All Chapters of 「好き」って言えなかったあの夜を、超えて~壊れた心と身体を、少しずつ繋ぎ直す恋: Chapter 71 - Chapter 80

99 Chapters

ネオンのにじむ場所

仕事帰りの人波がすでに途切れ始めていた。夜の街は、夕方の湿り気をまだほんのり残したまま、静かにその輪郭をぼやかしていた。河内はオフィスを出たあと、どこにも寄り道することなく歩き出した。飲みに行くでもなく、同僚と雑談するでもなく、タクシーを拾うこともなかった。まるで目的地のない旅に出たみたいに、足の向くまま歩いていた。心の中に、空白が広がっていた。今日一日、仕事で交わした会話も、完成しないままの資料も、すべてが自分の内側に染み込んでいた。帰宅する気にもなれなかった。人通りの少ない裏通りに差し掛かったとき、ふと、見慣れたネオンが目に飛び込んできた。夜色の看板だった。青と紫の光が、しとどに濡れた路面をぼんやりと照らしている。雨は止んでいたが、まだ水たまりがあちこちに残っていた。小さな店の扉の前に、立ち止まる。あの場所は、いつもどこか温かかった。自分が何者でもなくいられる時間と空間を与えてくれた。だが今夜、その光は妙に冷たく見えた。ネオンの灯りが、河内の頬に淡く色を落とす。冷たい光の下で、肌の質感が青白く浮かび上がる。足元では、水たまりがぼんやりと色を反射している。その揺れが、まるで過去と現在を混ぜ合わせていくようだった。扉の前で、数歩だけ距離を詰める。けれど、どうしても手が伸びない。あの扉を押して中に入れば、香月の声が聞こえるだろう。何気ない会話と、薄暗いカウンターの匂い。きっと心を少しだけ休めることができるはずだった。なのに、今夜はどうしても、その一歩が踏み出せなかった。胸の奥が、ひどく静かだった。期待も、欲望も、後悔も、すべてが消えかけた灰のようになっていた。誰かに触れたいとさえ思わない。ただ、そこにいる自分を、どこかで誰かが見ていてくれたらそれでよかった。ネオンの光のなかで、自分の唇がかすかに震えていることに気づく。どれだけ自分を守ろうとしたって、この孤独は誤魔化せなかった。誰かに抱かれても、何も感じなかった。小阪の名前を呼びたくても、もう声にならなかった。ふと、店の奥に小阪の姿を思い出す。カウンターに沈み込むように座り、淡い照明のなかで、グラスの氷を転がしている。あの背中を思い浮かべるたびに、どうしようもない焦燥と、手の届かない距離
last updateLast Updated : 2025-07-27
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声をかけなかった理由

小阪の部屋は静まり返っていた。外の街の音もほとんど届かず、窓ガラスに貼りつく夜の湿気が空気をわずかに重くしている。ソファの上、小阪は膝を軽く抱えるように座っていた。パソコンの液晶が青白い光を投げかけている。画面には資料が開かれたままだった。グラフィックの下書き、未完のレイアウト、タスク管理シートの数字。どれも必要なものなのに、今夜は指一本動かす気になれなかった。テーブルの上には飲みかけのグラスが残っている。琥珀色のウイスキーに、氷がひとつ浮かんでいた。小阪はそれに指先を伸ばしたが、すぐに手を止めた。掌がグラスの冷たさに触れる前に、ほんの一瞬、ためらう。氷が溶けていく音だけが静かに響く。スマホの画面がふいに光った。LINEの通知。けれど、それは仕事のグループからの事務的な連絡で、彼が望む名前はそこにはなかった。既読にもしなければ、返信することもない。ホームボタンを押し、何もなかったように画面を閉じた。目を伏せる。何かを押し殺すような動作だった。自分の感情を見つめることが、どうしようもなく苦しかった。言葉にすれば、すぐにでも崩れてしまいそうなほど、脆くなっていた。今日の仕事で河内と言葉を交わした回数を、指で数えようとする。どれも短く、どれも冷たいやり取りばかりだった。「はい」も「いいえ」も、音の響きも温度も持たなかった。ただ必要だから口にしただけ。終わればすぐに視線をそらして、空気の流れにまぎれた。あの会議室で、河内がふいにピアスへ落とした視線のことを思い出す。何も感じていないふりをしていたが、本当はあのとき、身体の奥で心臓が跳ねた。怖かった。けれど、なぜか嬉しくもあった。そんな自分をすぐに否定した。嬉しいと感じてしまうこと自体が、今の自分には不相応だと、心のどこかで突き放していた。もう何も期待しない、と何度も言い聞かせてきた。それでも、夜になるとふいに、スマホの画面を何度も見てしまう。河内からの通知がないことに、今さら失望する理由はないはずなのに、それだけで部屋の温度がさらに下がった気がした。膝に置いた手が、わずかに震える。無意識に、爪先で生地をつまんでいる。唇はきゅっと結ばれて、喉の奥で言葉にならない何かが渦巻いていた。ふと思い立ち、
last updateLast Updated : 2025-07-27
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灯りのない鏡

湯気の名残が微かに残る鏡の表面に、河内の顔がぼんやりと浮かんでいる。バスルームの照明は、もう何度も交換されて明るさを失っていたが、それでも白く滲む光が、濡れた髪や首筋を照らしていた。タオルを肩にかけたまま、河内は無言で鏡を見つめている。誰かの顔のようで、他人のようで、それでいて確かに、自分の表情だった。頬に指をあてる。人差し指の先で、ゆっくりと肌を撫でる。けれど、そこには実感がなかった。ぬるい温度だけが指先に返ってくる。触れているのに、触れている気がしない。皮膚の下に感情というものが沈んでいるはずなのに、それはまるで氷の底に封じ込められているようだった。鏡の奥で、自分の目だけがこちらを見返している。目元には微かなクマ。目尻には疲労と諦めが同居している。口元は引き結ばれて、微動だにしない。いつものように笑う形にはならなかった。息を吐きながら、タバコに火をつける。ジッポの金属音が短く響き、ゆらりと煙が立ち上る。煙が、ゆっくりと鏡を曇らせていく。顔の輪郭がさらにぼやける。その曖昧さが、まるで今の自分の境界のように思えた。どこまでが他人で、どこまでが“河内拓真”なのか。明確な答えは、とうの昔に見失っていた。指先がタバコのフィルターに触れたまま、無意識に力が入る。吸い込んだ煙が肺の奥まで届き、喉の壁を熱く撫でる。咳き込むような予感はあるが、それすら抑え込んだ。出すべき感情が、もうどこにもなかった。ふと、声が漏れた。独り言のような、それでいて自問に近い響き。「おれ、あのときからずっと、逃げてばっかやな……」呟いた言葉がバスルームの壁にぶつかり、静かに沈んでいった。返事はもちろんない。ただ、再び湯気が曇らせた鏡が、その言葉を飲み込むように揺れていた。東京の、あの路地裏が頭の奥に浮かぶ。傘もささずに並んで歩いた、あの夜の光景。狭い坂道に雨が降り、電柱の明かりが濡れたアスファルトに反射していた。後ろから手を握られた温度が、ふいに記憶から甦る。「タクちゃん、雨の音ってさ、なんかさみしくない?」そう言って笑った、年下の彼の声が耳の奥で再生された。声のトーンも、間の取り方も、
last updateLast Updated : 2025-07-28
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渋谷の裏通りでキスした夜

夜の渋谷は、日中の喧騒をすっかり飲み込んでいた。駅前の明かりはまだ煌々と点いていたが、一歩裏通りに入ると、そこはまるで別の世界だった。舗装の甘い路地、電柱の影、風に揺れるビニール傘の音。それらすべてが、夜の東京特有の孤独と湿り気を孕んでいた。河内と彼は、その路地を並んで歩いていた。飲み終わった帰り、終電の時間をとうに過ぎた街を、二人で黙って歩く。すぐ左には小さなコインパーキングがあり、鉄のチェーンで囲まれた区画に、数台の車が静かに眠っている。人の気配がないとわかると、彼はふと立ち止まり、河内の袖を引いた。「タクちゃん」小さく呼ばれたその声には、酔いの名残が混じっていた。だが、それだけではなかった。心の奥底から湧き上がったような、かすかな熱と不安がそこにはあった。河内が振り返るより先に、唇が触れた。やわらかくて、短くて、けれど確かに温度のあるキスだった。夜風が吹き抜けるたびに、彼の髪が頬に当たる。その感触さえ、やけに生々しく感じられた。「タクちゃん、誰かに見られたらどうする?」キスのあと、彼は照れ隠しのように笑って言った。けれど、その声には揺らぎがあった。ふざけたような口調の裏に、恐れが隠れていた。河内は一瞬だけ視線を落とし、それから、肩をすくめて彼の頭を抱いた。髪をくしゃりと撫でるようにして、手のひらで包み込む。その髪が、わずかに震えているのがわかった。夜の寒さのせいではない。彼の心が、何かを恐れていることが、その振動で伝わってきた。「……おれは、かまへんけどな」そう呟いた自分の声は、驚くほど静かだった。感情を抑え込んでいたわけでも、躊躇っていたわけでもない。ただ、その言葉を彼に向けて口に出すことが、なぜかとても慎重になった。彼はその言葉に返事をしなかった。ただ、額を河内の肩にそっと預ける。そうすることで、わずかな安心を得ようとしていた。河内は腕を緩めなかった。狭い裏通りの、誰も見ていないその場所で、ふたりだけの呼吸が重なっていた。遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。パーキングの奥にあった一台の車がライトを灯し、ゆっくりと動き出す。その光が一
last updateLast Updated : 2025-07-28
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春から夏へ、ふたりだけの部屋

六畳の部屋は、夏の湿気を含んだ空気で満ちていた。古い団地の一角、陽が沈んだあとでも風通しは悪く、窓の向こうからは時折、団地内の子供の声や、自転車のブレーキ音が届く。それでも、あの頃のふたりにとって、この部屋だけが世界の中心だった。扇風機が低い音を立てて回っている。風は弱く、生ぬるいだけで体温を下げるほどの効き目はない。それでも、互いの汗ばむ肌に風がかすかに触れるだけで、息が浅くなった。布団の上、河内と彼は裸のまま横たわっていた。暑さに耐えるように、どちらともなく身体を絡めず、指先だけを軽く繋いでいた。天井を見上げながら、彼は何も言わずに唇を少し開け、音もなく呼吸を続けていた。肌のぬくもりが、静かに、だが確実に重なっていた。スマートフォンから流れるピアノの旋律が、部屋をゆるやかに包んでいる。誰の作曲だったかも思い出せないようなインストゥルメンタル。旋律に言葉はなく、それがかえって、ふたりの沈黙と呼応していた。彼が、ふと小さな声で言った。「タクちゃんが“好き”って言うたら、なんか安心する」そのとき、河内は顔を向けなかった。視線を天井に向けたまま、静かに息を吐く。そして、冗談のように答えた。「おまえが不安になるたびに、言うたるわ」彼は小さく笑った。けれどその笑みには、どこかしがみつくような影が混じっていた。笑っているのに、瞳の奥が動かない。それに気づきながらも、河内はその笑顔に微笑み返すことしかできなかった。不安を和らげたくて言った言葉だった。軽く響かせたつもりだった。でも、河内自身、あのとき本気で思っていた。この部屋を守ることは、自分にもできる、と。ここだけを世界にしてしまえば、誰にも咎められず、誰も奪わずに済むと思っていた。指先がぬるく濡れていた。彼の手のひらが、微かに汗ばんでいる。それを確かめるように握り返すと、彼はわずかに身体を寄せた。肌と肌が触れ合い、体温の境目が曖昧になっていく。重なり合うというより、溶け合う感覚だった。何も言わず、呼吸だけで会話をする夜。言葉は、あまり必要ではなかった。「……このまま、ずっと夏でもええな」彼がぽつ
last updateLast Updated : 2025-07-29
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“なかったこと”にされた朝

大学の構内は、秋の風が歩道の落ち葉を静かに転がしていた。キャンパスにある木々の色はすっかり深まり、黄金や赤褐色に染まっていたが、その鮮やかさが逆に胸に沁みた。河内は講義の合間、人気の少ない渡り廊下で携帯を握りしめていた。三日前から、彼からの連絡が途絶えている。既読すらつかないまま、短いメッセージは画面に沈黙として残っていた。秋風に運ばれる声や足音の向こう、どこか遠くで名前を呼ばれたような気がした。だが、それは空耳だった。構内に彼の姿はなかった。あれほど一緒に過ごしていた時間が、いまでは幻のように感じられた。その数日前、ちらりと聞いた噂の断片が耳に焼きついていた。彼の兄が、ある教員に“それとなく”話したという。それがどこまで広がったのかはわからない。ただ、あの夜を境に、彼からの連絡はぴたりと止まった。それだけで、河内には察せられた。そして、何日も経ってから、突然届いた一通のメッセージ。「話したい」場所は、大学近くのカフェ。以前、よくふたりで寄っていた店だった。通い慣れたはずのその道が、その日はとても遠く感じられた。扉を開けた瞬間、鈴の音が鳴る。店内には学生らしき数人と、カウンターの奥にマスターがひとり。窓際の席に座る彼の姿を見つけたとき、河内は一瞬だけ足を止めた。視線が合う前に、彼は目を伏せた。河内が椅子を引いて腰を下ろすまで、言葉はなかった。テーブルの上には、半分も飲まれていないカフェラテが置かれている。その泡は、すでに表面を失い、ぬるく濁っていた。「タクちゃん」彼の口から名前が出たとき、声は震えていた。けれど、その震えよりも、表情のこわばりの方が痛々しかった。笑顔を作ろうとしているのに、口元が動かない。唇が白くなっている。「……ごめんな」沈黙が落ちる。彼はカップを持ち上げたが、唇にはつけなかった。ただ、手が空いていることに耐えられなかったのかもしれない。「兄貴が…先生に、なんか言うたらしくて。家でもちょっと、色々あって」言葉のひとつひとつが、石を積むように重く響いた。河内は頷くこともせず、
last updateLast Updated : 2025-07-29
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東京タワーの見える夜、ひとりで

東京タワーの明かりは、あまりに眩しすぎて、どこか現実味を欠いていた。卒業を目前にした三月の夜、風は冷たく、春の気配などまるで感じられなかった。河内はコートの襟を立てながら、ゆっくりと展望台の方を見上げた。首を傾けないと視界に入りきらないその塔は、まるで何もかもを見下ろしているようにそびえていた。あの夜、自分はここに“ふたり”で来るはずだった。冬のはじめ、ささやかな約束を交わした。卒業の前に、最後に夜景を見に行こう、と。そんな他愛ない会話が、いつの間にか幻になっていた。待ち合わせなどしていない。けれど、来てしまったのは、心のどこかでまだ、あいつが現れるかもしれないという期待を捨てきれていなかったからだ。こんなふうに思うこと自体が未練なのだと、わかっていた。けれど、それを止められるほど、気持ちは整理されていなかった。夜の風が、頬を撫でる。冷たさよりも、寂しさのほうが刺さる。周囲にはカップルや観光客がちらほらいたが、河内には誰の笑い声も届かなかった。ただ、塔の下で黙って立ち尽くしていた。ひとりきりで見る東京タワーは、あまりに無言だった。まるで、自分がここに存在していないかのように、冷たく光り続けている。誰かと共有するはずだった景色が、ひとりのものになると、こんなにも色を失うのかと知った。「おれが好きになったせいで、おまえの人生、変わってもうたんやな」呟いた声は、風に紛れて誰にも届かなかった。別に、責めるつもりはなかった。ただ、それが事実だった。あいつは、河内と関わったことで家族との関係が揺らぎ、大学でも気まずい空気に晒され、最後には“なかったこと”にするしかなかった。それを、恨んではいなかった。むしろ、理解できた。だからこそ、なおさら苦しかった。もしかしたら、最初から、自分だけが“ふたりの未来”を信じていたのかもしれない。ふたりの恋が、このまま続くと疑わずにいたのは、たぶん自分だけだった。あいつがときどき見せていた怯えや、曖昧な笑顔、ふと視線を逸らす癖…その全部に気づいていたのに、見ないふりをしていた。最後に交わしたキスの感触すら、いまでは
last updateLast Updated : 2025-07-30
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鏡の向こうにいる男

洗面台に置いた灰皿の上で、セブンスターの火がほとんど芯だけになっていた。河内はようやくそれに気づき、指先で慌てるように揉み消した。わずかに熱が皮膚に触れたが、痛みという感覚はなかった。肌が麻痺しているのではない。どこか、もっと奥の層で、感覚そのものが鈍っていた。鏡の表面には、シャワーの残した蒸気がうっすらと曇りの膜を作っている。指の腹で一度だけこすり取ると、そこには、自分の顔が映った。乱れた髪、肩にかかったままのバスタオル、湿った肌、そして、笑っていない目。目元の奥に何かが滲んでいた。涙ではなかった。けれど、そこには、言葉にできなかった感情がこびりついていた。じっと自分の目を見つめながら、河内はふと口を開いた。「……ほんま、逃げてるだけやな」その言葉は、まるで他人に向けられたもののように、かすかに震えていた。自嘲でも、怒りでもなかった。ただ、ようやく口にできたという、重さのない言葉。その響きだけが、湿った空間に沈んでいった。鏡の中の男は、知らない誰かのように見えた。愛想よく笑って、誰にでも優しくして、けれど深くは踏み込ませない。そうして手に入れた“営業としての成功”は、いつのまにか自分の仮面になっていた。プライベートと仕事を分けることに、意地のような自負すらあったのに、実際はどちらも“本当の自分”ではなかった。愛した人に触れた手が、別の誰かの肌に滑っていく。心が空のまま、ベッドを温めるだけの夜を繰り返して、欲望にすら感情が伴わなくなっていた。快楽も、満足も、通り過ぎて、今はただ“何も感じない”という感覚だけが、静かに身体に染みついていた。そして、小阪のことを思い出すたびに、過去の誰かが重なった。東京で、自分を“なかったこと”にした男の面影と、小阪の背中がときどき重なる。そのたび、喉の奥が焼けるように痛んだ。「おれが好きになったせいで、誰かの人生を狂わせるくらいやったら、最初から触れへんほうがええ」そんなふうに考えていたはずだった。だから、抱いてしまった。優しくなんてなかった。支配す
last updateLast Updated : 2025-07-30
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雨の夜、鏡の前

夜更けの静けさに包まれたマンションの一室。雨は途切れることなく降り続き、ベランダの手すりを打つ音が、まるで何かを執拗に責め立てるように鳴っていた。バスルームの照明は白く鈍く、湯気の残る空気が小阪の肌をわずかに包んでいる。濡れた髪をタオルで乱雑に拭いながら、彼は鏡の前に立ちすくんでいた。黒髪の下、左耳に光る黒いピアス。風呂あがりの熱がやっと冷めてきた額から、雫が顎を伝って落ちていく。そのたび、ピアスの金属も冷えてくる。小阪は無意識のうちに、指先でそのピアスをなぞった。爪の先で軽く弾くと、わずかに微かな音がする。耳たぶに感じるその感触は、何年経っても変わらなかった。指先に触れた瞬間、まぶたがわずかに揺れる。ピアスの硬質な冷たさが、鼓動を伝って内側へ沁みていくような錯覚。雨音が、よりいっそう激しく聞こえてきた気がした。窓の外の雨は止む気配もなく、ガラスを叩いて流れるその軌跡は、まるで過去から今へと続く道筋を描いているかのようだった。小阪はそっと息を吐き、鏡の中の自分を見つめ直した。濡れたままの前髪、首筋に浮かぶ薄い血管、そして左耳に光る異物。どこか他人事のように、そのすべてを眺めていた。だが、ピアスに指をかけたまま、思考は自然と過去の一点に吸い寄せられていく。あの夜、初めてピアスの冷たさを知ったときのこと。胸の奥に疼くような痛みと、消えない痕跡。それらすべてが、いまも身体のどこかに残り続けている。この冷たい金属は、扉のようなものだった。自分で開けたのではない。誰かにこじ開けられ、何もかもが変わってしまった夜。あの日の記憶が、雨音の中にふいに混ざりこんでくる。指先が震える。耳たぶに感じるピアスの輪郭が、まるで自分の感情の輪郭そのもののように、曖昧で、けれど確かだった。外そうと思えばできるはずなのに、その手が動かない。何年も経っているはずなのに、傷はまだそこにある。鏡の奥の自分は、何も言わずにただこちらを見返している。雨音が少し強くなった。ガラス越しの街は滲み、マンションの灯りがぼやけていた。まるで、これから思い出すことすべてを、今の夜が飲み込もうとしているようだった。鏡の前で小阪は、しばらく動けなかった。指先はピアスを撫でたまま、まるで今もその夜を生きている
last updateLast Updated : 2025-07-31
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最初の痛み

母親の帰りが遅くなる夜は、いつも家の中が異様に静かだった。小さな団地の部屋、ぼんやりと灯るオレンジ色の蛍光灯が、机の上だけを狭く照らしている。カーテンの隙間からは夜の街灯が差し込むが、外の気配はほとんど感じられなかった。リビングの隅、教科書を開いたまま、鉛筆を握る手がじっとりと汗ばんでいる。その晩も、斎藤が来ていた。学校帰りのままのスーツ姿、無造作に外したネクタイ、優しげな目つき。彼は小阪の母親の知り合いの大学生で、週に一度この部屋に来て勉強を教えてくれることになっていた。「今日も頑張っとるな、陸」柔らかな声で名前を呼ばれる。その響きが不意に胸を刺す。普段、学校でも家でも“陸”と呼ぶ人はほとんどいない。たったそれだけのことで、心の奥のどこかがひりついた。斎藤は、なにげなく小阪の頭を撫でた。優しく、ゆっくりと髪を梳く。慣れた手つきに、思わず目を閉じる。くすぐったいはずなのに、妙に落ち着く気がした。誰かに触れられる感覚は久しぶりで、身体の芯がじんわりと温かくなっていく。「ここ、ちょっと難しいな」斎藤がそう言いながら、数学の教科書をめくる。だが、その指がいつの間にか自分の手の甲にそっと触れている。机の下、膝と膝が少しだけ重なる。ふいに指先を握られる。握り返そうか迷ったが、指をほどくこともできなかった。「大丈夫やで、ゆっくりやったらええから」その声に、安心したのか緊張したのか分からない鼓動が喉元を打つ。小阪は言葉を発さない。斎藤の顔をそっと盗み見る。彼は優しい笑顔のまま、目の奥には何か別の色を滲ませていた。次の瞬間、斎藤が椅子を引いて立ち上がった。小阪もなぜかつられるように席を立つ。部屋の空気が、ほんの少しだけ張りつめた。何も言われないのに、手を引かれるまま、寝室のベッドに向かった。部屋の明かりは、リビングほど明るくない。薄暗い灯りの下、ベッドの端に腰掛けさせられた。斎藤はしゃがみこんで小阪の顔を覗き込む。「緊張しとるか?」と低く囁く。その声に、体が小さく震えた。「大丈夫やから」その言葉が、どこまでも優しくて怖かった。優しくされたかった。必要とされたかった
last updateLast Updated : 2025-07-31
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