ベッドの端に、河内は黙って腰を下ろした。シーツが腰のあたりでずり落ち、裸の背中を夜気がなぞっていく。エアコンの風は生ぬるく、ただ機械のように空気を循環させているだけだった。後ろからは、寝息ともいびきともつかない音が聞こえてくる。相手の名前も、年齢も、もう記憶の奥にぼやけていた。手を伸ばして、テーブルの上に置かれた箱を取る。セブンスター。蓋を指で弾くように開けると、河内は一本だけ抜き取り、唇に咥えた。ライターはすぐ傍にある。着火の音と同時に、かすかなオレンジの光が、彼の頬をゆらりと照らす。火が先端に回り、煙が肺に流れ込んだ。視線はどこにも定まらず、ただ部屋の奥、光の届かない壁の一点を見つめていた。男の気配はまだ背後に残っている。足元に絡んだシーツと、わずかに湿った空気が、それを物語っていた。煙を吐きながら、河内は一度だけ、顔をしかめた。右眉がわずかに上がり、口元に疲れのような苦味が滲む。その表情は、快楽の残滓ではなかった。むしろ、それを味わい損ねたことへの、虚しさだった。吸いかけのタバコを指に挟んだまま、スマホに手を伸ばす。画面は暗く、電源が落ちていた。充電コードが手元になく、探す気にもなれない。通知が来ていないのは分かっているのに、何度も癖のようにスマホを触ってしまう自分が、情けなかった。もう一度、煙を吸い込み、肺の奥に沈める。タバコの味が苦い。こんなに味がしたかと思いながら、ゆっくりと吐き出した。その煙が目の前に揺れて、まるで誰かの姿が浮かび上がるように感じる。「……なんで、おまえやないんやろな」そう呟いたつもりだった。だが、喉を震わせただけで、言葉にはならなかった。口の中で溶けたその一言は、煙と一緒に消えていった。空気の中に、わずかに残った香水の匂いが鼻をついた。知らない男の、知らない温度。その肌の柔らかさも、爪の先も、何ひとつ記憶に残そうとしない脳が、ただ彼を“誰でもないもの”に変えていく。足元に視線を落とすと、シーツの隙間から男の足がのぞいていた。無防備に開かれた脚。その先にある身体に、たしかに触れたはずなのに、河内の掌には何も残っていない。汗も、声も、鼓動も、今はもうここに
Last Updated : 2025-07-22 Read more