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香月のひとこと

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-07-24 18:13:47

薄暗い店内に、グラスの触れ合う小さな音と、奥で鳴るジャズのピアノがかすかに流れていた。夜色のカウンターには数人の常連客が散らばっていたが、その夜は特に静かだった。言葉の数も、笑い声も少なく、空気全体がどこか沈んでいた。

河内は、カウンターの一番端、壁際の席に腰を下ろしていた。照明が当たりすぎず、誰からも見えにくい位置。誰かと話すためではなく、誰とも話さなくていいために選んだ席だった。

目の前には香月が立っている。いつもと変わらず、丁寧な手つきでグラスを拭いていた。ワイングラスの脚を布で挟み、くるくると回すようにして磨いている。その動作が、音楽と同じテンポで続いていた。

河内は無言のまま、ポケットからタバコを取り出した。セブンスターの箱を軽く弾いて、一本だけ引き抜く。ライターの火が一瞬、彼の顔を照らした。唇に咥えたタバコの先に炎を近づけ、肺いっぱいに煙を吸い込む。

ふう…と、ゆっくり吐き出された煙が、カウンターの上で淡く揺れた。

香月はそれを横目に見ながらも、特に声をかけるでもなく、黙々とグラスを磨き続けていた。河内もまた、何かを話すつもりはなかった。ただ、ここに座り、煙に紛れて時間をやり過ごせればそれでよかった。

ふたりの間に沈黙があった。だがそれは、気まずさや緊張のそれではない。お互いの間に必要なだけの余白を含んだ、静かな呼吸のようなものだった。

その沈黙の中で、香月がぽつりと口を開いた。

「あの子、また来てへん」

グラスの脚を拭きながら、視線を上げずに呟いたその声は、ごく自然で、ごく唐突でもあった。

河内はその言葉に反応しなかった。というより、反応できなかった。視線は正面の棚に並ぶ酒瓶に向けたまま、ただ煙を吐き続けていた。

香月は続けた。

「……心が、ちょっと動いたからや」

それだけだった。まるで、何かを見透かしているようでもあり、ただの事実を淡々と述べているようでもある。その声の温度には、責めるでも、哀れむでもない、やわらかな重さがあった。

河内は口を開こうとして、結局、何も言わなかった。言葉になりかけたものは、喉の奥で

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