All Chapters of 「好き」って言えなかったあの夜を、超えて~壊れた心と身体を、少しずつ繋ぎ直す恋: Chapter 61 - Chapter 70

99 Chapters

他人の肌の温度

ベッドの端に、河内は黙って腰を下ろした。シーツが腰のあたりでずり落ち、裸の背中を夜気がなぞっていく。エアコンの風は生ぬるく、ただ機械のように空気を循環させているだけだった。後ろからは、寝息ともいびきともつかない音が聞こえてくる。相手の名前も、年齢も、もう記憶の奥にぼやけていた。手を伸ばして、テーブルの上に置かれた箱を取る。セブンスター。蓋を指で弾くように開けると、河内は一本だけ抜き取り、唇に咥えた。ライターはすぐ傍にある。着火の音と同時に、かすかなオレンジの光が、彼の頬をゆらりと照らす。火が先端に回り、煙が肺に流れ込んだ。視線はどこにも定まらず、ただ部屋の奥、光の届かない壁の一点を見つめていた。男の気配はまだ背後に残っている。足元に絡んだシーツと、わずかに湿った空気が、それを物語っていた。煙を吐きながら、河内は一度だけ、顔をしかめた。右眉がわずかに上がり、口元に疲れのような苦味が滲む。その表情は、快楽の残滓ではなかった。むしろ、それを味わい損ねたことへの、虚しさだった。吸いかけのタバコを指に挟んだまま、スマホに手を伸ばす。画面は暗く、電源が落ちていた。充電コードが手元になく、探す気にもなれない。通知が来ていないのは分かっているのに、何度も癖のようにスマホを触ってしまう自分が、情けなかった。もう一度、煙を吸い込み、肺の奥に沈める。タバコの味が苦い。こんなに味がしたかと思いながら、ゆっくりと吐き出した。その煙が目の前に揺れて、まるで誰かの姿が浮かび上がるように感じる。「……なんで、おまえやないんやろな」そう呟いたつもりだった。だが、喉を震わせただけで、言葉にはならなかった。口の中で溶けたその一言は、煙と一緒に消えていった。空気の中に、わずかに残った香水の匂いが鼻をついた。知らない男の、知らない温度。その肌の柔らかさも、爪の先も、何ひとつ記憶に残そうとしない脳が、ただ彼を“誰でもないもの”に変えていく。足元に視線を落とすと、シーツの隙間から男の足がのぞいていた。無防備に開かれた脚。その先にある身体に、たしかに触れたはずなのに、河内の掌には何も残っていない。汗も、声も、鼓動も、今はもうここに
last updateLast Updated : 2025-07-22
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照明の色温度

青白い光が、部屋の中にひっそりと染みていた。天井の照明は落とされ、モニターだけが空間を淡く照らしている。小阪は机に向かい、液晶画面とにらめっこを続けていた。画面には作業中のUIデザインが広がっている。けれど、それはもう数時間前から、ほとんど変わっていなかった。指はマウスに触れたまま、ほとんど動かない。頬杖をついた右手の小指が、わずかに震えていた。細い関節の奥で、見えない焦燥が滲んでいる。その震えを自覚していないのか、小阪は無言のまま、目の奥をさらに細める。パソコンの冷却ファンがかすかに唸っていた。規則正しく、だが機械的な音。呼吸をしているのは自分ではなく、モニターの中のような錯覚に襲われる。右横の棚には、氷の入ったグラスと、瓶の口を開けたままのウイスキーが置かれていた。少し前に注いだきり、ほとんど減っていない。溶けかけた氷が、かすかな音を立ててグラスの底に触れる。その音が、やけに大きく感じられた。キーボードの上には、放置されたテキストエディタ。入力途中の文が画面に残っている。カーソルが点滅しながら待っている。言葉を待つ場所に、思考は届いていない。いや、そもそも何を考えていたのかさえ分からなかった。そのとき、手元のマウスが無意識に動いた。カーソルがスライドし、ある言葉の上でぴたりと止まる。「触れる」たったそれだけの文字。UIの仮ボタン。誰かが指で押すだけの、ただの操作動作。けれどその文字に、視線が吸い寄せられた。触れる。たった三文字の平仮名が、画面の中で異様に浮かび上がって見える。まるで、何かを責めるように。唇が、わずかに開いた。息が漏れた。けれど言葉にはならない。触れたかったのか。触れられたかったのか。どちらだったか、もう分からない。指先だけが、過去を思い出すように微かに動いていた。さっきから止まない震えが、震えなのか、ただの疲労なのか、自分でも判別がつかない。カーソルはその文字の上で止まったまま、点滅している。左の手をそっと伸ばして、グラスを持つ。ウイスキーの香りが、鼻先に届く。ほんの一口だけ口に含んだ。舌先にじわりと広がる熱と苦味。その味は
last updateLast Updated : 2025-07-22
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湯気に紛れる顔

浴室のドアを閉めた瞬間、外の世界と隔絶されたような静けさが、河内の肌を包んだ。天井の換気扇がゆっくりと回り、湿気を吸い込みながら、くぐもった音を立てている。熱い湯を浴びたあとの体は、まだほんのりと火照っていた。タオルを首にかけ、彼は無言のまま洗面台の前に立つ。鏡は湯気で曇っていた。白くぼやけたその表面に、かろうじて自分の輪郭が浮かんでいる。河内はそれを見た。自分の顔が、遠くにあるように思えた。そこに映っているのは、自分であって、自分ではないような。男の顔。顎のラインは確かにいつもの自分だ。頬に落ちた水滴が、無造作に垂れた濡れた髪に吸い込まれていく。喉元に滲んだ水気が、喉仏の影を際立たせていた。けれど、そこにあるのは、何かを演じてきた“仮面”のようだった。笑っていたはずの口元。相手の心に入り込むための営業スマイル。ベッドの上で見せていた、余裕のある色気。快楽に酔わせるための声。それらが、全部剥がれ落ちたあとの顔が、今ここにある。タオルを持った手が、鏡の曇りを拭った。曇りが取れ、より鮮明に自分の顔が見える。けれど、鮮明になったその顔を、河内はまっすぐに見られなかった。わずかに視線を外す。鏡越しの自分の目と目が合うのが、怖かった。彼は思い出す。あの夜、小阪の頬に触れようとして、拒まれた瞬間を。言葉ではなく、視線でもなく、ただ身を引かれただけだった。でも、そのわずかな反応に、全身が凍るような感覚を覚えた。優しさを示したつもりだった。けれど、それが相手を傷つけることだと、ようやく気づいたのは、ずっと後になってからだった。「ほんまは、壊したかったんちゃう……」呟きかけて、唇が止まる。声が、喉の奥でせき止められたように出てこない。タオルの端を握った手に、わずかに力が入る。そうや。壊してしまえば、自分のものにできると思っていた。心の奥に踏み込むことは怖くてできなかったから、先に身体を奪った。言葉にする代わりに、抱くことで繋がった気になっていた。でも、それは結局、誰にも触れていなかった証なんや。喉の奥が熱い。言葉にすれば、すべてが崩れてしまう気がして、ただ黙っていた。けれど、その沈黙が、小阪を追い詰めていたのかもしれない。
last updateLast Updated : 2025-07-23
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未送信メッセージ

ベッドの端に腰を下ろし、小阪は静かにスマホを手に取った。部屋の照明は落としていて、窓際に置かれた小さな間接灯が、淡い橙色の光を放っていた。だが、手元だけはスマホの画面が放つ青白い光に照らされ、指先と頬の輪郭に冷たい色味が宿っている。LINEのトーク一覧を開く。そこに表示された名前はひとつ。河内 拓真。その文字をタップする指が、ほんの一瞬だけ躊躇った。画面が切り替わり、過去のやりとりがスクロールされる。だが、最後に残っているのは、何日も前のスタンプひとつと、それに反応しない既読マークだけだった。小阪は無言のまま、画面下の入力欄に視線を落とす。親指がゆっくりと動き始めた。何かを言葉にしようとして、画面に浮かび上がった文字は、たった三文字。……ごめんそれだけだった。言い訳も、説明もない。ただの謝罪とも呼べない、語尾の濁った一言。文末の「。」すら打てなかった。ごめん、と言いたいのか、それともただ声にしたかったのか。自分でもよくわからなかった。画面には、その言葉がしばらく点滅しながら残った。指が送信ボタンの上にかかる。押すか、押さないか。たったそれだけの動作なのに、身体が言うことをきかない。心のどこかで、これを送った瞬間に、何かが戻ってくると思っているのかもしれない。けれど、そんなことはないと分かっていた。あの夜、河内に拒絶するように言った。好きなんて、もう言わんといて。期待してしまうから。壊れてしまうから。そのくせ、今は謝りたくなっている。あの言葉を、河内の口からもう一度だけ聞きたかった。言わせたかった。けれど、それをまた恐れている。「……」と、何の意味もない声が漏れた。吐息だったのか、溜息だったのか、自分でも判別がつかない。目の奥にかすかな痛みがあった。睫毛が影を落とし、頬の上に青白い反射が淡く揺れている。スマホを見つめる視線は、まるで時間の流れを止めてしまったかのように動かなかった。指がわずかに震える。タップ音は聞こえなかった。ただ、画面上の文字が、一文字ずつ消えていく。すべての文字を消し終えたあと、小阪は親指で画面を下にスライドさせ、トークルームを閉じた。
last updateLast Updated : 2025-07-23
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香月のひとこと

薄暗い店内に、グラスの触れ合う小さな音と、奥で鳴るジャズのピアノがかすかに流れていた。夜色のカウンターには数人の常連客が散らばっていたが、その夜は特に静かだった。言葉の数も、笑い声も少なく、空気全体がどこか沈んでいた。河内は、カウンターの一番端、壁際の席に腰を下ろしていた。照明が当たりすぎず、誰からも見えにくい位置。誰かと話すためではなく、誰とも話さなくていいために選んだ席だった。目の前には香月が立っている。いつもと変わらず、丁寧な手つきでグラスを拭いていた。ワイングラスの脚を布で挟み、くるくると回すようにして磨いている。その動作が、音楽と同じテンポで続いていた。河内は無言のまま、ポケットからタバコを取り出した。セブンスターの箱を軽く弾いて、一本だけ引き抜く。ライターの火が一瞬、彼の顔を照らした。唇に咥えたタバコの先に炎を近づけ、肺いっぱいに煙を吸い込む。ふう…と、ゆっくり吐き出された煙が、カウンターの上で淡く揺れた。香月はそれを横目に見ながらも、特に声をかけるでもなく、黙々とグラスを磨き続けていた。河内もまた、何かを話すつもりはなかった。ただ、ここに座り、煙に紛れて時間をやり過ごせればそれでよかった。ふたりの間に沈黙があった。だがそれは、気まずさや緊張のそれではない。お互いの間に必要なだけの余白を含んだ、静かな呼吸のようなものだった。その沈黙の中で、香月がぽつりと口を開いた。「あの子、また来てへん」グラスの脚を拭きながら、視線を上げずに呟いたその声は、ごく自然で、ごく唐突でもあった。河内はその言葉に反応しなかった。というより、反応できなかった。視線は正面の棚に並ぶ酒瓶に向けたまま、ただ煙を吐き続けていた。香月は続けた。「……心が、ちょっと動いたからや」それだけだった。まるで、何かを見透かしているようでもあり、ただの事実を淡々と述べているようでもある。その声の温度には、責めるでも、哀れむでもない、やわらかな重さがあった。河内は口を開こうとして、結局、何も言わなかった。言葉になりかけたものは、喉の奥で
last updateLast Updated : 2025-07-24
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夢のような気配

まだ夜と朝の境目が曖昧な、薄青く滲んだ光がカーテンの隙間から差し込んでいた。時計の針は五時を少し過ぎたところを指している。窓の外では鳥が一声、短く鳴いた。けれどその音すら、布団の中に埋もれた身体には届いていなかった。小阪はうつ伏せになり、シーツに片頬を埋めたまま、浅い眠りのなかにいた。完全に意識が沈んでいるわけではなく、けれど目を開くには、まだ何かが重たくのしかかっているような感覚。夢と現実のあわいに、ぼんやりと身を委ねている。誰かの声がした。「……陸」それは、かすかに掠れた低い声だった。けれどその響きには、不思議なほどのあたたかさがあった。名前を呼ばれた感触が、耳ではなく、胸の奥を撫でるように響いていた。遠くで聞こえたような、あるいはすぐ隣で囁かれたような、曖昧な距離感のまま、その声は小阪の意識の中に染み込んでくる。目を閉じたまま、小阪は微かに眉を動かした。反応というより、記憶が何かを思い出そうとするような、そんな仕草。まぶたの裏で、過去の映像がかすれて揺れた。誰かに名前を呼ばれた夜。名前を繰り返され、壊されていった記憶が、喉元までせり上がってくる。それでも、この声は違った。優しかった。支配や命令ではなく、許しを含んだ音色だった。眠りのなかに、ほんの一瞬だけ滲んだ安堵。それはあまりにもかすかで、それゆえに余計、心の奥を締め付けた。ふっと、目を開けた。薄暗い天井が、視界に広がった。視線を左右に動かしても、部屋には誰もいなかった。隣に身体の重みはない。音もない。あの声は夢だったのだと、ようやく理解した。夢やったんか。そう思ってしまった自分に、少しだけ嫌気が差した。夢でもええから、呼ばれたかったのかもしれへん。そのことを認めたくなくて、小阪はゆっくりと身体を仰向けに返した。寝返りを打っただけなのに、胸の奥が妙に重い。天井を見つめる目は、焦点を持たなかった。現実の輪郭が、まだぼんやりと曇っている。まるで自分自身が、まだ夢の続きのなかにいるようだった。布団がほんの少しだけ音を立てて揺れる。温もりはあるのに、どこまでも空虚だった。
last updateLast Updated : 2025-07-24
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薄まった会話

オフィスの中に流れる空気は、いつもと変わらないように見えた。コピー機の駆動音、誰かが電話口で謝る声、エクセルのショートカット音。天井の蛍光灯が乾いた白色を放ち、窓際に差す陽射しは少しだけ曇り気味の空を映していた。河内は自席から立ち上がり、手に書類を持って小阪の席へと向かった。スラックの通知で確認していた案件のチェック用デザイン。午前中のうちに送っておかないといけないデータが、まだ共有ファイルに上がってこなかった。小阪はデュアルモニターの前に座ったまま、ひとつのウィンドウを睨むようにしている。だがその目には焦りもなく、かといって集中しているようにも見えなかった。ただ、時間を埋めるようにキーボードを打っている。そんな無機質な動きだった。河内は小さく咳払いをして、声をかけた。「これ、午前中にクライアントに送るって言うてたやつやな」その言葉に対して、小阪はモニターから目を離さずに「……はい」と短く答えた。音のない返事。低すぎるわけでもないのに、やけに遠く聞こえる声。河内はしばらくその横顔を見つめていたが、表情に変化がないことを確認すると、手に持っていた書類をそっと差し出した。「チェック、先に通してもらってええ? 今のうちに担当の方にだけ目ぇ通してもらお思て」小阪は頷きもせず、ただ手を伸ばす。その指が、河内の手に一瞬だけ触れた。指先と指先。紙越しに重なったわけではなく、直接の感触。乾いていて、冷たかった。河内は思わず反応しかけたが、小阪の指はすぐに離れていった。ほんの数秒の接触。それだけだった。「……あと三分で送ります」そう言って、小阪はもう一度キーボードに向かう。表情はない。口元はきゅっと結ばれていて、頬の筋肉が微かに引かれているように見えた。けれどそれは、何かを押し殺しているようにも、何も感じていないようにも見える曖昧な表情だった。河内は片手で髪をかき上げながら、目線を逸らした。笑おうとして、口元に薄く笑みを浮かべる。いつものような、軽さをまとった営業スマイル。けれどその笑みは、目元には届いていなかった。いつもなら誰かの警
last updateLast Updated : 2025-07-25
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ズレる段取り

プロジェクターの白光が会議室の壁に投影されている。スライドが切り替わるたびに、微かな電子音が空気を裂いた。窓際のブラインドは半分閉じられていて、外の曇天を遮っている。照明の白さが強調されるなか、十数名のメンバーが長机を囲んでいた。その中で、河内は一段と落ち着いた様子でノートPCを操作していた。スーツの襟元には乱れもなく、いつものように言葉を選んで会議を進行する。だがその口調には、どこか慎重すぎる間が挟まっていた。「次、このデザイン案の構成。ターゲット層へのビジュアル訴求を意識したページやけど…」プロジェクターのスライドが切り替わる。次に映し出されたのは、仮レイアウトと明記されたスライド。図版とコピーのバランスが崩れていて、仮素材の写真がまだそのまま残っていた。「…このページ、仮のままやったっけ?」河内の声は意識して柔らかく落とされていた。だが、それは小さな静寂の導火線だった。会議室の一角、少し距離を置いた端の席にいた小阪が、僅かな間を空けて答える。「……指示なかったです」その声は低く、明確に“感情”を剥ぎ取った響きをしていた。ざわつきはしない。だが、全員が一瞬、何かを飲み込んだ。誰かが息を止め、誰かが指の動きを止めた。その間にだけ、部屋の空気がひやりと冷えた。河内はその間を埋めるように、すぐさま言葉を継ぐ。「ああ…せやな。たぶん俺、確認漏れてたかもしれんわ。ごめん、次のスライド行くな」モニターを見つめたままの指先が、キーボードのタッチパッドに沈む。スライドが切り替わる音が、やけに重く耳に響いた。その隣で、小阪は淡々と資料の補足を続けた。「配色はD案を基に、ウェブと印刷の差異が出ないようガンマ補正してます。テキストレイヤーは変更可能な状態で残してあるので、後でコピー変更があればすぐ差し替えられます」完璧な説明だった。どこにもミスはなかった。だが、そこに“会話”はなかった。言葉のキャッチボールではなく、ただ発され
last updateLast Updated : 2025-07-25
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空っぽの夜

ホテルのベッドにシーツがからみつく。淡い照明が薄黄に揺れ、壁紙の模様がどこか曇って見えた。エアコンは低めに設定されていたが、汗ばんだ肌を撫でるには冷たすぎる風だった。河内は何も言わず、ただゆっくりと上体を起こした。隣で眠る男の、寝息と、乾いた喘ぎ声の残響だけが、まだ空気のなかに引っかかっている。濡れた髪を乱暴に手ぐしでかき上げる。首筋には相手の唇の跡が残っていたが、痛みも、快感も、もはや感じない。心臓の鼓動だけがやけに遠くで響いていた。振り返れば、セフレの男が満ち足りたように腕を伸ばし、布団に顔をうずめている。名前も聞かなかった。たぶん、数週間前に夜色で声をかけてきた男だ。お互いに、会いたかったわけでも、何かを求めていたわけでもない。ただ、その夜だけの、空虚を埋めるための身体。タバコの箱を手に取る。ベッド脇のガラステーブルに置いてあったセブンスター。一本抜いて唇に咥える。ライターを擦った音が、やけに大きく響いた。火がつく瞬間、河内の頬が一瞬だけ明るく照らされた。煙を深く吸い込み、すぐにゆっくりと吐き出す。その煙が部屋の隅で渦を巻き、すぐに天井へ消えていく。眠る男の肩が布団から少しはみ出していた。呼吸は深く、リズムを保っている。さっきまで熱を持って動いていた身体が、今はただの重みとしてベッドに沈んでいた。河内はその背中に視線を落とすこともなく、窓の外に目を向けた。雨は降っていなかった。ガラス越しに見える街の灯りは滲んで、輪郭がぼやけている。自分が今、どこのホテルにいるのかも意識に残っていない。ただ、どこでもよかった。場所にも、相手にも、何ひとつ執着がなかった。煙の味が苦い。こんなにきつかったかと思いながら、河内は唇を歪める。舌先でタバコの先端をいじる癖が出る。昔、こうやってひとりきりで煙を吸っていた夜のことが、ふいに思い出される。あの頃は、満たされない理由も、空虚の原因も、他人のせいにしていた。隣の男が寝返りを打つ。河内は無意識に身を引いた。身体はつながったはずだったのに、皮膚の奥までは誰にも触れられていなかった。あれほど強く求めていたはずの快楽が、今はただの作業みたいに感じられる。肌の熱も、爪のあとも、汗ばむ匂いも、どこか遠いものだった。
last updateLast Updated : 2025-07-26
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空白のファイル

朝から重たい曇り空だった。オフィスの窓には水滴がついている。湿った空気のなかで、コピー機が定期的に鳴る。電話の呼び出し音も、どこかくぐもって聞こえる。誰もが自分のディスプレイに視線を落とし、最低限の会話だけで午前中が過ぎていった。河内は自席でPCの画面を睨んでいた。タスク管理シートに、今日が締切のプロジェクト名が赤く表示されている。納品データをまとめる担当は小阪になっていた。共有フォルダの更新通知が来ている。何の気なしにクリックし、該当フォルダを開く。中身は──ラフ案だけだった。必要な要素が半分以上抜け落ちている。ファイルのタイムスタンプは、昨夜のまま止まっていた。心臓が小さく跳ねた。だが怒りではない。むしろ、理由の分からない静かな冷たさが、手の甲を這うように広がる。「……忘れてるわけないやろ」独りごちる声が、低くこもった。いつもの小阪なら、仕事でこういう“抜け”を見せることはない。ここ最近の彼はむしろ、過剰なくらい期限を守ってきた。進行がギリギリでも、形だけは必ず整えて提出してくる。だから、これは忘れたのではなく、あえて残した“余白”のように思えた。本当は、ここで詰めて問いただすべきだろう。ミスを理由に、いつも通り口調を荒らげてしまえば簡単だ。だが、その言葉が喉の奥に止まった。PCの画面に並ぶ未完成のラフ。その余白に、今のふたりの距離が滲んでいる気がして、無性に追及する気になれなかった。メールもチャットも、全て最低限の短文で終わっている。会話の流れは、どこかで断ち切られていた。PCの隅に貼り付いたふたりだけのスレッドは、数日前から既読にも未読にもならない“無”のまま放置されていた。そのとき、背後から小阪の気配がした。彼はノートPCを抱えて席に戻ってくる。顔は伏せたままで、長い前髪の陰に表情は隠れている。椅子を引く音も、キーを叩く音も静かすぎる。周囲はその存在を気にしないふりをしつつ、どこかで彼の気配を避けている。河内は再度、共有フォルダのファイル一覧を見つめた。サムネイルに表示されるラフの白い余白。思えば、この“余白&rd
last updateLast Updated : 2025-07-26
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