仕事帰りの人波がすでに途切れ始めていた。夜の街は、夕方の湿り気をまだほんのり残したまま、静かにその輪郭をぼやかしていた。河内はオフィスを出たあと、どこにも寄り道することなく歩き出した。飲みに行くでもなく、同僚と雑談するでもなく、タクシーを拾うこともなかった。まるで目的地のない旅に出たみたいに、足の向くまま歩いていた。心の中に、空白が広がっていた。今日一日、仕事で交わした会話も、完成しないままの資料も、すべてが自分の内側に染み込んでいた。帰宅する気にもなれなかった。人通りの少ない裏通りに差し掛かったとき、ふと、見慣れたネオンが目に飛び込んできた。夜色の看板だった。青と紫の光が、しとどに濡れた路面をぼんやりと照らしている。雨は止んでいたが、まだ水たまりがあちこちに残っていた。小さな店の扉の前に、立ち止まる。あの場所は、いつもどこか温かかった。自分が何者でもなくいられる時間と空間を与えてくれた。だが今夜、その光は妙に冷たく見えた。ネオンの灯りが、河内の頬に淡く色を落とす。冷たい光の下で、肌の質感が青白く浮かび上がる。足元では、水たまりがぼんやりと色を反射している。その揺れが、まるで過去と現在を混ぜ合わせていくようだった。扉の前で、数歩だけ距離を詰める。けれど、どうしても手が伸びない。あの扉を押して中に入れば、香月の声が聞こえるだろう。何気ない会話と、薄暗いカウンターの匂い。きっと心を少しだけ休めることができるはずだった。なのに、今夜はどうしても、その一歩が踏み出せなかった。胸の奥が、ひどく静かだった。期待も、欲望も、後悔も、すべてが消えかけた灰のようになっていた。誰かに触れたいとさえ思わない。ただ、そこにいる自分を、どこかで誰かが見ていてくれたらそれでよかった。ネオンの光のなかで、自分の唇がかすかに震えていることに気づく。どれだけ自分を守ろうとしたって、この孤独は誤魔化せなかった。誰かに抱かれても、何も感じなかった。小阪の名前を呼びたくても、もう声にならなかった。ふと、店の奥に小阪の姿を思い出す。カウンターに沈み込むように座り、淡い照明のなかで、グラスの氷を転がしている。あの背中を思い浮かべるたびに、どうしようもない焦燥と、手の届かない距離
Last Updated : 2025-07-27 Read more