に手を置く。その手は重すぎず、軽すぎず、けれど確かに「ここにいる」という実感を伝えてきた。小阪は鏡越しにその存在を見て、ゆるやかに息を吐いた。「……ここで泣くことは、ないと思う」ぽつりと、言葉が落ちた。それは誰に聞かせるでもなく、自分自身に告げるような響きだった。河内の指先が、少しだけ力を込める。「そう思えるようになったんやな」その声は低くて、けれどやわらかかった。押しつけでも慰めでもない。ただ、寄り添うだけの声。小阪はそのまま肩の上に乗る重みを感じながら、もう一度鏡を見た。鏡のなか、自分の表情はわずかに和らいでいた。過去の夜、ピアスを開けたときの感覚が、ふと脳裏をよぎった。あの時は、痛みが「愛されている」証のように錯覚できた。傷ができることを、心が繋がる証拠だと信じて疑わなかった。けれど本当は、その傷は「ひとりでいる」ことを証明していただけだった。いまは違う。肩にある手が、それをはっきり教えてくれる。傷はもう開かない。そして、それを守る手があることを、小阪はようやく信じられるようになっていた。耳たぶに触れた
新しい部屋に差し込む光は、午後の静けさをいっそう際立たせていた。床にはまだ段ボールが積み上げられ、所々に剥き出しのカーペットが見える。家具はほとんどなく、唯一ベランダ際に置かれたテーブルと、窓辺のカーテンレールだけが、この部屋に暮らしが始まろうとしていることを物語っていた。小阪は床に膝をつき、段ボール箱から一冊ずつ本を取り出している。古いデザイン誌や漫画、詩集や洋書。背表紙の色がばらばらなのが、小阪の持ち物らしい気がした。本を並べる動作は丁寧で、けれどどこかよそよそしい。新しい土地の空気を測るように、少しずつ、確かめるように。窓の外では風が音もなく街路樹の葉を揺らしている。ガラス越しの陽射しが小阪の頬を照らし、指先の白さを際立たせる。埃の匂いに混じって、どこかまだ新しい家特有の乾いた香りがした。小阪はしばらく背中を丸めていたが、不意に顔を上げた。並べかけた本の山のあいだを見つめて、小さく息を吐いた。「ここ、静かすぎるな」つぶやいた声は、部屋の壁にやわらかく跳ね返って消える。耳に残るのは、自分の声と、誰かの気配。窓辺で河内はカーテンの色に悩んでいた。片手に布地のサンプルをいくつか握りしめ、窓枠の高さを指で測りながら、たまに外の光を手のひらで遮ってみたりしている。ふと、小阪の言葉が届いて、振り向く。「静かなのも、悪ない」河内は目を細めて、ほんの少し口元を緩めた。いつもより穏やかな表情。声は低く、けれど角がとれていて、窓の外の陽に少し似ている。小阪はその言葉を聞いて、返事はせず、また本を手に取った。その背中に、ひとつだけ微かな笑みの気配が浮かぶ。陽の当たる場所で、本の山を少し動かして、また無言の時間が戻る。段ボール箱の底から古びたしおりが出てきた。小阪はしおりを指で弾いて、本に挟み直す。ほんの些細な仕草。それだけで、ここが少しずつ「自分の場所」になっていく気がした。「次、どれ持ってくる?」河内が尋ねる。声に急かす色はなく、ただ、そばにいることを確かめるようなトーンだった。「……そこ、黒い箱のやつ」本棚に入りきらない本の山ができていく。
ベランダの向こう、冬の空はまだ何色も持たず、ただ静かに曇っていた。雲は低く、厚みを帯びて空一面を覆っている。その灰色の広がりは、どこか白とも銀ともつかず、言葉にならないままの感情のようだった。小阪はその空を見ていた。立ったまま、肩をほんの少し窓枠にもたれかけて。吐き出した息がガラスに当たり、曇る。その輪郭が次第に広がり、やがて消える。指先でなぞるでもなく、彼はそのまま視線だけを外へ向けた。黙ったまま、何かを思いながら。河内はキッチンのコップを洗い終え、タオルで手を拭いていた。普段なら無造作に済ませるはずの動作が、今日は妙に丁寧だった。蛇口の水を止める音すら、空気のなかでひときわ響いた。何気ない朝の一部として、その静けさに身を沈めようとするのに、心のどこかがふわりと浮いたままだった。「そろそろ、行くわ」声を発した瞬間、空気がわずかに動いた。振り返ると、小阪はまだベランダの方を見ていた。窓の向こうに広がる曇天。そこに何かを見ようとするでもなく、ただ静かに、その曖昧な色合いを受け入れているような横顔だった。河内は玄関まで歩いた。足音は静かで、靴を履く音も最小限に抑えるような手つきだった。それでも、背中に残る気配に、自然ともう一度振り返る。小阪がこちらを見ていた。目が合う。そのまま言葉はなかった。けれど、視線だけで交わされたものがあった。「ありがとう」とか、「またね」とか、そういう定型の言葉ではなく、ただその瞳の奥にあったもの。すぐに消えるような、けれど確かに残る光のようなもの。それは約束ではないし、決意でもない。未来を語るにはまだ早すぎて、過去を断ち切るには少しだけ遅い。けれど、今という瞬間の中に立って、互いに息をしていることだけは、否定できなかった。河内は小さく笑った。それは口角がわずかに持ち上がった程度で、声にもならない。それでも、目の奥にはたしかに感情の波が宿っていた。安心と、名残と、それでも前に進もうとする意志と。小阪は何も言わなかった。ただ視線を逸らさず、まぶたの動き一つすら見せないまま、じっと見つめ返していた。ふたりのあしたには、まだ色がない。それは、空が白いからではなく、そこに描
鏡の中の自分の姿を、小阪はまっすぐに見つめていた。何の飾りもなくなった左耳が、朝の淡い光を受けて、わずかに赤く染まっていた。さっきまでそこにあったピアスの存在は、指先に残る感触として、確かにまだ彼の中にあった。けれど、耳元の重みはもうない。代わりに残っているのは、ほんのりとした熱と、過去から剥がれ落ちていく音のしない気配だった。河内の手は、まだそっと宙に浮いたままだった。外したばかりのピアスを握ったまま、どうすればいいか迷っているのが、その微細な指の揺れから伝わってきた。彼は鏡越しに小阪を見つめ、何かを言おうとするように口を開きかけたが、すぐに閉じた。言葉では足りないことを、彼自身がもう知っていたのだろう。小阪はまぶたを閉じた。河内の視線を受け止めるのが、少しだけ怖かったのかもしれなかった。けれど、それ以上に、この静けさを信じたかった。呼吸をひとつ、深く吸い込む。肺の奥まで澄んだ空気が満ち、過去に囚われたままの感情が少しずつほぐれていくのがわかる。河内の手が動いた。迷いを断ち切るように、小阪の耳たぶにそっと近づき、唇を寄せた。そこにあったのは、音のない、けれど限りなく優しいキスだった。触れた瞬間、小阪の肩がわずかに震える。そこにはもう痛みはなかった。ただ、長い間誰にも触れられなかった場所に初めて触れてもらったという、安堵のようなものが広がっていた。キスは一瞬だった。けれど、それは言葉よりも確かに、深く心に残るものだった。ありがとう。愛してる。全部言葉にしなくても、その一瞬の感触が伝えてくれていた。音ではなく、温度で交わされた感情が、鏡の中に静かに溶けていく。まぶたを開いた小阪と、河内の視線がまた交差した。鏡の中で、それぞれの表情が重なる。小阪の瞳の奥には、まだ消えきらない不安も揺れていたけれど、そこには確かな光が宿り始めていた。河内の瞳は、そんな彼を一瞬も逸らすことなく見つめていた。「……なあ」河内が低く、けれど優しく口を開いた。「これからは、そんなん全部…言わんでも伝わるように、したいと思ってる」小阪は答えなかった。ただ、ほんの少し唇の端を緩めた。それだけで、河内は十分だった。言葉より先に、こうして気持ちが