秋雨は、じわじわと窓ガラスを濡らしはじめていた。午後四時をまわったばかりのはずなのに、空はすでに灰色がかって重く、部屋の白い壁紙に落ちる光もどこか沈んで見えた。
須磨の“仕事部屋”とされるそのワンルームには、生活の匂いが一切なかった。白い壁、灰色のソファ、無機質なデスク。最低限の家具と事務用品しか置かれておらず、長く腰を落ち着けるには冷たすぎる空間だったが、今の彼にはその距離感がちょうど良かった。
玄関がノックされ、須磨が鍵を開けると、塩屋がいつものスーツ姿で立っていた。黒のショルダーバッグを肩にかけ、片手にノートPCの入った薄いケースを持っている。濡れた傘のしずくが、彼の靴に静かに落ちていた。
「こんにちは。思ったより降ってましたね」
「だな。中入れよ」
須磨がドアを開け、塩屋が一歩足を踏み入れる。その足取りは、どこか丁寧すぎるように見えた。塩屋は部屋の奥に目をやりながら、濡れた傘をたたみ、玄関の隅に立てかけた。
「この部屋、落ち着いてていいですね。…生活の匂いがしない」
「そういう部屋にしたくて借りたからな」
須磨は笑いながら、コーヒーメーカーのスイッチを押した。塩屋がPCをテーブルに広げる。その手元を、須磨が何気なく見る。白くて細い指先。タイピングの動きがなぜか視線を引いた。
「今月の収支、前月と比較しても特に大きな変動はなかったです。ただ、広告費の出費が少し目立ってたので、来月以降の予算の配分を少し変えたほうがいいかもしれません」
「ふん、そうか」
須磨は応接用の椅子に腰を下ろし、カップを両手で包むように持った。熱はまだ伝わってこない。代わりに、視界の端で塩屋が眼鏡を外し、シャツの胸ポケットに差すのが見えた。細いまつ毛が、その瞬間だけ印象的に映る。
塩屋は身をかがめて、プリントアウトした帳簿のファイルを手渡そうとする。須磨がそれを受け取る。指先が重なった。軽く、ほんの一瞬、だが確かに。
息が止まった。
塩屋の視線が須磨をとらえた。須磨も視線をそらさなかった。沈黙のまま、ふたりの間にある距離が測り直される。まるで机の上に置かれた帳簿が、そのままふたりの“境界線”になったようだった。
「すみません、手が冷たくて」
塩屋が先に口を開いた。乾いた笑いと共に指を引っ込める。その笑いには、どこか自嘲のような響きがあった。
「…いや、別に」
須磨も同じように笑い、もう一度カップを持ち直した。今度は、少し手が震えた。わずかにだが、指の先が振動していた。
沈黙が戻る。PCの画面に映るグラフだけが明るく、無言のやりとりの証拠を冷たく照らしていた。
塩屋は小さく咳払いをし、再び仕事の話に戻った。けれど、その声はほんの少しだけ低く、間が妙に長い。
「支出の明細で、レシートが抜けてた部分があったんですけど…たぶんカフェのやつですね。追加で出してもらえれば、来週中に確定できます」
「了解」
須磨の声は抑制されていたが、眼差しはそのまま塩屋の頬に向いていた。視線が肌をなぞる感覚に、塩屋は再び目を伏せた。
机の下で、互いの足がかすかに近づいていた。わざとではない。けれど、もう引き返せない気配が確かにそこにあった。
外では、雨脚がわずかに強まっていた。ガラスを叩く音が、室内の沈黙をさらに濃くする。まるで、ふたりのあいだに落ちた言葉にならない“裂け目”を、静かに縫いとめていくようだった。
秋雨は、じわじわと窓ガラスを濡らしはじめていた。午後四時をまわったばかりのはずなのに、空はすでに灰色がかって重く、部屋の白い壁紙に落ちる光もどこか沈んで見えた。須磨の“仕事部屋”とされるそのワンルームには、生活の匂いが一切なかった。白い壁、灰色のソファ、無機質なデスク。最低限の家具と事務用品しか置かれておらず、長く腰を落ち着けるには冷たすぎる空間だったが、今の彼にはその距離感がちょうど良かった。玄関がノックされ、須磨が鍵を開けると、塩屋がいつものスーツ姿で立っていた。黒のショルダーバッグを肩にかけ、片手にノートPCの入った薄いケースを持っている。濡れた傘のしずくが、彼の靴に静かに落ちていた。「こんにちは。思ったより降ってましたね」「だな。中入れよ」須磨がドアを開け、塩屋が一歩足を踏み入れる。その足取りは、どこか丁寧すぎるように見えた。塩屋は部屋の奥に目をやりながら、濡れた傘をたたみ、玄関の隅に立てかけた。「この部屋、落ち着いてていいですね。…生活の匂いがしない」「そういう部屋にしたくて借りたからな」須磨は笑いながら、コーヒーメーカーのスイッチを押した。塩屋がPCをテーブルに広げる。その手元を、須磨が何気なく見る。白くて細い指先。タイピングの動きがなぜか視線を引いた。「今月の収支、前月と比較しても特に大きな変動はなかったです。ただ、広告費の出費が少し目立ってたので、来月以降の予算の配分を少し変えたほうがいいかもしれません」「ふん、そうか」須磨は応接用の椅子に腰を下ろし、カップを両手で包むように持った。熱はまだ伝わってこない。代わりに、視界の端で塩屋が眼鏡を外し、シャツの胸ポケットに差すのが見えた。細いまつ毛が、その瞬間だけ印象的に映る。塩屋は身をかがめて、プリントアウトした帳簿のファイルを手渡そうとする。須磨がそれを受け取る。指先が重なった。軽く、ほんの一瞬、だが確かに。息が止まった。塩屋の視線が須磨をとらえた。須磨も視線をそらさなかった。沈黙のまま、ふたりの間にある距離が測り直される。まるで机の上に置か
チェックアウトの時間が迫り、貸別荘のなかはどこか浮足立った空気に包まれていた。昨夜の余韻も、朝の柔らかい食卓の記憶も、荷物をまとめる気配に押し流されていく。志乃と瑞希は寝室のシーツを整えながら、忘れ物がないかを確認し合っていた。「本当に楽しかった。やっぱりこういうの、定期的にやりたいね」「うん。…ねえ、須磨さんとうちのダンナ、結構気が合ってるっぽいよね」「うん、びっくりするくらい。…正直、あんなに自然に打ち解けるなんて思わなかった」ふたりは笑いながら、まだ湿った水着をバッグに押し込む。海の匂いが荷物の奥からふわりと立ち上り、昨日の記憶をほんの一瞬だけ鮮やかに蘇らせた。リビングでは、男たちがキッチンの片付けと掃除を分担していた。須磨は冷蔵庫の中身を確認し、使い残した調味料を袋に詰めている。塩屋は、ソファの上に散らばった衣類をまとめていた。そのうちの一枚──薄手のリネンのシャツを、何気なく持ち上げる。「これ、須磨さんの?」「うん、ありがとう」塩屋は畳もうとして、少し躊躇うような手つきになった。どこか手慣れたようでいて、妙に丁寧すぎる折り方だった。袖口をそっと揃えようとしたとき、須磨が無意識に同じ部分に手を伸ばす。指と指が、かすかに触れた。ほんの一瞬。それ以上でもそれ以下でもない。それなのに、その接点が生む空気の濃度は、二人の呼吸すら変えてしまうほどだった。須磨はゆっくりと顔を上げた。塩屋もまた、ほとんど同じタイミングで視線を向けていた。何も言葉はなかった。だが、言葉よりも重く、密やかに伝わるものがあった。シャツの柔らかさが、指先に残っている。それがどちらの体温かもわからないまま、ただ重ねた視線の奥で、何かが確かに起きていた。塩屋は先に目を逸らし、ふっと短く息を吐いた。笑ったようにも見えたが、それが自嘲なのか、安堵なのか、須磨には判別できなかった。ただ、その横顔の静かさに、須磨は妙に胸を掴まれる思いがした。「じゃあ、あとは鍵だけですね」塩屋の声は、穏やかでいつも通りだった。須磨もまた、同じようにうなずい
朝の光は、まるで昨夜の気配を上塗りするかのように明るかった。窓から差し込む陽射しが白いテーブルクロスを眩しく照らし、波の音が遠くに淡く響いていた。キッチンからはパンを焼く香ばしい匂いが漂い、瑞希の軽やかな鼻歌が断続的に聞こえてくる。志乃はエプロンの紐を結び直しながら、トマトのヘタをナイフで切り落とした。彼女の横で、瑞希が手際よくスクランブルエッグをかき混ぜている。「こうやって一緒に朝食つくるの、なんか楽しいね」「ほんと。大学のときみたい。誰かの部屋で、前夜の酒をひきずったままの朝」「二日酔いの塩味スープとか、よく作ったよね」ふたりの笑い声がキッチンに広がり、そのままダイニングへ流れていく。ほどなくして、寝室から塩屋が出てきた。Tシャツに麻のパンツというラフな格好で、髪は少し湿ったまま。すれ違いざま、志乃に「おはようございます」と静かに挨拶をして、グラスに水を注いだ。目元に笑みをたたえてはいたが、その余白に、どこか見慣れない影があるように思えた。須磨も続いて現れた。寝癖のついたままの髪に無造作な服装。彼は軽く伸びをして、塩屋の背中を一瞬だけ見ると、すぐに視線をテーブルへ落とした。「コーヒーある?」「あるよ、淹れたて。ブラックでいい?」志乃がポットを傾けながら声をかける。須磨は頷いて、椅子を引いた。四人はテーブルに並んで座り、ゆっくりと朝食を始めた。焼きたてのパン、野菜と卵、果物のヨーグルト。バカンスらしい、丁寧で明るい食卓だった。だが、その空気の中に、昨夜にはなかった何かが潜んでいた。塩屋はいつも通りの口調で話すが、言葉と言葉のあいだに、微妙な“間”があった。説明のつかない沈黙ではなく、計算された遅れ。意識的に選びすぎた言葉が、時折、話の流れから浮いているようだった。「昨日の焚き火、風がちょうどよくて気持ちよかったですね」「うん。瑞希が用意してくれたランタン、正解だった。あの光、柔らかくて」「たしかに。…ああいうの、ひとりじゃなかなか選ばないから、ありがたいです」須磨はその
貸別荘の夜は、予想以上に静かだった。外の世界から切り離されたように、波の音と夜風のざわめきだけが、そこにあるすべてを包み込んでいた。バーベキューのあと、リビングで少しだけトランプをしていたが、志乃も瑞希もアルコールがまわったのか、思いのほか早く眠ってしまった。子どものような笑い声の余韻だけが残って、室内はゆっくりと夜の色に沈んでいった。須磨はそのまま、ひとりでデッキに出た。グラスに残った白ワインを手に、空を見上げる。街の光が届かないこの場所では、星がはっきりと見えた。ひとつひとつが、まるで手の届きそうな距離にあるように瞬いていた。「きれいですね」背後から静かな声がして、振り返ると塩屋がいた。パジャマ代わりのゆるいTシャツにハーフパンツというラフな格好で、足音を忍ばせるように近づいてくる。手には同じように、琥珀色の液体が入ったグラスを持っていた。ウイスキーのようだった。「眠れない?」「…暑くて。あと、なんとなく、このまま寝たらもったいない気がして」須磨は笑って、グラスをかざした。氷がコツンと音を立てて揺れる。塩屋もそれに応えるように軽くグラスを上げたあと、デッキの縁に腰を下ろした。須磨もそれに倣って、隣に並ぶ。ふたりの間には、肘がかすかに触れるか触れないかの距離があった。風が、少し強くなってきた。蝉の声が遠くから微かに聞こえる。砂浜を洗う波の音は、規則的で心をほどくようなリズムだった。言葉を交わさなくても、音だけで空間が満たされていく。「ここ、なんか現実感なくない?」須磨がぽつりと言った。どこか独り言のような声だったが、塩屋はちゃんと聞いていて、小さく笑った。「たしかに。…夢みたいに、輪郭が曖昧な感じですね」「昼間までは、ただの楽しい旅行って思ってたけど、夜になると…急に距離感がわからなくなるというか」「現実じゃなきゃ、何しても許されますかね」その言葉に、須磨の手の中でグラスがわずかに傾いた。氷が再び音を立てる。塩屋は空を見たまま、視線を動かさなかったが、どこか言葉の重みを計るような沈黙が流れた。「た
夕方の海は、昼間の喧騒を失って、潮の香りだけが残っていた。海面には橙色の光が波紋のように広がり、空はゆっくりと薄紫に変わりつつあった。西の空には、水平線に向かって大きな太陽が沈もうとしている。風がすこし強くなって、肌に当たるたびに汗を冷ましていった。「夕陽、きれいだね」瑞希がそう言って振り返る。膝まで海に浸かっていた志乃も、うんと小さく頷いた。波が足元を撫でるように寄せては引き、貝殻と砂をこぼす音が耳に心地よい。ふたりの背後では、須磨と塩屋が浅瀬で水を掛け合っていた。男たちの笑い声が、海風に乗って小さく流れていく。塩屋は黒のラッシュガードを着ていたが、肩まで濡れていて、髪は額に張りついていた。濡れた前髪の隙間から見える目元が、日が傾くにつれてますます陰影を増している。浅く日焼けした頬が火照っていて、素肌に浮かぶ水滴が光を集めていた。須磨が先に波打ち際から上がり、タオルで髪を拭いながら、ちらと塩屋を振り返る。その視線が、長く、じっと留まった。塩屋は気づいていないふうで、砂を払う手を止めずに動かしていたが、どこかその横顔には気配を感じ取っているような余裕があった。その瞬間、志乃はなにかが引っかかるような感覚にとらわれた。須磨の視線が、ただの“友好的な観察”にしては、いくぶん長すぎた。まるで目で追ってしまっているような、そんな集中の仕方だった。「何か、変かな?」瑞希の問いに、志乃はすぐに首を横に振った。「ううん。ちょっとぼーっとしてただけ」視線を海から引き戻しながら、自分の内心をごまかすように微笑む。だが、その引っかかりは、胸の奥にうっすらと残っていた。些細なものだ。けれど、どこか、忘れられそうにない違和感だった。日が沈みきる少し前、瑞希が用意していた簡易焚き火台に火が灯った。風除けのために並べた流木の間に揺れる炎は、乾いた薪をぱちぱちと鳴らして燃えていた。オイルランプとは違う、野性の明かり。暖かく、そして予測できない不規則な明るさが、周囲の空気をやわらかく染めていった。四人はそれぞれにビーチチェアを囲むように腰を下ろし、手には紙コップのワインやジュースがあった。焚き火
車が海沿いの道を抜け、白と青で塗られた貸別荘が視界に入ったとき、瑞希は運転席で小さく声を上げた。志乃が助手席で笑いながら、窓を開けて潮の香りを深く吸い込んだ。「海の匂い、ちゃんとするね」「うん、久しぶり」先に到着していた須磨と塩屋が、別荘の前で手を振っていた。両手にはクーラーボックスや荷物を抱えたままで、彼らの背後には真新しい木の外壁と広々としたデッキが広がっている。夏の陽差しはすでに傾きかけていたが、それでも眩しく、潮風が熱気とともに肌をなでていく。「やっと着いたな。こっちの部屋、もう鍵開けてある」須磨がそう言って、軽く肩でクーラーボックスを持ち上げた。白いTシャツの裾が風にふわりと揺れ、背中の汗染みがうっすらと浮かんでいた。志乃は荷物を降ろしながら、その後ろ姿にどこか学生時代の須磨を重ねていた。塩屋は黙って荷物を受け取り、少しだけ微笑んだ。彼のシャツは薄いリネン地で、淡いブルーが日光に透けて見えた。眼差しは穏やかで、けれどどこか遠くを見ているような静けさがあった。「こっち、二階の部屋ね。うちは奥でいいから」瑞希がそう言って、志乃の腕を軽く引いた。大きな荷物は男たちが運んでくれると言い残して、ふたりは別荘の裏手へ回る。小さな階段を下りると、その先にはひらけた海岸が広がっていた。波は思ったよりも穏やかで、遠くの方で砂浜に当たる音が心地よく続いていた。「なんか、志乃と旅行なんて、学生ぶりだよね」「そうだね。あのときはもっと雑な宿だった」「ひとり暮らしの先輩の部屋に押しかけたんだっけ。しかも、クーラーなかったよね」ふたりは笑い合いながら、波打ち際まで歩いた。足元のサンダルに砂が入り、湿った砂の感触がじわじわと伝わってくる。志乃は膝までスカートをたくし上げ、海に足を浸した。水はぬるく、午後の陽を受けて濁った琥珀色をしていた。「こうやってさ、また会えるのって、当たり前じゃなかったよね」「…うん」瑞希の横顔は少し日に焼けていて、口元にうっすらと塩の結晶が浮かんでいた。その表情を見て、志乃は静かに頷いた。昔のようにただ無邪