All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 711 - Chapter 720

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第711話

裏切られることを何よりも嫌う彼女の性格を、彼はよく知っている。信じて差し出した真心を雑に扱われ、傷つけられる痛みを恐れていることも。かつて深雲から受けた傷があまりにも深かったからだ。だからこそ、そういった行為を絶対に許さない。渡の読みは確かに鋭かった。……だが、たった一つだけ決定的な間違いを犯している。それは、彼自身がどれほど景凪にとって大きな存在になっているか、ということ。渡の喉仏が小さく上下した。何か言葉を選ぶようにして、結局は諦めたように口角を上げる。「君がそんなに勘がいいと、俺はどうしたらいいか分からなくなるな……」気だるげな響きの中に、どうしようもない甘さが滲んでいた。景凪はたまらず手を伸ばし、彼の胸をぽかっと叩いた。「馬鹿じゃないの?こんなつまらないお芝居して!私があなたを長生きさせるって言ったでしょう?どうして……どうして私を信じてくれないの?私は絶対に、あなたを助け出してみせるから!」言い終える頃には目尻が赤く染まり、感情が抑えきれずに震えていた。渡は静かに手を伸ばし、目尻から溢れそうになっていた雫を指の腹で優しく拭うと、そのまま彼女を強く抱き寄せた。彼女の頭頂部に顎を乗せ、ひどく静かなため息をこぼす。刺すような寒さの中、吐き出された息は白い霧となり、冷たい風にさらわれて一瞬で消え去った。彼の声は、その白い霧よりもさらに儚い。「景凪。俺はただ……君のこれからの人生が、幸せで満ち足りたものであってほしいだけなんだ」そこに、俺自身がいなくても構わないから。「私がこんなにあなたを好きになってしまったのに……途中で見捨てるなんて絶対許さない」景凪の両手が彼の胸元の服をきつく握りしめる。渡は、まるで自分の心臓ごと鷲掴みにされているような深い痛みを感じた。掠れた声が、小刻みに震えている。「渡……私があなたを救うから。今度こそ、絶対に私が救ってみせる!」なんて、馬鹿な人なんだろう。深雲のような男に酷く騙され、あれほどズタズタに傷つけられたというのに。それでも彼女は、一切の打算もなく真っ直ぐに人を愛そうとする。渡は景凪の柔らかい長い髪を静かに撫でた。ひらひらと舞い落ちてきた雪の結晶が、二人に触れてふっと溶けて消える。深い慈しみと共に、彼は優しく応えた。「……分かったよ」景凪は顔を
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第712話

電話を終えて部屋に戻ると、渡がソファに気だるげに寄りかかっていた。寝ぼけ眼のまま、じっとこちらを見つめている。その姿を見た瞬間、景凪はなぜかふと、猫みたいだとおかしくなった。思わず笑みをこぼしながら歩み寄る。だが近づききるよりも早く、待ちきれないとばかりにぐいっと腕を引かれ、そのまま胸の中へと抱き寄せられた。映画を観るため、リビングにはフロアランプが一つだけ灯されている。モニターから放たれる青白い光とランプの暖かな光が彼の顔の上で溶け合い、それがどうしようもなく美しく調和していた。「誰と電話してた?」低く呟く声は、まだ微かな眠気を含んでいる。「周藤審議官よ。明日の朝八時に、家の前に迎えの車が来るの」景凪はありのままを伝えた。愛おしげに両手でその頬を包み込み、真剣な顔つきで言い聞かせる。「あなたは家で大人しく私の帰りを待つこと。私が渡した薬は、毎日時間通りにちゃんと飲むのよ。自分の体を大事にしてね」彼は伏し目がちに見つめ返し、ゆっくりと瞬きをした。かすかに笑みを浮かべて問う。「うん。……他には?」「私を突き放そうなんて、二度と考えないこと」景凪はわざと厳しい表情を作ってみせた。「茜さんのことだって、次にまたあんな真似したら本当に怒るからね。私が本気で怒ったら恐いんだから」渡は目を閉じ、気だるげに笑った。「分かった」再びきつく抱き寄せられる。ソファは二人で横になっても十分なほどの広さと柔らかさがあった。強く抱き込まれ、清廉で心地よい香りに包まれると、不思議と心が安らいでいく。景凪はそっと目を閉じた。心地よい眠気がじわじわと押し寄せてくる。「ねえ、渡」「ん?」「今年は、絶対にお正月までに帰ってくるから。大晦日のごはんは私が作るね!私の腕前、楽しみにしてて」渡は優しく微笑んで応えた。「ああ」景凪はその胸の温もりにすり寄るように顔を埋めると、ゆっくりと手を伸ばし、骨ばった大きな指に自分の指をしっかりと絡ませた。「渡……私、本当にあなたのことが好きなの。すごく好き。……この前お寺で、神様にお願いしてきたんだ。あなたがずっと健康で、長生きできるようにって。神様も、きっと叶えてくれるわ」普段なら合理的に考える景凪だ。人の運命は天が定めるものであり、人がどう足掻いても避けられない過酷な試練があることくらい分かって
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第713話

マスク姿の医療スタッフたちがストレッチャーを押して踏み込んできた。意識を失った渡は手際よく乗せられ、梧桐苑の屋上へと直行する。そこではすでにヘリコプターが待機していた。茜もその後を追うようにヘリに乗り込む。「影山さん、これっていったい……渡兄さん、どうなっちゃったの?」茜は完全に混乱していた。「もうすぐ目が見えなくなるかもしれないから、景凪さんの足手まといになりたくないって……だから私に、少しだけ手伝ってほしいって……そう言ってただけなのに……」茜の考えは単純だった。たとえ彼が視力を失ったとしても、自分の気持ちは変わらない。自分が彼の目になればいい。それくらいの覚悟はできていたつもりだ。だからこそ、あっさりと彼から離れようとする景凪の愛情の浅さを、心の底で軽蔑すらしていたのだ。だが、目の前で横たわる男の状況は、茜の想像をはるかに超えていた。顔にこびりついた血痕が、異常なまでの肌の蒼白さを際立たせている。呼吸も極端に弱く、今にも消え入りそうだ。その姿はまるで……このまま死んでしまうのではないかと思えるほどに。悠斗は沈痛な面持ちで茜を一瞥した。一から事情を説明してやる余裕などない。「茜お嬢様、このことはどうかご内密に」そう、短く告げるだけだった。ヘリコプターが降り立ったのは、国内トップクラスの設備を誇るプライベート病院の屋上だった。高度な医療機器を備えた特別病室は、すでに万全の態勢で整えられている。茜は渡の様子を見ようと病室へ向かおうとしたが、悠斗に立ち塞がられた。「茜お嬢様、ここであなたにできることはもうありません。お送りしますので、お帰りになって休んでください」その態度は丁寧だったが、有無を言わせない強硬さがあった。半分開いたままのドアの隙間から、ベッドに横たわる人物が突然激しく咳き込むのが見えた。顔は見えなかったが、吐き出された赤い血が真っ白なシーツにじわじわと広がっていくのがはっきりと分かる。茜はついに、事態の深刻さを痛感した。「影山さん、渡兄さんは……もしかして死んじゃうの?」悠斗はギリッと奥歯を噛み締めた。「渡様は……ご無事です。必ず生き抜かれます!穂坂さんと、ずっと一緒に生きていくと約束したんですから!」信じられないというように、茜は首を横に振って後ずさった。「本当にずっと生きられるな
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第714話

渡の冷ややかな拒絶にも景舟は一切動じることなく、足を組んだまま余裕たっぷりの視線をベッドへ向けている。レンズの奥にある瞳は、波一つ立てない古井戸のように静まり返り、いっさいの感情を読み取らせない。「周藤審議官の手の者が俺のところへ来た。三年前、お前が俺に落札を頼んだ嬰草を譲ってほしいそうだ」景舟は探るように見つめた。「渡、お前はいったい何を企んでいる?」世の中に景舟が本心を読めない人間などそういないが、目の前にいる男はその数少ない例外だった。渡は気怠げに視線をよこすだけだ。「俺の勝手だろうが」痛みで死にかけているというのに、相変わらず天上天下唯我独尊とでも言いたげな、ふてぶてしい態度を崩さない。景舟は目を細め、静かに観察するように口をつぐんだが、やがて独り言のように話し始めた。「推測させてもらおう。嬰草はすでに絶滅したとされる、極めて希少な薬草だ。俺が落札したあれが、おそらくこの世に残された最後のひとつだろう」そこでふと、意図的に声のトーンを落とす。「そういえば……周藤審議官が、景凪さんに接触したと聞いたが」狙い通りだった。『景凪』という名前が出た瞬間、渡の顔色に明らかな焦りが走ったのを景舟は見逃さなかった。人差し指で、もう一度静かに眼鏡の位置を直す。「なるほど。やはりあの薬草を欲しがっているのは景凪さんの方か。……渡、お前わざと仕向けたな?」渡は血の気を失った唇を動かし、何かを告げようとしたが、発作のような激しい咳き込みに遮られた。これまで他人の世話などまともにしたことのない景舟だったが、見かねて立ち上がり、コップに水を注いで差し出す。だが、渡がそれに口をつけるより早く、ごぽっと吐き出された血がコップの底へ落ち、透明な水は一瞬にしておぞましい赤に染まった。景舟は息を呑み、即座にナースコールへ手を伸ばす。しかしボタンに触れる寸前で、渡の手がその腕を制止した。「騒ぐな。手術までは……死なない」蒼白な顔が、血に染まった唇の赤を異様なほど際立たせている。「渡……」思わず眉をひそめた景舟の言葉を遮るように、渡は力なく目を閉じ、うわ言のように呟き始めた。「……あいつに、あの手掛かりを、簡単には渡すな。少しでも長く、希望を持たせてやってくれ。取引は直接会って行うと伝えて……お前は表に出るな。誰か代わりを立てろ。
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第715話

景舟が眉根を寄せると、茜は泣きそうな顔になった。「この人たちが中に入れてくれなくて。景舟さん……お願い」景舟はわざと半歩横へ動き、彼女の進路を完全に塞ぎ込んだ。「俺ならなおさら、お前を入れるわけにはいかないな」「ただ渡兄さんに会いたいだけなのに……直接聞きたいことがあるの!」景舟は容赦なく切り捨てる。「あいつが会いたいのはお前じゃない。それに、今の状態ではお前の話を聞く余裕などない」茜はますます唇を噛み締めた。「渡兄さんが会いたいのは景凪さんだって、そんなの分かってる!でも、景凪さんを追い払うために私を利用したのは渡兄さんでしょう!?自分がボロボロになって、景凪さんに嫌われるのが怖いから……でも私は嫌いになったりしない!渡兄さんがすべてを失って、何もできない体になったとしても、私が一生養ってあげるって本気で思ってるのに!」景舟は冷ややかな目を伏せ、目の前で声を張り上げる茜を見下ろした。まだ若く、手厚く保護されて育ってきた彼女の顔には幼さが抜けず、その愛も憎しみも酷く子供じみていた。少しだけ身をかがめて視線を合わせると、景舟は彼女のおとぎ話を粉々に砕くような言葉を静かに突きつけた。「――もし、手術の副作用で渡の顔が醜く崩れてしまったとしてもか?お前はそれでもあいつの妻になりたいと言うのか」案の定、その言葉を聞いた瞬間、茜はハッとして言葉を失った。信じられないものを見るような目で景舟を見返す。「渡兄さんの……顔が、崩れる……?」茜が渡のどこに惹かれているかなど、彼女自身も、当の渡もよく分かっている。――渡があの容姿を持っている以上、どんな女に惚れられたところで不思議ではない。茜もまた、あの見目麗しい皮を被った男に心を奪われた一人に過ぎない。一目見て惹かれ、そこに甘い恋愛映画のような妄想をトッピングして膨らませただけの、薄っぺらい感情だ。その思いが浅いと分かっているからこそ、渡は彼女を『婚約者のふり』に利用したのだ。どうせ本当の意味で彼女が傷つくことなどないのだから。景舟の冷ややかな眼差しの奥にある皮肉など気づくはずもなく、茜は必死に食い下がった。「あんなに綺麗な顔が崩れるなんて嘘でしょ!?いったい何の病気なの!?景舟さん、私……お父様に頼んで、世界で一番の先生を呼んでもらって……」「世界で一番の腕を持つ医者なら
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第716話

「……分かった。手間をかけさせたな、研時。この借りはいずれ必ず返す」「水臭いことを言うな、俺たちの仲だろう。おばさんにも心配ないよう伝えておいてくれ。政府の関係者には話を通してある。もし伊雲が人質の中にいるなら、最優先で保護される手筈になっているから」「ああ……恩に着る」通話を切り、スマートフォンを下ろした瞬間、それまでそばで気を揉んでいた文慧が待ちきれない様子で身を乗り出してきた。「どうだったの?伊雲の消息は分かった……?」深雲は努めて冷静に、たった今研時から聞いた状況をかいつまんで説明した。すると、文慧はすがるように息子の腕をきつく掴んだ。「じゃあ……あのテロリストたちは、景凪さえ手に入れば、うちの伊雲をちゃんと返してくれるのね?」深雲の胸中に、言い知れぬ苛立ちと焦燥感が渦巻いていた。思わず声が荒くなる。「帰ってきてどうするんです!あいつは好き勝手に家を飛び出して、児玉潤一の追っかけをやっていたんだから、いっそあっちに置いてくればいい!」「なんてこと言うの!たった一人の妹に向かって!」文慧は不満げに深雲を睨みつけた。「これも全部、あの疫病神の景凪のせいよ。離婚する時だってあなたをあんな目に遭わせて!おまけに別れた後も、伊雲が潤一さんを好きだって知ってるくせに、自分からあの方を誘惑して……!」「母さん!」ついに堪忍袋の緒が切れた深雲が、その言葉を鋭く遮った。「景凪は関係ないだろう!あいつには今、ちゃんと付き合ってる男がいるんだ。潤一が伊雲を好きにならないからって、それを景凪のせいにするのは筋違いだ!」文慧は一瞬、呆気に取られた。「なんだって?離婚してからまだいくらも経っていないのに、あの女、もう別の男を作ったっていうの?」我に返ると、文慧は蔑むように鼻を鳴らした。「わかったわ。別れる前から、外で男を作っていたのよ!だからあんなに血相を変えて離婚したがったのね!」母親のそのあまりにも棘のある言葉に、深雲はこめかみがズキズキと熱を持つのを感じた。「母さん、景凪は人を助けに行ったんだ。三百人以上の人質を取っている相手は、見境のないテロリストなんだぞ。このまま生きて帰れないかもしれない。あいつはなんだかんだ言っても、俺の二人の子供の母親なんだ。少しは情けをかけられないのか?」文慧は信じられないと言わんばかりに目を剥い
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第717話

「じゃあ、行きましょうか」玲凪は愛嬌たっぷりに微笑み、深雲の少し前を歩いてエントランスをくぐった。深雲はスマートに振る舞ってはいるが、根は周囲に傅かれることに慣れきった大金持ちの御曹司である。玲凪が両手にスーパーの袋を提げていても、代わりに持とうとする気配すらない。それでも、玲凪は全く気にならなかった。一緒にエレベーターに乗り込むと、深雲は玲凪の斜め後ろに立った。背中越しでも、男の視線がずっと自分に注がれているのが痛いほどわかる。玲凪は、誰にも気づかれないほどわずかに口角を上げた。ここ数日、玲凪は深雲の過去を徹底的に調べることに時間を費やしていた。大物をパトロンにするからには、入念なリサーチが欠かせない。世間の噂では、深雲の忘れられない女は、大学の後輩であり元秘書の小林姿月だと言われている。しかし玲凪は気づいていた。身の程知らずにも玉の輿を狙ったと陰口を叩かれている前妻の景凪——彼女こそが、自分にそっくりな人間なのだと。景凪の大学時代の写真を探し出して見比べると、顔の作りこそ六、七割程度しか似ていないものの、体つきは本当に瓜二つだった。深雲が自分に向けるあの特別な眼差し。そして、ベッドで最も熱を帯びる瞬間、彼が背後から力強く抱きすくめ、すがるような甘い声で「けいな……」と囁くこと。玲凪は自分に求められている役割を、明確に理解した。模倣すべきは、前妻の景凪だ。だからこそ、わざわざ美容院へ足を運び、大学時代の景凪とまったく同じ髪型に切り揃えたのである。突然、背後から深雲の手が伸びてきて、玲凪の長い髪を一房すくい上げ、戯れるように指に絡め始めた。「どうして急に髪を切る気になった?」密室のエレベーターの中で、その低く響く声は耳に心地よく、まるで指先で弄ばれる髪の毛のように纏わりついてくる。玲凪は耳が熱くなるのを感じた。「ええ、なんだか少し長すぎる気がして、ちょっと整えてきたんです……」玲凪は後ろを振り向き、甘えるような笑みを浮かべて深雲を見つめた。「……好きですか?」あからさまで、どこか無邪気なその表情。深雲はふっと笑って答えた。「君は物分かりがいい。俺はそういう子が嫌いじゃない」その眼差しは、対等な人間に向けるものではない。自分を楽しませてくれる愛玩動物を見る目だ。エレベーターの扉が開くと、深
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第718話

「研時!」深雲の低い声が、冷たく凍りついた。地雷を踏んだと悟った研時は、慌ててトーンを落とす。「悪かった、今の言葉は取り消す!お前の大事な元奥さんは、絶対に無事生還するさ」深雲は深く息を吸い込み、強引に渡の話題へと引き戻した。「今、黒瀬渡がどこにいるかわかるか?」少し間を置き、さらに問う。「それから、あの小松原茜という女だ。アイツとは一体どういう関係なんだ?」「俺が居場所なんて知るわけないだろ。だが、一つだけ確かなことがある。小松原茜はまだA市にいて、おそらく黒瀬渡のそばにいるはずだ。関係ね……ハンッ、どういう関係だと思う?黒瀬渡が黒瀬の跡継ぎとして初めて公の場に姿を見せた時、エスコートしていたのは穂坂じゃなく小松原茜だったんだぜ」研時は面白がるように鼻で笑った。「つまり、黒瀬渡は穂坂との関係を一度も公には認めていないってことだ。それにしても、穂坂もある意味で『一途』だよな。かつてはお前を追いかけ回して鷹野家に嫁いだかと思えば、離婚した途端、今度は黒瀬に乗り換えるんだから。……まあ、黒瀬渡のような男と遊びで渡り合うには、穂坂じゃまだ甘すぎる気がするがね」不快そうに眉をひそめ、深雲は語気を強めて訂正した。「ずっと景凪を追いかけ回していたのは、黒瀬渡の方だ!」「なあ深雲、今のお前が穂坂にかなり執着しているのはわかる」研時は少し嘲るような口調で言った。「だが、俺たち男の性(さが)ってやつを考えろ。手に入らないうちは最高に思えても、一度自分のものになれば、どれだけ美化されていた女でもただのありふれた女に成り下がる。もし黒瀬渡が本気で穂坂を大切に思っているなら、人質としてあんな危険な場所へ向かわせると思うか?」「……」深雲は言葉に詰まった。電話を切り、掌の上のスマートフォンを見つめる。暗転した画面には、眉間を深く寄せた自分の顔が鏡のように映り込んでいた。——そうだ。黒瀬渡がその気になれば、景凪を止めることなど造作もなかったはずだ。それなのに止めなかったということは、答えは一つしかない。景凪のことなど、どうでもいいのだ。彼女が傷つこうが、危険な目に遭おうが、知ったことではないのだから……そう行き着いた瞬間、深雲の胸の奥から奇妙な高揚感が湧き上がってきた。どこが純愛だ?どこが一途だ?あの男の景凪に対する想いなど、俺が彼女
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第719話

深雲が無意識に視線をやると、画面には『お母さん』という文字が表示されていた。玲凪が素早く着信を切るが、すぐにまたかかってくる。すると、彼女は躊躇いなくスマートフォンの電源を落としてしまった。深雲は片眉を上げて尋ねた。「出ないのか?」「……出ません」玲凪は短く首を横に振った。深雲の興味はそこまでだった。それ以上追及することはなく、玲凪も理由を説明しようとはしなかった。深雲は、彼女のこういう「面倒を持ち込まない」利口さを気に入っていた。食事が終わると、深雲は帰る支度を始めた。「深雲さん、ちょっと待ってください!下までお見送りします。どうせ食後の散歩もしたかったですし」玲凪が慌てて引き留め、後片付けを済ませるのを、深雲はドアの枠に寄りかかって待っていた。やがて二人でエレベーターを降り、エントランスの外に出た直後だった。突然、古びたダウンジャケットを着た野暮ったい中年夫婦が、目の色を変えて玲凪に突進してきた。「この親不孝者が!電話の電源まで切りやがって!自分だけこんな立派なマンションに住んで、親兄弟のことは知らんふりする気かい!」女の甲高い怒声が、強烈な訛りとともに響き渡る。深雲は軽く眉をひそめ、一瞬で状況を察した。これが、先ほど玲凪が話していた両親だろう。父親と思しき男は片足を引きずっていたが、その分剣幕は凄まじかった。痩せこけて日に焼けた顔には、深いシワが溝のように刻まれている。「だから都会の大学なんか行かせるんじゃなかったんだ。少しばかり学がついたからってつけ上がりやがって、実家にも寄り付かねえ!」玲凪は顔を真っ赤にして叫び返した。「絶対に帰らない!お見合いも結婚も嫌だって言ったじゃない!」「もう結納金も受け取っちまったんだぞ!村長の息子ならお前に苦労はさせねえよ。さっさと来い!」他人の家の揉め事に首を突っ込む気はなかった深雲だが、男が実力行使に出て玲凪の髪を掴もうとしたのを見て、反射的にその手首をガシッと掴み上げた。「ここはあんたたちの田舎じゃない。話があるなら言葉でやれ。手を出すな」深雲の低い声には、人を射すくめるような冷たさがあった。大柄で圧倒的なオーラを放つ深雲の前に、娘には偉ぶっていた父親もあからさまに気圧された。「な、なんだお前は!人の家のことに口出しするな!離せ!」男は負けじ
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第720話

深雲の「金で解決する」という言葉を聞いた両親の目は、欲にまみれてギラギラと光った。「結納金は400万円だったんで……」口火を切った母親の腕を、父親が慌てて引っ張って止め、深雲に向かって揉み手すり手がらんばかりの卑しい笑みを見せた。「いやあ、深雲さんとか言いましたね。お金持ちのお兄さんには想像もつかねぇでしょうが、うちらみたいな田舎の夫婦が、女ん子を一人ここまで育て上げるのは、そりゃあ大変な苦労だったんで!」父親は言葉の端々で深雲の顔色を窺いながら、あくどい計算を巡らせていた。玲凪は、父親のこの底なしの強欲さをこれでもかというほど知っていた。抑えきれない欲の深さが目から溢れ出し、皺だらけの顔を醜く歪ませている。以前は、この計算高くがめつい面を人前で晒されるのが何より耐えられなかった。二人が学校へ押しかけてくるたびに、玲凪は大勢の面前で赤恥をかかされたものだ。大声で喚き、下品に振る舞い、口を開けば金の無心。少し新しい服を着ていただけで、人前で散々罵倒される……だが今となっては、不思議なことに、この醜く貪欲な姿にすら感謝の念が湧いてくる。玲凪は深雲の端正な横顔をひそかに盗み見た。彼の瞳の奥には、隠しようのない軽蔑と嫌悪が浮かんでいる。深雲は冷ややかな目で男を見下ろした。「それで、要求は?」父親は、ごつごつした黒い五本の指を広げて見せた。「1千万だ!結納金に色をつけて、こいつを今まで養ってきた親の苦労代も込みだ」深雲は呆れ果てて鼻で笑った。「1千万?つまり、娘を俺に売り飛ばすってことか」金額を吹っかけすぎて払ってもらえないと焦ったのか、母親がヒステリーを起こして甲高い声で喚き立てる、いつもの厄介な常套手段に出た。「あのねぇ!アンタがうちの娘とどういう関係か、こっちはお見通しなんだよ!アンタだってそこそこの立場なんだろ?慰謝料払わないんなら、会社に乗り込んでやるからね!そんで、アンタがうちの娘を騙して手にしたって言いふらしてやる!そうなったら、あんたの人生もおしまいだよ!!」……いいぞ。玲凪は、思わず上がりそうになる口角を必死で噛みしめた。両親は以前にも同じ手を使ったことがある。高校を卒業した年の夏休み、玲凪は小遣い稼ぎのために、クラスメイトの男子生徒の家庭教師を引き受けた。その男子生徒は早瀬悟史(はやせ さとし)と
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