Semua Bab 名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある: Bab 11 - Bab 20

50 Bab

まだ名前のない熱

チェックアウトの時間が迫り、貸別荘のなかはどこか浮足立った空気に包まれていた。昨夜の余韻も、朝の柔らかい食卓の記憶も、荷物をまとめる気配に押し流されていく。志乃と瑞希は寝室のシーツを整えながら、忘れ物がないかを確認し合っていた。「本当に楽しかった。やっぱりこういうの、定期的にやりたいね」「うん。…ねえ、須磨さんとうちのダンナ、結構気が合ってるっぽいよね」「うん、びっくりするくらい。…正直、あんなに自然に打ち解けるなんて思わなかった」ふたりは笑いながら、まだ湿った水着をバッグに押し込む。海の匂いが荷物の奥からふわりと立ち上り、昨日の記憶をほんの一瞬だけ鮮やかに蘇らせた。リビングでは、男たちがキッチンの片付けと掃除を分担していた。須磨は冷蔵庫の中身を確認し、使い残した調味料を袋に詰めている。塩屋は、ソファの上に散らばった衣類をまとめていた。そのうちの一枚──薄手のリネンのシャツを、何気なく持ち上げる。「これ、須磨さんの?」「うん、ありがとう」塩屋は畳もうとして、少し躊躇うような手つきになった。どこか手慣れたようでいて、妙に丁寧すぎる折り方だった。袖口をそっと揃えようとしたとき、須磨が無意識に同じ部分に手を伸ばす。指と指が、かすかに触れた。ほんの一瞬。それ以上でもそれ以下でもない。それなのに、その接点が生む空気の濃度は、二人の呼吸すら変えてしまうほどだった。須磨はゆっくりと顔を上げた。塩屋もまた、ほとんど同じタイミングで視線を向けていた。何も言葉はなかった。だが、言葉よりも重く、密やかに伝わるものがあった。シャツの柔らかさが、指先に残っている。それがどちらの体温かもわからないまま、ただ重ねた視線の奥で、何かが確かに起きていた。塩屋は先に目を逸らし、ふっと短く息を吐いた。笑ったようにも見えたが、それが自嘲なのか、安堵なのか、須磨には判別できなかった。ただ、その横顔の静かさに、須磨は妙に胸を掴まれる思いがした。「じゃあ、あとは鍵だけですね」塩屋の声は、穏やかでいつも通りだった。須磨もまた、同じようにうなずい
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-05
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名目の扉、心の裂け目

秋雨は、じわじわと窓ガラスを濡らしはじめていた。午後四時をまわったばかりのはずなのに、空はすでに灰色がかって重く、部屋の白い壁紙に落ちる光もどこか沈んで見えた。須磨の“仕事部屋”とされるそのワンルームには、生活の匂いが一切なかった。白い壁、灰色のソファ、無機質なデスク。最低限の家具と事務用品しか置かれておらず、長く腰を落ち着けるには冷たすぎる空間だったが、今の彼にはその距離感がちょうど良かった。玄関がノックされ、須磨が鍵を開けると、塩屋がいつものスーツ姿で立っていた。黒のショルダーバッグを肩にかけ、片手にノートPCの入った薄いケースを持っている。濡れた傘のしずくが、彼の靴に静かに落ちていた。「こんにちは。思ったより降ってましたね」「だな。中入れよ」須磨がドアを開け、塩屋が一歩足を踏み入れる。その足取りは、どこか丁寧すぎるように見えた。塩屋は部屋の奥に目をやりながら、濡れた傘をたたみ、玄関の隅に立てかけた。「この部屋、落ち着いてていいですね。…生活の匂いがしない」「そういう部屋にしたくて借りたからな」須磨は笑いながら、コーヒーメーカーのスイッチを押した。塩屋がPCをテーブルに広げる。その手元を、須磨が何気なく見る。白くて細い指先。タイピングの動きがなぜか視線を引いた。「今月の収支、前月と比較しても特に大きな変動はなかったです。ただ、広告費の出費が少し目立ってたので、来月以降の予算の配分を少し変えたほうがいいかもしれません」「ふん、そうか」須磨は応接用の椅子に腰を下ろし、カップを両手で包むように持った。熱はまだ伝わってこない。代わりに、視界の端で塩屋が眼鏡を外し、シャツの胸ポケットに差すのが見えた。細いまつ毛が、その瞬間だけ印象的に映る。塩屋は身をかがめて、プリントアウトした帳簿のファイルを手渡そうとする。須磨がそれを受け取る。指先が重なった。軽く、ほんの一瞬、だが確かに。息が止まった。塩屋の視線が須磨をとらえた。須磨も視線をそらさなかった。沈黙のまま、ふたりの間にある距離が測り直される。まるで机の上に置か
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-05
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言い訳という名の時間

ウイスキーの琥珀色が、薄いガラスの底に静かに揺れていた。氷は入れない。理由を問われれば「香りが消えるから」と答えるだろうが、本当はもう、冷たさなど必要としていなかった。午後はとっくに過ぎ、窓の外の雨は細く長く続いていた。秋の雨特有の粘り気が、部屋の空気に薄い膜をつくっていた。帳簿作業はすでに終わっていた。ノートパソコンも閉じられ、塩屋のカバンは壁際に寄せられている。だが彼は帰らなかった。「一杯だけ、飲んでいきます」と言ったのは、ほんの五分前。言葉に曖昧な照れはあったが、拒まれることは最初から予想していなかったような、安心した声音だった。ソファに並んで座るその距離は、初めてこの部屋に塩屋が来たときより、たった数十センチ詰まっていた。けれどその僅差が、ふたりの呼吸に与える影響は決して小さくなかった。「なんでこの部屋、白ばっかりなんですか?」グラスを唇に運びながら塩屋が言った。ウイスキーの縁が唇の端にわずかに濡れ跡を残し、それを拭おうともせずに、彼はただ、前を向いている。「余計な色があると、集中できない」「須磨さんらしいな。…潔癖じゃないけど、境界は引くタイプですよね。人にも、自分にも」須磨は笑いもせず、ただ視線を向ける。「それ、どういう意味で言ってんだ」「誉めてるつもりなんですけどね。僕、そういう人に惹かれやすいんです。…昔から、曖昧な人間には自分が溶けちゃいそうになるから」「塩屋って、そんな自己分析するようなやつだったか?」「昔からですよ。見た目のせいでそう見えないだけで」須磨はその言葉に軽く笑った。笑うことで、落ち着こうとしたのかもしれない。けれど笑った直後、深く呼吸を整えたのが自分でもわかった。グラスを持つ手が、少しだけ強くなっていた。「で、何が言いたいんだ。俺といても、溶けそうか?」「……」塩屋は答えなかった。ただ一度、グラスの底を見つめてから、唇を湿らせるようにして口を開いた。「こういう関係、っていうか、こういう空気に慣れてるんですか。須磨さんは」
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-06
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肌より深く、声より静かに

ベッドの上には、最小限の白いシーツがきちんと敷かれていた。仮眠用にと用意されたそれは、ほとんど使われたことがなかった。須磨は、自分がこの場所で眠りこけた記憶すらあまりないことを、ふと意識の隅で思い出していた。だが今、隣に座る塩屋の吐息を感じながら、その全てが“用途のため”だったのではないかと、静かに思い直していた。ソファでの会話が途切れたあと、ふたりは無言のまま立ち上がり、ただベッドへと向かった。約束も、確認も、冗談すらなかった。ただ、互いの呼吸が導くままに、ゆっくりと距離を詰めていった。どちらが先だったのか、もう思い出せない。けれど、頬が触れ合うよりもずっと手前の場所で、ふたりの体温はすでに交わっていた。須磨は塩屋の手をとった。指を絡めるのではなく、まずはその掌の内側をそっとなぞる。滑らかな皮膚の感触。ひんやりとした温度が、やがて須磨の体温を吸い込んでいく。塩屋は抵抗しない。むしろ、その指先がこちらを求めるように震えているのが分かる。シーツの上に、静かに塩屋を横たえる。そのまま自分も、肩が触れるほどの距離で横になった。互いの顔が至近距離にあった。塩屋の睫毛が、驚くほど長く、光を反射して淡い影を作る。お互いの吐息が、額と額の隙間で交じり合い、ひとつの浅い雲のように漂う。「…なんだろう、この感じ」塩屋が、ほとんど聞き取れないほど小さな声で呟いた。問いかけでもなく、誰に向けたものでもない。須磨は返事をせず、そっと塩屋の額に自分の額を寄せた。二人の体が、どちらからともなく密着していく。触れる部分すべてが、互いの“輪郭”を確かめようとするように、ゆっくりと動く。愛撫、というにはあまりに静かな手つきだった。須磨は塩屋の髪をすくい、耳の後ろへ滑らせる。その流れで頬に触れ、顎のラインをなぞる。塩屋は目を閉じ、指先がシーツをつかんだ。爪の先から伝わる微かな震えが、須磨の手のひらに直接伝わってくる。ふたりの呼吸は、次第に速くなっていく。けれど声はない。ただ、熱だけが音も立てずに、部屋の空気を濃く染めていく。塩屋が、ゆっくりと須磨の肩に腕をまわした。その手は、頼るように、あるいは何かを抑え込むように、須磨の背中をなぞる。須磨もまた、塩屋の指を握りしめた。指と指が、まるでお互いの体温を奪い合うように、じっと絡みつく。肌の接触は少しずつ増えていくが、どこまでいっても激しさ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-06
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誰にも知られない熱

ベッドの上に、余韻だけが静かに残っていた。肌に触れた手のひらの温度も、絡めた指の感触も、もう形を失いながら、どこか重たい空気の中に漂っていた。塩屋はゆっくりと体を起こし、まだ乱れた呼吸を整えようとしていた。須磨も同じように天井を見上げ、何も言葉を発しないまま、しばらくその場にとどまっていた。薄明かりのなかで、塩屋が静かにシャツを手に取る。肩から腕を通し、ボタンをかけていく。その指先は丁寧で、どこか儀式めいてすら感じられる。ボタンをひとつ、ふたつと留めていくたびに、さっきまでむき出しだった心と身体が、また“日常”の殻に覆われていくのがわかった。ふと、鏡に映った自分の首筋を見る。そこには、赤く滲んだ痕がいくつか点在していた。須磨の唇が残した、熱の名残。塩屋はその痕を、指先でそっとなぞる。痛みはほとんどない。だが、その痕跡がすべてを語っている気がした。須磨はベッドの縁に腰をかけ、ただ黙って塩屋の動きを追っていた。言葉をかけるタイミングが見つからない。自分がどんな顔をしているのかも、はっきりとわからない。まだ汗の残る額を拭いながら、ゆっくりと深呼吸する。「…こういうの、長く続けるべきじゃないですよね」塩屋の声は、静かで平坦だった。感情を隠そうとしているのか、それともすでに隠しきれない何かが滲んでいるのか、須磨にはわからなかった。問いかけのようであり、呟きのようでもあった。須磨はすぐには返事をしなかった。部屋に沈黙が落ちる。テーブルの上、ひとつだけ傾いたグラスに残るウイスキーの跡が、琥珀色に光っている。冷めた液体が底に溜まり、まるで今夜だけ取り残された時間のように、静かに揺れていた。須磨は、ゆっくりと立ち上がる。そして、窓の外を見る。通り雨が止み始めていた。ガラスに張りついた水滴が、いくつも筋を描いて下へ流れていく。夕方よりも空は少しだけ明るくなっていて、遠くのビルの屋根がかすかに光を返していた。「…来週も頼む。経費のまとめ」それは、名目にすぎなかった。けれど、それ以外の言葉をどうしても口にできなかった。須磨の目は、まっすぐ塩屋を捉えていた。いままで何度も重ねてきた、打ち合わせ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-07
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静かなセックスレス

夜が深まるほど、静けさは重たく部屋に沈んでいく。志乃は寝室のベッドに横たわり、天井を見上げていた。隣では須磨が、背中を向けて眠っている。いつからか、こうして夫の背中を見る夜が増えた。どちらが先にそうなったのか、はっきりと思い出せない。ただ、たしかに以前よりも言葉の数が減った。眠りにつく前のささやかな会話も、最近はお互いの「おやすみ」だけで終わってしまう。須磨の呼吸は規則正しい。安心しきった眠りのリズム。志乃はその背中をじっと見つめた。肩甲骨の形、寝返りのときに浮かぶ僅かな筋肉の動き、すべてが知っているはずのものなのに、どこか遠い。自分だけが、その距離に取り残されているような、そんな感覚があった。ほんの少し前までは、何の気なしに手を伸ばしていた。指先で肩に触れたり、そっと腰を引き寄せたり。眠る前の柔らかなやりとりが、もう何ヶ月も遠ざかっている。志乃はふいに、手を伸ばしかけて、そのまま拳を握りしめた。理由なんてわからない。ただ、触れたときに相手の体がこわばるかもしれないと思うと、その一歩を踏み出すことができなかった。「…おやすみ」静かに声をかけてみる。須磨は寝返りも打たず、ただ安らかな息を続けている。志乃の声が聞こえているのか、いないのか。それすら、今はわからない。こんな夜が続いている。特に喧嘩もしていない。大きな変化もなかった。ただ、日常が静かにすり減っていく。会話も、触れ合いも、何もかもが少しずつ透明になっていく。志乃はその変化に、明確な名前をつけることができなかった。ただ、確かに「何かが足りない」とだけ思っている。朝になると、須磨はいつも通りの顔で出勤の準備をする。志乃の作った朝食を食べ、軽い冗談を交わし、家を出ていく。その背中を見送るとき、志乃はなぜか胸がぎゅっと痛くなることがある。それでも、何も言えない。何も変わっていないふりをして、台所の窓を開ける。「仕事部屋で集中したいから、帰り遅くなるかも」そんな言葉を聞くのも、もう何度目だろう。理由もなく心がざわめく。だが、志乃は笑顔で「無理しないでね」と返すことしかできない。一方、瑞希もまた、似たような夜を過ごしていた。塩屋は食事を終えると、すぐにノートパ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-07
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欲望という名の依存

部屋の窓を打つ雨の音が、いつもより近く感じられる夜だった。秋が深まりつつある冷たい空気は、室内の明かりの下でぬるく濁り、ふたりの呼吸と体温だけが、その狭い空間に意味を与えていた。須磨の“仕事部屋”は相変わらず白く、余計なものがひとつもなかった。だが今夜だけは、机の上に広げられた帳簿やグラスの跡、脱ぎ散らかしたシャツの皺までもが、奇妙に官能的に見える。塩屋はベッドの端に腰を下ろし、軽く膝を抱えて座っていた。目元に浮かぶ影は、疲れではなく、どうしようもない渇きだった。唇の端がかすかに乾き、濡れた髪が頬にかかる。その様子を須磨は黙って見つめ、やがて無言のまま、そっと塩屋の隣に腰を下ろした。言葉はなかった。最初の一度さえ交わされなかった。須磨の手が、塩屋の首筋にゆっくりと触れる。人差し指で鎖骨のあたりをなぞると、塩屋は目を閉じて小さく息を吐いた。その表情には、もはや羞恥も拒絶もなかった。あるのは、埋められない渇きと、それを差し出すしかない諦めだった。指先がゆっくりとシャツのボタンを外していく。その動作ひとつひとつに、塩屋の胸が静かに上下する。皮膚に指が触れるたび、かすかな戦慄が走る。須磨は塩屋の肩にそっと唇を落とした。唇が汗ばむ肌に吸い寄せられ、細い骨の輪郭を確かめるように、舌でその起伏をなぞる。塩屋は身を捩ったが、逃れようとはしなかった。むしろ、自分からその腕の中に滑り込むようにして、須磨の体に寄り添った。指と指が絡まり、手のひらの汗が互いの熱を強く伝え合う。身体の隙間に、言葉も理性も差し挟む余地はなかった。ベッドの上で、須磨は塩屋の体をゆっくりと押し倒す。髪をかき上げ、額と額を近づける。鼻先が触れる距離で、息が交じり合い、互いのまぶたの奥に残る“渇き”の色を確かめ合う。「須磨さん」塩屋の声は、かすれていた。ふだんの抑制された穏やかな声ではなく、熱で膨らんだ、途切れがちな声。その声を聞いた瞬間、須磨は自分の奥からじりじりとした焦燥が湧き上がってくるのを感じた。どこにも行けない。どこにも戻れない。いまこの瞬間しか救いがない。そんな感情が、ふたりを覆い尽くしていた。唇が、触れる。ゆっくりと重ね、確
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-08
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出発という口実

秋の朝、須磨の自宅前のアスファルトは、うっすらと夜露で濡れていた。冷たく澄んだ空気のなか、エンジンの低い響きが住宅街に静かに反響している。須磨はバイクの傍でチェーンロックを外しながら、時おり遠くの雲を見上げていた。空は薄曇り。雲の隙間から差し込む陽射しが、ごく短く地面を照らすたび、須磨の顔の輪郭が淡く揺れて見えた。玄関から志乃が姿を現す。トレンチコートの裾を揺らして、白いマグカップを手にしている。塩屋はすでにやってきており、静かにヘルメットを手に持ち、須磨のほうを見ていた。レザージャケットとジーンズに身を包んだ塩屋の立ち姿は、いつもよりどこか若く見える。須磨の顔を見たとき、微かに唇の端が緩む。「今日は、遠出するんだっけ?」志乃の声は、いつもより高く、軽やかだった。だが、その声の奥に、少しだけ緊張が混じっている。彼女はそれを自分でもわかっていた。須磨と塩屋、ふたりの男が、週末をまるごと“ツーリング”に使うという計画は、どこか現実離れして聞こえた。だが、夫が心から楽しみにしているのも確かだった。疑う理由も、止める理由も、何もなかった。「うん。紅葉も見たいし、温泉も入れたらラッキーかなって」須磨がそう言いながらヘルメットを取り上げ、塩屋に手渡す。その動作が、妙に自然で、長年の親友同士のように見える。塩屋も慣れた手つきでヘルメットを受け取ると、志乃に向かって会釈をした。「お邪魔します。いろいろお世話になります」「こちらこそ。瑞希さんと私は今日から女子旅だから、お互いリフレッシュしましょ」志乃はそう言って微笑む。だが、その微笑みの奥で、須磨の表情に何か引っかかりを覚えていた。ここしばらく、夫の顔の色が変わった気がする。目の奥の光も、ほんの少しだけ強くなったような…。それが“良い変化”なのか“悪い変化”なのか、判別できなかった。ただ、どこか遠くを見るようなその視線を、不安と呼ぶには根拠がなさすぎる。志乃は自分にそう言い聞かせて、マグカップを握る手に力を入れた。「怪我だけはしないでね。帰りも無理しなくていいから」「大丈夫だよ。塩屋が
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-08
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山道を抜けて、ふたりだけの景色へ

バイクのエンジン音は、やがて住宅街のざわめきから山道の静けさへと変わっていった。秋が深まりつつある山間部は、葉の色づきがまだらで、黄色や赤が混じり合っている。冷たい空気を切り裂くように、ふたりを乗せたバイクがカーブを滑らかに抜けていく。そのたびに、塩屋の身体は須磨の背にしがみつき、後部シートで揺れるたび、互いの存在を確かめるように体温が伝わった。しばらくは言葉も交わさなかった。須磨はミラー越しにたまに塩屋の姿を確認する。塩屋はヘルメットのシールド越しに流れていく景色を眺めていたが、いつの間にか頬が須磨の背中にそっと触れていた。その小さな接触に、須磨の肩がほんの少しだけ緊張する。けれど、振り払うでもなく、ただ黙って受け入れる。エンジンの振動が体の芯まで伝わり、鼓動と混じり合う。風の匂いも、排気の匂いも、すべてが遠い世界のもののように感じられた。高度が上がるにつれ、木々の色はより鮮やかに変わっていく。日差しは柔らかく、木漏れ日が道路のアスファルトに斑模様をつくる。須磨は加減速のたびに、無意識に塩屋の手がしっかりと自分の腰にまわってくるのを感じていた。その温度が、ヘルメットの下の自分の表情をやわらかく緩めていた。ひとつ大きなカーブを抜けると、道は開け、眼下に静かな湖が現れる。青い水面に、色づいた木々が逆さに映っている。須磨はその景色を見逃すことなく、バイクをゆっくりと湖畔の駐車スペースに停めた。エンジンが止まり、しばし世界が無音になる。鳥の声と、水面をわたる風の音だけが聴こえる。ヘルメットを脱いだ塩屋の髪が、風に吹かれてふわりと乱れる。少し汗ばんだ額を袖口でぬぐい、呼吸を整えながら、無言で須磨に笑いかけた。須磨もまた、バイクから降り、サイドバッグからポットと紙コップを取り出す。「こんなとこでコーヒー、贅沢ですね」塩屋がカップを受け取り、鼻先を近づける。豆の香りが、秋の空気に溶ける。須磨はその横顔をしばらく見つめてから、湖に視線を向けた。「紅葉の季節は、もう何年も忘れてたな。バイクで出かけるようになってから、やっと季節を思い出すようになった」須磨がそう呟くと、塩屋はコーヒーを口に含んで、しばらく目を閉じた。「俺…
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-09
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温泉宿の鍵と、閉じた空間

山道を駆け抜けたあと、午後の日差しはすでに西に傾いていた。ふたりの乗ったバイクが温泉宿の坂道を登りきると、山間の静けさがいっそう濃くなる。細い道路脇には色づいた落葉が風に舞い、建物の白壁と瓦屋根が、ひっそりとした非日常の予感を漂わせていた。須磨はバイクを駐車スペースに停め、エンジンを切る。塩屋はヘルメットを外し、髪を手で整えながら周囲を見回した。しんとした空気。遠くから小川のせせらぎが微かに響く。フロントで名前を伏せてチェックインを済ませる。予約の名義も普段のどちらでもない。どこかで互いに「この時間だけは、何も持たずに来た」と誤魔化したかったのかもしれない。受付の女性は笑顔で鍵を差し出し、少しだけ意味ありげな視線を投げてきたが、それにも気づかないふりをした。案内された部屋は、思ったよりも広かった。畳敷きの和室に低いテーブルと座椅子、奥には障子戸があり、その向こうには小さな露天風呂付きのテラス。窓を開ければ晩秋の澄んだ空気が流れ込んでくる。荷物を置き終えると、須磨はゆっくりと部屋の隅に腰を下ろし、景色を眺めた。塩屋は、持参した浴衣に着替えるため、脱衣所へ向かった。しばらくして戻ってきた塩屋は、濡れた髪をバスタオルで拭きながら、ふわりとした紺色の浴衣姿だった。浴衣の襟元からのぞく首筋が、異様に白く見える。鎖骨から肩先への線は繊細で、首筋の下に浮いた血管が脈打っていた。塩屋がそのまま窓際に立ち、外の空気を確かめるように深呼吸する。浴衣の袖から指先が覗き、濡れた髪が襟足に張りついている。須磨は、その様子を何度も目で追った。目線を逸らしたくても逸らせない。塩屋もまた、それをわかっているように、ほんのわずかに微笑む。「露天、入ってみます?」塩屋が提案すると、須磨は頷いた。ふたりでテラスに出て、すこし肌寒い空気を感じながら湯船に肩を並べて浸かる。夕焼けの残光が空を淡く染め、木立の間から風が通り抜けていく。湯気が白く揺れて、ふたりの輪郭を曖昧にした。無言で湯に沈む。湯の熱が肌に絡みつき、静かな心音が自分のものか隣のものか、区別がつかなくなる。塩屋の横顔はどこか穏やかで、でもその唇の端が微かに震えていた。須磨は肩を少し寄せてみる。塩屋はそのまま、何も言
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